#00:もう一時だけ隣に居たい
誰か、この肉体から魂を取り除いてくれないかなぁ。
……そんなことを、寝床の中で考えていた。神様が、なにかのはずみで手違いを冒したんじゃないかと考えたから。
そんな好奇心を抱きながら眠りに落ちたところ、
「……ああ、これ。この感じ。夢の中でも意識があるってやつだ」
目の前には、遊園地の中にあるみたいな迷宮が広がっている。
全体が、桃色の薄もやに包まれていた。けれども、どんなに先でも手に取るようにわかるような、わからないような。
俺は、まっすぐに歩みを進めていく。
「……!」
歩き回っているうち、女を見つけた。
……裸で、仰向けに倒れている。数多くの傷痕がある……と思う。ふとここで、心臓に何かが詰まったような感じがして、胸を押さえる。
そのまま、ずっと眺めていたが、やがて、『触れたい』と思うようになった。
……手を触れる。
「!」
触れる度に、崩れ落ちていく身体。
「あ……そうだ……思い出した。お前は、お前の名前は、」
口に出すことができない。そうしようとするほどに、その肉体は、段々と消えていく。
『やめてくれ! 消えないでくれ』と願ったけど、無駄だった。すっかりと、女は迷宮に溶けて――消えた。
……ナニカに心をとらえられ、あっという間に夢中へと放り込まれてしまう。
不思議なことに思えるかもしれないが、それは、大人だって子どもだっておんなじことだろう? 共通してるのは、なぜそんなに夢中になってしまったのか、理由が説明できないことだ。
俺は今、あの女に夢中になってしまったが、どうしてそうなったのか、夢中になっていた俺でさえわからない。わかるのは、その存在のためになら死んでもいいって、そう思えたことだけだ。
それから、さらに歩いていると、ある男に正面から出会った。薄汚れた格好をしている……と思う。よくわからない。
おーい、と呼ばれた気がした。手を挙げて、こちらへと挨拶をしてきたから。そいつは、段々とこちらに近付いて来る――俺の肉体は、知らぬ間にそいつとハイタッチを交わしていた。
……血に塗れた手。思わず、のけぞった。
『逃げろ! 早く逃げた方がいい』
身体が動かない! 捕らえられてしまった。
そいつは、俺の肩に手を回してくる。
「やめろ! 触るんじゃない……動け、早く動け……」
ずっと、ずっと前に、進んでいった。やがて、そいつは密着を諦める。
「どうだ……?」
諦めてなどいなかった。男の影は、一気にこちらへと。俺に抱きついてしまった。
――拳を振り抜いた。すると、影は、もの悲しい泣き声とともに消えてゆく。
そしてまた、歩き出した。が、そいつが完全に消えてしまう前に、俺は振り返って、そいつを見た。さっと姿を眺めると、まるで鉄格子にでもしがみ付いているように、こちらの方に手を延ばしていた。まるで何者かに引き裂かれたかのように、引きつった笑顔を浮かべていた。
俺には、そいつが「なぜ?」と思っているようにも見えたし、「なら、それでいい」と感じているようにも見えた。
「……」
そして、また前に進みはじめる。
もう、どれくらい歩いただろうか。5分? いや、10分? わからない。でも、ひと段落ついたことは確かだ。だって、目の前には新たな影が立っているから。
スーツ姿の男だった。輪郭がはっきりしている。でも、顔は見えない。
……こちらの方に歩いてきた。そして、手をのばす。真っ黒な手を。ゆっくり、ゆっくりと。
「……」
誰だ? と内心思ってはいたものの、身を任せてしまう。その真っ黒な手を眺めているうち、俺の中に、この見知らぬ男への思慕が目覚めていた。
……その手が、俺の心臓へと置かれる。
はるか彼方から押し寄せてくる、高い潮の流れ。かすかな波が、肌に触れたと思ったら――唐突に、高々と舞い上がったそれは、俺の背丈をはるかに越えて、瞬く間、強大な波へと進化して、あらゆるものを呑んで、さらってしまう。そんな気持ちが、俺の心を渦巻いた。
この感情は、俺には大きすぎた。ふくれあがった潮流に呑まれ、あえぐしかなかった。砂浜を叩きつけた大波が、嬉々としてあらゆるものをさらってしまうように、俺は――自分の名前を忘れた。女の名前も。
「これは……撫でている? 俺の心臓を。どうして? いや、そんなことはどうでもいい。これから、どうなってしまうんだ?」
――まさか、と思った瞬間だった。その手が皮膚を突き破って、心臓を掴もうとしている!
このままじゃ、だめだ! でも、なにもできない。冷や汗が流れる。
なんだ? なんなんだ、この感じ。あ、いま、こいつの手が、俺の心臓に、触れた――