婚約破棄され殺されかけた私は実は精霊王に愛される巫女でした
魔法が存在する国、レユニオン王国。
この国は他国よりも特に強い精霊の加護を得ており、魔法によって発展した国である。
過去には精霊王に愛された"巫女"が存在し、巫女は精霊王の力を思うままに操れた。
精霊王に愛されるというのはまれなことで、レユニオン王国ですら前例は数名しかいない。
しかしその存在があったのは大昔のことで、今では巫女という名もとっくに忘れ去られている。その資料は、古い図書館の奥深くに眠る文献からでしか知る手段はない。
レユニオン王国にはサンロフォリア学園という王族や貴族が通う学校がある。
その学園内の寮の一室で、アレクサンドラ・アンティルークは小さな生き物たちとたわむれていた。
「ふふ。いたずらしちゃ駄目よ、ユト」
彼女の肩に乗って金糸の髪にからみついているのは、小鳥に似た生き物だった。
翼を広げると緑色に輝く模様が見え、その姿は小さくも美しく、どんな生き物図鑑でも見たことがない。
それはこの部屋にいる他の動物たちにも言えることだった。
「ヴェルグとソルはいつも静かにしているのね、たまには遠慮しないで甘えてきてもいいのに」
飴色の瞳をソファーの上に向けると、のんびりとくつろいでいた赤毛の狼と、手乗りサイズの羽の生えた子馬がその言葉に頭を上げる。
ヴェルグと呼ばれた狼がパタパタと尻尾を振り、アレクサンドラにすり寄ろうとすると、机の上から跳ねたネズミがぽんと狼の頭の上に乗っかって邪魔をした。
狼はネズミを振り落とそうとぶるぶると頭を振り、ネズミは必死に毛にしがみつく。このままでは振り落とされる、と思ったアレクサンドラは慌ててそれを止める。
「まあ。あまりエインをいじめないで、ヴェルグ」
アレクサンドラがそう言うと、シュンとした様子で狼は膝に頭を乗せてきた。ネズミは狼の頭の上で顔を上げて、アレクサンドラに感謝するように鼻を動かす。
「小さな精霊たちなのに、私の言う事が分かるなんてやっぱり不思議ね。出会いも不思議だったけれど」
彼らはこの世界に存在する動物の姿によく似ているが、実は色んな属性の精霊たちだ。
それは彼らが身にまとうかすかな魔力で知る事ができる。例えばネズミのエインからは地の精霊の魔力を感じるし、精密な人形のようなペガサス、ソルからは時の精霊の魔力が出ている。
彼らはある日とつぜん彼女の部屋に現れ、人懐こく近づいてきた。最初は精霊など一度も見たことがなかったためとても驚いたが、アレクサンドラはすぐにこの精霊たちのことを好きになった。
「でも私はあなたたちに会えて、とても助かっているのよ」
精霊は気まぐれな性格で、人の前に姿を現したかと思えばすぐに見えなくなってしまうこともあるという。
それを知っていたアレクサンドラは、いつか自分の前からもいなくなるだろうと思いつつ、自分の身の上話や学園で起こった出来事を彼らに話して、友人に向かっておしゃべりするように接した。
アレクサンドラにはサンロフォリア学園に心を許せる親友というものがいない。とても親しいとは言えない、少し会話ができる友人が数名いる程度だ。
友人にも明かせない本音を精霊たちに打ち明けるのが日課になると、意外にも精霊たちは興味深そうに聞き入ってくれた。
それも奔放な精霊たちの気まぐれだろうか、と不思議に思いつつ、話を聞いてくれる精霊たちに心から感謝している。
「そういえばミストはどこに行ったのかしら?」
立ち上がってキョロキョロと部屋の中を見回していると、いつのまにか足元に現れた猫がすり寄ってくる。この精霊は水の魔力の持ち主だ。
これでこの部屋に居着いている五属性の精霊たちが、すべて揃った事になる。
「そんなところにいたのね、ミスト。じゃあ今日のお話をしましょう」
彼ら精霊の名前はアレクサンドラが適当につけているわけではない。
最初に出会った時、声もあげず近づいてくる精霊たちに驚き戸惑いつつ触れてみた瞬間、浮かんできた言葉がそれだったからだ。
きっと精霊が私にこう呼べと言っているのだろう、とアレクサンドラは思い、それ以来彼らの名前として呼んでいる。
意思をはっきり伝えられるということは、個々の思考をしっかりと持っている上位の精霊たちであるに違いない。
それが五属性もいるのだから驚愕だが、自分に起こっていることなのだからまれにあることなのだろう、とアレクサンドラはそんなに特別でないことだと考えている。
精霊の考えに、人間の想像が及ぶ法則などないのだから。
ベッドの端に座り直すと、わらわらと精霊たちが集まってくる。水、炎、風、地、時……種類がまったく異なるこの五つの精霊たちが仲良く座ってアレクサンドラが話しだすのを待っているのは、いつ見ても微笑ましい。
しかし今日彼らに話せる内容は、明るい話題ではなかった。
「……今日は、ヴィンセントとメアリが顔を寄せ合っているのを見てしまったの」
あれはきっとキスをしていた。その場面を思い出してしまい、ぎゅっと手を握り込む。すると膝に乗っているミストが腕に頭を擦りつけてきた。
「慰めてくれているのかしら。ありがとう、ミスト」
自分はひとりじゃない、そう気づくと心細かった思いが薄れていく。
精霊たちを見回すと、みんな気づかわしげな視線を返してくれる。
精霊は動物と違い声をあげたりしないので、相手の言っていることを知るためには精霊が人間の頭の中に語りかけてくるのを待つか、直接精霊と体を接して意思を読み取るしかないという。
彼らの意思は、初めて触れた時以来感じ取れたことがない。
精霊は根本的に人間とは違うため人間の倫理や論理を理解しない、と精霊に詳しい学者が言っていた。
名前以外に明確な意思を伝えないのは、精霊なりの考えがあるのだろう。
それでもアレクサンドラの前で実体化して彼女の話に聞き入り、こんなにも感情をあらわにしてくれるのだから、精霊は人間のことをよく知っているのかもしれないと思う。
「そう。ヴィンセントは私の婚約者で……この国の王子よ。きっと彼女は側室になるかもしれないわね……それで私、前々から分かっているの。ヴィンセントの妃になっても、彼から愛されることはないこと」
口に出して言ってみると心の重みが増した。彼を慕っているからこそ、彼の心が自分にないことがとても苦しい。
ヴィンセント・レユニオンはレユニオン王国の第一王子。そしてアレクサンドラはアンティルーク公爵家の長女で、生まれた時からヴィンセントと婚約している、未来の王妃となる者だ。
「それでも王妃としての務めは果たすつもり。これは昔から決まっていたことだから」
ミストの頭を撫でると、本物の猫のように頭を寄せてくる。
「ヴィンセントの側で正しく国や民を導くのは、私がすべきこと。でも貴族の中にはそれを忘れている人も多いわ、だから私がしっかりしていなくてはいけない」
私はにっこりと精霊たちに笑顔を向けた。
「あなたたちがいてくれて、私はとても心強いのよ。できれば結婚してからも、私のそばにいてほしいくらい。でもみんなは精霊だから難しいかしら」
そう言うとわらわらと彼らがアレクサンドラの近くへ身を寄せて、頬を舐めたり身を寄せたり、そばに立って彼女を見上げた。
「まあ、一緒にいてくれると言っているのかしら?とても嬉しい。私もあなたたちが大好きよ」
みんなを一匹ずつ撫でていくと、心地よさそうに体を預けてくれる。謎が多いと言われる精霊を相手にしているのか疑わしいぐらい、とても懐かれていると思う。
彼らと一緒にいると、不安に揺れる心が癒やされる。学園で人とおしゃべりするより、彼らといる時間のほうがずっと楽しい。
その時、自室のドアが手荒く叩かれた。
「……おい、いるか!」
扉の向こうで知らない男の声がする。
「……なにかあったのかしら」
ただごとではない様子に少し躊躇しつつドアの鍵を開けると、三人の武装した男たちが一気になだれ込んできてアレクサンドラはとっさに身を引く。
部屋の主に許諾もなく勝手に入るのか、とそのあまりの無礼さに眉が吊り上がる。
「ここは私の部屋よ。ノックもなしに入るのは礼儀に欠けてるわ。なんの用かしら?」
淑女の部屋に入るにしてはありえない行動だ。ちらりとベッドのほうへ視線をやるが、精霊たちは揃ってこちらを見ている。しかし兵士たちは寝台の周囲に鎮座している不思議な生き物たちに目もくれない。
精霊たちの姿はアレクサンドラにしか見えないのだ。
「ヴィンセント王子が呼んでいる。とにかく来るんだ」
「ヴィンセントが……ですって?」
不安を抱えながら目で精霊たちにもう一度目をやると、兵士のひとりがアレクサンドラの腕を引く。彼女はとっさにそれを払い除け、眉をひそめる。
「自分で歩けるわ。ヴィンセントの元まで連れて行って」
その言葉に兵士は頷きもせず、ただ部屋から出るように体でうながす。アレクサンドラはそれに従い、部屋を後にした。
ヴィンセントが呼んでいると彼らは言っている。しかし兵士を使ってまで、呼んで行かなければならない内容なのだろうか?
「いったいどこへ向かっているの?」
兵士に聞いても答えてはくれない。逃さないとでもいうようにぴったりくっついて離れないことから、アレクサンドラは先ほどから感じていた嫌な予感を確信に変えた。
……以前にも似たようなことがあった。ヴィンセントにべったりのメアリが、私から嫌がらせを受けていると嘘をついた時だ。
あの時も周囲は私を助けることなく、冷たい目で一方的に私を悪者扱いしていた。この兵士たちからはそんな刺々しい雰囲気を感じ取れる。
だが誤解を解くための説明はしたし、ヴィンセントもそれを受け入れたはずだ。
またメアリが私を悪者に仕立て上げた?いったいなぜ?……私がヴィンセントの正式な婚約者だから嫉妬をしている?
再び嫌がらせをしたにしては、兵士を使うなど大げさすぎる。
詳しい状況が分からないいま考えても仕方ない。とりあえず今は兵士に付いていくしか、事情を知る手段はなかった。
大広間に着くなり、私は愕然とした。
大勢の学生や先生たちが所狭しとひしめき合っている。学園中の人をかき集めたようだ。兵士をともなって現れた私に、人々はさっと道を開けヒソヒソとしたさざめきが波のように広がる。
「ここに元凶を連れて来い!」
「きゃっ……!」
アレクサンドラは兵士の乱暴な手で広間の真ん中へと突き飛ばされ、短い悲鳴をあげた。
かろうじて転倒することは避けられたものの、よろめくアレクサンドラに手を貸そうとする者は誰もいない。
友人だと思っていた人たちと目が合えば、さっと目をそらされた。
メアリに悪口を広められてから、生徒たちから快く思われていない事は気づいていた。しかしそれだけでこうもなるものだろうか?
そもそもヴィンセント王子は、私になんの用なのか。
あえて兵士を使って呼びだしたのだから、メアリの企んだろくでもない事に巻き込まれているのは間違いない。
礼儀知らずな兵士たちの行為には目をつむり、目線を上げて広間に続く大階段の上に立っている人物を見上げる。
金髪碧眼で整った顔立ちをしたこの国の王子、ヴィンセント・レユニオン。
今この場における最高位権力の持ち主だ。
ヴィンセント王子の側には栗色の髪をした可愛らしい少女が立っていて、事の成り行きを薄い笑みを浮かべながら眺めている。その光景がアレクサンドラの胸を詰まらせた。
……あの人の隣は、私が立っていたかった場所。
恋い焦がれる感情がちりりと胸に痛みを与える。浮かんだその想いを打ち消すように、この国の王子は怒りに任せてアレクサンドラを指差した。
「アレクサンドラ、俺はお前との婚約を破棄する!」
「破棄……ですって?」
一瞬、驚きで冷静さを失ってしまう。私とヴィンセントは生まれた時からの婚約関係だ。十七年という歳月はあまりに長い。それをこの場で、婚約破棄だと……?
領民を治める立場になるための者として、王妃としての教育を幼い頃から厳しい父によって一から教え込まれた。それらの教育は、破棄などと言って軽く捨てられるものではない。
ふぅ、と息をつきアレクサンドラは平静を取り戻す。
王の側にいなければならぬ者たるもの、常に感情を乱されてはいけないことを心がけなければならない。そう父に教わってきた。
娘を物のように扱い、厳しいばかりだと思っていた父の教えが、いまのアレクサンドラの役に立った。
「納得がいきません。どうしてその結論に達したのでしょう?」
ヴィンセントに説明を求めるが、彼の目にはアレクサンドラに対する憎しみの色しか浮かんでいない。
「お前はその理由をすべて知っているはずだ。メアリに行った凶行の数々、忘れたなどとは言わせない!」
「その内容を詳しく教えていただけませんか?」
「忘れたふりなどをして……やはりお前は悪魔だ!」
ああ、なるほど……メアリがそう私を陥れたのね。
先ほどヴィンセントが言った私への婚約破棄。確実に私の正妃の座を狙って蹴落としにかかったと考えていいだろう。
……愛はこんなにも人を盲目にしてしまうのね。そのような事を平気で行うあたり、メアリは后となる器ではないというのに。
呆れ返るアレクサンドラの前で、メアリはぶるっと震えてヴィンセントの腕にしなだれかかった。
「ヴィンセント、怖い……」
「悪女め」
離れたところで立つヴィンセントの側近が、アレクサンドラを見ながら苦々しく吐き捨てた。メアリによる根回しはとうに済んでいるらしい。
そしてどうやら、ここにはアレクサンドラの味方は一人もいないようだ。
貴族の最上位階級。公爵家から生まれる女児は、もっとも国母になるにふさわしい存在。アンティルーク公爵家に生まれた公爵令嬢として、私は貴族としても人間としても、常に正しく振る舞おうとしてきた。
いまヴィンセント王子の側にいるメアリは、貴族ばかりのこの学園では珍しく平民として入学した、貴族としての決まりを知らないあまりにも無知すぎる少女だった。
貴族のマナーや品性に欠け行き過ぎた振る舞いが目立つ彼女に、私はたびたび注意をし、貴族社会の中を……特にこの学園の生活の中で彼女が傷つかないための貴族のルールを説明するようになった。
その行為はこの学園では相応しくないものだ。貴族の中にいるならこうしたほうがいい、と優しく説明したつもりだった。
それがいけなかったのだろう。学園内のどこからか私の悪口が広まり、それを鵜呑みにした友人は徐々に私から離れていった。
そして最近になって私に身の覚えがない、メアリに対する数々の罪をとつぜん告発され始めた。
それらはすべてメアリ本人が仕組んだことだ。
……そしてヴィンセントは、私よりもメアリを信じた。
「平民が気に食わないという理由で悪評を言い広め、階段から突き落とし、さらにはメアリに毒を盛ることまで……それらはすべてお前が行ったことだ!」
今度は私を殺人未遂犯に仕立てあげたのだろう。だからヴィンセントは兵士を遣わせたのか。
色々と言いたい事はあったが、今でなければ聞けない重要な事があるため首を横に振るだけにとどめた。
「いいえ、私はなにもしておりません。それよりもヴィンセント」
もう一度話しかけると、彼は胡乱な目でこちらを見た。
「メアリと懇意にされているようですが、私と婚約を破棄したとして、彼女は貴族としての責務をまっとうできるのでしょうか?」
「何が言いたい?」
私はヴィンセントの目を真っ直ぐ見つめた。
「ヴィンセントは彼女を王妃としたいのでしょう?」
言葉を詰まらせてなにも反論をしない彼を見て、私はため息をついた。どうやら図星だったらしい。
……メアリにとって目障りな王妃候補を捨てて、メアリを正妃にと思ったみたいね。
ヴィンセントがその気でいるならば、この場で伝えておきたい事がある。
「では、国母としての教育を受けてきた私が諫言いたします。メアリが王妃となれば、国は混乱します。貴族としての責任は、ただお飾りとして王宮で暮らすだけではございません……メアリに王妃が務まるとは、思えません」
「そうやってまたメアリの事を見下すのだな。彼女を侮辱するな!」
アレクサンドラの言葉に、ヴィンセントの周囲にいる側近たちがこそこそと囁きあっているのが見える。同じことを考えていたのだろう。
私の言葉は正しいけれど、この場の絶対的な権力を持つヴィンセントには逆らえない……そんな感じかしら。
アレクサンドラはヴィンセントのことをずっと慕っていた。
公爵家と王家を繋ぐ政略的な結婚だと分かってはいたが、幼いころのヴィンセントは控えめなアレクサンドラにも優しく声をかけてくれ、初めてやって来た王城を手をつないで案内してくれた。
公爵家では母が亡くなり、王妃教育だと言う父に不出来な子どもだと罵られる毎日だった。家での居場所がなかったアレクサンドラにとって、王子の存在は心の拠り所だった。
あの時の優しい王子の声を、片時も忘れたことはない。
兵士に連れられて大広間へ転がるように現れた彼女に、メアリは笑いをこらえるしかなかった。
しかもこんな大衆の面前で婚約破棄宣言だ。今ごろあの女は赤っ恥をかいているに違いない。
好きな男にフラれた気分はどう?って今度聞いてみようかしら?彼女の反応が楽しみだわ。
「納得がいきません。どうしてその結論に達したのでしょうか?」
見栄を張ってそんなにすがりついても、私に夢中になってる王子はあんたの言葉なんて聞かないわよ。
王妃になるべく存在として育てられた公爵令嬢なんて話には聞いたけれど、あの女……アレクサンドラは平民と平気で口をきくなんとも気安い女だった。
貴族としてのマナーや王子への適切な接し方を説かれた時は正直ムカついたし、こんな女が未来の后になるの?なんて唖然としたものだ。
だから────仕返しをしてやった。
「マナーなんかで王子を落とすことなんてできないのよ、分かった?」
王子に聞こえないように呟いてみせると、ちょうど目が合った。
美しくて、曇りのない瞳……こういう女が心底大嫌いだ。
自分が正しいと思っている女が、上から目線で偉ぶっているのが気に食わない。
平民は嫌だ。身の回りの事をすべて自分でやらなきゃいけない。私は偶然にも男爵家に縁があると知り、お金を援助してもらって、平民でありながらも貴族が通う学園に入学する事ができた。
ここで貴族と繋がりを持てば後の生活は安泰だ。そう思っていた矢先に目に入ったのは、見目麗しい王子の存在だった。
平民の私が口説き落とした相手がこの国の王子だったなんて、まさに幼い頃に聞かされるおとぎ話のようだとしかいいようがない。
このまま王妃になれれば、きっと話題になって後世に語り継がれるでしょうね。
王妃になれば後は好き放題できる。もちろんセレモニーなんかに顔を出さなきゃいけない時もあるだろうけれど、后が贅沢をするぐらいなら誰も文句は言わないだろう。
王族の仲間入りをすれば無限に湧くお金で自由三昧できるのだ。
自分の事を自分でしなくてもいい、使用人にすべてやらせればいい、そんな生活が待っている。
王子はもう、私のもの。
「お前はその理由をすべて知っているはずだ。メアリに行った凶行の数々、忘れたなどとは言わせない!」
「その内容を詳しく教えていただけませんか?」
「忘れたふりなどをして……やはりお前は悪魔だ!」
話題が私に移ったことで、わざとらしく体を震わせてヴィンセントにすがりついてみせた。
「ヴィンセント、怖い……」
確かにあの女が私をいじめたことはない。ただ私があの女を嫌いなだけ。
平民というか弱い立場で周囲に訴えれば、愚直な学園の人たちは簡単に信じてあの女を陥れることができた。
王子は顔がいいし、王妃になれるのはとても魅力的だ。あの手この手で落としてしまえば、私の言葉をなんでも信じる恋に盲目な男に変わった。
「悪女め」
王子の側近がそう言い捨てる。今は王子も側近も他の者さえも、ヴィンセントに関わる者はすべて私の手のひらの上だ。
「では、国母としての教育を受けてきた私が諫言いたします。メアリが王妃となれば、国は混乱します。貴族としての責任は、ただお飾りとして王宮で暮らすだけではございません」
しかしあの女は今の状況に臆することなく、凛として前を向いていた。
「メアリに王妃が務まるとは、思えません」
その言葉にピクリと私の頬がひくつく。
……ムカつく。その上から見下ろす態度がこの状況を生み出したって、まだ気づかないのかしら?
メアリはアレクサンドラへの憎しみと激情が、心の底から湧き上がってくるのを感じた。
そんなものがなくたって私は王妃になれるのよ。
……彼が好きなのは、私なんだから!
私は努めて怒りの感情をおさえ、あえて怯えた表情を作りながら、ヴィンセントに耳打ちした。
「ヴィンセント。婚約破棄になったことであの人に恨まれて、とても酷い仕返しされるかもしれないわ。そんな事を考えたら私、とても怖くなってきた……」
今にも泣き出しそうな顔を彼に見せると、王子はそっと私の肩に手を置いた。
「安心しろメアリ、大丈夫だ」
「でも彼女は一生私を許さないかもしれないわ。だってあんなに気が強いんだもの。どこまでも執念深く追ってきて……きっと私、彼女に傷つけられるんだわ」
「そんな事はさせない!……俺に考えがある。これからの俺の行いは繊細なメアリにとって見ていられないものだろう。目をそらしておいてくれ」
「まあ……もちろんよ、ヴィンセント」
私の目の前でメアリが王子の耳元に口を寄せ、なにかを囁く。
ヴィンセントはそれに小さな声で囁き返し、冷たい目で私を見下ろした。
「お前の所業は醜く、非道で許しがたい。俺がこの手で処刑してくれる」
その言葉とともに王子は腰にはいた剣をすらりと抜いた。
私の中にあったヴィンセントに対する最後の温かな感情が、ヒヤリと冷たさを帯びる。
「……私を殺す、というのですか?」
「王子としての権限を使わせてもらう。俺の親友であるメアリを害したお前の行為は、王族にも反逆したのだ!」
そもそも私は冤罪である。王子の言い分がまかり通るならば、それは王族によるただの私刑だ。
おそらくメアリが私を殺せと王子を誘導したに違いない。メアリに懐柔され、論理を無視して自分を斬り殺そうとする王子に、私はショックを受けた。
ヴィンセントはそんな人ではないと思っていた。心のどこかで、無邪気に手を引いてくれた幼い頃の彼をずっと信じていたのかもしれない。
「変わってしまったのですね、ヴィンセント……」
うっすらと目に涙が浮かぶ。この状況では、王子の手によって処断される事は避けられないだろう。
それでも最後の一瞬まで自分は貴族なのだ、とアレクサンドラは胸を張る。
私は王子やみんなに対して、正しい事をしてきたと信じている。
「私の意見を聞かずに処刑なさるのならば、どうぞなさってください。私は自分の正しさを知っています。ただこの国の行く末が、心配ではありますわ」
アレクサンドラは胸に手をやった。この国で信仰されている精霊王に祈りを捧げるしぐさだ。
「願わくば王となるヴィンセントの周囲の人々が、王を正しき道に導いてくださいませ」
「アレクサンドラ……」
側近の一人が思わずといった様子でつぶやくが、ヴィンセントの一瞥によって黙り込んでしまった。
「反逆者を取り押さえろ!」
「はっ!」
近づいてくる兵士たちを見て、アレクサンドラはこれから起こる事への恐怖を感じた。
今から兵士たちにねじ伏せられ、ヴィンセントの剣で斬り殺されるのだろう。首を斬られるのか、胸を一突きか。メアリがヴィンセントの背後で醜く笑っているのが見えた。
死も怖いが、心残りが一つだけある。
「……精霊たちに、お別れの言葉も言えなかったわ」
アレクサンドラの自室にいつの間にか居着いていた、小さな友人たちの事が頭に浮かぶ。
あの子たちは私が帰ってこないことで、戸惑うのではないだろうか。
私がもっと聡明であったなら、こんな結末は訪れなかったのかしら────
しかし兵士たちが彼女に触れようとした瞬間、見えないものによって弾かれ吹き飛ばされた。
人の群れに向かって飛んできた兵士に驚き、周囲から悲鳴が上がる。
その後に突風が大広間内に吹き荒れ、面白いものが見られると見物していた観衆たちは思い思いに声を上げながら床に倒れ伏した。
その中心にいながらアレクサンドラの身は無事で、今も兵士に掴まれる直前の状態で立ち尽くしたままだった。
アレクサンドラの目からは、触ろうとしてきた兵士たちが急に吹き飛んで、大広間に暴風が巻き起こったように見えた。
人が倒れるような突風の中で、私だけは無事に立っている……いったい、なにが起こったというの?
わけも分からず唖然としていると、頭上から高らかに声が響いた。
「我らが巫女に害をなすとは度し難い愚かさ」
「我らは、決してお前たちを許さぬ!」
アレクサンドラの周囲に五つの光が降り注ぎ、光り輝いて視界を真っ白にさせた。
まばゆい光にアレクサンドラはとっさに目を閉じる。光が収まったのを感じ恐る恐る目を開けると、見慣れぬ五人の男たちが彼女の周囲に立ち、大広間の者たちをじろりと睨みつけていた。
「こんな者がこの国の王子とはね……」
「どうしようもない知性だ。救いがたい」
薄い青髪の男がこちらを振り返り、透き通る海のような優しい瞳でアレクサンドラを見つめた。
「アレクサンドラ、怖い思いをさせてしまったね」
その目はアレクサンドラへ対する慈愛に満ちている。このような情愛に溢れた瞳で見つめられるのは、久しぶりで戸惑ってしまう。
王子や、父でさえこの目をアレクサンドラに向けた事はない。
慈しみ愛する者を見るこの視線は幼い頃、アレクサンドラの母だけが見せてくれた。
「あなた方は、いったい……」
「少しだけ待っていてくれ、私の愛し子」
再び男が前を向くと、その目には冷たく光る意思が宿る。王子はもう立ち上がっており、とつぜん現れた五人に驚きのけぞっていたが、兵士たちが起き上がるのを見て慌てて命令した。
「な、何者だお前たちは!衛兵、そいつらごと取り押さえろ!」
五人のうちの一人が片手を向けると、風が吹き付ける轟音と共に王子は上からの強風で地面に叩きつけられた。
「がっ!?」
「やれやれ、まだ分かってないのかな?」
緑色の髪をした青年が呆れたように首を振る。心底うんざりしているような声色だ。銀色の髪の男がその後の言葉を引き継いだ。
「我々はこの国に属する、精霊王と呼ばれている存在だ」
その言葉に大広間内はどよめいた。
目の前に立つ相手はこの世で最も尊重すべき者であると気づいた何人かは膝をつき、精霊王たちに敬意を示すが、精霊王はそれに目もくれない。
「私は水の精霊王、ミストラル」
先ほどの淡い青髪の男が高らかに発言し、他の精霊王たちも後に続いた。
「俺は炎の精霊王、ヴェルグナント」
「僕は風の精霊王、ユトゥルナ」
「……地の精霊王、エインヘリヤル」
「我は時の精霊王、ソルケト」
それぞれ髪の色も雰囲気も違うが、その名を聞いてアレクサンドラは部屋に居着いている精霊たちを思い出した。
「もしかして、ミストたち……?」
炎の精霊王を名乗ったヴェルグナントがこちらに目を向け、にかっと笑った。やはり、彼らだ。
では私は上位の精霊たちではなく、最上位である精霊王たちと仲良くしていたの?
側近や常識のある者たちは精霊王の名を聞いてその場に平伏した。
メアリだけは状況が分からない様子でまだ倒れ込んではいたが、同時に精霊王の美麗な姿に見惚れていた。
……なんて、美しい。まるで芸術品のよう。
メアリの心がとろけるような感覚は、アレクサンドラを貶めてようやくヴィンセントを手に入れた時でも、感じたことはない気持ちだった。
もはや床に伏している王子のことなど眼中になかった。ただあの人たちの目に止まりたい、そう思い惚けた頭で起き上がろうとしたメアリに、精霊王たちの鋭い眼光がメアリを射抜く。
「ひぃっ!」
感じたのは、悲鳴を上げてしまうほど強い憎悪の感情だった。
このまま、殺される────
メアリは恐ろしさに腰が抜け、へたり込んだまま動けなくなった。
「せ、精霊王……!?」
王子がうめきながら立ち上がる。精霊王たちは人間ではありえないほどの美しさを持っていた。姿も格好も声さえも、不思議と人を惹きつける力がある。
しかし人々の様々な感情のこもった視線を気にすることなく、精霊王たちは淡々と言い放った。
「私たちの愛しい者にいわれなき罪をかぶせ、己の益のみを求めるその所業、許されるものではない」
水の精霊王が右手を掲げた。精霊王たちから、大広間の全員に対する殺意をひしひしと感じる。
「アレクサンドラを殺そうとした。その償いとして、私がお前たちの息の根を止めてやろう」
「お待ちください!」
アレクサンドラは思わず声を上げた。すぐに殺伐とした雰囲気が彼らから消え失せ、五人の視線が彼女へ向く。
「殺してはなりません……どうか、お願いします」
「……あなたがそう言うのなら」
あっさりと水の精霊王はアレクサンドラの意見を聞き入れ、他の精霊王も頷き納得したようだった。その言葉を聞いて、ホッと息をつく。
自分のせいで大勢の人が殺されるようなことがあってはならない。だが次に口を開いた、時の精霊王の言葉に私は驚いた。
「ただし以後、我らはこの国に属するお前たちに一切の力を貸さぬ」
「な、なんだと!?」
ヴィンセントが驚いて叫ぶ。精霊王たちが力を貸さないということは、この王国ではもう精霊王の加護に頼った魔法は使えなくなるということだ。
生活も魔法に頼りきりであるレユニオン王国にとって、それはほぼ死刑宣告に近い。
「行こう、アレクサンドラ」
水の精霊王、ミストラルがアレクサンドラの手をとってうながす。
「ど……どこへ?」
「あなたが望むなら、どこへでも」
どうかこの国から去らないでほしい。そう止めようと口を開いたアレクサンドラだったが、起き上がった王子がいまだに剣の柄を握っているのを見て、すぅっと心が冷たくなる。
……精霊王の前でさえも、剣をとるのをやめないのね。王族よりもはるかに高位の存在であるというのに。
メアリが王妃となり、メアリの言いなりになる王子が王となる。この国の行く末を簡単に想像できて、この国へわずかに残っていた忠誠心が消えていくのを感じた。
貴族として、この国に住む民への心配は確かにある。
だが自分が殺されようとした今、レユニオン王国へ尽くそうとする気持ちは無くなってしまった。
……このまま殺されるぐらいなら、精霊王によってどこかへ連れ出されるのも悪くない。
そう思いアレクサンドラは精霊王たちを見上げた。
「……私を、連れて行ってください」
「すぐにでも、私の愛しい人」
さり気なく乱れたドレスを直して、髪を撫でられる。その手は始終優しかった。
「待っ……お、お待ちください!これにはなにか、誤解があって────」
剣を持ったまま追いすがる王子の言葉に耳を貸さず、水の精霊王はアレクサンドラを横抱きにした。
こちらを見て安心させるように微笑む彼の姿に、かつて王子に感じた感情と同じように、ドキリと胸が高鳴る。
……ミストって、精霊王のお姿だとこんなに綺麗なのね。
それにしても不思議だわ。こんな状況なのになぜだか私、とても安心してる。
王子の手が精霊王にたどり着く間もなく、彼はアレクサンドラを胸に抱いて空の彼方へと飛び去ってしまった。後を追うように他の精霊王たちも飛んでゆく。
必死に止める声がアレクサンドラの耳に一瞬だけ聞こえたが、彼女の身は不思議な力によって壁さえもするりと通り抜け、学園はいつの間にか遠くのほうで小さくなっていた。
学園から遠く離れた見知らぬ地方。私は精霊王に頼み込んで、森に囲まれた小さな泉のほとりで降りた。
「あなた様方は、精霊王でいらっしゃると……」
助けてくれたお礼を言わなければならない。それにあの場ではミストラルに抱きかかえられてしまったが、精霊王に触れられるなど本来はとても恐れ多いことだ。
水の精霊王の腕から離れるなり畏敬の念を込めて膝をつこうとするが、それを炎の精霊王であるヴェルグナントが手で止める。
「君は俺たちが唯一愛する人間。そうかしこまらなくていい」
他人行儀な私の態度に悲しそうに眉を下げている。彼がそう言うのならば……と立ち上がると、こげ茶色の髪を持つ地の精霊王エインヘリヤルが近づいてきて、そっと私の頭を撫でた。
「……自分たちは君のことが大好きなんだ。あなたから色んな話を聞くのは楽しかった」
さり気なく触れている事が気に食わないのか、ヴェルグナントが横目でそれを睨んでいる。この二人はいつもそりが合わなかった事をふと思い出し、クスリと笑ってしまう。
「いま、アレクサンドラが笑った!」
緑髪の風の精霊王、ユトゥルナが喜んで声を上げる。ユトはいつも鳥の姿で肩に乗っかってきて、よくはしゃぐ元気な精霊だ。精霊王と分かった今でも、彼らの性格は変わっていないのが嬉しかった。
「本当に……いいのでしょうか」
私は彼らの人間に扮した姿には見覚えはなかったが、彼らの強い魔力から確かに不思議な精霊たちの気配を思い出す。
まさか彼らが精霊王で、しかも人間の男のように大きくなれることなど知りもしなかったが。
銀色の髪を持つ時の精霊王、ソルケトがアレクサンドラの前にしゃがむ。無表情でなにを考えているのか分からないその灰色の瞳は、柔らかい温かさを持っている。
「ああ。我らはアレクサンドラのために馳せ参じた、アレクサンドラのためだけの精霊王である」
「私を……巫女、と言いましたね。なぜ、私はあなた方に選ばれたのです?」
彼らが現れる前に聞こえてきた声に、はっきり"巫女"という言葉があったのを覚えている。
図書館に通うのが好きだった私は、ある日図書館の奥にあったとても古い装丁の本を見つけて、興味本位で中を覗いた事があった。
そこには精霊王に愛される"巫女"の存在が記されていた事を覚えている。
……あんな奥深くに眠っている文献だったもの、きっとほとんどの人が存在を知らないでしょうね。
しかし可愛がっていた精霊たちが精霊王であったことは理解できたが、なぜ自分がその巫女になったのかが分からない。
「私は精霊王に好まれるようなことを、したでしょうか……」
「君は日頃から正しくあろうとしていた」
アレクサンドラの自信なさげな質問に、すぐにミストラルから返事が返ってきた。
「王妃としてふさわしくなるべく勉強していた。魔法の訓練もひとりで残ってずっと頑張っていた。真面目でひたむきで、何事にも努力を惜しまなかった」
思いもしない発言に面食らってしまい、ぽかんとしているアレクサンドラに、地の精霊エインヘリヤルがそっと言葉を付け足す。
「……自分たちはそういう君を、好ましいと思ったんだ」
「そう……ですか」
いまだ不思議な感覚だったが、正しいと思っていた事が報われた気がして、胸のつかえが取れたようだった。
自分の努力は精霊王たちにちゃんと見られていた。たとえ王子たちに見られていなかったとしても、精霊王は自分を評価してくれていた。
初めて誰かに認められたのが嬉しくて、ふふっと笑みがこぼれる。
『アレクサンドラ、あなたの努力は必ず報われるわ』
病床で寝たきりのまま、母は幼い私にそう語りかけていた。
王妃教育だと言って厳しく接する父の代わりに、母だけはありったけの愛情を私に注いでくれた。しかし病気は治る事なく、私が六歳の時に母は亡くなった。
父が厳しい、勉強がつらい。そう言って泣きつく私に、母がかけてくれた最後の言葉は忘れられない。
『常に正しくありなさい。きっとあなたを理解してくれる人が現れる』
正確には理解してくれたのは人ではなく、精霊王だった。
……私を本当に評価してほしかった王子たちは、もうこの場にはいない。あんなにお慕いしていたのに、私の中にあった王子への愛情はとっくに消え失せているのを感じる。
「アレクサンドラ、君はこれからどうしたい」
ミストラルが柔らかく尋ねてきたので、アレクサンドラは考え込む。
「……レユニオン王国に精霊王が力を貸すことは、もうないのでしょうか?」
「それはありえない事だと考えてほしい。私たちがアレクサンドラのために決めた事だ。君が他人のために心を痛めようと、これだけは決して譲れない」
その返事に深く思いを巡らす。精霊王たちは急かすこともせず、慈愛に溢れた目でじっと私を見つめた。
……私が民を見捨てることに罪悪感があっても、精霊王たちは王国に加護を与え直す事を望んではいない。その固い意思があるならば、私はレユニオン王国の民を救う事はできない。
しかし、本当に救えないのだろうか?
長いこと悩んだ末、思いついた考えに私は顔を上げた。
「私はレユニオン王国に住む民を、国外へ逃がしたいです。そのために国に戻ります」
「我々はあの国には戻らぬつもりだが」
「ええ。精霊王の力を借りなくても、私ひとりの力で成すつもりです。最後のお願いです。近くの村まで案内をお願いできますか?」
加護がなくなれば、国はおおいに混乱する。
今のところ周辺の国々で戦争は起きていないが、資源豊富なレユニオン王国で魔法が使えなくなった事が知られれば、格好の餌食になるだろう。
精霊王がなんと言おうと、私はできるだけ多くの人々を救いたい。自分ひとりだけでもできる事はあるはず。
いずれ崩れ行く国から、民を救うのだ。
私の言葉に、やれやれといった様子で精霊王たちは身を崩した。
「アレクサンドラがそう言うのならば、私たちは君についていくしかないね。君のしたい事、成し遂げたものを、私たちにも見せてほしい」
水の精霊王、ミストラルがアレクサンドラの手をとって微笑んだ。
「さあ、おいで。ここから近い村へ行ってみようか」
ミストラルがアレクサンドラの手を握ったまま空へ浮いた。地面が離れたことにびっくりしたが、精霊王が手を握ってくれているのだ。落ちる心配はない。
他の精霊王も異論はないようで、アレクサンドラの周囲に集まってきた。彼らを見回して笑顔を向ける。
「ありがとう……みんな」
「ねえ。僕のお気に入りのところ、とってもいい場所なんだ。村から近いし、今から一緒に見に行こうよ!」
「駄目だ。アレクサンドラの意思が最優先だ」
風の精霊王、ユトゥルナがはしゃいで声を上げるのを、炎の精霊王であるヴェルグナントが制する。
「えー、いいじゃんか寄り道ぐらい。別にすぐさま国から魔法が消えるってわけじゃないんだしさぁ」
「そうなの?」
精霊王の加護がなくなれば、すぐに魔法が使えなくなるものだと思っていた。それほど精霊王の力は強大だからだ。
「僕らが強い加護を与え続けていたから、それに釣られた小さな精霊たちがまだ国に残っているんだよ。これから少しずついなくなるだろうけど」
「だが彼女は民を逃がすと言っているんだ。早急に事を進めるべきだ。お前の話は聞くに値しない。能天気すぎる、もう喋るな」
炎の精霊王ヴェルグナントがすぐさま反論した内容を聞いて、アレクサンドラはその辛辣さに驚いた。
「そ、そこまで言う必要はないんじゃ……」
ヴェルグナントはユトゥルナが嫌いなのだろうか。
おろおろしていると、それを聞いていた地の精霊王がボソッと呟いた。
「……駄目かどうかはアレクサンドラが決めることで、駄犬が言うことじゃない」
「エインヘリヤル、お前いま俺の事を駄犬って言ったか?」
「肩に乗せてもらえるユトゥルナが羨ましかったから、今その鬱憤を晴らしてるって……正直に言えばいいのに」
「なっ!」
それを聞いて急にヴェルグナントはあたふたしだす。
「い、いやそんな事は……」
「……図星」
「エインヘリヤル!」
炎と地の精霊王はどうも仲が悪いらしい。精霊の姿だった頃のやり取りをまた思い出し、アレクサンドラはくすくすと笑う。
やっぱり彼らはどんな姿でも、私の友だちであることは変わらない。
「いいわ、行ってみましょうユト。時間の猶予はあるようだし、少しだけなら」
「ほんと?やったぁ!」
「調子に乗るなユトゥルナ。我も時の精霊王。愛し子にふさわしい場所ぐらい熟知している。まずはそこへ行くべきだろう」
「……自分も、地の精霊王だから自然が綺麗なところ、たくさん知ってる」
「それなら俺だって!」
みんなが対抗して言い張る前で、私の手を握るミストラルはこちらを振り返った。
「時間は限られている。アレクサンドラ、君が決めるんだ」
そう聞かれ、私は頷く。
「ユトの言うここから近い場所へ行ってみましょう。他のみんなが勧める所は、また別の機会にしましょう」
そう言って私は空から見下ろす風景を眺めた。豊かな森が広がり、レユニオン王国のどこの場所なのか分からない。村に行けばこの地域の情報も分かるだろう。
思い返せば色々あった。娘を道具のように扱った父、私を陥れたメアリ、見て見ぬ振りをして助けようともしなかった学園の人たち、メアリに惚れ込んで私を殺そうとした王子……いい思い出の少ないレユニオン王国。
民のこと、領民のこと、公爵家としての責務。以前はしなければならないことがたくさんあったが、いまの私はもう貴族というくくりもなく、ただのアレクサンドラとなった。
けれど同時に捨てきれないものもある。それは人間としての正しさだ。
「私はレユニオン王国の民を救ってみせる。たとえどんなに時間がかかっても」
アレクサンドラは精霊王に手を引かれ、彼らと共にその場から飛び去っていった。
精霊の加護を失ったレユニオン王国では魔法の一切が使えなくなり、魔法によって支えられていた生活や軍事、あらゆるものが使えなくなった。
国を守る術を失ったレユニオン王国は、やがて周辺の国々によって侵略され、地図の上からも歴史の中からも消えてしまうのだった。