溺れる。 〜人嫌いと図々しい女のラプソディ〜
――――図々しい女は嫌いだ。
笑顔で近付いてきて、懐にするりと入り込み、人の人生を狂わせる。そんな女。
「泉くーん」
五限目の講義が終わり廊下に出たところであまり認識のない人物に呼び止められ、何か忘れ物をしたのだろうかと振り返った。
「ねぇねぇ、何か部活に入ってるの?」
「……野球」
「だからこんなに焼けてるんだね」
真っ黒に艶めいた長い髪を揺らし、花のような匂いをさせた女が、首を傾げながら近付いてきて、そんな事を聞いてくる。
素っ気なく答えると、女が真っ白な細い指で二の腕をつつつと撫でてきた。
背中や腰がゾワリとした。
「髪、凄く短いねぇ。あ、日焼け止めとか塗らないの?」
「……」
なぜそんな質問をしてくるのか、なぜ髪の長さや日焼けを気にするのかが理解できなかった。
ウォータープルーフタイプの日焼け止めは塗っているが、汗を拭いたりするうちに取れてしまうから、かなり日焼けしてしまっている……という理由があるが、この女に教える必要性を全く感じられない。
だから無言で頷いて踵を返して、目的地──部室──へと向かおうとした。
「ねぇ、どこ行くの?」
「…………部室」
「野球部の?」
女はなぜか小走りになってついてきた。
基本五限目が終わりの大学で、ボストンタイプのスポーツバッグを抱えて足早に去ろうとする野球部のヤツが、それ以外にどこに行くというのだろうか? 見ただけでわからないのか? と聞きたいが、他人と、特にこの女と会話するのがとても煩わしく感じられた。
結果、また頷いて、今度は足早に歩き出しだ。
リーチの差で置いていけると思ったが、女は長い髪を揺らしながら小走りでちょこまかとついてくる。
身長は150センチくらいだろうか? ちらりと見下ろしながら考えていると、目がバチリと合った。
「あ! やっと目が合った!」
何が楽しいのか、嬉しいのか、女は満面の笑みを零した。反対にこちらは苦虫を噛み潰したような顔になっているはずだ。
目が合ったから何なのだろうか。関わりたくない一心で無視して歩き続けた。
棟を出てしばらく歩いた頃、ふと気付くと女はいなくなっていた。
何となくモヤモヤしながら部活をしたせいか、今日はエラーばかり。更にモヤモヤを積もらせながらの一人暮らしのアパートへの帰り道、コンビニに立ち寄ると何となく見知った後ろ姿の女が店の前で男に話しかけられていた。
「いいじゃん、行こうよ?」
「えー? でも、もう九時だから……」
「この前は朝方まで遊んでたじゃん?」
「あのときはカナちゃんもいたから」
「……俺とふたりきりが嫌ならそう言ったら?」
「そんなワケないってばぁ!」
そういった理由以外に何かあるんだろうか?
駆け引きとか腹の探り合いとか、部活以外でするのが煩わしいと感じる。男女の、特に煩悩に塗れたモノは気持ち悪いとさえ思える。
ごちゃごちゃと話している男女の横をすり抜け、コンビニで飲み物と夜食を買った。
「あ、泉くん!」
「は?」
店外へ出た瞬間、あの女が名前を呼びながら腕を掴んできた。
「小野くんごめんね? 私、彼と帰るから」
「え? なに? 付き合ってるやついたの?」
「うん!」
いや、付き合ってねぇよ! と大声で叫んで、女を突き飛ばしたかった。いつもならそうしていた。
…………でも、彼女の手がプルプルと震えている事に気が付いてしまって、突き飛ばせなかった。
彼女の笑顔の裏に隠れ見える怯えた表情と、男の妙にねちっこくギラついた瞳が、彼女を助けてこの場を切り抜けるべきだと判断させたからだ。
「……なに? 付き合ってたら悪いワケ?」
震えそうになる声を頑張って抑え込んで、尊大な雰囲気を低い声に乗せた。
男はこちらを舐めるように上から下までじっくりと見たあと、「うぇ、気持ちわりぃ」と言って立ち去っていった。
「助けてくれてありがと。彼、凄くしつこくて」
「…………離れてくれる?」
「あ、ごめんね」
腕に抱きついて来ていた彼女と距離をとった。
あの男がこっそり後をついてきていたり……など、ありえないかもしれないが、念の為に彼女を家まで送り届けることにした。
「泉くん、おはよー!」
「……おはよう」
昨夜、彼女を家まで送り届けながら少しだけ自分の事を話した。……話してしまった。
彼女は聞き上手で、何を聞いても笑顔で受け入れてくれた。こんなこと、初めてだった。
「ここおいでよ!」
「あ、りがと」
講義室で隣の席に座るよう言われ、少し迷いつつも腰を下ろすと、彼女は嬉しそうに笑ってピタリと腕に寄り掛かってきた。
花の蜜のような甘い匂い、熱いと感じるほどの他人の体温と、自分にはない柔らかさが、脳を痺れさせた。
「泉くんって、いい匂いがするね」
「……そう?」
くすくすと笑いながら、人の首筋に顔を寄せて、更に匂いを嗅いでくる。
昨日ちょっと話しただけの相手に無防備過ぎやしないだろうか? そう思っていると、小声で「泉くんといると、安心するなぁ」と言われた。
「……そう」
「ふふっ。うん、そうなの」
講義が始まると彼女はするりと離れて行き、途端に真面目な顔になった。そこでやっと彼女の事を思い出した。
入学してすぐの頃、まだ慣れない大学内で迷子になっていた子を講義室まで案内したことがあった。その時はまだ今のような華やかな見た目ではなくて、とても真面目で純粋そうな“女の子”という感じで、丁寧に頭を下げてお礼を言われた。
ただそれだけの出逢い。
彼女は覚えていないかもしれない。自分も今ふと思い出したくらいの小さな小さな記憶だから。
でも、その小さな記憶のおかげか、彼女は違うかも、と思えた。
笑顔で近付いてきて、興味あるふりをして、理解していると言いながら、私を嘲笑う少女たち。
何度も何度も傷付いてきたのに、友好関係なんて築けないと判っているのに、淡く期待してしまう。
それが嫌で、大学では部活以外は人付き合いをしないと決めていたのに。
「んーっ、はぁ。今日のは少し眠かったね?」
「え、あ……うん」
「泉くん? どうしたの?」
「や、何も」
言えない、講義の内容など何も聞いてなくて、ただ彼女の横顔を見つめていた、なんて。
「変な泉くん」
さっきまでの真面目な顔から一転、くすくすと花が綻ぶように笑いかけられ、私の心臓は早鐘を打ち出した。
――――怖い。
違う、これは恋じゃない。
違う、これはときめきなんかじゃない。
違う、私は女の子なんて好きじゃない。
次の講義に向かうからと彼女から離れて、足早に講義室を飛び出した。
翌日もその翌日も更にその翌日も、彼女の隣に座り一緒に講義を受けた。
知り合って二ヶ月経つが、相変わらず彼女は私にくっついてくる。
「泉くんって、私の名前知ってる?」
「知ってるけど」
「呼んでくれたことないんだけど?」
「そう?」
「そう!」
記憶にないが、呼んだことが無いと彼女が言うのならそうなんだろう。
「結衣」
「っ! なに?」
「え、呼んでって言われたから」
結衣は真っ赤な顔をして机にうつ伏せになってしまった。
「泉くんが尊い」
「はぁ?」
最近は結衣とよく話すようになった。彼女の好きなもの嫌いなもの色々と知った。交友関係は浅く広くのタイプで、私とは全く違うと思う。
「あ、教授来たよ」
「泉くんのばか」
「はぁ?」
なぜか暴言を吐かれたが、頬を染め口を尖らせていて可愛かったから許してやろうと思い、頭を撫でたらなぜか更に「ばか」と言われた。謎すぎる。
前期試験が終わり、もうすぐ夏休みだ。結衣が一緒に海に行こうとかいってたなぁ。など考えながら講義室に入った。
「え? 泉くんと? やだぁ、違う違う! 女同士で付き合うわけないじゃん。ノリだよ! 本気ってなるとちょっとキモくない?」
結衣が私に向けるときとは違う笑顔で、男と楽しそうに話していた。
講義室の前辺りで楽しそうに嘲笑う彼女たちに気付かれないよう一番後ろに座り、今日は遅刻するかもと連絡を入れた。そうすれば彼女の隣にはあの中の誰かが座るだろうから。
出席を取られた時に結衣に気付かれてしまい怪訝な顔をされた。彼女の隣の席は空けられていたのに、私が座らなかったからだろう。
講義の内容は、全く頭に入らなかった。
「泉くん、なんか機嫌が悪い?」
講義が終わってすぐ、結衣が恐る恐るといった感じで近付いてきた。
さっきの彼女たちの会話が頭の中をぐるぐると回って思考を低下させ、内臓をグサグサと刺してくる。
言葉に感情を乗せたらきっと、だめな事を吐く気がした。
「……夏バテ、だと思う。今日は帰るよ」
結衣の横をするりと通り抜けて講義室を出て、一人暮らしをしているアパートに帰った。
部活は休むと先輩に連絡した。初めてのサボりがこんな──色恋沙汰の理由なんて。
私は本気で結衣に恋しているんだなと痛感した。
人付き合いが苦手で、高校卒業まで友達と呼べるのは部活が一緒だった数人だけ。何なら部活の中でも浮いていた。私が異性を好きになれないと皆知っていたから。
結衣は、私が男だと勘違いしていた。
女でそういう人種だと知っても、離れて行かなかった。むしろ余計にスキンシップするようになった。
結衣と関わるようになって穏やかな恋を知った。
……初めは図々しい女だと思っていたけれど。
触れ合う温かい裸、落ち付く匂い、鈴を転がすような声に癒やされた。
彼女が楽しそうに話すのを聞いているだけで、私も楽しくなれた。
バイトで失敗したとか、ゼミでわからないことがあるとか、悩みを聞いて一緒に考えたりもした。
結衣は何度もこの部屋に泊まりに来た。
泊まるたびに同じベッドで寄り添って、彼女の匂いを嗅ぎながら眠った。
いつの間にか、当たり前のように彼女のパジャマや歯ブラシが置かれるようになっていて、それを見るたびに心臓と腹の奥底が緩く締め付けられていた…………のに。
『え? 泉くんと? やだぁ、違う違う! 女同士で付き合うわけないじゃん。ノリだよ! 本気ってなるとちょっとキモくない?』
――――私の愛しい人は、私とは同じ気持ちではなかった。
アパートに帰ってきて何時間経ったのだろう?
胡座でベッドに座って壁に背もたれて、ぼーっと窓の外を眺めていた。
外は茜色に染まっていた。
ガチャリと鍵の開く音。
靴を脱いでパタパタとこちらに駆け寄ってくる女──結衣。
少し前に渡した合鍵を使ったらしい。
「圭ちゃん、大丈夫!?」
結衣は二人きりになると、私を名前で呼ぶ。
『泉 圭子』
けいこ、なんて明らかに女の子みたいな名前嫌いだった。
でも、結衣は私の事を『圭ちゃん』と呼ぶ。二人だけの呼び方だからと。
「帰って」
大丈夫なんて聞いてくるけど、きっと本気で心配なんてしていない。なぜならしっかりと五限目まで受けてからここへ来ているから。
それが学生の本分なのに…………。
私はそれさえも判断がつかなくなっている。
穏やかで温かい恋だと思っていたのに。
今は醜く嫉妬渦巻く憎愛になってしまった。
「圭ちゃん?」
「帰って」
「もしかして…………講義室での、聞いてた?」
「──っ!」
結衣の気まずそうな声と顔。私の心は限界を迎えた。
熱い雫が頬を伝い落ちていく。
「帰って!」
謝罪も、嘲りも、すべて聞きたくなかった。
私を守る、私だけのスペースから出ていって欲しくて叫んだ。
でも、結衣はベッドに乗り上げてきた。
意味が解らない。
結衣が焦げ茶色の瞳をキラキラと輝かせて、顔を近付けてくる。
「圭ちゃん、カワイイ!」
「は?」
甘くて、熱くて、柔らかい何かが唇に触れた。
目の前には、目蓋を閉じた結衣の顔。
ピントが合わず、ぼやけるくらいに近い。
「…………ふふっ、涙の味がするね?」
初め見る結衣の妖艶な笑顔。
何かが警笛を鳴らす。
この女に溺れるぞと。この女に溺れたら危ないぞと。
「ねぇ圭ちゃん、一緒に住もうか?」
「……うん」
だめだと、危ないと解っているのに……。
何度も重なる唇から漏れ出る声に、逆らえなかった。
「やった! 楽しみだね? 同棲」
「…………うん」
同棲、らしい。
いつの間にか一緒に住むことが決まっていた。
そういえば、結衣は出逢った頃からグイグイと来ていたなと、あの日の事を思い出す。
――――やっぱり、図々しい女は嫌いだ。
―― 終 ――
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