わがまま血鬼
おぞましい血の海を渡っていく。辺りは静寂。そよそよと雑木林の葉が揺れる音が聞こえるほどだ。
暗闇に目が慣れ、彼女の姿がよく見えた。私の方を見、恍惚の笑みをうかばせている。
足元には先ほど私の手で刺し殺した通りすがりの酔いどれ男。刺された箇所からどろりと血を流して赤溜まりを広げ、私と彼女が楽々と泳げるような海を生み出す。
赤を照らすは、下弦の月。怪しく甘美に彼女を照らす。
彼女の口から白い立派な牙が覗く。どこも傷はついていない無垢な牙だ。その手も白いまま。
視線を下におろす。血溜まりを生みだした刃が私の手に握られていた。背中をぞわりと罪業が撫でてゆく。
すぐにでもこんな刃は捨ててしまいたい、と思うが私は彼女を抱きしめるためならなんだってできる、と心を奮いたたせた。
そうして私は草履を海に泳がせ、彼女の袂までくると彼女を抱きしめた。濡羽色の髪に、椿の香。小さな体躯が腕の中にすっぽりと収まる。
「満腹か」
告げると、彼女は牙をちらつかせ口角を上げる。
「甘味が食べたい」
「まだ足りないんだな」
「食べたぁい」
「よしよし」
どうしたものか、なんとかせねばなるまい。
そのうち彼女はくんくんと犬のように私の匂いをかぎだした。血の匂いが気になっているのだろう。
彼女は血に飢えているのだから。
彼女が血に飢えるようになったのは、突然の出来事であった。いつものように朝日を部屋にいれようと障子を開けると、彼女は光を嫌がった。以来昼は布団にくるまり外に出なくなり、夜に活動するようになった。
それでも最初のうちは彼女も元気であった。
「私、白玉が食べたぁい」
そう言って畳の上を転がり、駄々をこねるぐらいに。
「おまえ……いい年なんだからそういうことはしないでくれ」
「『食べたぁい』と言っているだけでございます」
「『食べたぁい』のか」
「『食べたぁい』のです。いつだって私達はひもじいぃでしょう。だから、こういうことを言うだけ言ってひもじさをやわらげるのです。聞けば、都の方では『チヨコレイト』なる甘味があるらしいじゃないですか。私はそれが食べたぁいのです」
私はその発言が痛々しく感じた。彼女が幾日もの間何も食べていないことを知っていたからである。甘味は特に彼女の大好物で食べたいと駄々をこねる姿は見慣れたことであったが、何も食べられないのは奇妙だった。
おそらく食べたいと言い放ち、食がすすまないことへの不安を払拭しようと必死だったのだろう。
そう思うと私はひどく悲しくなった。
彼女は不安を抱えつつ過ごしていた。
寝食を共にする私は、特に甚だしく彼女の気性が感じ取れた。うなされ、眠れないのかすぐに起き上がり、何かを思いじゅるじゅると唾を垂らしていた。
暫くはそれで事足りていたのだろう。
が、しかしついにある晩、彼女は夜にふらふらと家を飛び出して行ってしまった。私はすぐに彼女の後を追った。
彼女はのらりくらりと歩き、雑木林の近くにたどり着くとそこに酔いつぶれていた男を前に袖に隠していた包丁を抜いた。月光に照らされ、刃が鈍く光った。
私は彼女の純粋無垢なところが愛おしかった。駄々をこねることは多々あったが、それもこれも全て彼女の無垢さで愛おしいものであったのだ。
だが、それは血に染まれば全てなくなってしまう。彼女の白く染まる手も、無垢であった心も消え失せる。
私はすぐさま彼女を止めた。抵抗する彼女の様相はいつもの駄々でもなんでもない。本能のままに動いていた。口から覗く白い牙は、獣のように鋭く冴えわたる。こめかみに皺がより、この世ならざるもののようで不気味であった。
「食べたい」唸る彼女は苦し気に何度も繰り返していた。「甘味が食べたい。食べたぁい」
心から愛する者の白い牙が、触れた柔肌が愛おしかった。それがなければ、私は生きていけないほどに。
「ならば、私があげよう」
罪が重くのしかかる。
私は自身の手を汚した。
一面に血なまぐさい香りがする。咲きほこるは真っ赤な花。だが、この花だけでは彩りが足りない。
一人、酔っていた者を雑木林に連れ込み殺した。では、あともう一人。
月光がぴんっと糸を張ったように私のもとへ下る。それはかの有名な蜘蛛の糸のよう。そうか、と糸に頷いてしまう。
一人、私がいるではないか。
彼女のためなら、この命を捧げることなど容易なことだ。これまで殺してきた者は数知れず。私の背には罪が蛇のように這いずり回り、怨霊が恨み言を囁いていた。
握られた刃を私は首元にあてる。氷をあてたようにひやりとする。どろりとした何かが表皮から滴る。手のひらに冷汗が滲む。
もっと深く、深く刃をあてるのだ、と怨霊達の囁きが蠢いた。深く、そうすれば楽になるぞ、と。
そうすれば人目を気にせず純粋無垢な妹を愛せるぞ、と。
お前は何も怖がることはない。
殺せ。
「兄さん」
後ろから妹が私を抱きしめる。女の香りが鼻についた。
「私は私の大好きな血の色をしている兄さんが大好きでございます。その姿を見ているだけで満腹になります。見るだけでいいのです。そうするだけで私の飢えは我慢できます。ですから、ご自身を傷つけるのはおやめください」
「おまえ……」
「私は甘味が食べたぁいのです」
気持ちを抑えられなかった。
首にあてた刃を下ろし、妹に接吻してしまう。何物にも汚されていない甘い女の味を舐めまわす。一方で妹は赤に染まる私の手をそっと触れほほ笑む。
私はこの純真無垢な妹が好きであった。母の腹から妹が生まれ、おぎゃあと泣いた時から妹にしか興味が湧かない。母が病で亡くなり、父がよそに女をつくり出ていった時も寂しい等という感情はなく、むしろ妹にだけ愛を注げることに歓喜してやまなかった。
私は妹の兄妹ではない愛がほしい。男女の愛に飢えている。そして唯一妹が私に男女の愛を向けてくれるには、私の大好きな純真無垢な妹のままでいさせるには、血に染まるしかない。
そのために私は妹の望む甘味を用意するのだ。
私の血に濡れた姿という最高の甘味を。
遠くから「そこに誰かいるのか」と雑木林に足を踏みいれる男の影。背後に妹を退かせ、私は刃をしっかりと握る。そうして男がこちらへ来るのを闇をはらませ待つのであった。