072 食べてもいいよ
アトラ・ブックスを満喫して、ビルを出たときは既に周囲が暗かった。
9番街との境には宿泊関係の建物がちらほらある。その中のひとつに見覚えのある名前を見つけて、足を踏み入れた。
こういった場所に宿泊したことはあっても、自分だけで来たことはない。
いまいち勝手が分からないまま、フロントのホテリエに声をかける。
「アッシュール公国から……観光でらっしゃいますか」
「ああ、特別にいい部屋でなくともかまわないが広めのところを頼む」
さりげなく俺の様子を窺っているのは、身分証の年齢が18歳になっているからだろう。ローラシアでギリギリ成人として扱われる年齢だ。
悪かったな、せいぜい14、5にしか見えなくて。本当は20だけどな!
偽の身分証では、俺はローラシアに隣接するアッシュール公国の貴族、ということになっている。
アッシュール貴族の一部は、科学国の人間に義務づけられている『神経インプラント手術』が免除されているからだ。
科学国の人間は生まれてすぐ、首の後ろに神経とつながった小さな装置を埋め込まれる。国が人をすばやく識別、管理するためらしいが、俺にはもちろんそんなものはない。
チップのない人間は、ヒューマノイドたちに一発で余所者だとバレる。
身分を尋ねられると面倒なうちの家族は、いつも偽の身分証を携帯していた。
「かしこまりました。当ホテルをお選び下さいまして、ありがとうございます」
身なりは貴族に程遠いだろうが、訳ありと勝手に解釈してくれたようだ。笑顔で受け入れられた。
上階の部屋に案内してもらう。ベルスタッフが説明する間、エヴァは落ち着かない様子でキョロキョロしていた。
やっとふたりだけになり、帽子をとってみれば思いのほか疲れた顔だ。
実は俺も珍しく疲労を感じていた。
買ってきた本でも読みながら、もうゆっくり寝たい。
「ルシファー、ここは一体なんなの……?」
「しばらく寝泊まりする場所。もう野宿は嫌だろ?」
「しばらく、ここに? 無駄に広すぎない……? リアムの家がこの部屋に3つくらい入りそう」
「ああ、確かに」
「それに……」
なんとなく言いよどんだエヴァが、部屋の入口から入ってこない。
「なんだよ? 一応セキュリティもしっかりしてるみたいだし、心配いらないぞ?」
「そうじゃなくて……」
なんなんだ一体。
「なにが気にくわないのか、言ってくれないと分からないだろ?」
「き、気にくわないんじゃなくて……その、他に誰かいるわけじゃないのに、同じ部屋で寝泊まりって……ちょっと……」
言葉の内容を考えて、思い当たった。
ああ、あれか。昼間の「破廉恥」ってやつ。
「今さらそこ気にするか?」
「今さらでも気になるのよっ!」
ゴンドワナ人の感覚は本当に分からないな。
男女同士で手を繋ぐこともしないって……スキンシップはどうやってとるんだ?
ローラシアではハグもキスも挨拶のうちだし、アルティマもそんな感じだ。
エヴァの感覚に合わせるのなら部屋を2つ取るってことになるんだろうが、差し迫った危険がないとはいえなにがあるか分からない。別々の部屋にしたら目が届かなくて俺が不安だ。
「別にそんなこと気にしなくていいだろ? 誰に非難されるわけでもないし」
「ルシファーがどう思おうと、女性としての尊厳てものがあるのよ」
「尊厳ねぇ……でも手すら握っちゃいけないって話なら、すでに手遅れだな。あきらめろ」
「あ、あきらめるとかそういう問題じゃないわっ」
まだ言うか。だんだん面倒臭くなってきた。
「そういう問題だって。じゃあ聞くけど、建物の中じゃなければいいのか? 昨日人の腕の中でぐーぐー寝てたのはどこの誰だ? あれがセーフでここはダメなんて、俺からすると意味分かんねー」
そう言うと、エヴァの顔がみるみる赤くなった。
いや、だから今さら恥ずかしいと思う必要もないだろうが。
それでもまだ入口に立ったままのエヴァを、仕方なく部屋に引っ張り込んだ。
手近な椅子に座らせて前に立つと退路を断つ。
「わがまま言うなよ。どう考えたって寝る場所は必要だろ? しばらくはここを拠点に……」
話してる途中で、何故か体がのけぞるほど顔を押し返された。
地味に首が痛い。
「エヴァ、あのな……」
「顔が近いって言ってるでしょ?!」
「いや、これ普通……」
……あれ?
首を戻したら、目の前のエヴァがぼやけて見えた。
おかしいな。なんだか視界が白っぽい。
「……っルシファー?」
呼ばれた声にハッとして目の前の肘掛けを掴む。揺らいだ体をなんとか支えた。
(めまい……? 俺が?)
突然の異変に自分でも訳が分からず、眉を寄せた。
「ご、ごめんなさい。押しすぎたかしら。痛かった?」
頬に伸びてきた指の温度を感じれば、自分の体温が低下しているのも分かった。
こんな急な不調は今までに覚えのないものだ。
自分でも思う以上に体が疲れているのか。それとも……
「いや、違う。少しめまいがして……風邪でもひいたかな……ん? 待てよ。不死なのに風邪とか病気とかあるのか?」
「風邪なんか普通にひくわよ。あまり長引かないし、死ねば治るけど」
「極端すぎるだろ、それ……」
風邪なんて滅多にひかないのに、この不調を説明する言葉が他に見当たらない。
足にうまく力が入らなくてふらつく。
「とりあえず座って。お水飲む?」
エヴァを座らせた椅子に、今度は逆に座らされた。
「水か……どっちかって言うと、腹減ったな」
「またなの? さっき夕飯食べたばかりじゃない。なにが食べたいの?」
「あー、いや。食事はとりたくないんだよなー……」
食べても食べても空腹を感じるのに、食べ物のことを考えると食欲が失せる。
だから、なにが食べたいと聞かれても返答に困った。
「でもお腹空いてるなら食べたほうがいいでしょう? なんでもいいから食べたいものを言って」
「そうだな……」
食べたいものか……本当に思いつかない。
考えながら、目の前に揺れる白銀の髪を眺めた。
なんだろう。エヴァからいい匂いがする……こういう匂いのものなら食べられそうだ。
「強いて言えば、エヴァが食べたいな」
思い当たらず、軽い冗談のつもりで答えた。
なにを馬鹿なことをとツッコまれるのを待ったが、返事がない。
エヴァの顔を見上げたら、無言で固まっている。
ん? 俺、またなんかまずいこと言ったか……?
うまく回らない頭で、会話の内容を最初から振り返る。
あ。まさかちょっと違う意味でとられたか? それはまずいな。
「いや、待て。訂正する。今のは……」
「やっぱり……そうなの……?」
「は?」
「ど、どうしてもって言うなら……」
やけに真剣な顔で、エヴァが俺を見ていた。
「食べてもいいわよ」
決意のこもった声で言われて、ひるんだ。
なんだ? それはどういう意味だ?
(いやいや待て。俺は保護対象にそんなつもりはないし、そもそもたかが手繋ぐだけでためらうような人間がそんな死地に趣く兵士みたいな顔で突然承諾する意味が分からない)
返す言葉を探しながら、胸の内に広がる動揺を悟られたくないと思う。
だが俺がなにかを言う前に、エヴァは妙なセリフを続けた。
「他の人を食べるくらいなら、むしろそうしてくれたほうが」
「他の人?」
「昔、魔獣に襲われて食べられたことがあったけど、目が覚めたら元通りだったから多分大丈夫」
「……はぁ? お前なにさらりと恐ろしいこと言って……」
「でも、痛いのはやっぱり嫌だから、食べるならひと思いに殺してから食べ……」
「待て待て待て!!」
そこでようやく理解した。
食べるの意味、そのまんま言葉通りだった!
「お前、さっきの本のせいだろそれ! 俺は人なんて食わないからな?!」
「……違うの?」
「俺をなんだと思ってるんだ……」
「だって『食べたい』って」
「っ冗談だ!」
「……っ紛らわしいわ!」
いや、誤解したお前のほうがおかしいぞ。
食べられてもいいだなんて、正気か。
そう言い返そうと思ったが、ほんの少し前の真剣な顔を思い返して口をつぐんだ。こいつ、俺の食糧になってもいいって……本気で思ったんだな。
呆れた。
長いため息を吐いて、座らされている椅子からエヴァを上目遣いに睨んだ。
いつの間にか、めまいも収まっている。
「……なによ」
むすっとしているところに腕を伸ばすと、形のいい鼻をつまんでみた。
さらにむっとされたが気にしない。
「ありがとな」
「あ、ありがとうの態度じゃないわよね??」
鼻声で言ったあと、お返しとばかりに伸びてきた手にパクッと噛みついてやった。
本気の悲鳴が上がったが、知るもんか。人をオーガ扱いした罰だ。
……というつもりだったんだが。
実は内心、エヴァ以上に俺が動揺していた。
本当に食糧として、エヴァがうまそうだと感じている自分に、気づいてしまったから――。
なにやら話が変な方向へ……。




