一・旅の始まり
紙に油性マジックで書いたときに、下の机にインクが写って汚れてしまったこと、ありますよね。
そんなときは汚れた部分を消しゴムでこすって、アルコールをかけてみてください。お酒じゃありません。消毒用のアルコールです。
そしてアルコールをかけたところをふきんで拭くと、汚れが綺麗に落ちます。ぜひともお試しあれ。
一・午前五時五十二分 笹ヶ峰駅バスターミナル内
凍えそうなほど寒々とした冬の日の、朝日がまだ昇ってきていない真っ暗な朝。愛知県某市の交通機関の心臓部である笹ヶ峰駅のバスターミナルに、一台の旅行会社のバスが停まった。
そのバスから降りた若き男性ツアーコンダクターの菅野遼は、目の前に見える駅を見て背を伸ばし、息を吐いた。凍えるような寒さのなかで、遼が漏らした息は小さな白い霧となった。遼の隣には、バスの運転手である田上勉が口に煙草を咥え、ジッポーで火を点けようとしている。
遼は手にしている旅行会社のロゴが入っている旗を高く挙げ、左右に大きく振る。田上は火を点けた煙草の煙を吸い始めた。
「あれ、菅野さんは煙草の煙、大丈夫だったっけ」
「いえ、大丈夫です。昔から親父が家で吸っていましたから」
「そう。それでは遠慮無く吸わせて貰おうか」
「だけどお客さんが来たら消してくださいよ。親子連れの子どもが吸ったりしたら大変ですから」
「判っているって」
自分より遥かに年下であるこの若い男のツアーコンダクターを見ながら、田上は苦笑いをした。
「それにしても珍しいねえ。男のツアーコンダクターっていうのは」
「確かに、学校の修学旅行のガイドさんは小、中、高と全員女性でしたけどね」
「ま、時代の流れ、と言う奴かな。今や男もナースやっている時代だからね。菅野さんはどうしてこの職に就いたの?」
「僕ですか。他愛もない理由ですよ」
遼は田上に向かって微笑を浮かべた。
「あ、そう? ま、暇なときに教えてよ。一人で黙々と運転しているの、結構辛いものがあるから。頼みますよ」
田上はそういって、吸った煙草の煙を吐いた。
遼が旅行会社に入社したのは今から五年前のことだ。
当時、大学で社会学を専攻していた遼は大学四年生の頃、就職活動の準備をしていた際に、彼の友人である同じ学部の女子大生、沖野優奈が大学の掲示板に貼ってあった旅行会社「新日本ツアーズ」の求人のチラシを見て、大学の長期休み中にバックパッカーとして旅をした経験のあった遼にその旅行会社の求人チラシを紹介したのが、今に至るきっかけだった。
旅好きな遼はその話にすぐに食いつき、優奈と共に採用試験を受け、見事に合格を果たした。優奈も最初は落ちてしまったものの、他の合格者が家庭の事情で合格を取り消したお陰で、繰り上がりにより何とか入社することが出来たのだった。
最初の一年目はツアー内容の情報収集の担当であるツアーオペレーターとして勤務し、その次の二年目で優奈と共にかねてから希望していたツアーコンダクターとして配属されたのだった。
長年苦楽を共にした優奈に、遼はかねてから好意を抱いていた。しかし、彼女には既に愛する男性が居たのだった。彼女が言うには、ツアーの客――職業は医者らしい。その人物と懇意になったとのことだった。
それを聞いて最初は落ち込んだ遼だったが、次第に幸福な姿でいる優奈を見て諦めがつき、彼女の恋を友人として応援するようになっていった。だが――
田上は吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し付け、煙草の火を消した。
「おっ、お客さん、来たみたいだよ」
田上の声で遼は振り返った。遼が目を向けたほうには、夫婦らしきアベックの二人組がこちら側へ歩いてきている。彼らに向かって遼は旗を振った。
「おはようございます。新日本ツアーズ、京都一泊二日の旅をご予約されたお客様ですか?」
自分の元へ来た夫婦に向かって遼が訊く。
「ええ、二人で予約した青芝です」
答えたのは夫婦のうち、夫の方だった。遼がそれを聞いてツアーの予約者のリストを見て、確認をとる。リストには参加者の名前、年齢、参加人数、電話番号が記載されている。その中には青芝の名前もあった。名前-青芝大吾、年齢-五十九歳、参加人数-二名、電話番号-080○○○○××××、とある。
「二名様の青芝様ですね。ではバスに入って、お好きな席にお座りください。座席の指定はありませんから。それと……」
遼は彼らの持っているキャリーケースに目線を向けた。
「お荷物はお手持ちのもの以外は、僕たちのほうでバスの下側にあるトランクルームに入れておきます」
「ありがとうございます。これから二日間よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
軽く会釈をすると、青芝夫婦はキャリーケースを残してバスの中へ入っていった。
「田上さん、このキャリーケースをトランクルームへ入れてくれませんか」
「あ、判りました」
田上は青芝夫妻が残したキャリーケースを持って、バスの下部の開く扉を開け、トランクルームを開くとその中にある広い空間へキャリーケースを入れた。その間、遼は予約リストのチェック欄の青芝の欄にチェックマークを記入した。
この後の予定としては、あと二組の客がこの駅で集合する予定だ。そしてその客を乗せた後、バスはここから約五キロ先にある三ツ谷駅に向かい、そこで四組の客を乗せてバスは京都へ向かう。そして京都で一泊二日、様々な観光地を巡るツアーが行われる予定だ。そう、予定では、だが。
その後、四人家族で予約した向井という予約者が遼たちの前にやって来て、確認を済ませた後、彼らはバスに乗車した。あともう一組来ればバスを出発させることが出来る。
「ここはあと一組お客さんが来るんだっけ?」
「ええ、確か二人組のお客様だったはず……」
リストを開いて名簿を辿る。そこには遼の記憶通り、二人組で予約した客の名前がリストに載っていた。
「ええと、予約者の名前は大川千尋さん、二十七歳の女性です」
「ふうん。お友達と旅行かね?」
「彼氏とかじゃないですか? もしくは旦那さんとか。まあ、もうじき判るでしょう」
そういって遼は大川千尋と、その同伴者を待った。ここまで来た二組はバスがここに着いてから間もなく現れたので、彼女らもすぐにここへ来るのだろうと遼は思っていた。
しかし彼の予想は当たらなかった。彼女らはそれからしばらく待っても来ず、バスの発車時刻午前七時を間近にしても二人組は現れなかったのだ。
「ちょっと、もう一組のお客さんはまだ来ないの?」
バスの中に戻って待機をしていた田上が、バスから顔を出して遼に訊いた。
「ええ、まだ来ていないみたいです」
「おいおい、もうすぐ出発時刻なのになあ。勘弁してくれよ」
「多分道にでも迷っているんでしょう。大丈夫、その内来ますよ」
腕時計を見て嘆く田上を、遼はなだめる。
「迷うって言ったって、そんなに込み入った場所じゃないよ、ここ」
焦る田上の横で、遼は冷静にその場に立っていた。
「待ちましょう、今は。ただ時間が押すかもしれませんから、今のうちにエンジンを温めておいて、いつでも発車できるようにしてくれませんか」
「判ったよ。バスのエンジンかけておくから」
田上は遼にそう返事して、バスの中へ戻っていった。彼がバスの中へ入って数十秒経つと、エンジンの音が鳴りだした。これでいつでも出発できる状態だ。
時刻は既に午前七時を過ぎていた。このまま大川千尋に連絡を入れて出発してしまった方が良いか、と遼が思った時の事だった。
彼の目の前にセーターを着て、ロングスカートとブーツを履き、顔に軽い化粧をした、それなりに顔立ちは整っている若い女――恐らく、大川千尋だと思われる女性が見えた。
彼女の姿を見て、やっと来たか、と遼は安堵した。
しかし、遼は千尋に手を引っ張られている同伴者を見たとき、遼は我が目を疑った。その同伴者は若い男で――その点に関して遼は特に何とも思わなかったが、問題はその男の容姿だった。
その男、というより、その少年は詰襟の黒い制服を着ているのだ。
――何だ? 大川千尋の同伴者は学生なのか? しかし、彼女は二十代後半の女性だ。彼女の同伴者が学生だというのは、一体どういう事だろう?
最初、姉弟だろうかと遼は思った。しかし二人とも顔は整ってはいるものの、姉弟にしてはあまり顔が似ていなかった。
とりあえず、遼は自分の所へ向かってきた二人に対して声を掛けた。
「……おはようございます。新日本ツアーズ、京都一泊二日の旅をご予約されたお客様……ですよね?」
戸惑いが混じった遼の表情に、千尋はぽかんとした。
「ええ、二人で予約した大川千尋ですけど。それがどうかしました?」
「あの、失礼ですが……」
遼は千尋の隣で何故か不貞腐れている学生に目を向けた。
「あっ、遅れちゃってすいませんっ」
「いや、それもあるけど、そうじゃなくて……そちらの方はお連れの方で?」
遼の疑問に、千尋の隣にいる学生が口を開いて答えた。
「お連れの方ですが、何か」
「失礼ながら、ちょっと変わった組み合わせだなあと思って……ご姉弟ですか?」
「いえ、姉弟じゃないです」
学生はきっぱりと答えた。
姉弟じゃない。だとしたらこの二人の関係は、一体何なのだろうか?
「あの、お二人は一体どういう……」
遼が二人に質問をしようとしたが、今は話を聞くような時間は無い。あとで落ち着いた頃合いを見計らって訊くとしよう。
「どうかしましたか。何か言いかけていたみたいですけど」
「いえ、とにかく急いでバスに乗り込んでください。今、かなり時間を押しているんで」
「え、そうなんですか」
千尋が焦りの表情を見せ、学生の手を引っ張った。
「やっぱり、ジャンプを探してあちこちのコンビニへ回っている暇なんて無かったんだよ。ニノ、早く乗ろう」
ニノ、と呼んだ学生をバスへ連れ込もうとする千尋。しかし学生は乗り込もうとせずにどこか別の方向を見ていた。
「……どうしたのよ、明後日の方向を見ていたりなんかして」
「大川さんさ、あそこにコンビニあるよね」
彼はここから数百メートル離れた場所にあるコンビニを指差した。
「確かにあるけど、それが?」
「ちょっと行ってくる」
「この期に及んで何言ってるのよ!」
「だけど、もしかしたらあの店にジャンプが置いてあるかもしれない」
「もうっ。これ以上他の人に迷惑かけるわけにいかないでしょ! ほら、乗るよ」
抵抗する学生を千尋は何とかバスの中へと連れ込むことが出来た。
遼もリストの千尋の欄にチェックマークを記入してバスに搭乗した。
「菅野さん、一体何なのあの二人」
運転手の田上が、ようやく席に着いた男女二人組を怪訝な目で見つめながら言った。
「いちおう、女性の方は大川千尋さんらしいです」
「連れの学生さんは?」
「さあ、弟さんじゃないらしいですけど」
「ふうん、まあいいや。エンジンは温めてあるし、もう出発しましょうや」
「ええ」
遼はガイド席にあるマイクを手に取って電源を点けると、自分の口に近づけた。
『皆さん、おはようございます』
遼が挨拶をすると、バスの中のあちこちから挨拶が返ってきた。
『本日は新日本ツアーズ、京都一泊二日の旅にご参加いただき、誠にありがとうございます。本バスはこの後、三ツ谷駅へ向かい、そこで残りのお客様を乗せたのち、京都へ向かいます。詳しい説明はまた後とさせて頂きますが、これから二日間、よろしくお願い致します』
簡潔な説明を終わらせ、礼をすると乗客からの拍手が聞こえてきた。
『ありがとうございます。それではこれより出発します。シートベルトをご着用ください』
遼はマイクの電源をオフにするとガイド席に座り、シートベルトを締めた。
「それでは発車します」
田上が運転席にあるマイクでそういった後、アクセルを踏んでバスを発進させた。
外の風景を見て溜息をついた遼は、自らの心臓の鼓動が早まり、額に汗が流れているのを感じた。
一体俺は何を焦っているんだ。まだ計画は何も始まっていないじゃないか。まだ、何も――
高まる気持ちを、彼はゆっくりと流れる景色を眺めながら落ち着かせた。
バスターミナルを出たバスは最初の目的地、三ツ谷駅へと向かった。