七・真夜中の悲鳴
七・午後八時十五分 旅館あさみな別館・うぐいすの間
別館の片隅にある宿泊室、うぐいすの間で浴衣を着た千尋と、学生服のズボンと紺色のカッターシャツという何故か堅苦しい組み合わせの服装をしている二宮が、お互いテーブルの上でカードを持って向き合っていた。テーブルの上には彼らの手札から捨てられたカードと、もう一つカードの山がある。
「あれ、リバースカードって二人でやる時はどうするんだっけ?」
「もう忘れたの? カードを出した人がもう一回カードを出すんだよ」
「ああ、そうだったっけ……げ、もう出せるカード無いや。ちぇっ」
千尋はそういってカードの山から一枚カードを取った。
「それにしてもさ、たった二人でウノやったって全然面白くないよね」
「この期に及んでそんな事をいわないでよ。それも言い出しっぺが」
「そりゃそうだけどさ……いてッ」
千尋が急に頭に手を当てた。そこには金閣寺で老人に説教をされた際に叩かれてできた、たんこぶがある。
「どうしたの」二宮がカードを出しながらいった。
「またたんこぶが痛み出したよ……あのおじいちゃん、愛知に帰ったら訴えてやる」
「止めなさい、元は大川さんが悪いんだから。全くもう、刑事が金閣寺の金箔を盗もうとするなんて国家の恥だよ、反省しなさい」
「だ、だからって殴ること無いんじゃ……ああ、もう。また出せるカードが無い!」
千尋は文句を言いながら山からカードを引いた。そして順番が回ってきた二宮が手札からカードを出した。彼の手札にはもう一枚しかない。そのまま順番が千尋に戻ってこようとしていた。
「はい、大川さん。次」
「判ったよ……って、あっ!」
千尋が叫んで二宮の手札を指さした。
「ニノ、ウノって言ってない! ほら、カードを引いて! 二枚!」
興奮する千尋、しかし二宮は彼女に冷たい目線を向けていた。
「大川さんさ……よく見てよ」
そう言うと二宮は手に持っていた一枚のカードを扇子のように広げると、後ろに隠れていたもう一枚のカードを千尋に見せた。彼はカードをまだ二枚持っていたのだ。
「え、ちょ、ええーっ! そりゃあ卑怯でしょ、ずるい真似しないでよお」
千尋はそのまま脱力して床にぐったりと倒れてしまった。「やり方が汚すぎるって」
「よく観察しない方が悪いんだって。ほら、ペナルティで二枚引いて。ほら、早く」
「うう……一、二……ああ、もう! また出せるカードが無いよ!」
「とことん運が無いねえ……」二宮はカードを山から一枚とると、ペアになったカードを二枚出して「ウノ」といった。
「ほら、次」
「……はい」そういって千尋はカードを一枚取ると、ようやく出来たペアを二枚手札から出すことが出来た。しかし、時すでに遅し。二宮が最後のカードを出し、彼の勝利でゲームは終わった。
「これで三勝ストレート勝ち。ほんっと、大川さんは運が無いね。ここまでアンラッキーな人、僕は見たこと無いよ」
「だっ、だけど最後のヤツは只の詐欺じゃない! 訴えてやるっ」
そう言って千尋は持っていたカードを放り投げて二宮に掴みかかった。
「そんな、そんな怒らなくたっていいじゃない」
「良くないわよっ。ニノはいつも……」
千尋がそう言って二宮の身体を揺さぶった時だった。突然、部屋の外から「キャーッ」という女の甲高い悲鳴が聞こえてきたのだ。
「な、何。今の」
「さあ」
「外、行ってみようか」
千尋が二宮から手を放し、二人は立ち上がってスリッパを履くと部屋の外に出た。部屋の外では二人と同じ様に悲鳴を聞いた客が部屋から出て外の様子を窺っていた。
「悲鳴が聞こえてきたの、あっちの方かな」千尋が廊下の分かれ道で指をさす。
「いや、こっちでしょう」二宮は千尋と違う方向を指さした。
「いや、あっちだって」
「こっちだよ」
「だからあっちだって」
「いやいや、こっちだって」
埒が明かない。結局二宮の指さす方へ行く事になった。
二人が廊下を進むと、つぐみの間の半開きになったドアの前で若い女――弓野飛鳥が尻餅をついていた。二宮が彼女に声を掛ける。
「あの、どうされましたか」
「先生が……先生が……」飛鳥はパニックでしどろもどろになりながら、つぐみの間のなかを指さした。
「ああ、先生……先生」
「落ち着いてください。どうか気をたしかに」
「わ、わたし部屋に入ってくる」
千尋はそう言ってつぐみの間のドアを勢いよく開けた。すると開いたドアが壁にぶつかってしまったのか、千尋の方へ跳ね返って彼女の顔面に「ドン!」と激突した。
「いだっ! は、鼻にぶつかった」
「何をやってんの、こんな緊急事態に……あ、鼻血が出てる。ほら」
「え……うげっ、ホントだ。鼻血が出てるっ」
「ほら、鼻を摘まんで血が出ないようにして、首の後ろをトントンして。ほら、トントン」
「う、うん」千尋は二宮の指示通り鼻を摘まみ、もう一方の手で首の後ろ側を軽く叩いた。
慌てる千尋をよそに、二宮はつぐみの間のドアをゆっくり開いて部屋の中に入った。
すると部屋の中では中年男性――天堂院創大が泡を吹いて布団の上に倒れていたのだった。二宮が彼の元へ近づくと、その顔をゆっくり観察した。
「酸っぱい匂い……アーモンド臭だ」
二宮はそう呟き、部屋の中を見回して電灯や、開いた押し入れなどを見た。そして背後の入り口へ目をやると、ツアーコンダクターの菅野遼が二宮の後ろに立っているのが見えた。
「これ……一体どうなっているんですか」遼が驚きの言葉を漏らす。
「……菅野さんでしたよね」
「ええ」
「急いで警察と女将さんに連絡してください。あと、あまり人をここに寄せよけないようにしてください。お願いします」
「わ……判りました」そう言って遼は慌てながら――いや、慌てている“演技”をしながら部屋から出て野次馬たちに「皆さん、ここから離れてくださいっ」と呼び掛けていた。
連絡を受けた京都府警が現場に到着したのは、それから間もなくのことであった。