第九話 ~追憶~
――二〇三五年十月某日。
警察官真智明は村雨彩華と一緒に昼食を摂った後、彼女を職場に送り届けることにした。
「うーむ、見誤ったか……」
運転席の真智が唸る。近道をしようとして、逆に渋滞にハマってしまったのだ。ここ数分、車の列が動く様子がない。
「ごめんなさい、わざわざ送ってもらって……」
「気にするなって」
謝る彩華に、真智は笑いかける。
「でも、忙しいんでしょ?」
「今だけさ。もうちょっとすれば一段落する。そうすれば、二人の時間だって作れる。それに……」
真智は彩華の左手に目を落とす。その薬指には、輝く指輪が嵌っている。
「いよいよ来月、だからな」
「……そうね」
彩華が頬を赤くして俯く。
そう、来月には二人の結婚式が待っているのだ。それまでには、今抱えている案件を片付けなければならない。
「爺ちゃんや婆ちゃんにも、見せてやりたかったな……」
ポツリと呟く。
両親と早くに死別した真智を引き取り、育ててくれたのが今は亡き祖父母だった。
祖母は、自分の大学合格を入院先の病院で聞いた翌日、力尽きるように息を引き取った。
祖父は警察学校への合格が決まった日、長年の心労が祟って倒れ、帰らぬ人となった。
今まで散々世話を掛けたからこそ、自分達の晴れ姿を見せ、安心してもらいたかった。
「大丈夫よ」
彩華が微笑み掛けた。
「お爺様もお婆様も、きっと見守ってくれているわ」
「……そうだな」
真智も思わず笑い返す。
「お、ようやく動き出した」
いつの間にか前の車両が動き始めていた。これで何とか着けるか……と思ったものの、僅か数百メートル進んだだけでまた停止する羽目に陥る。依然渋滞は解消される様子がない。
「仕方ないわ」
と、彩華がシートベルトを外す。
「ここからは走っていくわ」
「まだ距離あるぞ? 大丈夫か?」
「全力疾走すれば間に合うわ」
そう言って、車から降り、駆け出す彩華。その姿を窓ガラス越しに真智は見送った。
別れた時も、彼女は笑っていた。
――それが真智明の見た、彼女の最後の姿となった。
「彼、人を撥ねたんです」
明智真の意識は、その言葉で現実に引き戻された。
女性は、沈鬱な表情で続ける。
「十月のことです。当時はニュースでも大きく取り上げられたから、貴方も知っているとは思いますが……」
女の言葉が明智の耳に入っては通り抜けていく。
知っている、などと一言で片付くようなことではない。明智――いや、真智明はその事件の当事者だったのだ。
「警察が言うには……彼は――鉄也は、一人の女性を交通事故で死なせて……そこには、その方の婚約者がいて……その人は刑事で、拳銃を持っていて……」
女の語りは、真智にとっても忌わしいあの事件の核心へと迫っていくに連れ、弱まっていく。
真智は、止めろ、と胸の内で思う。
だが、口に出せなかった。そんなことをすれば、己の罪から逃げているのと同じになってしまうのではないか――そんな脅迫概念が、思い留まらせたのだ。
「鉄也は……逆上したその婚約者の方に、射殺された、と」
ついに、彼女の目から涙が溢れた。
真智は動かなかった口をなんとか開き、
「……貴女にとって、その……鉄也さんは、どういう人だったんだ?」
と、思わず聞いてしまった。そして、自分は何を言っているのか、と思い返した。
こうして彼女が墓参りに来て――涙を流している以上、彼女にとって、彼は大切な人であったことは間違いないではないか。
慌てて今の問いをなしにしようとするが、彼女の方が早かった。
「……将来を誓い合った仲でした」
今度こそ、真智の全身は凍りついた。
真智は思い返した。
鉄格子に隔てられた個室に入れられた後、殺した男のことを振り返り、己の罪を自覚している気でいた。
しかし、その男の死に涙する人間のことは全く頭に浮かばず、ただ牢の中でその身を固くし、無気力にその日その日を過ごし続けた。
今、目の前で涙を流している女を見るまで、自分が彩華の死を悲しんだように、彼の死を悼むものがいることを完全に失念していた。
――自分は何と愚かだったのだろうか。
不意に、今立っている地面がグニャリと歪んだ気がした。そのまま、地の底に引きずられていくような錯覚。まるで、この地に眠る死者達に、あるのかどうかも分らない冥府へ誘われるような――
「あ、ご、ごめんなさい……初めて会った人に、こんな……」
「――いか?」
「え?」
ふと明智の口から言葉が漏れたが、ちゃんと聞こえてなかったらしく、女性は聞き返してきた。
迷った末、今度は女性に聞こえる音量で明智は問う。
「憎いか? 貴女の……大切な人を殺した……その男のことが」
彼女は絶句し、真智を見つめる。その視線に耐えられず、真智は眼を逸らした。
――自分は本当の大馬鹿野郎だ。そんな当たり前のことを聞いてどうするというのだ。
さらに真智が自分を責めていると、彼女の口からは予想もしなかった答えが返ってきた。
「半年前、その人は処刑されたそうです」
真智の胸に、小さな疼きが生まれる。
――違う。死んではいない。貴女の大切な人を奪った男は、今も目の前にいる……
今、この事実を彼女に伝えるべきだろうか? だが、伝えてどうしようというのか? 憎めと? それとも、逆に許しを請うのか? いずれにしろ、彼女を傷つける結果になるだけではないのか……
真智の迷いを知ってか知らずか、彼女は続ける。
「今日、ここに来たのも、そのことを鉄也に報告するためでした……」
そう言い、彼女は膝を抱え、一心不乱に墓石を見つめる。
どれほどの時間が経っただろうか。
彼女が再び立ち上がる。
「……質問への答えがまだでしたね」
彼女は、真智に向き合う。
「私は……その人を恨んでいました」
真智の胸の奥が痛む。
「確かに、鉄也はひどいことをしました。それでも、何故捕まえずに殺したの、と……何度も何度も思いました」
女は顔を伏せた。
明智は口を開こうとするが、何を言っていいのか分からず、口籠ってしまう。
――彼女を傷つけたのは自分だ。
――なら、自分に何が言えるのか。
真智が後ろめたい思いで立ち尽くしていると、女が顔を上げた。
「ですが、貴方に改めて聞かれて……思ったんです。もうその人は死んでしまった……自分が恨んだ人間は、この世にはいないと……そんなことを考えたら、虚しかった」
真智は気付いた。
彼女の顔に先程までの陰りがなかったことに。
「私はどうすればいいのか、どうしたいのか……それは分りませんが、死んだ人を恨むことは、意味のないことのように思います。だから――」
「――強いな、君は」
「え?」
真智の言葉に虚を突かれたか、女は目を丸くした。
「いや、なんというか……ちょっと自分が情けなく思えてな……」
「い、いえ……貴方のおかげです。貴方が聞いてくれなかったら、このことを考えることもなかったと思います。ありがとうございます」
そう言い、女は微笑む。
その笑顔に、真智は不覚にも目を奪われてしまった。
かつて、彩華が生きていた時、彼女は自分の隣で笑っていたが、それとは違う魅力があるように感じた。
だが、幸か不幸か、見とれている時間は長くなかった。
真智の胸に伝わるバイブレーションが、支給された携帯電話が鳴っていることを知らせてくる。
「すまないが、この後用事があったんだ。俺はこの辺で失礼させてもらう」
「そうですか……あの!」
踵を返しかけた真智を女が呼び止める。
「私は、渥美瞳と申します……貴方のお名前は?」
「俺か? 俺は……」
ここで、渡された証明書などに書かれていた今の自分の名前を思い出す。
――そう、真智明という男は彼女の中では死んだのだ。死人は存在してはならない……
「真……明智真、それが俺の名だ……それじゃ、これで」
そう言い残し、女に背を向け、墓地から離れて行く。
――この瞬間、真智明という男は死んだ。そう、自分に言い聞かせて――




