十・疑問、そして対決
十・午前十時二十四分 旅館あさみな別館・すずめの間
自分の部屋で会社への報告メールを作成している遼に、ドアのノックの音が聞こえた。
「どうぞ」ノートパソコンのキーボードを打ちながら、遼はノックをした人物に返事をした。その声を聞いて部屋に入ってきたのは制服警官だった。
「あの、菅野さんですね?」
「そうですけど」
「すいません。ちょっと応接間まで来て欲しいんですけど」
「応接間? どうしたんですか、急に」
「被害者の奥様がこちらに来られたので、あなたの方から幾らか説明をして欲しいのですが」
「判りました。すぐ行きます」
パソコン内の文章を保存してスリープモードにし、遼は応接間へと向かった。
遼が応接間に入ると、中には数人の刑事と二宮が居た。そして部屋の真ん中にあるテーブルの前のソファには厚めの化粧をした女が座っていて、刑事と対面していた。
「すいません。お仕事中来ていただいて」
部屋の入り口の近くにいた二宮が遼に話し掛けてきた。
「あそこのソファに座っている女性が、被害者の奥様の天堂院由理枝さんです」
「それで、僕は彼女に一体何を話せば良いんですか」
「それは刑事さんから聞いてください。なにぶん、僕もあまり詳しく聞かされていないもので」
そう言われた遼が刑事たちに訊くと、由理枝に夫が観光ツアーに参加している理由について教えて欲しいと頼まれ、遼は由理枝が座っている向かいのソファに座ると、彼女が尋ねてくる質問に答えた。
予約の詳細、旅行保険、旅の間の様子などについて訊いてきた由理枝は最後にこう言った。
「主人と……主人と一緒に居た女の人に会わせてくれませんか」
これについて遼は何とも答えられず、近くにいる刑事と相談をした。そして数分の議論の結果、由理枝と創大の愛人の飛鳥を会わせることにした。
刑事が飛鳥を呼びに行っている間、二宮から遼に話し掛けてきた。
「やはりあの二人はモラル的にあまり好ましくない関係だったみたいです。こんな事を言うのはちょっと不謹慎なのかもしれませんが、妻と愛人のバトルというのはドロドロしたドラマみたいですねえ」
「今の状況も、十分ドラマみたいな感じだと思いますけど」
それを聞いて二宮は「いや、もう慣れちゃったから何とも思わないんですよ」といって苦笑した。
二人が話していると、制服警官が飛鳥を連れて応接間へ入ってきた。
「ええと、この人が被害者と一緒に旅行に参加していた弓野飛鳥さんであります」
飛鳥を連れてきた警官がそう説明すると、ソファに立っていた由理枝は立ち上がると、呆然として立っていた飛鳥の頬にビンタをして「この泥棒猫っ」と怒鳴り散らかした。
興奮する由理枝を刑事たちが取り押さえている中、二宮は「巻き添えを食らったら大変です。部屋から出ましょう」といって遼と共に応接間から抜け出した。
「いやあ、泥棒猫なんて言う人初めて見ましたよ。あんなのドラマの世界だけだと思っていました」そういって二宮は苦笑した。
「……二宮さん。ちょっとあなたに言いたいことがあるんですが」
「え、何でしょう」
「あなたはこの事件が殺人事件だといっていましたね」
「その通りです」
「亡くなった天堂院さんが何者かによって殺された。確かにそれは可能なのかもしれない。だけど果たして彼を確実に殺すというのは出来ないと思うんですよ」
「それはまたどうして」
「警察の見解では彼は自分が持っていたりんごジュースに入っていた青酸カリを飲んで死んでしまったと聞きました。今の所これで合っていますよね?」
「そうですが、それがどうかしたんですか?」
「二宮さんの言うように誰かが天堂院さんを殺したとするならば、当然真犯人が彼らの知らない所で彼の持っていたジュースに毒を仕込む必要がある。だけどその後は? もしかしたら同伴者である弓野さんがそのジュースを分けてもらったりして飲んでしまう可能性がある。仮に殺人事件だとしたら、犯人は他人を巻き込むような殺害方法をしたって事になりませんか? こんな無茶苦茶な事があるんだとしたら、僕は自殺説の方を支持するかな」
「なるほど、大変面白い意見です。しかしですね、真犯人がジュースに毒を入れて確実に天堂院さんを殺すことは出来たんです」
「どうして」
「実はですね、弓野さん、ツイッターをやっていましてね。彼女は、自分がりんごアレルギーであることに関する文章を投稿していたんです。ええと、どういう文だったかな」そう言って二宮はポケットからメモ用紙を出し、そこに書いてある文を読み上げた。
「ええと、“友達がアップルパイをりんごアレルギーの私に見せつけるように食べる。残酷!”だそうです。つまりですね、弓野さんはりんごアレルギーでりんごジュースを飲むことが出来なかった。だから彼女に毒を飲ませてしまうという事態は阻止できたわけです」
「ふうん……なるほど」
「さて、ここで気になるのはあのりんごジュースがツアーで渡されたものであることです。菅野さん、配られるジュースの種類を決めるのはあなたなんですか?」
「何ですか、二宮さんは僕を疑っているんですか?」
「いえいえ、とんでもない」二宮はそう言ったが、その言葉はどうも白々しかった。
「ただ、参考にお聞きしたまでです。嫌な思いをしたんだったらすいません」
「別に良いですけど……まあ、確かに参加者サービスのジュースでりんごジュースにしたのは、僕ですけどね」
「そうですか。しかしこれでは少し妙です。これでは犯人は毒を盛る時に彼が持っていた飲み物が、都合よく手に入れたりんごジュースだったという事になります。これはちょっと出来過ぎています。菅野さんはどう思いますか?」
「……考えすぎだと思いますよ。それに、この事件は自殺だと考える方が自然だ」
「どうしてですか」
「考えてみてください。まず天堂院は医者だったらしい」
「そうみたいですけど、どうしてそれを知っているんですか?」
「ツアーの申し込みの時に職業の欄で書いてあったんですよ」
「よく覚えていましたね」
「……さっき確認したら、そう書いてあったんです」
「判りました。続きをお願いします」
「医者だったら青酸カリも入手するのもそんなに難しくない話でしょう。毒物とはいえ、薬ではあるんだから」
「だけど一介の医者がそんな毒を手に入れられるのでしょうか?」
「天堂院なら手に入れられたはずです。彼は大学病院の准教授だからその気になれば手に入れられる」
そこまで言うと、二宮が「ちょっと待ってください」と言って話の流れを止めた。
「菅野さん、あなたどうして知っているんですか、天堂院さんが大学病院の准教授であることを? たとえ彼が医者だという事を知っていても、大学病院の准教授などと詳しい事は判らないはずです。それなのに、一体どうしてそんな事を?」
しまった――二宮の指摘を受けて遼は肝を冷やした。もっとよく考えてから話すべきだったのだ。
黙っていたら怪しまれる。そう思った遼は頭を絞って考え、口を開いた。
「それは……それは、彼から直接聞いたんだ。自分が大学病院の准教授だと」
「聞いたんですか? 天堂院さんから?」
「世間話をしていた時に、彼から聞いたんだ」
我ながら苦しい言い訳だ、と遼は思った。しかし他に説明のしようが無い。
「とりあえず、これが僕の考えです。どうですか」
「確かに、参考になります。ただ、そうだとしたらどうして天堂院さんは愛人の前で自殺などという、だいぶ情けない死に方を選んだのでしょうか? それに、毒を飲むのに使った飲み物が配られたりんごジュースというのも、何だか変です。自殺と言うのはする人にとっては神聖なものであるはずです。それがりんごジュースを飲んで死ぬというのは、不謹慎な言い方ですけど、何だかスケールが小さすぎます。これに関して菅野さんはどう思いますか」
「……知らないよ、そんなの」遼はうんざりした口調で言った。これ以上は付き合っていられない。
「部屋に戻って良いですか? 僕、仕事が残っているんですけど」そう言って遼は部屋に戻ろうとした。しかし二宮から「ちょっと待ってください」と言われ、立ち止まった。
「一つ、お願いしたいことがあるんです」
「何ですか」
「ちょっとした実験に協力して欲しいのですが」




