Blood Orange
「さっきのそれ、何回目?」
目の前に現れたクラスメイト・三堂ルリハはいきなりそう尋ねた。
「…何のこと?」
私が聞き返すと、彼女は冷たい声色で言い放った。
「四ツ葉さんが死に損なったのは、さっきで何回目かって聞いてんの」
突然の暴言に呆気にとられ、その場に立ち尽くす私の脳裏に、つい一、二分前の出来事が蘇る。
部活が終わり、小腹がすいたので近くのスーパーで買い物をした。買ったばかりのサンドイッチを頬張りながら駐車場を歩いていると、不意にクラクションの音が聞こえ、ブレーキ音がそれに重なった。驚いて前方を見やると、わずか一メートル程前に自動車が止まっていた。ぼうっとしていた私は駐車場に入ってきたところに飛び出してしまったらしい。危ないところだった。運転手が何かを叫んでいるが、剣幕が怖かったので頭だけ下げて逃げるようにその場を離れた―――というか逃げてきた。交差点で弾んだ呼吸を整えていたら、後ろからルリハに声を掛けられ今に至る。
高二になって早二か月半。クラスメイトとはいえ、ろくに話したこともない人からこんな事を言われるとは思いもよらなかった。いやいや、よく知らないのに決めつけはよくない。彼女は口が悪いだけかもしれないと思い直し、
「えーーっと、車に轢かれかけたのが…ってことで良い…?それなら、たしか今週は…三回目、かな」
「今週って…まだ水曜日なのに!?…で、その計算でいくと、四ツ葉さんが“死に損なった”のはざっと三百回くらいってとこか」
「その言い方やめてよ。たしかに私ぼーっとしてて、危なかったなー、ってことは多いけど…」
「あんたはその呆れちゃうくらいの幸運によって今まで生きてる」
「そう言われてみれば…私って、結構ミラクルガール!?アンビリーバボー!?」
「能天気なこと言ってられるのも今のうちだよ、四ツ葉さん。その幸運はどこから来てるのか知ってる?」
「どういう…事なの?」
「あんたの幸運はね、―――他の人から吸い取られてきてるんだよ」
ルリハは真っ赤な唇でさらに言葉を紡いだ。
「私たちが生きるためには、他の命を奪わなくてはならない。それと同じだよ。あんたが幸運にも死に損なってくれるおかげでね、世界のどこかで誰かが不運な死を遂げる。世界はそういう風にバランスをとっているんだよ。四ツ葉さん、あんたが生きていることで、たくさんの命が失われてるんだよ。―――半年前に死んだ私の親友もね」
それはまだ記憶に新しい事故だった。学校前の交差点で、同級生が自転車で転び、車道に飛び出した頭をトラックに潰され、その場で死亡が確認されたというもので、当然私たちは大きな衝撃を受けた。すぐに学校中に広まった噂によると、死んだのは二矢カリンという女子生徒で、その親友だったのが三堂ルリハ、目の前に立っているクラスメイトなのだ。膝が震え、呼吸が浅くなる。ルリハは少し哀しそうで、それでいて愉しそうな微笑を浮かべて言った。
「親友を、カリンを返してよ。それができないなら―――死んでくれないかな。鈍くさくて何の役にも立たないあんたでも、これ以上犠牲を出さないことくらいできるでしょう?」
去っていく彼女の背中を凝視しながら、私はふっと力が抜けて座り込んだ。もともと頭が弱いことは自覚していて、今も全然意味が分からない。でも、それは食物連鎖にも似ていて、彼女の論理は辻褄が合っているように思えた。私の思考はある一点へと収束していく。―――自分でも薄々気付いていた。私が生きているのが、間違いであることに。
その日から私はそれなりに楽しかった人生を生きることをやめ、いかに人に迷惑をかけずに死ぬか、それだけを考え続けた。相変わらず私は憎たらしいほど幸運で、何度も「死に損ない」、そのたびに罪悪感で胸が痛くなる。早く死なないと。また生き延びてしまう前に。代わりに他の命が犠牲になってしまう前に。しかし往生際悪く私は躊躇い続けた。そして一か月ほど経っただろうか。私はまた間一髪で助かった。その直後、信号を待っていたら一匹の蛙が車道に飛び出してきて、そのまま自動車に潰されたのだ。ぐしゃり。目の前に飛び散る肉片を見て、はっきり解った。本来こうなるべきなのは私なのだ。
翌日部活を休んだ。人のいない教室を探し、黒板に遺言を書き殴る。全部自己責任だということと、今までの感謝、そして私のことは忘れてほしいと締めくくった。そして荷物をまとめて靴を履き替え、校門で一礼して学校を後にした。―――永遠に。
通学路の途中に、七階建ての駐車場がある。私はそこに目をつけていた。あそこから飛べば、私は時速百キロでアスファルトに激突し、確実に逝けるはずだ。今更のように急に怖くなり、震える足で階段を上る。十三段どころか百段は上ったと思える後に、屋上階に辿り着いた。エレベーターを使えばすぐなのに、わざわざ階段を使ったのが未練をよく表している。自分の覚悟のなさに腹が立って、唇を強く噛んだ。私は荷物を傍らに置き、靴を綺麗に縁に揃えてゆっくりとフェンスを乗り越えた。あとはきつく握った両手を離すだけだ。それで。それだけで全てが終わる。涙が溢れたのは風に吹かれたせいだ。多分。
それなりの人生がずっと続くものだと思っていた。やりたいことはたくさんあるし、何人かは私がいなくなったら泣いてくれるのだろう。――でも、
私が生かされる度に、誰かの大切な命が消えてしまう。それは紛れもない事実なのだから。―――躊躇いは捨てろ。
左手をゆっくりと離し、涙をぬぐった。未練がこれ以上膨らむ前に、右手をフェンスから引きはがした。傾いていく視界に、オレンジ色の空が映った。
―――逆さまの夕暮れを堕ちていく。せめて最期は笑っていたいと思った。
二矢カリンが目の前で脳味噌をぶちまけてからというもの、私の日常は色彩を失った。週一回精神科に通っているが、先生の分析は全く的を射ていないと思う。なぜなら、私の感情は、悲しみやトラウマなんて言葉で表せる次元から離れ、あの日に自分ですら解らない遠いところに行ってしまったからだ。親友と一緒に。今の私はたとえ笑えたとして、それは顔の筋肉の無機質な運動に過ぎない。親友のために泣くことすらできない私の心に、何故名前など付けられるというのだろう。
ただ、私がはっきりと言えることがある。モノクロの中で生きているうちに、私は自分が黒く染まっていくのを感じていた。憎い。帰り道自分が歩道側でカリンが車道側を走っていたことが、その前輪が小石を巻き込んだことが、トラックの運転手がただ普通に運転していただけの優良ドライバーだったことが、―――そして、
カリンが運悪く死んで、私にとっては生きていても何のメリットのない、注意力の欠片も持ち合わせてはいないクラスメイト―――――四ツ葉ユラがいつも生き延びていることが。
一か月前にユラに言ったことはもちろん、何の根拠もない八つ当たりだ。ユラの瞳に広がった絶望の光を見た時に、私の心は確かに昏い喜びを感じていたし、その後の生きながら死んだような彼女を見て、笑い出したい衝動が止められなかった。あんなこと本気にして馬鹿かよ。彼女の様子を心配する人の目を避けて私は笑った。愉快だったので昨日はユラがまたラッキーだった時に、蛙を車道に放ったりもした。ユラはいつまでもその残骸を見ていた。笑いすぎて涙が出た。その調子だ。こうやって笑えるようになれば、世界は再び色づいて見えるかもしれない。感情が戻ってくるかもしれない。今日も帰り道の夕暮れは灰色のままだ。でも、いつか、きっと―――
突然、頭上から影が降ってきた。衝突するその瞬間、ユラの微笑みを湛えた顔が恐怖に凍り付くのが見えた。衝撃。身体が内側から分解される感覚。瞬間、世界が鮮やかに輝きだした。
口から大量の赤いものを吐き出しながら、薄れゆく意識の中で考える。
そうか、私は彼女を殺したんだ。カリンを喪って壊れた私自身から逃げるために。彼女に投げた悪意ある理論よりもずっと直接的に。ならば、今の最高にアンラッキーな現状も当然の報いなのだろう。本当は解っていた。こんな事をしても色なんて戻ってこないことなんてとっくに。この名状し難い感情と向き合っていく、それ以外に方法などなかったのだ。全身ずぶぬれで肌寒い。地面に広がっていく自分のともユラのとも判別がつかない紅を眺めながら、到底助からないなと観念して苦笑してしまう。恐怖はない。ただただ滑稽なのだ。偽りの喜びを求めて人を死に追いやった私と、人を傷つけたくなくて死を選んだ彼女が、こうやって重なって死んでいこうとしているこの光景が。ああ、愉快だ。何てこった。もう理論も糞もないや。―――最後に一つ言い残すことがあるとすれば、
「死ぬ時くらい周りを確認しろよ、馬鹿が……」
オレンジ色の空がぼやけていく。その中に懐かしい面影を見たような気がした。
そして、全てが真っ暗になった。