00:捨てられた木偶の坊
かつては繁華を極めた大国だったのだろう。今では滅び、生命の気配は皆無。その廃れた街を囲う、虫食い状態で今にも崩れそうな城壁の、階段にて。
うなじをつままれた猫のように、後襟を掴まれて運ばれる子供がいた。
灰でも被ったかのような髪に、同色の丸っこい瞳、白シャツとサスペンダーつきの黒ズボンが愛らしい。その身丈は百に満たない、人間の幼子に見える。
彼の後襟を片手で軽々とつまみ上げて運ぶのは、とてもそんな力があるとは思えない、華奢で長身の美しい女だ。
水着のように露出の多い服、その上から羽織る趣味の悪いスカジャンに、足元まで伸びる銀髪が映える。耳や臍のピアスや太腿の刺繍といい、堅気な人物には見えない。鋭利な双眸は血に濡れたような紅だ。
「デク」
「はい師匠」
名を呼ばれた幼子――デクは、重力に引かれ落ちてブラブラと揺れる手足はそのまま、首だけ回して女を見上げる。
女を師匠と呼んだ通り、二人の関係は師弟だった。
「お前は今までよくやってきた」
「はい師匠。師匠は世話がかかるから、とても大変」
「違う。世話してるのは私だ馬鹿弟子め。そしてこれは、お前を一人前の『使徒』として認めてやるって話だ」
「ほんと?」
「ああ、嬉しいか?」
「わかんない」
「そうかそうか。というわけで、だ」
言うやいなや、師は足を止める。
ぐいとデクを眼前まで持ち上げ、互いの視線が交錯するように向きを変える。底知れない虚無とわずかながらの知性の光を宿した灰色を覗き込み、鋭利な紅眼が愛想なく告げた。
「残念ながら、お前とは今日でお別れだ」
「え」
想定外の内容に、デクの口から気の抜けたような息が漏れる。
「どうして?」
「あそこを見ろ」
言って、師はデクを掴んでいる腕を前方に伸ばす。
デクの眼前には、抜けるような青空が広がっていた。いつのまにか階段を登り終わり、城壁の一番上まで来ていたようだ。
師匠が指し示すは山の麓、割れ目の峡谷。
そこに何があるのかわからないが、大いなる祝福の力を感じられた。
「『白の教団』北東支部――あそこがお前の帰る場所になる」
「ほーむ」
びゅううう、と一陣の風が通り過ぎる。
「お前は『レヴォルト』に選ばれた。こんなちんちくりんでも一応は、悪魔の呪いによって穢された『暴徒』の魂を救済する『使徒』だ」
「そうだそうだ」
「だがな、このくそったれな世界に喧嘩を売るには弱すぎる。今のお前はカスの中のカスッカスだ」
「そうだそうだ……そうなの?」
うんうん頷いた後、こてん、と首を傾げる。
師の目は至って真剣だ。
「だから強くなる必要がある」
「あそこで暮らせば、強くなれるってこと?」
「そうだ」
「でもどうして師匠は一緒に行かないの?」
「私は教団が嫌いなんだ」
「師匠もまだまだだね。そんなんじゃ強くなれないよ?」
「お前の口にグリンピース詰め込んで殺すぞ」
「確かに嫌いなものなら、無理はいけないね」
デクはグリンピースが大の苦手だった。
淡々としたやり取りの後、一拍置いて問う。
「いつ迎えに来るの?」
そのあまりに幼い表情にこれといった変化はないが、灰眼に過ぎる僅かな情の残滓を捉え、師は目を細める。
「さあな。もう行け」
適当極まりない返答、あっけらかんとした態度に眉根を寄せるデク。階段登り始めた辺りからなんとなく嫌な予感はしていた。
弟子を送り出すのに教団を訪れず、離れた位置にある廃れた街の城壁上まで来るとか、この後自分がどうなるのか考えたくもない。
「まさか師匠、投げるの?」
「あっはっは、投げない投げない」
そうは言うが、向けられた紅眼には弟子の不幸を望む悦の輝きがあった。
「だよね。さすがにそんなことしないよね。あっはっはっは」
デクは抑揚のない、棒読みのような声で笑ってみせた。
「こっち側にはな」
師の口が弓なりに歪む。
ああ、いつだってそうだった。彼女は弟子に意地悪するのが楽しくてしょうがないのだ。根本が性悪にして生粋のS属性なのだ。
ジタバタ暴れるデクを無視して、踵を返した師は城壁内、廃れた街が見渡せる方へズカズカと歩いた。
そして、
「元気でな、馬鹿弟子」
大きく振りかぶって、全力で投げた。
デクは放物線を描いて飛んでいく。
女の細腕では到底不可能だと思われる距離を、呆気なく超えて想像すら超えて滅茶苦茶飛んでいく。
最中、遠ざかる師に向かって伸ばした腕はあまりに短く、小さく、まだ届きそうにないなと、デクは静かに目をつぶった。
※※※※※※※※※※
人と魔物、英雄と魔将、勇者と魔王――剣と魔法の幻想世界が滅びて、数百年の月日が流れた。
事の始まりは、【死者の王】が禁忌に触れたこと。
古より封印されし悪魔を目覚めさせ、あろう事か対価を支払い契約。おぞましい『悪魔の呪い』が作り出され、蔓延した。悪魔化した人や魔物は『暴徒』と呼ばれ、瘴気によって自我を失い、生者に群がるゾンビとなった。
呪いは感染する。世界規模のパンデミックだ。
世界は程なくして、機能を失った。
それを見兼ねた天上の存在、天使が動く。
突如として、世界の数箇所に深深と突き刺さった巨大な青い結晶。暴徒を寄せ付けない謎の物質は『天使の涙』と呼ばれ、生き残った者達に白き力を与えた。
天使の祝福を身に宿した彼らは『使徒』と呼ばれ、対悪魔武器『レヴォルト』を用いて悪魔を退けた。
しかし、適性者の数は極めて少ない。
暴徒は無尽蔵に増え続ける一方だ。
対抗する手段は得たものの、その勢力差は一目瞭然だった。優勢に出ることもままならず、生者は緩やかに数を減らしていった。
天使は言った。
いつか。いつか戦いは終わる。
世界は広くとも、無限ではない。
かつてそこに住み、呪いに犯された暴徒も、やはり無限ではない。
我々には子孫を残し、次に繋げる力がある。
だから今は耐えよ。戦え。生きよ。諦めるな。
明けない夜はない。既に光明は昇っている。
いつか報われる日が、必ず来る。
大丈夫。
言うなればこれは、決死の叛逆譚である。
物語には必ず、主役が存在する。
必ずや現れ、悪の尽くを退き、世界を救うだろう。
そう語った天使の言葉は。
ある者には希望を与え。ある者には勇気を与え。ある者には安寧を与え。ある者には未来を与え。
ある者には、酷く悲しげに聞こえたのだった。