婚約破棄を決めたあなたに、一輪の白薔薇を。
「エレナ。僕達の婚約は白紙になった。だから君はもう自分の心に正直に生きていいんだ」
婚約者……いいえ、元婚約者のアスターは諭すようにそう言った。
「な、なにを言っているの、アスター。あなたそんな冗談を言うタイプではないじゃない。だって、年の瀬には結婚式だってせまっていたのに」
「冗談ではないよ。僕の父と君の父の許可はもう取ってある。役所に書類も提出した。僕達はもう法の上でも完全に他人だ」
私がこれだけ動揺しているのに、アスターはいつもと変わらない穏やかな表情を崩さない。
もう私達の親が許可をして、当人の私だけ除け者にして事後報告なんて。
そんなのあんまりじゃない。
「なんで、婚約破棄? 私、なにかアスターの気に触るようなことした?」
「僕はエレナを幼馴染みで妹のようにしか思っていないし、エレナも僕のことを友だち程度にしか思っていないから。君は自分の本当の気持ちに早く気づいたほうがいいよ。好きなんでしょう、アーノルドのこと」
ちらりと私の髪に目をやり、すべて見透かすように言って、アスターは部屋を出ていってしまった。
「なによ、なによ!! アスターのバカ!! もう顔も見たくない! 謝ったって許さないんだから!」
アスターが持ってきた白い花束が憎らしい。さいごの挨拶だから、なんて、勝手すぎる。
鏡に映る私の髪には、桜色のリボンが結ばれている。
私達の共通の幼馴染み、アーノルドが十才のときにくれたリボンだ。
アーノルドは誰にでも気さくに話しかけるし友だちが多い、いつも明るいのに、私に対してだけはわりと喧嘩腰。あまり目を合わせてくれない。
リボンをくれたのだって、長年離れて暮らしている妹さんに贈り物をしたいというから、プレゼント選びを手伝ったお礼、それだけ。
絵本に出てくる勇者様のようになりたくて、学校の休み時間はいつも剣をふっていた努力家。
今はアスター共々騎士として、王城で働いている。
学校を卒業した今となっては、会う理由がなくなってしまった。私達の住む国ノーゼンハイムでは……いえ、世界的に見ても貴族と庶民は居住区画そのものが違う。理由もなしに庶民の住む区画に行くと、父は渋い顔をする。
「こんな花に、なんの意味があるのよ!」
怒りが治まらず、テーブルにあった楽譜を扉に叩きつけたら部屋中に舞い散った。
それからすぐ、父から聞かされた。
「アスターは戦地に招集されることになっていた。良かったな、エレナ。これで寡婦にならなくて済むぞ」
悪魔の言葉かと思った。
ノーゼンハイムは長年西方の国エンジュと戦争をしている。
戦地から生きて返った騎士はとても少ない。死ににいくようなものだ、とみんなが言う。
そんなところに行ってしまうのだ。
アスターとアーノルドが。
アスターが戦死する前提で話をしている父を、人間と思えなかった。
騎士たちは出立の前、家族に挨拶する時間を設けられている、と聞いた。
アスターはあれから一度も私に会いにこなかった。戦地に発つ挨拶にも来てくれやしない。
顔も見たくない来たって許さないって言ったのは私だけど、薄情すぎない?
もう二度と騎士たちと会う機会がないかもしれない。そう考えたらどうしても彼の顔を見たくなった。
私の足は自然と、アーノルドが学校卒業まで過ごしていた孤児院に向いていた。
顔を合わせてもどうせ喧嘩腰な会話しかできないのに、どうしてこんなに会いたいのかわからない。
「エレナ……? どうしてここに」
予想通り、騎士制服を着たアーノルドが孤児院から出てきた。育ててくれた先生と、共に育ったきょうだいたちに挨拶に来ていたんだ。そういう人情や義を重んじる人だから、きっとここに来れば会える気がした。
「……これ、貸してあげる。必ず返しなさい。返さなかったら許さないから」
私は髪を結んでいた桜色のリボンを解いて、アーノルドの手に握らせる。
アーノルドは少し驚いたものの、空色の瞳を細めて苦笑する。
「わかった。エレナも、戦争が終わったらアスターとちゃんと結婚して幸せになるんだぞ。幸せにならなかったら許さないからな」
何も、知らないんだ。
私とアスターの婚約が白紙になったこと、言うべきなのかな。けれど、それをアーノルドに言って、私はどうしたいんだろう。
アーノルドと私はアスターを介した友人。それ以上でも以下でもないのに。
言葉が見つからなくて、私は逃げるように走った。
走って走って、花屋の前で足が止まった。
そこでアスターの妹ビオラが花屋のおじいさんと話をしている。
ここはアスターがよく買い物にきていた花屋。ここよりいい苗を売っている店はないと断言するくらい贔屓にしている店だ。
戦えない私でも、騎士たちの無事を祈るくらいのことはできないかな。
店先にはアスターがくれた花が揺れている。
白くて花びらが円状についているもの。
「この花をくれない? 慰霊碑のところで騎士たちの無事をお祈りしたいの」
「その花はやめたほうがいいと思うよ、出立する騎士たちの無事を祈りたいなら」
どこか悲しげに言って、おじいさんは白薔薇を包んだ。
「なぜその白い花はだめなの」
「エレナは馬鹿なの? 兄様とアーノルドに死ねって意味で言ってる? そんなのでよく兄様の婚約者をしていられたわね」
「はぁ!? なんでビオラはいつもそう私を馬鹿にするのよ!」
私達の言い争いを遮るように、おじいさんは教えてくれた。
「いいかい。白いアスターの花言葉は『さようなら』お別れの意味があるんだよ」
もう、騎士たちを乗せた馬車は発ってしまった。アスターに会いに行って、謝ったってもう遅い。
誰よりも花を愛していたアスターは、花にすべての気持ちを込めていたのに。私は気づきもしなかった。
アスターに婚約破棄されたって文句を言える立場にない。
戦争が終わり、生きて帰ってきたのはアーノルドだけ。アスターは戦場で散った。
「……約束、ちゃんと守ったぞ」
アーノルドは憔悴した顔で、リボンを返してくれた。
私はアーノルドにしがみついて泣いた。
アーノルドが生きていてくれて良かった、アーノルドが死んでしまったらきっと私は、生きていけない。
アスターの葬儀のあと、みんなが帰路につく中アーノルドだけはずっとアスターの墓の前に座り込んでいた。
雪がふってきて、あたりを白くうめていく。
アスターが好きだった白薔薇が備えられている。
『この花にはね、心からの尊敬という意味があるんだよ。一輪ならあなただけ』
いつも花壇の手入れをしながら言っていた。
私はアーノルドの隣に座った。
アスターの葬儀だったというのに、私の心は怒りで埋め尽くされていた。
アーノルドは一度だけ私を見て、またすぐ墓標に目を戻した。
「父が、死んだやつはかえらない。とっとと誰かと結婚して家督を次ぐ子供を産めって。なんなのあの人。アスターのことなんだと思ってたの!?」
今ほど父を憎いと思ったことはない。こんなのアーノルドにしか言えない。
涙がとまらない。
叫ぶ私の肩に触れて、アーノルドはためらいがちに口を開いた。
「……アスターと、約束したんだ。生きて帰ったら、エレナを守って欲しいって」
「何よそれ。約束してなかったら私のこと放置してたってこと?」
聞き返す私の背に、アーノルドの手が回される。
「愛してる。初めて会った日からずっと。本当は、ずっと好きだった」
親が決めたから、私とアスターは友だち程度の気持ちしかないのに婚約者だった。
けれどアーノルドはそんなこと知らない。
親友の婚約者を好きになるなんて許されないから、気持ちを隠して冷たくしていたと、呟く。
そう、こんな事態になってようやくわかった。
私は……ずっとアーノルドのことが好きだった。きっとアスターも気づいていた。
「私も、アーノルドのことが好き」
アーノルドの背に手を伸ばして、口づける。
神様。もう一度だけアスターに会えるのなら、伝えたい。謝りたい。
私のために、手を離してくれたのに。
勝手なことばかり言ってごめんなさい。
あなたの優しさに甘えていてごめんなさい。
ありがとう、アスター。
アーノルドと結婚して娘が生まれ、私たちは愛しい子に大切な親友のことを話す。
命日には必ず戦地に一輪の白薔薇を手向ける。
私はアスターのこと、心から尊敬している。
こちらは『月影の王子と太陽の少女』のスピンオフです。
アスター視点からは語れなかった物語。




