表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パパ  作者: 真田真
1/2

パパ前編

ぼくのなまえは「かつき」といいます。

 3さいです。

 パパとママとバーバとみどりといっしょにすんでいます。みどりはおばさんなんだけど、おばさんっていうとおこります。ママのいもうとです。

 たんじょうびというものがあって、そのひはいつもおいしいものがたべられて、おもちゃをみんなくれます。3がつになったらすぐにたんじょうびがきます。

 みんなもうすぐだよっておしえてくれます。

 もうすぐケーキがたべられる。

 ママがなんだかたのしそうなので、ぼくもうれしい。

 パパのことはすごくすきなんだけど、いまはあんまり、おうちにいません。

 ママはパパのはなしをするととてもかなしがります。

 ときどきパパとでんわでおこります。そのときはぼくも、「パパのばーか」といいます。

 いわないとママがかわいそうなので。

 まえのたんじょうびはパパがいてくれました。

 でもあたたかくなってからパパはいなくなりました。

 かわりにこのまえから、かつきがあしをけがしたあのひから、ときどきあのひとがやってきて、ごはんをたべます。ママはとてもたのしそうに、あのひととしゃべります。あのひとはぼくにもしゃべりかけます。

 ぼくのことをすきだといいます。

 ふーん。

 よくわからないけど、すきなんだ。

 ぼくはパパもすき。

 ママもすき。

 バーバもすき。

 アンパンマンもすき。

 ケーキもすき。

 すきってどういうこと……?

 たべたいってことかな。

 あそびたいってことかな。

 ネコはこわい。ひっかくから。

 きょうはひさしぶりにパパをみた。

 ぼくはねてるところをおこされて、ママにしがみついていたよ。パパはとおくにいってたらしく。おもちゃをいっぱいかってきてくれました。ママのてがつめたくてちょっといやでした。

 バーバとみどりは1かいにすんでいます。パパとママとぼくは2かいにすんでいます。

 きょうはバーバとみどりはりょこうにいっているよ。

 りょこうって、とおくにいっておいしいものをたべることだって。いいな。ぼくもおいしいものたべたい。でもとおくにいくのはいやだな。なんかこわい。かえってこれないみたいで。

 それにいまは、ゆきがふってるんだもん。さむいよ。

 パパがしばらくいなくて、きょう、きゅうにかえってきた。ママはおどろいてたような、わかってたようなへんなかおしていたよ。(しゅっちょう)ていうのにいってたんだって。

 しばらくママとパパは1かいにいて、ぼくはひとりで2かいであそんでいました。

 パパがいなくなるまえは、おやすみのひはママが1かいでごはんをつくって、パパとぼくは2かいで、あそんだりしていた。

 パパがかえってきて、ぼくはとてもうれしいです。もうよるだ。おそとがくらい。

 こたつがあたたかいからぼくはこたつにもぐっています。ママはおこるけど、パパはやさしいからおこらない。

 こたつのなかはたのしい。あかくて、あたたかくて、においもすき。

 パパがトイレからかえってきた。

 1かいからはテレビのおとがきこえる。

 ママはいつもテレビつけっぱなしだ。ぼくがテレビみないで、ちがうことしてあそんでいたらおこるくせに。

 パパがこたつにはいってきた、「えい!」パパのあしにパンチ!

「かつき!」

 パパがぼくのなまえをよんで、ぼくはひきずりだされた。

 でもそのてはやさしくて、やっぱりパパだった。

 パパはあおむけになってこたつにはいって、ぼくはそのおなかのうえにのったよ。

 パパがあそんでくれるじかんだ。いつもそうだった。ごはんができるまで。

 ぼくはパパにおはなしをしてほしかった。もう、えほんはママがしてくれるから、ちがうおはなしがいいな。

「パパ、おはなしして」

「いきなりか。そうやな、しばらく遊んでやれんかったからな」

 パパのことばは、ママやぼくやバーバとはなんかちがう。テレビとかでおもしろいひとがしゃべっていることばだ。パパもおもしろいひとのなかまなんだとおもってた。

「お話やったらなんでもええんか?」

「うん」

「何から話そうかな。でもかつきには難しいややろな」

「いいよ、パパ、むずかしくても」

 ぼくはパパがおしゃべりしてくれるだけでうれしい。こうしてパパのおなかのうえにのっているだけでうれしいんだ。

「パパしばらくおらんで、ごめんな」

「さみしかったよ、パパ」

 パパはぼくにあやまった。

「東京、ってところに仕事で行ってたんや」

「おしごと?」

「そう、お仕事。それも終わったから帰ってきたんや」

「じゃあ、ずーっといっしょにいるんだね」

「おう、ずーっと一緒におるよ」

 ぼくはうれしかった。パパがずーっといっしょにいてくれてあそんでくれる、

「ねえ、パパ、いろんなおはなしして」

「絵本読んで欲しいんか?」

「えほんは、いいよ」

「どんな話? 面白い話? 悲しい話? 怖いはなし?」

「こわいはなしがいい」

 おはなしはなんでもよかったけど、ぼくはパパにこわいはなし、してっていった。ママやバーバはこわいはなししてくれないもん。

「怖い話か… さすが俺の息子やなぁ。変わってるわ。よっしゃ怖い話したろう。けど、子供やからあんまり意味わからんかもしれんなぁ」

「いいよ、パパ、わからなくても」

 パパといっしょにいるだけでいいんだ。ママもいっしょにいればいいのに。

「かつきほんまは怖がりなくせに、よう怖い話とか好きやな。俺も、怖がるかつきを無理矢理、お化け屋敷とか連れていったり、わざと怖いテレビ見せたりしてたけど、怖がりながらも好きなんやな。俺の子供の頃にそっくりや。今でもパパは怖がりやけどな。そうややな、パパの子供の頃の話してやろ。かつきは今、どこに住んでるか知ってる」

「うーん、わかんない」

 いえのことかな。

「富山県ってゆうんや」

「とやま…け…ん」

「そう。ほんでパパの生まれたのは大阪府」

「お・お・さ・か」

「そう、大阪のな、西成ってとこやねん。けど、実際はその西成ってとこに住んでたのは小学校行くまでやから、六年くらいかなぁ。ところどころの強烈な印象しか覚えてへんからな。パパは昭和四十五年生まれや、万博の子ってよく言われたな。その頃の大阪人にとっては万博の年っちゅうもんが、生活に強烈な印象を与えてたみたいや」

 パパのはなしはどんどんむずかしくなってくるけど、ぼくはじっときいていた。きっとこれからこわいはなしがはじまる。そうおもうとわくわくしていた。

「西成区っていうのは、本当に汚くて怖いと思われている街やった。今でもそうなんやろな。盗み、殺人、恐喝。そんなん当たり前。やくざと浮浪者の集まりみたいな所や。その中でも、飛び抜けて変な人間が集まるところにパパは生まれて住んでたんや。物心ついたときはもう、お母ちゃんはおらへんかった。周りのおっさんたちはパパやパパのお父ちゃんにからかいがてらこう言った。

(お前のおかあちゃんは銭湯に行くって言うて、そのまま帰ってこんかった)

(きっとどっかのパチンコ屋でも働いてるんとちゃうか)

(まあ、父ちゃんが父ちゃんやからな。酒呑んだら(てぇ)、つけられへんからな。お前が生まれる前、妊娠しとったけど、その母ちゃんを階段の上から突き落としたからなぁ。それで流産や。その後、すぐお前ができたけどな)

 パパは大人たちの中で、酒さえ飲まへんかったけど、するめとかホルモンとか食わされて生きとった。

 不思議なことにお母ちゃんと三歳くらいまでは一緒にいたはずなのに、お母ちゃんと一緒にいた記憶は一切ない。顔も全然覚えてへん。まあ、子供の頃の記憶なんて、わからんもんやけどな。

 せやけど、パパは産まれる瞬間の事は覚えてるねん。かつきは生まれる時のこと覚えてるか?」

「うまれるとき?」

「そう、ママのお腹から出てくるとき」

「かつき、ママのおなかからなんかでてきてないよ。かつきはかつきだよ」

 パパはへんなことをいいました、かつきはきがついたときから、かつきだったもん。ママのおなかになんかいないや。

「えっ? じゃあ、かつきはどうやって生まれたん?だって、わんわんや、にゃんにゃんかてお腹から生まれてくるやん」

「いや、いや、かつきはおなかなんかにいない」

 なんかかなしくなってきた。「きっと、たまごだよ」

 きっとそうだ。

「はは、卵か……それはええ。けど、パパは間違いなく母ちゃんのお腹や。お腹から出てくるとき、なんか暖かくて、赤くて、ほんで血の臭いが臭かった。なんかそこから早く逃げ出したくって、こう……どろどろしたプールを掻き分けて掻き分けて、空気の吸える場所、光の見える場所を求めて探して、肉を掻き分けて、腸を足で蹴飛ばして、やっと外が見えて……おかしいやろ、普通、そんなこと覚えてへんやろな。けど、パパの記憶にははっきりと生まれたときの記憶が刻まれてるんや。けど、不思議なことに、そのあと抱かれたはずの母ちゃんの顔も温もりも覚えてへん。そして、何でか生まれたあとの記憶は急に、二帖くらいの安アパートに一人取り残されているシーンになったんや。

 保育園なんか行かされてへん。かつきはママが仕事行ってる間、保育園行ってるやろ」

「うん! ほいくえんすき!」

「友達いっぱいできた?」

「うん、やっちゃんとか、けんちゃんとか、なかよしだよ」

「よかったなぁ。パパにはそんなもんおらへんかった。金がなかったんか、男手一人で育ててるのが恥ずかしかったんかわからへんけど、保育園にも預けずに、パパはずっとアパートの部屋にほったらかしやった。本当に二帖くらいのアパートなんよ。裸電球がぶら下がっていて、布団なんか布っきれかわからんもんに包まってた。

 ごはんも食べさせられてたんやろか?そのアパートであんまりうまいもん食べてた記憶はないな。朝になったら、お父ちゃんがいなくなって、昼も帰ってこなくて、いつ帰ってくるかわからんで、不安とひもじさに泣きながら、おもちゃとして与えられてた、紙芝居セットみたいなやつを読んで、まぎらわしてたな。お父ちゃんがおらん間は、ただ待ってるだけしかでけへんかった。

 そういうアパートやからな。風呂なんてあらへんし、トイレもガスも共同やったよ。ガスが共同ってゆうのわな、なんでこんなこと覚えてるかわからへんけど、薄暗い廊下の奥に、水場があって、そこにガス台が並んでるんやけど、コインを入れる場所があって、コインを入れたら、多分、何分間か火がつくんやろ。コインっていうても直接お金やなくて、大家さんから、五円玉みたいなコインを買って、それを入れたら火が点くんやろな。なんかそんなどうでもいいことは覚えてるんや。

 せやからお湯とかは沸かせたよ。周りの大人が教えてくれたからな。

 アパートも出入りが激しくて、今みたいな敷金、礼金があっての月払いとかとは全然違う。あれは多分、日払いやったんやろな。言ってみればホテルみたいなもんや。その代わり金が払えんかったらすぐに追い出される。

 実際、パパは西成を出る前までは、いろんな所に寝た記憶がある。

 本当に金がなかったんやろな。

 一番覚えてるんは、冬の寒いときに、寝るところなくて材木置き場みたいなところで、ブルーシートみたいなもんに包まって、お父ちゃんに抱かれて寝てた覚えがある。朝になったら夜露が顔についてて気持ち悪かった。父ちゃんは(ここで待ってろや)と言って、しばらくどこかに行った。俺もそうするしかなかったので、じっと言いつけ守ってたんや。そしたら帰ってきて、袋に入ったパンの耳を食べさせられたわ。買うてきたんか、貰うてきたんかはわからんかったけど、

 そんなんでも、生きてこられたんや。不思議やな。

 何でお金なかったんやろな。自転車だけは持ってたから、パパはよく父ちゃんの後ろに乗せられて移動してたよ。ある夜は寝床を探してうろうろしてたら、ちょうど、開いてたタクシーのドアとぶつかってなぁ。わざとかどうか知らん。多分、わざとぶつかる知恵はなかったと思うけど、そのあともめて、結局、何千円かせしめて、しばらくアパートに住めたみたいやった。

 父ちゃんは結局、どんな仕事してたのか今でもわからん。

 西成を抜け出して、小学校に行った頃ははっきりしてるよ。

 ただ、西成にいるときは何してたのか、なんとなくわかってるけど記憶がとびとびやから、どの時期に何をしてたんかようわからんかった。

 ラーメン屋の時期もあった。屋台をひっぱって、その屋台の上に乗ってた覚えがあるけど、記憶が短かったから、少しなんやろな。鶏肉……かしわって言うんやけど、それを捌くのが得意で、そういう店にも勤めてた。

 けど、結局、長続きせんかったんやろな。それが、本人の酒のせいか足が悪いせいかわからんかった。多分、足が悪かったから、思い通りに事が進まんで、酒に走ったんやろな。

 そう、お父ちゃんはもう、俺が生まれたときから足が悪かった。多分、左足やったと思う。いろんな差別用語があって、よくからかわれるときはそういう言葉で呼ばれてた。今となってはよく覚えてへんけど、手術とかしたら治ったんかな? 多分、無理やったんやろ、後から聞いたら、子供の時からそうやったらしいから。

 だから歩き方が変やったよ。びっこをひくって言うけど、靴とかではなく、いつもサンダルみたいなやつ履いてたから、足音で近づいて来ることがわかったんや。

 けど、西成ってゆうところはそれでも生きていけた。

 いや、もしかしたらそういう人の集まりなんかも知れん。

 西成ってゆうても広いから、電車の駅もあって、商店街もあって、普通に生きてる人もおる。パパの住んでた場所がそういう人たちの集まりやった。地名でゆうたら天下茶屋っちゅうとこから、新今宮っちゅうとこまでの間や。確かその中にあいりん地区っちゅうんがあったはずやけど、ずいぶん昔の話やから、ようわからん。

 手の無い人。

 片目が真っ白の人。

 顔の半分以上がやけどのような跡で占められている人。

 髪の毛がないおばちゃん……

 今考えると、そんな人と、ヤクザと、身体は丈夫やけど、なんか悪いことして逃げてきた人と、そんな人達に物を売る人と……そんなんばっかりやった。

 そんなんやから、ちょっとだけ生活レベルの高い人は結婚するけど、父ちゃんみたいなパターンはあまりなかったみたいや。仕事もちゃんとしてないのに、結婚して子供生まれて…… まあ、結婚したときは、ちゃんと働いてたみたいやけどな。天王寺にある近鉄百貨店か阪神百貨店か忘れたけど、そこで鶏肉を売ってたらしい。

 それから、片足が悪いのが原因か、本人がちゃんと仕事せえへんのが原因がわからんけど、西成暮らしになったらしい。

 周りの同じような生活レベルのおっちゃん達は結婚なんかしてへんかったもん。多分、今どれくらい生き残ってるかしらんけど、一生、結婚なんてできへんのんやろ。

 そもそも、若い女自体、あんまり見ることもなかったもんな。

 西成でもパパのいたところは、怖くて普通の人は近寄らん場所やった。無法地帯なんやろな。今ではどうか知らんけどな。

 今はホームレスっていうけど、まあ、普通に家の無い人がふらふらして、昼間っからいろんなとこで寝てた。

 金をもったら酒を飲んで、博打をしてた。今はどうかしらんけど、道端で平気でみんな、どんぶりにサイコロを振って、金を賭けてたんや。夜はパパも何回かお父ちゃんに連れて行かれたけど、ヤクザの賭場みたいなもんがどっかのアパートで開かれて、そこで花札をしとった。カブっちゅうやつやな。カブ札は花札みたいな華やかさがなくて、子供心になんか、おどろおどろしとったんを覚えてる。そんな大人達が日中する仕事っちゅうたら、基本は力仕事や。

三角公園ていうのがあって、近くに商店街があって、商店街を挟むようにもう一つ公園があった。そこをみんなは四角公園って呼んでたけど、正式名称は知らん。その延長線上に丸公園っていうのがあったけど、丸かったかどうかも覚えてへん。三角公園が正式名称かどうかは知らんけど、西成の住人は自分の好きな呼び名で呼んどった。

 丸公園からまっすぐ行くとその辺は(あいりん)って呼ばれてた。

 そこに行ったら、日雇いの仕事があったり、戦争中でもないのに、炊き出しとかあって、お粥みたいなもんが食べれた。けど、そういう仕事はたいていが力仕事や。歳を考えたら、お父ちゃんは当時、二十代後半やったはずやから肉体労働もできたはずやけど、なんせ足が悪かったからな。

 結局、お父ちゃんのやっとった仕事っていうのは、拾ってきたものを売る仕事やった。

(古物商)ってお父ちゃんは言ってたけどな。店舗なんか構えてへん。拠点としてるのは四角公園の一辺や。逆側一辺は西成警察署って言う、怖い警察署があった。鉄格子の窓が公園側に向いとって、いっつも変な叫び声が聞こえとったわ。

 そういう場所でも、しょば代とかいるんやろな。親方みたいな人がいて、お父ちゃんは平日はせっせと、粗大ごみとかから、売れそうな物を拾ってきてた。

 自転車の後ろにリヤカーつけてな。足悪いのに、なんでそんなパワーあるんやろって今になったら思うけど、子供の頃はそんなこと考えへん。普通やった。

 半分くらいは、一緒にごみ拾いに連れて行ってくれた。給料とかもどういうふうにもらってたのかわからんけどな。公園の囲いのところにリヤカーがあって、その土日に売れそうなもんはそこにしまってある。他の物は倉庫があって、そこにしまいに行く。

 そういう店が西成にはいっぱい並んでた。

 せやから土日はまだ良かった。

 お父ちゃんがござを敷いて、売ってる横で手伝いができたから。

 子連れで売ってる店なんて滅多にないからな。大人らが面白がって近寄ってきた。

 売ってたもんっちゅうたら、ほんまに拾ってきたもんばかりや。服からベルトから、時計、古銭、レコード、電化製品、本、置物……なんでもありや。値付けもええかげんなもんでな、言い値で売ってた。百円で売るもんが多かったけど、テレビとかプレーヤーとかで直して売ってるもんは元手が掛かってるから、ちょっと高く売らんとあかん。お父ちゃんも多少直せたけど、今考えたら、親方がそうゆう技術を持ってて、商売ができるんやろな。今は何で捨ててしまうけどな。

 子供ながらに欲しいおもちゃ……そうやなボウリングのゲームとか輪投げとか、自分の欲しいもんもあったけど、売ったらお父ちゃんが喜ぶから、ほんま、ちっさい身体で、よう声出しとったよ。

 多分、月給とかや、なかったんやろな。それやったらもっとちゃんとしたとこに住めたし、ご飯も食えたんやと思う。売れた金額から、いくらか貰ってたんやろ。

 親方も一緒におるからちょろまかすこともでけへんかったんやろ。

 せやから、店を開く日は、おいしいもんを食べられた。

 ほとんどはお父ちゃんの酒代で消えていくけど、俺は店が開くのが待ち遠しかった。

 周りも店がいっぱいあった。

 一〇〇円のお好み焼き屋台やら、夏は西瓜とか売ってたり、同じような拾ってきたもんを売ってる店もいっぱいあった。

 おいしいもん食べれるってゆうても、前にあるいっぱい飲み屋みたいなところに連れて行かれて、枝豆やらすじ煮やら、おでんやら……おでんは関東炊きって言って、たこの足とか、コロっていう鯨の皮ぎしの部分が入ってたなぁ。

 たこ焼きも当たり前のように百円やった。

 西成ってそういうところやった。

 そんなうらぶれた街の、ほんとうにうらぶれた部分に一人ぽつんと、幼い子供が生きてる。みんな珍しかったんやろな。面白がって、からかったり、お菓子をくれたりした。

 そりゃ、珍しかったやろ、幼い子っていうのは大体がお母ちゃんと一緒にいるもんや。

 けど、その辺は若い女は怖くて寄り付くような場所やなかった。

 歩いてたとしたら、ヤクザの関係か、気が狂ってるか、家出かや。

 あとは、もう、どうしようもないおばあちゃんか、男の集まりやった。せやから、幼い子供もあんまりおらへんのやけど、中には、お父ちゃんみたいに小さい俺を育てる人間もおったわけや。これが、お母ちゃんとかやったら、また違う仕事で、違う場所に住んどったんやろ。

 ほんまに、西成は汚い街やった。

 こんな難しい話ばかりしてごめんな。

 全然、かつきにはわからんやろうけど、何か急に全部話したくなってしまったんや。パパの昔を。これはママにもゆうたことないし、誰にもゆうたことない。かつきとパパの秘密や。これから怖い話になるからな。

 とにかく汚い街やった。

 住む場所が、あったりなかったりしてる人間が密集してるんや。便所も何もかも、その辺でするわな。それでも、道路の真ん中ではせえへんけどな。

 店を出すときは、まず、公園の外壁の溝を掃除するところから始めた。

 竹箒をお父ちゃんが持って掃いとった。

 何でかと言うと、平日はそこにはリヤカーや屋台が店じまいの状態で置かれてるんや。

 もちろん盗まれへんように、ブルーシートとロープでぐるぐる巻きやで。

 今考えると、簡単に盗めそうやけど、それだけで誰も盗めへんかったな。暗黙の了解やったんか、親方がヤクザみたいやったから怖かったんか知らんけど。

 とにかく平日は店が開いてなかったので、大人らは大抵、その溝でおしっこするんやな。大便まではそこではせえへんけど、それが溜まりに溜まって、臭くなって。せやから西成の街はいつも小便臭かった。

 小便の集まりや。ずっとほったらかしやったら、やばかったけど、週一回、店を出すために掃除するから、そこの溝はそれほどでもなかった。

 ばけつに水を汲んできて、溝に流して竹箒でなぞる。中にはごきぶりの死骸や、ねずみの死骸もおるよ。夏なんかもう、大変や。汚くて。

 そういう汚い仕事も、お父ちゃんは平気でやっとった。

 平気やなかったんかもしらんけど、食べるためにやってた。

 夏は蝉も飛んでたけど、ごきぶりもよう飛んでたな。電柱から電柱へ飛ぶんや。今考えたら恐怖やな。夜は蝙蝠がいっぱい飛んどった。

 大人になってから、蛆虫なんか見ることもないけど、公園には普通におった。住む家のないやつは、公衆便所で大便するんやろうな。公衆便所にいったら、鼻をつんざくアンモンニアの臭いと、大量の蝿。

 今のデパートのトイレとかは自動的に流れるけど、昔の公園の公衆便所なんかそんなもんあれへん。ただ、溝があってそこに小便するんや。

 今の話は小の話やで。何でか大のほうの記憶はあんまりあれへんけど、水洗やなかったんとちゃうかな。

 とにかく、その壁っちゅうかなんちゅうか、小便する壁には気持ちの悪い蛆虫がびっしり張り付いてるんや。けど、子供の頃はそんなに怖くはなかったな。面白がって小便かけてたわ。

 そんな汚い街やったけど、今となっては失われてしもうたええもんはいっぱいあったよ。

 夏になったら、いろいろ売りにくるのが子供ながら楽しかったし、面白かった。冷やし飴っていう飲み物や、ワラビもち。これは冷たい氷水の中に沈んだワラビもちをおっちゃんが網ですくって、水を切って、きなこをかけるんや。アイスクリームやさっき言うた西瓜な。これは塩をたっぷりかけて食わなあかん。西瓜の皮が詰め込まれたゴミ箱にはなた、ごきぶりがようさんたかる、たかる。

 お好み焼きも含めて、大体が五十円か百円で食べられた。

 毎日お祭りみたいなもんやな。店舗を構えてる店は毎日商売してたからな。

 土日はそれに露天商が増えて、活気はあったよ。戦後の復興とか見たことないけど、多分あんなもんやったんやろうなあと思う。

 けど、今のほうが肉だけはまともなもん食べれるな。

 牛肉なんてあったんやろか? 大抵は鶏肉か豚肉やった。それもとんかつとか焼き鳥とかじゃなかったな。

 豚はホルモン。牛もホルモンやったんやろな。ホルモンがごちそうやった。内蔵のことやな。

 鶏も……よく考えたら内蔵ばっかり食わされてたな。

 玉ひもっていう部分があって、未成熟の卵がくっついてるんやけど、それを甘辛く煮たもんを、よく食わされとった。

 肉のおいしい部分はみんな、金持ちが買うんやろな。貧乏人はそんなもんしか買われへん。カルビとかロースとかそんなもん食われへん。

 冗談抜きで犬や猫も食うてた。今では中国とかで食ってて、嘘やろーって噂話みたいなこと言ってるけど、実際食べてたんや。赤犬。

 その二帖くらいのアパートにいる頃や。

 平日は、外では何も食われへん。そこで、父ちゃんの帰りを待って、パンを食べたり、肉を買ってくることができたら、それを捌いて、酒のあてのような料理をお父ちゃんが作る。フライパンとかなかったから、ほとんど、煮物か網でめざしを焼いたりしてた。

 ごはんは鍋で炊いとったよ。

 お父ちゃんはなんかしらプライドがあったらしく、自分は調理人やと思ってた。本当は調理人したいといつもゆうてたけどな。だから、出刃包丁とかは持ってたんやで。鶏を捌くのが本当に好きで、ちょっとお金が入ったら、丸ごと一匹買ってきて、水場で首をちょんぎって、羽むしってばらばらにしてた。

 子供ながらに皮の刺身が一番おいしかったのを覚えてる。刺身っていっても、虫がおるから、表面をあぶるんやけどな。それを砂糖とわさびを混ぜた甘辛醤油で食べるんや。首の骨まで煮付けにして、隅々まで食わされた。

 俺が住んでたアパートの両隣におった人のことは、今でも覚えてる。

 片側は片方の手首がないおっちゃん。右か左かは忘れた。このおっちゃんは犬を連れてた。犬飼っても良いとか悪いとか関係なかった。部屋に入れるわけやなく、みんなが通る外廊下につないでるだけやった。

 特に大声で鳴くわけでもなく、おとなしかった。

 最初は怖かったけど、共同トイレに行った帰りとか絶対に会うしな。頭撫でてるうちに可愛くなって、犬と会うのが楽しみやった。

 戸開けたらそこにおるからな。会いたかったんやけど、その手のないおっちゃんが怖くてな。犬をさわったら、絶対、怒られる。仕事してるのかどうかしらんけど、いつもおるんや。土日の仕事なんか、夜中の仕事なんかわからんけど、安定して部屋には住んでたみたいやった。

 テレビの音が聞こえたらおる証拠や。

 今でゆうたら柴犬っぽい犬やな。けど、柴犬なんてその街にはおらんかった。全部雑種で、赤かシェパードっぽい黒味がかった犬や。

 その隣の犬は赤犬やった。

 そんな大きくなかった。ごはんはおっちゃんの食べ残しをもらってるようやった。味噌汁みたいなやつぶっかけてな。

 昔の犬や猫はみんなそんなごはんやったんよ。

 ドッグフードなんてあったかも知らんけど、少なくともその街では売れへんかったやろうな。犬用のごはんなんかだれも買わへんって。

 首輪なんかしてなかった。麻でできたような紐で直接首を縛ってたんや。

 何でおっちゃんが犬を飼ってたか。ある日、わかった。ペットとしてやなかったんや。

 時計なんてあらへんかったけど、夕方やったんやろな。なんとなく覚えてる。お父ちゃんはおらへんかった。

 隣で何かしたら音ですぐわかる。隣の戸がガラガラって開いた。玄関なんてあれへん。戸を開けたらすぐ廊下や。だから、靴とかは部屋に入れとかなあかんねん。盗まれるからな。

 俺は、ぼーっとして音を聞いてた。

 ごそごそして、戸を閉める音。その次にはキャンともギャーともわからんけど、断末魔の悲鳴が聞こえたよ。

 あの犬や。

 幼心に、隣で殺されてるって気づいたな。

 怖くなって、布団の中で縮こまってた。

 声は一瞬やったけど、犬一匹捌くのは時間がかかったんやろ。

 隣のごそごそはかなりの時間続いた。それとテレビの音が重なって、余計に怖くさせた。

 しばらくして、また戸がガラガラと開いて、今度はおっちゃんが廊下に出る気配がわかった。

 いややな……うちに来たら。

 お父ちゃんの言いつけ通り鍵はしてある。鍵って言っても、小さな閂みたいな簡単なもんやから、本気で壊そうと思ったらすぐ壊れるけど、おっちゃんはゆっくりとした影の余韻を残して前を横切っていった。

 わかってる。そこには共同の水場とガス台がある

 おっちゃんは料理をするんや。

 俺の怖いもん見たさはそのときに始まったのかも知らん。

 何を見たかったんか知らんけど、犬が殺されたっていう事実を確認したかったんやろな。

 おっちゃんが通り過ぎてってからしばらくして、俺は鍵を開けて自分の部屋から出て、薄暗くて冷たい石のような廊下を歩いて、水場に向かって行った。

 ガス台が何台あったのか覚えてへんけど、おっちゃんはガスに鍋をかけて、水場でバケツを持ったまま何かしてた。

 後姿のまま、わけのわからん演歌を歌ってた。

 血を洗い流してたんやろうか。

 何で肉を煮てるんか知らんけど、醤油入れたらそれなりの臭いがする。けど、多分醤油はいれてなかったんやろ。無茶苦茶臭かった。

 おっちゃんの足元に、金物のバケツが置いてあった。そこから何かがはみだしてるのが見えたんや。見んでもええのに、怖いもの見たさやろな。

 おそるおそる近づいたらそこには……

 赤犬の生首が舌をだらんと垂らしてはみだしてた。

 顔は食わんのか……と子供ながらに思ってた。どんどん近づくと、おっちゃんが俺に気づいた。犬を触ったら怒るおっちゃんが何故か、機嫌よかった。

 大きめのでこぼこの鍋を煤けた割り箸でかき回してた。

(おっ! なんや腹減ったか? 肉食わしたろか?)

 前歯がほとんど無くなった顔のおっちゃんは振り向いて、俺に、にやって笑ったんや。片手ないのに、器用に料理するもんや。鍋は両手鍋やったけどどうやって持ってたんやろな。

 俺は肉のことより、バケツのほうが気になってたんや。

 おっちゃんが声を掛けたことによって、バケツに近づいてもええ権利ができたと思った。せやから(肉食うか?)には返事せんと、その代わりにバケツに近づいた。

 よく見ると、目のあるべき部分が黒ずんで、血の染みが涙のように筋をになってたんや。

 それも赤くはなかったな。もう、黒くなってた。

 なんとなくやけど冬やなかったな。おっちゃんもランニングシャツやったし、バケツには蝿がいっぱいたかってた。どっちかって言うと夏やったと思う。

 生首の下には何があるのか気になって覗いたけど、そこには何かどろどろとした、塊があるだけやった。毛をどうやって剥いだんかわからんかったけど、バケツの中には細かい赤毛がいっぱい散らばってた。

(何やそんなもんが気になんのか……変わった子や。まあ、親父も親父やからな)

 おっちゃんはそんなこと言ってた。

(このアパートにおるやつはみんな狂ってるからな。坊主くらいの歳でこの辺に子供がおるのも珍しいからな。普通の親やったらこんなところに近づけへん。まあ、坊主の親父はこういう場所で住むしかなかったんやけどな。ほんなんやったら、子供つくったりそんなまともな生活しようとしたらあかんわな)

 そんなふうにゆうて、おっちゃんは笑って、洗い方が中途半端やったんか、濡れて、臭い血がまだ付いてて、片手のない両手で起用に俺を抱き上げたんや。

 片方の手首から先は丸まっていて、何もない不思議な棒やった。肉が中に詰まってる棒や。それがおっちゃんの片手やった。

 その棒の先の部分が俺の脇から、にょっと出てきて気持ち悪かったけど、俺は抱え上げられて、鍋の中を覗き込んだ。

 まあ、普通の肉やったな。

 けど、その臭さはたまらんかった。ホルモンとかも臭いけどな、犬はもっと臭い。何か臭みを消すもん入れたらええのにな。その時はまだ途中やったからな。後から醤油とかで味付けしたんやろ。どんな完成品かわからん。結局、食わんかったはずやし、出来上がった料理をみた記憶もあらへん。

 ただ、びっくりしたのは、鍋の中、ふつふつと湧き上がってる犬肉の出汁に踊ってたのは、二つの目ん玉やった。

 ぷるぷるとしたゼラチン質に包まれて、鍋の中を転がってたのは紛れもなく昨日まで可愛がってた犬のはずやったけど、もう死んだ目やったから、面影とかは感じんかったな。

 それより何でその肉食わんかったか思い出した。

 俺は床に下ろされて、おっちゃんは歌を歌いながら生首入りのバケツを持った。

 そのまま、水場の奥の戸に近づいた、その横には二階に上る階段があって、二階にも住人がいることを改めて思い知らされたけど、おっちゃんは立て付けの悪いその汚いガラス戸を表に押して、開けた。

 そこから外に出れるみたいや。そういう場所を初めて知った。

 パパもかつきに似て、怖がりやったからな。お父ちゃんがおらん時は、部屋か水場か共同便所しか行かんかった。共同便所はアパートの入り口の方にあったからな。

 どういうアパートかって言うと、入り口があって、入ったら細長い路地みたいになってて、右側に部屋が並んでるんや。その一番手前が共同便所やな。男も女もあれへん。

 左側は壁。路地の突き当たりにガス台があって、道は右に折れる。ガスの並びに水場やな。水道が並んでて、その奥に今の戸があって、階段がある。上はどうなってたんか行ったことなかったからわからん。

 いかにも怖いお化けが住んでそうやった。怖がりやったけど、怖いもんは見たかった。せやけど、お父ちゃんがおらん時に、一人で真っ暗な闇の中に飛び込む勇気はあらへんかった。

 おっちゃんが戸を開けたら、一気にわけのわからん虫がその廊下に入ってきた。蝿やらごきぶりやら、気持ち悪かったよ。

 けど、おっちゃんがバケツを持って、一歩踏み出したんや。今やったらぜったいそんなことせえへんけどな。子供の頃やったから気になってついて行った。

 ……って言っても戸の近くに行って、何してるか覗いただけやけどな。

 自分の顔にたかる蝿を追い払って、何してるか見たよ。

 どうやら、そこはゴミ捨て場になってたらしく、外なんやけど……なんか路地のまた奥みたいな不思議なスペースで、夕方やったけど、まだ陽は落ちきってなくて、明るかった。手前の壁際。要はガス台とか水場の向こう側の壁やな。

 ゴミ袋みたいなんは一つもなかったけど、ごみ捨て場やった。

 生ごみばっかりなんやろな。なんか、黒と白と赤が混ざり合ってどろどろとした空間やった。

 魚の骨とかもあったし、何かわけのわからん肉の塊もあった。

 高さ三十センチくらいの板っきれで申し訳なさそうに囲ってあって、そこにみんな生ごみっちゅうか……なんか汚いもんを捨ててるみたいやった。

 まあ、今から犬の残骸を捨てようとしてるところやったけど、そこにはすでに猫の塊やったようなもんもあったし、赤は血の赤やった。

 黒はそれが腐った色。

 時には腐ったもんは白くどろどろしたもんに変化して、それに山程の蛆虫が動く米粒のようにうねうね這ってた。

 もう、蛆虫なんかみみずなんか、わからん幼虫のような虫がいっぱいやったで。

 カラスも飛んできてたけど、そのゴミ箱みたいな中にはカラスの屍骸もあった。

 やっぱり夏やったな。アパートの中は薄暗くてじめじめしてて、そんなに暑くなかったけど、戸を開けたら熱気と虫が俺の顔を襲って、汗がだらだら流れでたもん。

 おっちゃんは臆することもなく、そこに足を踏み出して、草木に水でもかけるかのように簡単に、バケツの中身をぶちまけた。

 びちゃびちゃって音をたてて、赤くて黒くてぬらぬらとした臓物が新しい、生ごみの層を作った。そこにまた、カラスが近寄ってくる。

 どっからか、殺された赤犬くらいの大きさの犬が二匹近寄ってきた。やせ細った野良犬や。一匹は背中が黒くて、それ以外は茶色。もう一匹は多分白やったんやろうけど、汚れて何色かわからへん。どっちもやせ細ってて、犬とはおもわれへんけど、その臓物を食べにきたんやろな。犬もそうせんと生きていかれへんからな。

 それを見て、俺は怖くなって逃げ出して、自分の部屋に戻ったよ。

 多分、お父ちゃんが帰ってくるまで、布団に包まってぶるぶる震えてたんとちゃうかな。

 隣でごそごそしてるおっちゃんが肉汁をすすってるのが手に取るようにわかって、無茶苦茶怖かった。

 そん時はちゃんと味付けしたんやろな。醤油みたいな、濃い臭いがアパート中を漂ってた。俺が食わんかったから、誰かにおすそ分けしたんかもしらんな。

 自分も腹が減ってたけど、とてもそんなもん食べる気にはならんかった。

 ただ、お父ちゃんに帰ってきて欲しい。

 それだけを一心に願ってた。

 大分、遅くなって帰ってきたんやろな。俺は泣きつかれて寝てて、お父ちゃんに起こされて、なんか食べ物買ってきてくれてて、それより俺はお父ちゃんにしがみついてて、(犬が……犬が)

 って叫んでたよ。まあ、子供やったからな。(わんこ)とか言ってたかもしらんけどな。

(犬がどうしたんや)

 お父ちゃんはいつも酔っ払ってた。結局、息子より酒やったからな。そういうときに俺が聞き分けのないことを言うと、機嫌がすぐに悪くなったんや。

(隣の犬が……殺された)

(犬? そんなもんおるがな)

(えっ?)

 お父ちゃんは面倒臭そうに戸を開けて、俺の首根っこを摘まんで、顔を出させた。

 今考えたら虐待やけど、お父ちゃんは俺が怖がることを面白がって、よう、怖いもんを見せた。

 せやけど汚れた床には新しい犬が寝そべってたんや。

 その日の昼まで赤犬がつけてた紐を首に無理やり括られて。

 それはごみ捨て場にきた、背中の黒い犬やった。赤犬の臓物を食うたんか、口の周りは真っ赤やった。

 痩せこけてて、何も抵抗する力なかったんか、脅えたような目で俺を見上げたんや。

 こいつが、また、喰われるんか。

 それから、俺は絶対に隣の犬は可愛がらんようになった。結局、その後も犬はころころ変わって、もう慣れっこになってしまった。それ以来、おっちゃんは犬汁を食えとは言わんようになった。

 もう片側の隣には、山姥が住んでた。

 俺は最後まで山姥やと信じとったけどな。

 お父ちゃんは手の無い人とは別にしゃべっても良さそうやったけど、山姥とはしゃべるなっていつもゆうてた。喰われてしまうからやと思ってた。

 山姥はいつも、ボサボサの白髪混じりの髪の毛を振り乱しながら、周辺を俳諧しとった。今考えると、山姥ってゆうてたのか、お産婆ってゆうてたのか思い出されへん。

 俺自身、幼心の中では、山姥やと思うてた。山姥の物語なんかその時、誰かから聞いたのかどうかわからへんけど、山姥っちゅうもんは子供をさらってきて喰うてしまう妖怪みたいなもんて信じてたからな。

 けど、あとあと考えたらお産婆なんかもしらへんと思うた。

(喰われる)という言葉が妙に生々しかったけど、やっぱりお産婆のほうが正しいような気がした。せやけど子供の時は山姥やと思ってたんやで。

 山姥はいつも浴衣なんか着物なんか覚えてへんけど、同じ服着てうろうろしてたよ。まあ、同じ服っちゅうたら、アパートの人間、みんなそうやったけどな。おしゃれとか関係あらへん。ただ、着てるだけで、風呂も入ってるかどうかわからへん。銭湯はいっぱいあったけどな。山姥は夏は奥の水場にたらいを持ち込んで、風呂に入ってるみたいやった。

 せやから、それも夏やったんやろな。そのアパートの強烈な思い出は、なぜか夏しかあらへんかった。

 山姥の姿を見たら、逃げろって言われてたから、いつもすぐに逃げてたけど、ほんまに包丁を持ってうろうろしてたんやで。

 ほんで時々、叫び声をあげては、近所に迷惑をかけてたけど、誰もしゃべろうとせんし、関わろうとはせんかった。そんな婆さんやった。今やったら人の歳なんて見たらある程度、予想つきそうやけど、子供のころは年齢って感覚はないから、若いかおばあちゃんかしかなかった。

 山姥は間違いなくおばあちゃんやった。

 山姥が通り過ぎたあとは、なんか……臭くて、なめくじが通ったあとみたいにぬらぬらと跡が尾を引いてく感じやった。小便でも漏らしてたんやろか。

 当然、隣やから、いろんな叫び声が聞こえてくるし、どん!どん!と壁を叩いてるんか蹴ってるんか、包丁で刺してるんか、わけのわからん音が聞こえてきてた。

 夜やったらお父ちゃんおるから、何かゆうてくれたけど、日中にされたらかなわんかった。まあ、日中は徘徊してるんか何してるんかしらんかったけど、あまりおらへんかったから、それほど頻繁やなかった。

 そんなんやから、なおさら、たまに一人で部屋にいるとき、隣からいろんな音が聞こえたら怖くてたまらんかった。テレビとかなかったからな。修理して使えるテレビは、全部、露天にだされたからなあ。白黒で室内アンテナのやつが三千円くらいで売っとった。

 ほんま、お化け屋敷みたいなアパートやったなあ。今、考えると。

 山姥がほんまに子供を食べることを信じてたかというと……

 ほんまに、信じてた。なんでかというと、見たからや。あれは強烈やった。

 今考えると、山姥がいつも持っとったのは、包丁やなくて、大きな鋏やったような気がする。茶色く錆びとったのを覚えてる。

 山姥が部屋の前を通ったら、すぐにわかった。気色の悪い笑い声で、誰にしゃべるんでもなく、怒鳴ってたからな。

 隣の手のないおっちゃんもおらん日やった。当然、お父ちゃんもおらへん。俺は腹をすかせてた。腹、すかせてへん日なんて一日もあらへんかったよ。ほうったらかしやからな。

 何か、ええ臭いがしてた。

 ガス台で誰かがなんかを作ってる。

 作ってるのは山姥や。それはわかってる。何回も部屋の前を行ったり来たりしてたからや。その度に、奇妙な声が聞こえとった。

 今でもはっきり覚えてるよ。

 廊下は、なんちゅうか……石でできた廊下やった。そやから、歩く音とか、物を落としたら、けっこう響いたんや。

 山姥は自分の部屋の前で何かを置いたんやな。

 それが鍋やってことは、何故か俺にはわかった。まあ、一回、下に置いた後に、部屋に上がってそれを取ると思ったんや。山姥もおばあちゃんやからな。

 そしたら、予想もせん事が起こった。

 鍋を置いた後、戸の開く音がせえへんかった。何を考えたかそのまま足音が遠くになって行ったんや。ガス台に引き返したんやったら、俺の部屋の前を通るからすぐにわかったけど、遠くになるってことは、入り口ってゆうか出口に向かって行ったってことや。

 料理かなんか知らんけど、食べ物を置いて、そのままアパートを出るなんて考えられへんことや。まあ、気が狂ってるおばあちゃんやから、何するかわからへんけどな。

 まあ、これは便所やなって思ったな。

 いったん部屋に鍋を入れてから行けばいいのに、山姥は廊下に置いて行った。それが常識では考えられへんことやけど、俺は、どうしてもその鍋が見たいと思った。

 子供やから好奇心は旺盛で、けど昔のことやから、それが犬鍋を見た後か先かもわからへん。ただ、その鍋を見たときは、反対側の隣部屋におるはずの犬はおったかどうか覚えてへん。おらんかったんか、おっても目に入らんかったんか。

 俺はゆっくり、音で気づかれへんように、ゆっくりと戸を開けて、首だけを隙間から出して、覗き込んだ。

 右側が手のないおっちゃんのところで、そっち側のほうがちょっと遠い。左側の山姥はすぐの場所にあった。

 廊下には電灯なんかあらへんかった。昼でも暗かった。けど、俺の部屋の裸電球と山姥の部屋の電球で照らされて、その鍋の中身が見えたんや。

 それは犬より強烈やったなあ。

 大きな両手鍋やった。でこぼこの犬のごはんでも入れるような鍋やった。ついさっき火から下ろしたんやろ、まだぐつぐつ煮えてた余韻を引きずって、湯気を立ててた。

 醤油の臭いか違う調味料の臭いかわからんけど、とにかく料理の臭いやったよ。

 おいしそうな臭いやった。

 その中身が赤ん坊やなかったら……

 もう、それを見たときは死ぬかと思った。どれくらいそうしてたんかわからへん。鍋の中に、茶色い汁の中に、風呂に入ってるかのように赤ちゃんが丸ごと入ってたんやからな。

 どこも切り刻まれてへんかった。まるまんまや。

 両手がちゃんとあったことも覚えてるし、目も開いてなかったけど、瞼が瞑っている線も顔にちゃんと二つあった。

 髪の毛がどうやったかも忘れたし、大きさも今となっては思い出されへん。

 ただ、その鍋の中におった赤ちゃんの姿だけは、脳裏に焼きついて離れへん。

 大阪では関東焚きって言う、おでんに絶対入ってた、たこみたいな色してた。汁も小豆色で濁ってた。今、考えたら解体はされとったのかもしらへん。胴体は汁に漬かってあんまり見えへんかったけど、手足は見えとった。その手足もありえへん方向に突き出してたような気がする。顔の近くに足があったような……。子供の頃の記憶やからな。俺は絶対にまるまんまやったと信じ込んどったけど、赤ちゃんと言えども結構な大きさやった。頭からかぶりつくなんて、妖怪か獣やなかったら無理やろ。山姥が少しでも人間やったら無理や。せやから、手とか足とか切り離されとったんやと思う。

 詳しく観察しとったわけでもあらへんけど、どうやら結構な時間が経ってたみたいや、気が付いたら、山姥が便所からでてきて、俺が覗き込んでるのを見つけた。

 何やらわけのわからん奇声をあげて、走ってきた。

 おばあちゃんやからそんなに早くなかったんやろうけど、子供にはすごく早く走ってるように見えたわな。

 俺はあわてて戸を閉めて、思いっきり開けたらなんとかなりそうな閂をかけて、必死に戸を押さえた。

 山姥はしばらく、(死ね!)とか(喰ったる!)とか怖い叫び声をあげては、戸をがたがたやってたけど、すぐに諦めて、さっき煮込んだ赤ちゃんを喰うたほうが得策やと思ったんか、部屋に戻ってった。

 怖かったよ。

 がたがた震えてた。

 隣では何かすする音が聞こえるし……。

 その夜はお父ちゃんにそのことを話したような気がするけど、無茶苦茶、怒られたような覚えがある。山姥かお産婆かわからへんけど、あいつには絶対近づくなって、何度も怒られた。

 大きくなって西成を出てから、お父ちゃんに山姥のことを聞いたことがあって、その時にやっぱりお産婆や、って説明された。

 西成にも産婦人科はあるし、結婚する人もいるし、子供も産む。けど、貧乏暮らしの人らばかりやからな、産まれてきたらあかん子供もおるし、どうしようもなく産んでしまう人もおる。山姥がそういう資格、持ってたかどうかしらんけど、大人になってやっと理解した、山姥はそういう(処分)せんとあかん赤ちゃんを(処分)してたんやないかって。それでいくらかのお金をもらって、処分せんとあかん赤ちゃんも貰う。

 これはほんまにに怖くて、恐ろしい話なんやけど……

 ほんまに……

 人の肉を喰らって生きてたんやろな、山姥は。

 赤ちゃん専門やったんか、大人の肉も喰ってたんかはわからん。けど、あの街は生きるためやったら、何を喰ってもおかしくない街やった。

 山姥がいつも持ってたのは、包丁やと思ってたけど、よくよく考えたら大きな鋏。多分、へその緒を切るためのものやったんやろな。

 ほんで、高校くらいの時に、考えたんや。

 俺も産まれるときは、あの山姥にお願いしたんやないかって。

 何で喰われへんかったんかわからんし、お父ちゃんも、顔も知らんお母ちゃんも、何で産まれてええと思ったんかもわからん。それがもしかしたら、お母ちゃんが出て行った理由かもわからんし、今となっては何があったんかもわからん。

 ただ、はっきりしてるのは、当時、あのアパート周辺で、俺くらいの歳の子供が生きてるって事が不思議やったし、たまに山姥が子供の俺に向かって言う罵声。

 (やっぱり、あの時、喰っときゃよかった!!!)

 その言葉が耳に張り付いて離れへんかった。

 たまに山姥は汚いビニール袋を持って歩いてた。多分、その中には胎児か産まれたての赤ちゃんが入ってたんやろうし、周りの大人も、何をして暮らしてるのか知ってたんやろ。けど、その連中の中では山姥みたいな奴も必要やったんやろうし、今やったら、警察とか調べに来るんやろうけど、当時は何か……無茶苦茶やったんやろな。

 暴動とかもあったみたいやけど、それは俺が産まれる前のことみたいやし。

 西成では、強いもんも弱いもんも、酒と小便にまみれて毎日を生きてた。

 証拠って言うても、山姥は赤ちゃんを腹の中に入れてるわけやし、川とかに捨てたらやばいけど、喰ってしまったら、証拠も残らんわ。

 もし、喰えへん内臓とか骨とかあったとしても、裏の残飯置き場に捨てたら、野良犬とカラスと蛆やゴキブリが分解してくれるわ。

 そんな街やった。

 俺はほんまに子供の時、ほったらかしやったんや。お父ちゃんは俺を育てるために、毎日働きに出てた……ってな感じやなく、酒のために毎日、ゴミや屑を拾いに行ってた。結果的に、何か食わしてくれとったから、育ててくれたことになるんやろうけど、食わしてもらってもお父ちゃんのことは好きになることはでけへんかった。それどころか成長すれば成長するほど、憎しみが増してったんや。

 ほったらかしやたから、俺はどういう風に子供の頃を過ごしたんやろって、考えたんや。当然、小学校に行くようになったら友達ができたから友達と遊ぶんやけど、それは西成を離れてからや。

 西成にいるときは、本もなかったし、字もだれも教えてくれへんかったし、大人達も学のある人間なんか一人もおらへんかった。

 紙芝居の裏の字を読んで遊んでたような気がするけれど、ほんまに読めたんかと思う。俺はこう思うんや。

 子供の頃、俺が一人でしていたことのほとんどは、頭の中で妄想をしてたんやなかったのかって。

 この癖は大人になってからも、続いてるし、実際、友達ができた小中学生のときも、みんなと遊ぶより、妄想してるほうが楽しかった。

 怪獣がやってきて街を破壊したり、そこにヒーローが現れて人類を救ったり。

 妖怪が町中を徘徊してて、時間と場所によって出会う場所が決まってる。その時間と場所を避けて歩かんとあかんのやけど、ある日、うっかり会ってしまうスポットに取り残されて、動くことがでけへんようになって、脅えて泣いて、お父ちゃんが迎えに来てくれるのを待つ。

 金縛りのようになって、周りには人っ子一人おらん。

 小便臭い風が路地を吹いて、足元から奇妙な虫が這い上がってくる感覚。客観的に見たら汚い子供や。服も着てるし、靴も履いてるけど、多分それはお父ちゃんが拾ってきた物やろう。

 洗濯機がないから洗濯もされず、胸の部分は色んな汚れを拭くから、かぴかぴになってしまっている。

 まあ、子供っちゅうんはそんなもんやけど、服が拾い物で、洗濯してもらわれへんなんて、今考えたら、普通の子とは違うわな。

 魔の刻に入ったっていうんか、路地の前も後ろも道は続いてていつもの景色なんやけど、そっちに進んでも何もないような気がする。

 そして、だんだん近づいて来るんがわかるんや。

 向こうの角に何かが近づいてくるんが。それはもうすぐ待ってたらその姿を現すんやけど、逃げられへん。見んとあかんような気がする。

 した! した!

 そんな足音が、水滴が土間に落ちるように耳の奥で響いた。

 俺は今、何かが出てくるであろう一点を凝視してた。ちょうど顔が出てくるであろう部分や。

 一瞬、赤くて細いもんが見えて、消える。最初は短く、それが次の一瞬現れるときには長くなって、現れる。

 しゅっ! しゅっ!

 なんでかわからんけど、そんな音が聞こえるようやった。

 それはゆっくりと姿を現した。

 鈍い色をした鱗と、死んだような目ん玉が顔を出し、最初は横を向いてたけど、それがゆっくりとこっちを向こうとする。

 子供の俺が叫んだのは(蛇や!)

 ってゆうてからの記憶がない。

 大人になっても、それは記憶として残ってるし、時々、夢でも見る。だんだん薄れていくけれど、強烈な部分だけは、断片的な記憶となり、恐ろしい部分だけが誇張されて残る。

 夢っちゅうもんを、寝たら見るもんと認識したのも、小さい子供の時やった。寝たら何でもできる。コントロールはでけへんから、怖い目にあうかもわからんけど、幼心にこの状態……お父ちゃんがずっといなくて、腹を空かせたまま帰ってこないこともある恐怖から逃げ出したくて編み出した方法が夢を見ることやった。

 けど眠くないときはどうしよう?

 それが妄想やった。

 せやから大人になってから、そういう子供の頃を過ごした自分に気づいて、記憶の整理が大変やった。

 妄想と夢は同じくくりでいいと思うから、今の蛇の話は、大人の俺の中では妄想の一つやったと片付けられた。

 けど山姥の話は現実やと思うし、隣のおっちゃんが犬を殺して喰ってた話も……

 いろいろ考えてると、どれが妄想やったか、現実やったかわからんようになったけど、理屈で説明がつかんもんは、やっぱり妄想にしてしまった。

 妄想癖は小学生になっても、中学生になっても変わらんかった。字を習うようになってから本も読むようになったし、妄想を紙に漫画で書いたり、文章で書いたりして遊んでた。

 時には妄想が夢の中に出てきたりして、それを現実やと思い込むような感覚もあった。

 寝てて夢を見んことはなかった。今でもそうや。

 一時間くらいの睡眠でも必ず夢は見るし、夢を見ん人の睡眠がどんなに気持ちいいもんかうらやましかった。それが熟睡っていうんやろ。

 ん?

 かつき。

 寝てるんか?」

「おきてるよパパ」

 ぼくはこたつのなかで、ふるえてた。

 パパのいってることはほとんどいみのわからないことだったけど、なんとなくすごくこわいはなしだとおもって、おめめをあけていたらこわいから、つむってきいてたんだ。

 パパはぼくがねてるとおもってたみたい。

「怖いんか?」

「こわいよー」

「ほんなら、もうやめとこか」

「やだ、やだ、もっとおはなしして」

 おはなしをやめたら、またパパとはなればなれになるようなきがする。こわいはなしでもいいから、パパのおはなしがききたい。

「ほんまに怖い話でええんか、変わった子やな」

「パパ、パパ?」

「ん?」

 ぼくはパパにききたかった。

「パパもわんわんたべたことあるの?」

「犬か……。

 子供の頃はそうと思わんかったけど、大人になって記憶を辿ったら、確かに犬の肉は食わされたような気がする。

 肉っちゅうても、その頃は変な肉ばかり食わされてたから、どれがそうかわからん。少なくとも今で言う、カルビとかロースなんかは無かったな。一番、食わされてたんが、焼き鳥かホルモンやろな。ホルモンも子供はあれ食ったらあかん。これ食ったらあかん、って言われて、なんかセンマイとかいうやつを酢味噌かけて食わされとった。

 当然、一杯飲み屋みたいなところや。

 鯨もその時は、貴重な肉やった。ベーコンの刺身、コロ、鯨の大和煮っていう缶詰。

 お父ちゃんは鯨の塊の肉を買ってきて、塩漬けにして、冬の寒いときに干して保存食みたいにするんや。それを電熱線がぐるぐる巻いた迷路みたいになってるコンロで焼くんや。

 塩鯨って呼んどって、寒くなったら必ずお父ちゃんは作ってた。

 今で言う、カルビとかロースなんかは、大人になってからしか食うたおぼえあらへん。酒のあてみたいな、貧乏人の食うもんばっかりや。

 せやけど、一回だけ、なんかしらんけど肉がずっと続いた日があったな。

 まあ、それも煮込みって言うか、どて焼きみたいなやつや。どて焼きってゆうたら、大阪では有名やけどな、すじ肉みたいなやつを甘辛い味噌で煮込んだやつや。

 西成や新世界では、そういう食いもん屋がいっぱいある。

 上等な肉やないけど、何日続いたんかはわからん。妙に肉を食わしてくれる日が続いてな。お父ちゃんも一緒になって食ってたのが印象的やった。

 今、考えると、あれが犬やったんかと思う。

 冷蔵庫もなければ冷凍庫もないからな。

 どういう風に保存してたんかはわからんけど、どっちにしてもはよ食わなあかんかったんやろ、焼いた肉も食わされたし、臓物の煮込みみたいなんもあった。

 その時はあまり感じんかったけど、今になって思うと、臭かったような気がする。

 臭い肉なんかあたりまえやったからな。妙にその頃はお父ちゃんがアパートにいてくれたような気がしたけど……

 今、急に思いついたけど、その肉ばかり食わされた時分な……なんとなく生まれてからすぐのような気がしてん。

 いや、そんなもん生まれてからすぐは肉なんか食われへん。

 俺は今のかつきみたいに、母乳飲んで、離乳食食べてとかいう順序辿っていったとは思われへん。なんでも食わされとったやろ。

 最初に、生まれたときの事、パパは覚えてるってゆうたやろ。赤くて血の臭いがして、何か、肉や内臓を掻き分けて出てきた記憶。

 それを生まれたと思ってるんやけど、まあ、小さい頃から空想癖がついてるから、どれが現実で空想かわからへん。

 けど、血の臭いから出てきた記憶は、いやに生々しくて、ずっと俺はあれが生まれたときなんやと思って生きてきた。

 ほんで、生まれてすぐに肉を食べたような気がするんや。

 なんでやろ。

 ところどころの記憶が、いろいろ飛んでるのはなんとなくわかってたんや。

 パパな、左足の甲に、火傷のあとがあるねん。

 これはな、なんかようわからんけど、夏に公園で花火をしててん。夏はおとうちゃんの露天もみんな雨さえ降らんかったら夜遅くまで露天商やってるねん。四角公園の周りやな。お好み焼きやもいっぱい飲み屋も、みんな電気ついとった。

 どういう集まりなんか今では覚えてへんけど、記憶があるのは子供も大人も集まって、花火をしとった。

 小さな公園やけど、中も周りも人はいっぱいや。

 みんな知ってるもん同士やけど、そう深くは知らん仲間や。

 誰かが何かやってたら人が自然と集まってくる。他の子供達は学校かなんかで顔見知りなんやろうけど、俺は保育園もどこにも行ってへんから友達がおらへんかった。

 俺は滑り台の下くらいで、線香花火かなんかわからんけど花火を持っとった。

 それがもう終り間際の頃、火の玉が足の甲に落ちたんやな。

 裸足てわけやなかったんやろうけど、多分、サンダルみたいなん履いてたんや。記憶にあるのは玉が落ちる瞬間と。

 泣きじゃくって、大人に抱えられてる場面。

 それだけや。

 けっこう大きな痕が残ってるから、小さな線香花火やないような気がするんやけど、今となっては何やったか思い出されへん。

 病院とか連れてってもらったんかな。

 金もないし、保険証もないし、行ってないんかもしらん。行ってたら、今、こんな目玉焼きみたいな痕にはなってへんやろ。

 ほうったらかしや。

 ほんま原始人みたいな生活やな。

 どうも、その瞬間の記憶は、生まれる前のような気がするんや。

 そんなことあるわけないけどな。

 血や肉を掻き分けて出てきた記憶よりも前にいつも置かれてることがいくつかあるんや。

 もしかして前世の記憶?とも思ったけど、それやったら、明治とかもっと前やろ。ちゃんと火傷の痕も残ってるし。

 ほんま、記憶ってあいまいなもんやな。

 そういえば、俺もかつきみたいに、怖い話を聞くんが好きで、よう、大人にせがんどった。

 その公園に、ちょっと学のあるおっちゃんがおって。みんなからは「ナカコウジ」って呼ばれとった。

 苗字が「中」で名前が「浩二」なんか、苗字だけで「中小路」なんか、それともあだ名なんかようわからん。

 そもそも西成におるもんなんかみんな正式な名前あるんかもわからん。とにかくナカコウジさんは、夜になったら公園におった。

 冬はそんなことせえへんけど、夏は露天の手伝いばかりしててもおもしろくないし、俺もいろいろぶらぶらしとった。

 どんな顔かも覚えてへんけど、帽子をかぶってたことしかわからへん。けど、今考えたら、西成におった大人はみんな帽子かぶってたか、鉢巻してたような気がするなあ。ファッションなんか、実用的なんかようわからへんけど、外に出るときはみんな帽子かぶってたような気がする。俺も野球帽をかぶってたよ。おとうちゃんが巨人ファンやったから巨人の帽子や。大阪やけど、その頃は長島や王のいる、巨人は大阪でも人気やった。

 とにかくそのナカコウジさんは、話好きやった。

 昔話やな。

 今は絵本になってるけど、桃太郎とか金太郎とか、童話でいえば赤ずきんとか三匹のコブタとか、考えてみたら昔話みたいなもんは全部、ナカコウジさんから聞いて覚えたような気がするんや。

 けど、そのナカコウジさんの話はちょっと普通と違ってて、最後は必ず、誰かが死んだりして終わるんや。

 桃太郎なんか、鬼退治したあと、鬼が仕返しにやってきておじいさんもおばあさんも殺したり、赤ずきんも結局、狼にみんな食べられておらんようになったりで、すごく残酷なお話ばっかりしてた。

 むかーし、むかーし。

 から始まる時はほのぼのとしてるんやけど、最後は驚かして終わるんや。そして俺が怖がってる反応を見て楽しんでるんやな。俺も最後は怖くなることがわかっとって、お話を聞きたがってた。

 西成におるもんはやっぱりどっか、心がおかしくなってるんやな。

 俺はそんな話ばかり聞かされてたから、お話っちゅうもんは最後は残酷な結果になるもんやと思っとった。

 せやから、怖い話も昔話も一緒くたになって、お父ちゃんにお話をせがんだ。

 けど、あれは西成出てからの話やな。

 小学校に行く前か……ようわからんけど、はっきりお母ちゃんが俺にはおらんとわかってから、さらに生活は不安定になってたような気がする。

 ドヤに住んでるのも長くは続かんかった。ドヤっていうのは、そういう1畳か3畳くらいの安アパートや。宿は人が泊まるけど、西成のもんが泊まるのは宿を逆に読んで、ドヤってつけられたらしい。宿以下っちゅうことや。

 お父ちゃんはとにかく悪い足を引きずりながら、俺を育てようとしたんやろ。「ニンテイ」とかゆう手帳をもらって、あいりんに行って、仕事をもらうんやけど、当たり前やけど、肉体労働や。足引きずりながらやったら、簡単な仕事しかでけへんから、いっつも仕事でけへんかった。金に困ったら、拾ったもんを質屋に持ってって、わずかな金に換えとった。どうやら「ニンテイ」っちゅう手帳も、質屋に行ったら金を貸してくれたみたいや。もちろん、それがなかったら、仕事はでけへんのやけどな。露天商も、お父ちゃんはただ使われてるだけやから、商品を好きなようにできるわけやあらへん。ちゃんと親方がおるんや。

 まあ、酒とたばこさえ呑まんかったら、どうにかできるんやけど、それだけはどうにもならへんかったみたいや。大体はハイライトやったけど、金がないときはショートホープやった。酒も部屋ではワンカップかトリスウィスキー。それかさつま白波のパックが転がっとった。

 つまみはするめをこうてきて空き瓶入れて、それをしょうゆ漬けにしたやつを、焼いて食うとったなあ。

 それでも、今考えたら、いろんなとこに連れて行ってくれとった。

 いろんなとこってゆうても大人の行くところやけど。

 遊ぶってゆうたら、新世界や。通天閣っちゅう塔があって、じゃんじゃん横丁、天王寺動物園、いろんなもんがあった。

 じゃんじゃん横丁では串かつとかどて焼き、将棋クラブ、お父ちゃんは俺をゲームセンターにおらせて、酒を飲んどった。

 飯はホルモンうどんとかゆう、新世界独特の食べもんがあって、それを食わされたり。

 芝居小屋もあって、よう、芝居を見に行かされとった。そういうところで食べさせられるのは何故か、冷凍みかんやったけどな。

 話なんか覚えてへん。大抵は芝居をやって、後半は歌謡ショーや。

 けど、その中でも絶対覚えてるんが、怪談や。これは強烈に覚えとる。お父ちゃんも怖い話が好きやったんやな。

 怪談の時は絶対見に行ってたような気がする。四谷怪談、牡丹灯籠、番町皿屋敷……

 そういう日本の怪談は芝居で覚えたんや。中でも怖かったのは化け猫の話やな。主人が殺されて、飼い猫も殺されて、その猫が復讐するってやつや。

 クライマックスには芝居小屋らしく、太鼓の音と何色ものセロハンがぐるぐる回って、照明効果を盛り上げる。俺は小さいながらも、怖かったけど、わくわくして見とった。芝居は内容が変わるたびに、いっつも見に行ってたような気がする。

 映画もよう、連れてってもらった。

 レジャーと言えば、芝居か映画やったんやろうな。

 ちょっとお金があったらすぐに新世界に遊びに行っとった。パチンコもしてたけど、そういう時は、天王寺動物園か通天閣で一人で遊ばされとった。

 幼児はたぶん、どれもこれもただなんやろな。せやけど、携帯もポケベルもない時代に、よう、離れ離れになって、また、見つけて帰れると思うわ。そのまま迷子にならんかったんかな。不思議やわ。

 そうそう、映画も正月になったら必ず、見に行ってた、冬は暇やからか知らんけど、オールナイトとか見に行ってた。もしかしたら、泊まるとこがなかったんかもしらんな。

 その頃はたいてが2本立てか3本立てで、繰り返しやって、入れ替えとかなかったから、映画館でずっと過ごせてた。

 何を見たかっていうと、トラック野郎とか寅さんは絶対やった。

 後は洋画で強烈に覚えてるんは、(カサンドラクロス)やな。なんか列車でのパニック映画やけど、えらい怖かった記憶がある。

 ほんまに、寅さんとか以外は怖い映画ばっかりやった。ジョーズとかオルカとか、エクソシストとか悪魔の棲む家とか…… 

 ほんでまた、必ず見に行ってたのは、金田一耕助シリーズや。八墓村は渥美清やったような気がするけど、(たたりじゃ~)っていうのはずっとトラウマになってるわ。

 そのあと、犬神家の一族、獄門島、女王蜂……よっぽど好きやったんやろな、何か、小学校にいってからも、新作は全部見たような気がするわ。

 ホラーやなくて、ミステリーやけどな。その頃の金田一耕助シリーズは、ホラー映画みたいなもんやった。好きやったんやろな。俺は手で顔を覆って、指の隙間から見とったわ。

 お父ちゃんがそんな映画ばかり連れて行ってくれたから、いつの間にか俺も怖い話好きになってしまったんやな。

 新世界も今では温泉のテーマパークみたいなもんがあるみたいやな。

 あの、芝居小屋とか、映画館とかまだ残ってるんやろか?

 その後の想い出は、気が付いたら、記憶はいっきに船に乗っとった。サンフラワー号っていうんやけど、それに乗って大分県でお父ちゃんは仕事をしてた。もちろん俺もおった。

 養鶏所の臭い仕事やった。

 そこに半年くらいおったんやろか。

 長屋みたいなプレハブの住み込み仕事やったけど、周りに大人も子供もけっこうおったから、それなりに楽しかった。蛍もいっぱいおったし、蛇や蛙も捕まえたし、なんで、また、大阪に帰らんとあかんのかわからんかったけど、別府に寄ってから、大阪に帰った。別府では地獄谷温泉とか、水族館とか高崎山とかで遊んでから、また船に乗って帰ったんや。

 パパ、結婚したとき、もう、かつきがお腹の中におったから、外国とかに新婚旅行には行かんかったんや。もともとそんなお金あらへんかったしな、東京ディズニーランド行って、ほんでから九州一周とまではいかんかったけど、大分、福岡、長崎と行ったなあ。

 ママとけんかしながらな。パパはいつも謝ってばっかしや。道間違えたら文句言われ、何か忘れたら文句言われ……。

  とにかく、その大分での思い出は結構、忘れられんで、新婚旅行で九州行こうって決めたときも、水族館とか高崎山とか行きたかったけど、ママに却下されて、なんとか別府温泉にだけは行けた。

 まあまあ良いホテルに泊まったけど、子供の頃はそんなホテルに泊まるわけもなく、ただの通過地点やったんやろな。

 特に思い出すことはなかったんやけど、地獄めぐりっちゅうやつで思い出した。何か人間の入ることのでけへん温泉なんやけど、観賞用の温泉やな。それもおかしな話なんやけど、別府には存在する。

 血の池地獄や、泥地獄とか、温泉が地獄のような雰囲気を表しているのを見て、楽しむんや。鰐が放されてる地獄もあった。

 ママはそんなもん見ても楽しそうやなかたけど、俺は楽しかった。

 お父ちゃんもそれが見たくてここに俺を連れてきたんやろ。俺は子供ながらに怖くて泣いてしがみついて、そういう俺の姿を見るのも楽しかったみたいやった。

 その後の水族館でも、暗いし、大きな魚はおるし、ジョーズを見らされた後かどうか忘れたけど、鮫に喰われるような気がして、怖くて大きな声で泣いとった。

 お父ちゃんは笑っとったけどな。

 怖がりの俺を見て、喜んで、ほんでも(男やったら怖がるな!)って怒鳴って。

 もしかしたら強い子に育てたかったんかも知らへんけど、あれは虐め入っとったなあ。

 怖い映画、お化け屋敷、怪談の芝居。

 怖がる所ばっかり連れて行かれたんや。どういう心理やったんやろな。

 とにかくその九州での半年間がお父ちゃんにどういう意味があったんかしらんけど、俺は大阪に戻って来た。そこで仕事があるんやったら、九州にずっと住んでればよかったんや。お父ちゃんは宮崎の出身で、十七の時に家出して大阪に出てきたらしい。俺も同じような道を歩いとる。高校中退して、大阪のお父ちゃんのところ飛び出して北海道に行ったからな。

 せやから、九州で住んでもええはずやったんやろうけど、何でか大阪に戻ってきた。何かあてがあったのか、九州で失敗したのかわからんけど、大阪に戻ってきた。もしかしたら大阪に心を捕らわれてしまったんかもしらん。

 小学校に行かなあかん年頃には、西成にはおらんかった。もう少し南の東住吉区っていうところにおった。ここは西成に比べたら、断然、普通の上品な街やった。住宅地やな。そこでどう知り合ったか知らんけど、建設会社を興した社長の手伝いしとった。一応、安いけど給料はもらってたみたいや。せやけど、他の健康で屈強な男達とは扱いが違う。なんせ足が悪いから、まともには扱ってくれへん。

 ダンプもユンボも運転でけへんし、屋根にも上られへん重いもんも運ばれへん。

 もっぱら、ゴミの片付けや、賄い係やった。鶏を捌くのだけはうまかったから、大きな仕事をやりとげた後とかは、鶏を何羽も捌いてパーティーや。酒を飲んだら、酔っ払うのはみんな一緒で、けんかもするし、性質も悪かった。

 お父ちゃんはコブつきやったし、安い給料で雇われて、みんなからは蔑まれてた。

(片チンバ)って呼ばれてた。

 それが差別用語やって知ったのは道徳の時間やったけどな。

 東住吉区には一番南に大和川っちゅう汚い川が流れてた。大きいけど、汚い川やった。まあ、大阪の川なんて、そんな濁った色してるのが当たり前やったから汚いとは思ってなかったし、夏は平気で泳いでたけど、富山の川とは全然違うわ。

 今はどうか知らんけど、ずっと日本一汚い川のレッテルを貼られてたんとちゃうかな。

 その大和川沿いに養鶏所があって、どういうわけか鶏を買いに行くときは一緒に連れて行かされた。車の運転なんかでけへんから、当然、自転車に二人乗りや。あんまり覚えてないけど、この頃はもう、自分の自転車乗ってたかもしらへん。大量の鶏、自転車の前の籠には入らへんからな。

 その養鶏所がまた、行くのいややった。

 薄暗くて、臭くて。生みたての卵を見るのは面白かったけど、お父ちゃんが鶏を選んで、養鶏所のおっちゃんがそれを首切り場に連れて行く。

 なんでか俺はその前に立たされて、それを見せられる。

 井戸のような四角い穴に、鉄の格子が嵌ってて、その上には水道の蛇口と何かをひっかける薄汚れた棒がある。

 暴れて、羽を巻き散らかして、甲高い声で泣き叫ぶ鶏は、麻のような紐で足を縛られ、逆さまに吊り上げられ、もう一端が棒に縛られる。

 逆さまになったところで、おっちゃんが鎌で鶏の首を切る。

 一瞬、大きな断末魔の悲鳴を上げ、血が飛び散るけど、うまいこと井戸の中に血飛沫が吸い込まれていく。

 丸々と肥った身体から血がどんどん抜かれていくと、なんだか身体がしぼんでいくようにも見えた。最初はまだ、小刻みに動いてるけど、だんだん、動きも鈍くなってきて、最後は動かへんようになる。

 首も、全部切り落としてくれればいいのに、半分くらいしか切らへんから、余計に残酷に思える。

 それが血抜きのシステムなんか、ただたんにお父ちゃんの料理は首も頭も食べるから、特別につながったままなんか知らんけど、二重にも三重にも見える鶏の瞼はとろんとしたまま、閉じてしまって、命が無くなってしまう。

 何でお父ちゃんはそういうものを俺に見せたがるんやろ、何で俺は逃げずにそういうものを直視するんやろ。

 怖いものと解っていながら。

 怖くてみたくないのに。

 目を瞑れば逃げられるのに、映像は記憶と一緒に焼き付けられる。

 あの頃、お父ちゃんは俺に将来、調理師になって欲しかったみたいやから、そういうものに慣れさせたかったんかもしらん。

 けど、逆効果やったな。それがトラウマになってしもうて、今では、自分の切り傷の血を見るだけでも嫌やもん。それが、人の血やったら、倒れてしまうくらいやから、調理師なんてなられへん。

 さっき、小学生にあがる歳の頃ってゆうたんは。実は俺は小学校は一年の終りくらいから初めて行ったんや。

 それまで忘れてたんか、わざとかわからんけど、俺は小学校には行ってへんかった。義務教育やけど、一応、お金かかるからな。何か言われるまで無視しとこうと思ったんかも知らへんな。とにかく、時期が来ても小学校には行かんまま、俺はお父ちゃんの手伝いをしてた。

 お父ちゃんも本人に自覚あったんかどうかわからんけど、周りからかなりいじめられてたからな。

 その夏の日、大阪のずっと北にある田舎に、星田っていう場所があって。そこに処理場っていうか、その建設会社のごみ捨て場みたいなもんがあったんや。

 建設会社って言うても、家を建てたりするんじゃなくて、解体して資材を処理する専門のような会社やったみたいで、俺はお父ちゃんとその処理場に連れて行かれて、二週間くらい放置されたことがあった。

 かなり広い場所で、鉄板の柵で囲まれていて、ほとんどはごみの山やったけど、その端には小さなプレハブの小屋があって、そこに寝てた。

 今考えると、何で脱出でけへんかったんやろと思うけど、考えるには、お金が一銭もなかったか、最寄りの駅までとてつもなく遠くて、足の悪いお父ちゃんには遠くて歩けへんかったか。

 二週間後に迎えに来てもらうまで、ほんまに動くことがでけへんかった。

 ほんまやったら小学一年生の夏休みや。

 けど、そこはお父ちゃんと二人ぼっちやったけど結構、楽しかったんや。

 何を食ってたんかはよう思い出されへんけど、周りは田んぼか畑ばっかりやったから、トマトとか胡瓜、あとは西瓜なんか盗んで食べてたような気がする。

 昼間はそこに住み着いてた野良犬と遊んだり、ちょっと歩けば、沼みたいなんがあって、ざりがにとかひっかけ釣りができた。

 ちょっとした軟禁状態やな。

 携帯電話なんかあらへんし、公衆電話もそんなになかった時代や。

 どこにも連絡とられへんで、お父ちゃんと俺はそこに捨てられとった。時折、ダンプがごみを捨てに来るけれど、それはお父ちゃんの会社とは関係のない会社のようで、ただ、お金を払って、ごみを捨てに来てたみたいや。

 そういう運転手に食いもんとかわけてもらってたんかもしらんな。

 トイレも風呂もあらへんかった。風呂は多分、ずっと入らへんかったんやろうし、トイレは大も小もかかわらず、そのへんでしとった。

 夜は裸電球一個。

 もう、田舎やったから。

 蚊だけやなく、蛾もカナブンもムカデも一緒になって、集まって来とった。

 蚊取り線香だけは何でかあったみたいで、そんなに苦しまずに寝れたけど、クーラーなんてないからな、暑くてたまらんかった。もちろんテレビもないし。

 せやけど何でか漫画はいっぱい置いてあって、ゲゲゲの鬼太郎とかが揃ってて、そこで全部読んだなあ。

 詳しい話は忘れたけど、鬼太郎の親が死んで、目ん玉が腐って落ちて、それが目玉親父になってしまうのが、幼心に強烈な話やった。

 ゲゲゲの鬼太郎だけやなく、他にも妖怪とかお化けの漫画ばっかりそこにはあって、お父ちゃんはわざとそれらを俺に読ませてるみたいやった。大人になってからわかったんやけど、それらの本はゲゲゲの鬼太郎やなくて、貸本専用に描かれた、墓場の鬼太郎っちゅうやつやったらしい。

 西成におるときは、まだまだ古本屋っちゅうより、貸本屋のほうが多かった。お父ちゃんに五円か十円か忘れたけど、小さなお金をもらって、借りに行った本も、お父ちゃんがそれにしろって言ったんか、自分で選んだのかしらんけど、怖い漫画ばっかりやったような気がする。

 せやから今でも妖怪のなんか、記事とかみたら、ふと思い出すんが星田での軟禁生活か、貸本屋で本を借りるシーンなんや。なんで欠貸本屋に行ったら、カレードッグみたいな食べ物が十円くらいで売っっとって、いつもそれが晩飯になってた。

 そんな暮らしもずっと続くわけもなく、人生はめまぐるしく変わって行った。

 近所の人もおかしいと思ったんか、誰が言ったんかしらんけど、役所から人がやってきて、義務教育やから俺を小学校に通わせなさいみたいなことを言いにきた。

 お父ちゃんは一年間違えとった、みたいなこと言ってごまかしてたけど、たぶん、わざとやろ。

 一年ももう終わりそうな頃に、俺は小学校に入った。

 周りは転校生と思ってくれたみたいで、結構、人気者やった。けど、(どこから来たん?)って言われてもうまく答えられへんかった。

 最初からおったし、そもそも転校とか学校とかよくわかれへんかった。

 友達も一気にできたし、住んでたのは文化住宅の二階。一階が会社の事務所で、二階が住み込みの部屋やった。本当は別々なんやけど、大家さんに言って、特別につなげたみたいやった。

 同じ並びにはけっこう子供達がいて、集団登校の班に入れられたら、学年関係なく、近所の子供付き合いが始まった。

 おかしなもんで、それまでもずっと住んでたのに、学校に行き始めたら友達になれるもんやった。ご飯も食わせてもらったし、海とか旅行も一緒に行くことができた。昔の近所付き合いってそんなもんやった。

 その時は会社もまあまあ景気がよくて、お父ちゃんはお金なかったけど、周りの大人がランドセルとか文房具とか買ってくれたし、学費にも困るようなことはなかった気がする。

 毎月、ちゃんと給食費持って行かされてたし、二年になったらすぐにクラス替えやったから、あんまり違和感もなく学校に溶け込めた。

 歩いて行ける距離には長居公園っていうでかい公園があって、学校が終わったら、よくそこに遊びに行ってた。

 何も考えず、勉強して遊んで、ご飯を食べれた日々。

 それくらいが一番楽しかったんや。

 けどそれも長くは続かへんかった。

 どうやら会社が倒産したみたいやった。

 小学三年生くらいの時やったから、その会社も三年くらいの命やったんやろ。今となっては資金繰りがうまくいかんかったんか、その前に逮捕者とかでたみたいやったからなんか、とにかく、そこで働いていた従業員、もちろん二階で住み込んでいたお父ちゃんと俺も、ちりぢりにならんとあかんかった。

 その時に、西成に戻るっちゅう選択をお父ちゃんがしてたら、また人生変わってたかもしらへんけど、お父ちゃんは違う選択をした。

 そこからそう遠くない場所にアパートを見つけてきたんや。

 今やったら、保証人とか保証金とかアパート借りるには大変や。昔は保証金とかよりも、身元保証のほうが普通の暮らしをするには大変やった。西成やったら大丈夫やけどな。

 無職で収入のあてもない人間を住まわせてくれるアパートは東住吉区では見つけるのは難しかったやろうけど、執念で見つけてきたんや。

 けど、審査も甘く、家賃も安いようなところやったから、見た目、強烈にボロかった。

 どうやらお寺が家主みたいやったけど、立派な門構えのお寺とかじゃなくて、密教の集会所みたいな感じやった。

 その辺は針中野とか言って、街中でも妙にお寺や神社の多い場所やった。その後にできた友達も、お寺の息子とか多かった。

 家主さんの玄関は細い路地に面していて、アパートの住人たちは、その脇の薄暗い入り口から入るんや。道から見たら、大きなびわの木があって、その腐りかけの木切れでできたような洞窟みたいな入り口しか見えへん。

 他の部分は住宅と住宅の間に入っていて、道というものに面している部分は、路地側の家主の玄関と、住人の入り口だけやった。

 全体を見ることも出来ず、屋根とか壁とかはトタンみたいな材質に腐った木切れを集めてやっと建ってるようなアパートやったから、周りの人達にはお化け屋敷って言われてた。

 そう思われても仕方ないような雰囲気やった。

 部屋は意外といくつもあって、一階は玄関付の部屋が五部屋。途中に階段があって、靴を脱いで、二階にそれ以上部屋があった。

 部屋っちゅうても綺麗に並んでるわけやなく、入り口は入ったら、まず、一部屋あって、左に曲がってじめじめとした土間のような廊下を歩いて右に曲がったら一部屋。それがお父ちゃんと俺の新居やった。

 そこから道が二股に分かれていて、二つとも突き当たりに部屋があって、二股の部分の三角形をうまくつかった部屋もあった。

 アパートというよりは、一階に関しては結構独立してる部屋が多かったから、多分、昔は入り組んだ長屋みたいな感じやったんやと思う。

 それに、無理やり屋根つけて、二階つけて、アパートにしたようやった。

 今までの住み込みの部屋とかなり違ってたし、西成のドヤのほうがまだ綺麗やったかもしらへん。嫌やったけど、子供には選択権もなくて、そこに住まわされたんや。

 前の所と、学区が違っていて、小学校を転校せなあかんかった。

 中学は同じやったけどな。

 ほんで、お父ちゃんは生活保護っちゅうもんを役所からもらうようになったんや。

 十何万やったと思う。お父ちゃんは働かんようになってもうた。

 身体障害者手帳があったら、結構、割引とかきいて、贅沢さえせえへんかったら、充分暮らせるお金やった。

 けど、働かんようになったら、暇がいっぱいできて、酒も飲むし、タバコも吸うし、パチンコも行くし、月々の生活は苦しかった。

 ご飯も近所の食堂につけで食べて、生活保護の金が入ったらつけを払う。食堂やから、結構高かったはずや。

 そんな生活やから、給食費が払えんこともしばしばやった。

 あっという間に、学校の仲間には、貧乏人とか臭いとかお化け屋敷に住んでるとかのいじめにあったんや。

 残酷な部分と残酷やない部分があったから、苛められる反面、仲良くしてくれる友達もおったよ。同じ片親の子とかやな。

 それでも、成長していって、考えがしっかりしていく度に、そのお化け屋敷から逃げ出したくてしかたなかった。

 ほんまにいつも、臭くて、じめじめしてた。

 部屋は玄関があって、二畳くらいの台所、四畳半の部屋。奥にもう二畳くらいあって、一応水洗のトイレがあった。

 奥の二畳なんか、なんに使うのかよくわからんかったけど、そういう昔の作りなんやろ。夏は台所にごきぶりが現れて、寝てたら平気で腕とかにナメクジが歩いてる。

 雨が降ったら、その部分だけ二階がないんやろ、紙を貼った天井から雨漏りがして、長年雨漏りしてるんやろ、汚く茶色の染みが何層にもなってるように見えるんや。

 そこは夏でも暑くないのが特長やって、ずっとコタツで暮らしてた。夏は電気つけへんかったけどな、冬はもう布団とかやなく、コタツで寝てたんや。

 天井裏ではねずみが夜中に走り回ってうるさくて、屍骸とかがたまに廊下に落ちてる。

 奥のトイレにはしゃがんだ部分に小窓があって、そこから外を覗いたら、草むらがあるんやけど、外から探したら絶対にそこがどこかわからへん……そんな不思議なアパートやった。

 台所に行ったら変な虫がでるから、あんまり水道使わへんかったような気がする。風呂は回数券買って、三日に一回くらい銭湯に行ってたし、水も飲まへんかった。

 二階には共同の物干し場みたいなもんがあって、そこに上がっても、下は色んな家の屋根があるだけ。

 屋根と屋根の狭間にあるような感じで、地面も窓も見えへん、異世界やった。

 毎年、入り口の枇杷の木には枇杷がなるけど、その頃にはハンミョウがいっぱい出てなあ。ハンミョウって噛むんや。それが怖くて、入り口は走って通り過ぎたり、物干し場にはスズメバチの巣があって、誰も取ろうとせんから、下手に近づかれへん。

 一番多かった虫はそんなもんやなくて蜘蛛やった。

 もう、蜘蛛と生活してるようなもんやった。トイレの角にも天井の角にも、至る所に大きな手を伸ばして、蜘蛛がおったんや。お父ちゃんは蜘蛛を殺すことはせんで、ただ、ほうったらかしにするままやった。

 俺も慣れてしまって、大きかろうが、気にせえへんようになったけどな。逆に餌やろうと思って、蝶とか捕まえて、蜘蛛の巣にひっかけてバリバリ喰うのを見て楽しんどった。

 そんなアパートに住んでたから、同じクラスにいた、近所の女の子には無茶苦茶嫌われとった。近づいたら逃げて行くんや。そんなんが六年生までやからな、最初はショックやったけど、だんだん慣れてきたわ。

 それにお化け屋敷だけやなくて、猫屋敷とも呼ばれとった。

 家主の玄関の向かいの家にこれまた、山姥みたいな婆さんが住んでてな。

 今の住宅のお向かいさんみたいな門構えとは全然違うねん。ほんまに、細い路地を挟んで汚い入り口が向かい合ってるような感じで、そこの婆さんは当たり前のように猫婆さんって呼ばれててな、家で猫を飼ってるわけやなく、そこの玄関に餌を置いとくから、いつの間にか猫がいっぱい住み着いて、増えていきよった。

 暇があれば、野良猫に名前つけて、呼びながら竹輪とかあげとった。

 髪の毛はぼさぼさで半分以上白髪で、スカートみたいなもんぺみたいな汚いもん履いてた。家族とか見たことないし、どうやって生活してるんかわからんかったけど、猫に餌やる余裕はあったんやろな。餌っちゅうても竹輪をちぎって投げてるとこしか見たことないけどな。

 家もどうなってるかわからんけど、一応あったし、それなりの身分ではあったんやろうけど、もう、気が狂ってしまってな。

 最初の頃はかろうじて話せたけど、だんだん何ゆうてるかわからんようになって、しまいには怒り出すほうが多くなってて、だんだん近づかんようになってった。

 俺も猫好きやったから、よく、近づいて、餌あげるんやけど、婆さんが出てきたら逃げるようになったんや。

 野良猫も可愛いけどな、まともに産まれてこん子もおる。目がなかったり、手がなかったり、そういう子猫が産まれたのを見たら、気持ち悪くなるけどな。大抵、次の日みたらおらんようになってしまってる。

 婆さんが処分するのか、親が食べてしまうのか、ようわからんけど、野良猫やからどんなになついても、触ることでけへんかったからな。警戒されて。婆さんは触れたみたいやけど。

 たまに、子猫で触ること出来ても、何か、べたべたしてて、蚤がびっしり喰らいついとる。見てるぶんには可愛いけど、触りたくはないわ。

 常に二十匹くらいはおったやろか。

 そんな場所やから、あらゆるとこに猫が入ってきて、糞尿をたらしていくんや。実際は猫婆さんが飼ってるようなもんやけど、俺のアパートも夏になったら臭くて臭くて、時折撒かれる消毒剤の臭いが混ざったらまた臭くなる。

 猫の屍骸も転がってるんやろうけど、それは見ることはなかった。猫は事故で無い限り、人目につかんところでひっそりと死ぬからな。それがまたアパートのどっかやったら、かえって迷惑なんやけどな。

 ある日なんか、天井から蛆虫がぼたぼた落ちてきて、調べたら猫の屍骸があったらしく、家主も怒ってた。もちろんそのシーンは見んかったけどな。

 猫婆さんも、最後は、おらんようになってもうた。猫に近づいて遊んどったら、絶対に出てきてたんや。そしたら俺は逃げとった。

 それが、ある日を境に出て来んようになった。猫もあんまり見んようになった。

 ほんで、婆さんの家の周辺がやけに臭くなってきてた。せやから多分、夏のことやったんやろうと思う。

 俺がなんでそうゆうシーン見たんか、わからんけど。

 大人たちが、猫婆さんの家に入っていく後に着いて行ったんや。家と変わらんくらいに薄暗くてじめじめとした、玄関は土間みたいになってて、すぐそこの畳の上で、婆さんは白骨になっとった。

 何で俺が近寄れたんかもわからんし、妄想かもしらん。

 最初に見たんは、暗い中、畳の上に何かが転がっていて、その上に何対かの目が光って動いていたシーンやった。

 それは目が慣れてくると何かわかったんや。転がってるんは猫婆さんの死体で、その上には猫達が乗っとった。

 猫は餌を貰えへんようになった代わりに、婆さんを喰うてたんや。

 死体がどうなって、何匹くらいの猫がおったんか、それ以上は近づかせてもらわれへんかった。今考えたら、お父ちゃんが連れてきたんかもしらへん。

 脳裏に焼きついいてるんは、今までで最高に臭かったんと、教科書で見たミイラみたいな婆さんの死体。その上で、会合でもしているかのように集まっていた猫たち。

 後から聞いたら、身寄りは遠くにあったらしく、お金はそこから郵便か振込みかしらんけど、送られてたらしい。

 どんな身寄りかしらんけど、連絡とかは取り合ってなかったから、死んでもわからんかったみたいや。単なる老人の孤独死やけど、俺にとっては猫が上にいっぱい乗ってたシーンが印象的で、骨をしゃぶる情景の夢を今でも時々見るんや。 

  結局そこには中二くらいまで住んどった。

 生活保護のお金ではやっぱり足らんみたいで、ほとんどが食費と酒とタバコとパチンコやったけど、お父ちゃんは時々、西成に行って、アルバイトしてたようや。また、露天やろな。

 その頃かな。

 お父ちゃんの身体がなんか、悪いことを知ったんは。

 日本酒はワンカップばかり飲んでたけど、飲み干したらその瓶はお父ちゃんの灰皿兼、痰壷になっとった。汚いもんや。真黄色の痰が、瓶いっぱいに詰め込まれて、腐ったなめくじのようにうようよ蠢いてるみたいやった。

 すぐ捨てたらええのに、蓋していっぱい溜め込んで、あの頃は慣れてしもうて何とも思わんかったけど、今見たら、気持ち悪くてどうしようもないやろな。

 そんなんがコタツの上に置かれてるねん。

 異様に痰を吐いてたな。時々、血も吐いてたけど。

 中学は入ったばかりの頃、お父ちゃんが入院することになったんや。

 何で入院するんかわからんかったけど、なんとなく左足の事やと思ってた。近所に個人病院やけど、大きな病院があって、そこの整形外科に入院することになったんや。もしかしたら切断せんとあかんかもわからんってお父ちゃんはゆうとった。何か、そういう恐怖があったみたいや。

 そもそもなんで、足が悪くなったかというと、子供の頃に身体障害者手帳ってゆうのを覗き見たら、ポリオによる小児麻痺って書いてあった。

 子供の頃はポリオって意味がさっぱりわからんかったし、大人になってからもわからんままやったけど、かつきが産まれてから、ポリオってなんか知ったよ。

 今は赤ちゃんのうちにポリオの予防接種するから、その病気はなくなったって聞いたけど、実際はどうか知らん。

 なんか勉強させられたのは、ウィルスが脊髄に入って、麻痺をおこすらしいって言うことだけは、わかったんや。人から人にもうつるらしく、かかってしまったら、治らんらしい。俺がうつらんかったのは、予防接種を受けてたからなんかはわからんけど、多分、そうなんやろ。

 せやったら、なんで、治らん病気なんやのに入院したんやろな。切断も意味ないと思うし、今となってはようわからん入院やった。

 手術も結局せえへんかったし、退院しても特に何も変わらんかった。

 入院中は学校の帰り道に病院があったから、何をするでもなく、よう、病院に行っとった。

 酒とかたばこをやりたいらしく、俺に酒を持ってこさせとった。

 酒を飲むのはいくら整形外科でもあかんかったらしく、酒の持ち込みは禁止やったから、そういうとこだけは知恵がまわるんか、水筒にウィスキーを詰めてくるように命令して、俺もまだ、そん時はゆうこと聞いとった。高校になったら聞かんかったけどな。

 どういう入院かわからんかったけど、俺は多分、足が腐ってて、もう切断せんとあかんのやと思ってた。

 ポリオってそういう病気やないんやろうけど、何でそう思ったかてゆうと、踝が赤くてパンパンに腫上がってるのを見てたからや。そん時に奇妙な経験をした。

 お父ちゃんは本当に病院が嫌いやった。まあ、好きな人はおらんやろうと思うけど、そういう姿見てるから、俺も病院が嫌いになったんや。多少、痛くても、おかしいなって思っても、自分で判断して自分で治そうとする。

 どこが悪かったんかしらんけど、医者にかかりたくなかったお父ちゃんは、すぐに漢方で治せるから医者にかからんでええってゆうて、病院行くの拒否しとった。

 漢方で何を治してるんかわからんかったけど、行きつけの薬局で高い漢方薬を買っとった。プラスチックの大振りな容器に百錠以上は詰め込まれていて、草色の薬が詰まったやつと、えんじ色の薬が詰まったやつ。どっちも一万円近くする薬を飲んどった。

 それが何に効くんかもしらんかったし、どういう病気なんかも知らんかった。

 たまに、お父ちゃんの代わりに買いに行かされて、どうも普通の薬局とは雰囲気の違った店に自転車で行って、薬を家に持ち帰る。記憶は曖昧やけど多分、詰め替え用の袋入りみたいなやつやったと思う。それをプラスチックの容器に移し替える時、なんとも言えん、薬草の臭いがして鼻が痛かったのを覚えてるんや。いかにも薬の臭い。今の胃薬とかの何十倍も臭かった。

 未だに、あれがなんのための薬やったのかようわからん。

 子供の頃は足が治る薬かと思ってたけど、薬飲んでも治らんわな。しかも酒で飲んでるし、タバコもがばがば吸ってたし。

 今となっては、足の麻痺は治らんと理解できるけど、あの頃はそういうもんじゃなくて、捻挫とか怪我の関係と思ってたからな。

 手術したら治るもんやと思ってたし、手術が怖いから、お父ちゃんは薬で治そうとしてると思ってたんや。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ