驚きと戸惑いと
「メイナード様を、あなたにあげるわ」
「……えっ?」
唐突に姉のアンジェリカにそう言われて、フィリアは驚きに目を瞬いた。
メイナードは、姉の婚約者だ。それなのに、まるで飽きて興味のなくなったものを手放すかのように、事もなげに彼のことを自分に「あげる」と言った姉に、フィリアは思わず眉を顰めた。
「でも、メイナード様との婚約は王命だったのでは?」
フィリアの姉のアンジェリカは、強い回復魔法の力が認められて聖女に認定されていた。そして、平民出身でありながらも際立った魔力で王国魔術師団を牽引し、魔物から国を守っていたメイナードは英雄と呼ばれ、魔術師団を支える聖女のアンジェリカと共に王国の発展に尽くすようにと、彼女との婚約を国王陛下から仰せつかっていたのだ。
「少し前までは、ね。でも今は、状況が違うのよ」
フィリアに向かって、アンジェリカは苛立ったように目を眇めた。
「私は、もう彼はいらないの。聖女である私が、これから彼の世話をし続けなければならないなんて、この国にとっても損失なのよ」
「……どういうことですか?」
姉の言葉の意味が吞み込めずに聞き返したフィリアに、アンジェリカは答えた。
「彼が魔物との戦いで瀕死の重傷を負って、死の淵を彷徨っていたことを聞いてはいなかった?」
「……!! メイナード様は、それほどの大怪我を?」
初めて耳にした話に、フィリアの顔からはすうっと血の気が引いていった。言葉を失っていた彼女に、アンジェリカは続けた。
「彼が魔物との戦いの前線に戻ることは、今後もうないわ。どうにか一命は取り留めたけれど、今のメイナード様は起き上がることすら困難なのよ。誰か付き添う者でもいないと、生活だってままならないでしょうね」
「そんな……」
フィリアはからからになった喉から、どうにか言葉を絞り出した。
「お姉様は、メイナード様を愛していらしたのではなかったのですか?」
王命による婚約とはいえ、メイナードの隣に寄り添うアンジェリカの笑顔は今までいつも艶やかで、フィリアの目からは幸せそうに見えていたからだ。
アンジェリカは少し思案気に口を噤んでから、フィリアに答えた。
「そうねえ。メイナード様の突出した魔法の力と、あの綺麗なお顔立ちは好きだったわ。でも、そのどちらも失ってしまった彼なんて、ただの平民に過ぎないじゃない」
吐き捨てるようにそう言った姉を、フィリアは呆然として見つめた。
(お姉様は、彼の能力と外観だけしか見ていらっしゃらなかったのかしら……)
小さく唇を噛んだフィリアに向かって、アンジェリカは薄く口角を上げた。
「だから、あなたに彼をあげると言っているのよ、フィリア。あなたは、私の婚約者だったというのに、彼のことがずっと好きだったでしょう?」
「……っ」
姉に返す言葉が見付からずに、フィリアは恥ずかしさのあまり頬に血が上るのを感じながら、そのまま俯いた。姉の言葉は図星だったからだ。かあっと頬を染めたフィリアを見つめて、アンジェリカは勝ち誇ったように笑みを深めた。
「ずっとこの家のお荷物だったあなたには、彼のお世話でもしながら日陰で過ごすのがお似合いよ。私には、もっと陽の当たる場所の方が相応しいわ」
そう言うと、姉はフィリアに背を向けて部屋を出て行ってしまった。
(メイナード様……)
フィリアは、扉の閉まる音を聞きながら、愛しい人の顔を思い浮かべて、ぼんやりと姉の言葉を心の中で反芻していた。
***
フィリアの生まれたアーチヴァル伯爵家は、元々は回復魔法に優れた魔術師を多く輩出していた名門の家系だった。けれど、ここ数代は目立った能力を持つ者に恵まれず、魔法の力が最も重視されるこの王国においては、家の維持と存続が危うくなっていた。
危機感を募らせていた当代の伯爵の下に生まれたアンジェリカが、この国の貴族が学ぶ王立学院の入学試験時の魔力判定で、飛び抜けて優れた魔力を有していることがわかった時、両親は狂喜した。
「この子は、アーチヴァル伯爵家の救世主だ」
その上にアンジェリカは、誰もが認めるとても美しい娘だった。鮮やかな蜂蜜色の髪に、宝石のような大きな碧眼をした彼女は、まるで人形のようだと幼い頃から褒めそやされていた。成長した彼女がさらに色気と美しさを増し、聖女の二つ名を得るほどの魔力が認められたことで、両親は異常なほどに彼女のことを溺愛するようになっていた。
アンジェリカの翌年に年子で生まれたフィリアも、姉のアンジェリカによく似た美しい蜂蜜色の髪と、姉ほどの華やかさはないものの整った顔立ちをしていた。けれど、フィリアは、右目は青い瞳だったけれど、左目は緑がかった碧眼だった。珍しいオッドアイに生まれ付いたフィリアは、両親から受ける愛情が、美しい姉が受けているものとは少し異なっていることを幼心に感じていた。
アンジェリカも、奇妙なオッドアイをしたフィリアと姉妹として扱われることを嫌がった。フィリアはオッドアイを覆い隠すように前髪を伸ばし、姉の陰でできるだけ目立たないように過ごすようになっていった。