15ラジオ
「おいしょーちゃん、そこのゴミ箱外に出しとけよ」
もう営業していない不動産屋の、開け放されたままになっているドアからマウンテンバイクを屋内へ引き込みつつ、金田ナオトは足下のゴミ箱をがんがんと蹴りつけた。地震で滅茶苦茶になった室内に散乱していたグラインダーやらはんだごてやらビニール傘といったものを乱暴に蹴散らして、ナオトは自分のマウンテンバイクを翔太の自転車の上に転がすように立てかけた。近くでは、翔太が工作台に寄りかかるように傾いた本棚を懸命に押し戻している。
「いや、でも、ナオトくん、こっちの方が先っすよ」
本棚を戻した翔太は、次に3メートル以上横滑りしてきたソファーを指さした。
低いテーブルに置かれたランタンの光で、その姿が壁に張り付いて海藻のようにゆらゆら揺れた。
震災の前は部屋で唯一の混沌と評されたテーブルは、地震があらゆる物を吹っ飛ばしていったお陰ですっきりししていたものの、その代償は床全体に及んでいる。
二人は床に散乱したゴミごとソファーを元の場所まで引きずっていき、ようやくのことで最低限の生活スペースだけを確保すると、同時にどっかりとソファーの上に身体を投げ出した。
ゆっくりと一息ついてから、ナオトはポケットからタバコを取り出してくわえた。
「いや、マジでやばかったな。 スゲェ地震だった」
「本当でそうっすね、俺、東京から戻ってこれないかと思いましたよ」
「中学最後の夏休みが地震ってのも、なかなか運がねぇっつーか」
ナオトがたばこを半分ほど吸ったところで、二階から床板を踏みならしつつ誰かが降りてくる音が聞こえてきた。
「毎度思うんすけど、床抜けないんすかね」
翔太は床板が軋む音を聞きながら、ニヤニヤして言った。
「おー、無事だったか」
熊のような体躯を揺らしながら、頭と首の太さが同じくらいある大男がゆっくりと下りてきて言った。
「まーさん上で何やってたんすか?」
翔太が聞いた。
「当面の食料、飲料水とな、来週予定してたキャンプの装備をかき集めてた」
まーさんは大きなクーラーボックスとその上に載せたキャンプ用品を無遠慮に放り出すと、チェ・ゲバラのプリントTシャツが露になった。太った腹に引っ張られて、ゲバラの顔は泣いているように見える。
ナオトと翔太はタバコを自由に吸えるから、という理由でまーさんの祖父の形見である鶴見の山間にあるこのボロ家に入り浸っていた。
廃屋の軒先でナオトとまーさんが七輪で肉を焼きつつジャンクをいじっているところを偶然ナオトに話しかけられて以来、翔太とはもう4年の付き合いになる。
「で、そっちはどうだった?」
「いやもうヤバいっすよ、ビルがめっちゃ傾いてたり、ガラスが道路に散乱してたりで」
ナオトが身を乗り出して言った。
「翔太ずっと怪我した美少女探してんのな」
ゴミの山に埋もれた灰皿を引っ張り出しながらナオトとまーさんがゲラゲラと笑った。
「とにかく肉食おうぜ、電気が止まってるし腐っちまう」
「確かに腹減ったな、まーさんデカいからって食いすぎんなよ」
「あのな、この肉は俺が買ってきたんだぞ?」
まーさんが手慣れた様子でガスコンロを用意する間、ナオトと翔太は手分けして電気の切れた冷蔵庫から牛肉のパックや割り箸を探し出してきた。全員が首尾よく用意し終えると、まーさんはボックスの中から冷やしたビールを一人ずつ投げて渡した。
「冷えた酒は今夜だけだ」
乾杯をする気は誰にもないらしく、勝手にプルタブを開けては各々勝手に口へと流し込んだ。
「ビールがウメェな・・・」
「不謹慎なんでしょうけど、美味いっすね・・・」
窓の外は、割れたガラスの合間を誰かがランタンの光を受けて横切る以外、とろけて滲み出してきそうな闇しかない。
「ラジオ点けようぜ、ニュースが聞きたい」
まーさんがポケットからアメリカンスピリットを銜えて言った。
「スマホの方が良くないっすか?」
「輻輳でネットが殆ど繋がらん、それに充電するのに発電機のアブラが勿体ねぇよ」
まーさんの椅子にもたれたその姿からは、ラジオを探す気配はない。
「しょーちゃん俺のバッグん中にラジオあったろ、それ使えよ」
じゅうじゅうと音を立てる肉を裏返しながらナオトが言った。
バッグに一番近いのはナオトなのだが、こちらも相変わらずラジオを取りに行く気配はない。
結局、わざわざ一番遠い距離にいる翔太が取りに行き、適当な放送局にダイヤルを合わせた。
どこの局も地震のニュースで、アナウンサーが地震の被害状況を刻々と読み上げている。
——東京都港区では大規模な液状化現象が発生。
——横浜市内で建物の倒壊と交通事故による火災により交通網が麻痺。
——自衛隊が被災者支援の為に緊急出動。
——都心での帰宅困難者は50万人以上に上る見通し。
「現実とは思えねぇな」
にやにやしながらもナオトが二の句を継がないところを見ると、ライフラインの復旧が見込まれる約三日間の間をどう過ごすか考えているらしい。
「ナオト君、楽しそうっすね」
「あぁ? しょーちゃんはどうなんだよ」
笑みを向けたまま質問を返したナオトに、翔太は少し考えるふりをしてからあえて一口ビールを飲んだ。
ナオトにはその仕草でバカなことを言おうとしているのが分かるのか、期待を込めた眼で発言を待っている。
「避難所って、素敵な出会いありそうっすよね」
「いや、避難してる連中にそんな余裕ねぇだろぉ」
ナオトがゲラゲラと笑いながら二本目の煙草をくわえた。
「なんか、変な音混じってねーか?」
まーさんがラジオを手にとって言った。
ナオトと翔太が怪訝な顔をしながらラジオに耳を傾けると、音声は相変わらず震災情報が読み上げている後ろでザリザリという雑音がどんどん強くなっているのに、少ししてからようやく気付いた。
「感度が悪いんすかね。 局も被害受けてるでしょうし」
「いや、さっきまでよく聞こえてんだからな、それはないだろうよ」
「混線かぁ? アホがどっかで違法無線局を開いてやがんな」
答えを出したのは、ナオトだった。
「周波数が近すぎて入り込んでんだな。 そのアホの局に合わせてみろよ」
頷いてまーさんが少しずつダイヤルを右に捻り、次は左にと捻る。すると、被災地情報を伝えるアナウンサーの声をかき消すように、雑音の中から不明瞭な日本語が大きくはっきりと流れてきた。
「感度が悪い。良い送信機使ってねぇな、こいつ」
ナオトの悪態と雑音とに混じってようやく、聞き取れる程度には感度が良くなった。
『住所は横浜市...一丁目の...助けて...さい、家が壊れ...無線で...送って...す』
ナオトは少しだけ感心したように頷いた。
「違法無線機でラジオの周波数帯に助けを求めるなんて面白いこと考えつくな」
「住所、結構近いっすね」
「この手の無線で届く距離なんて、たかが知れてんだよ」
「やっぱり、聞いたからには助けに行かなくちゃならないんですかね?」
そんな法は無いとナオトが黙ったままラジオの感度を調整している間、まーさんは、チェ・ゲバラの頬に付いた焼き肉のたれを手で落とそうと必死になっていた。
『15...の中学三年生です。 助けてください、』
「ナオト君、助けに行きましょう」
女の子、それも同学年のSOSにちょっとした運命を感じて、思わずソファーから立ち上がっていた。
「えぇー、俺はいいよ、一人で行ってこいよ」
「何言ってんすか! 人命が関わってるんですよ!」
翔太の本心は違う、というのは二人とも分かっている。
「俺は行かんぜ」
まーさんが三本目のビールを取り出して言った。
「面倒な上に家から出たくねぇ」
「えー、そんな!」
何かを言おうとした翔太にまーさんが目配せして頷いた。
——俺に任せとけって。
「どうせ二人とも今日はここに泊まっていくんだろ? だったらご破産になったキャンプ代わりに明日にでも行ってくりゃ暇つぶしにもなるだろ。 壊れた町並みなんて滅多に見れるもんじゃないからな」
「そうですよ! ナオト君! 行きましょう!」
「えー、面倒くせぇなぁ」
飲み干したビールの缶を投げ捨て、金玉の位置を直してながらナオトはようやく答えた。
「あぁ、しゃぁねぇなぁ...じゃあ明日の朝行くかぁ?」
喜ぶ翔太を無視しながら、まーさんとナオトは早くも明日の準備の算段を始めていた。
「荷物は夏だし水は4L、食料、塩の錠剤、それと定時連絡用にCB無線だな」
「キャンプ用の装備からテント抜いて、後は全体の量減らせばなんとかなんだろ」
「そこまで距離はないしな」
「食料はまーさんの缶詰コレクションから勝手に持っていくぜ?」
「タラバガニの缶詰だけは持っていくなよ!」
言いだしっぺの筈なのに翔太は、ビール片手に装備と明日の予定について話し合う二人に割り込むことも出来ず、眺めることしかできなかった。
翌朝早く、マウンテンバイクに跨がった二人は国道の脇を通る大きな線路を横目に一息ついた。
「次の道路を右に曲がってから横道に入るぞ」
「了解っす」
地図を確認している時に翔太はまーさんからいくつか注意されたことを思い出していた。
一つ、幅の狭い道路は使わない。
二つ、川と崖の近くは通らない。
三つ、建物、特にビルからは6メートル以上離れること。
それでも、目的地へ向かうには住宅の密集した狭い裏路地を一度抜けるしかない。
気温は朝方といえども32度を越えていて、汗でじっとりと濡れたシャツが気持ち悪い。
バッグにぶら下げたラジオからは、あの違法局の音声はザリザリという雑音の音にかき消されて聞こえない。
翔太は一息に飲み干したくなるのを我慢しつつ、ちびちびと水を飲んでいると植栽へ小便をしていたナオトがだしぬけに言った。
「おい、先に言っておくけど」
「なんすか?」
ナオトがいつもより声を少し落として続けた。
「これから通る道な、古い住宅が多いんだ、声掛けられても止まるなよ」
ナオトと翔太は震度6強の地震で東京に何が起きたのかを直接見てきた。
だからこそ、東京から戻ってくる時も国道沿いをできるだけ通ることを心がけていたのだが、今回は馴染みの深い場所で、しかも自分から通ることになる。
「...了解っす」
「まぁ心配すんじゃねぇよ」
急にガハハと笑ってから、ナオトはマウンテンバイクに跨がり直した。
裏通りは翔太が思った以上に惨憺たる状況ではあった。
夜明けからまだ間もない朝五時だと言うのに、倒壊した家屋の周りで家財道具を探す人々や家族を呼びながら瓦礫を除けようとする人の声があちこちで聞こえてくる。
取り付く人のいない倒壊家屋には、家族の安否を知らせる札が少しでも目立つ位置に取り付けてあった。
その中を路面と瓦礫に苦戦しつつ走りながら、二人は助けを求める住民達を無視して走った。
翔太が顔を背けて走る前を、ナオトはそれでも助けを求める人達を怒鳴りつけては追い払っていった。
そんなナオトの行為を見たくはないが、通り過ぎざまに吐かれる侮蔑の言葉に、翔太は若干の憤りも感じていた。
まーさんとナオトは近隣でよく知られた不良学生で、まーさんは工作実験と称した破壊活動の常習者、ナオトは喧嘩っぱやいので、学校だけでなく町中ですら騒動を起こす始末で、地元の商工会や自治体はおろか、近所ですら腫れ物に触るような扱いになり、いつしかすれ違えば後ろ指を差される立派な町の爪弾き者になった。
もちろん、それらは自業自得なのだけど、こんな時だけ助けを求めるような住民に、意地悪く調子の良さを感じてしまう。
突然、ナオトが急ブレーキをかけた。
半壊した建物の陰から人影がナオトの前に飛び出してきていた。、ナオトはタイヤが地面に擦り付けられるあの嫌な音をさせつつ、車体を傾けてマウンテンバイクの速度を急速にゼロまで持っていくところだった。
ほとんど地面と水平になっていたマウンテンバイクが丁度人影の10センチ手前で停車して、お互い怪我が無い事を確認してようやく、ナオトが声を荒げた。
「テ...テメェあぶねぇじゃねぇかよ!」
「ごめんなさい! でも助けがいるんです!」
立ちはだかった制服姿の少女を見ながら、翔太はすぐに気付いた。
自分たちと同じ制服で、襟章は同級生を表す赤だ。
最初は不安そうに顔色を伺っていた相手も、ナオトと目が合った途端に誰を止めたのか分かったらしい。
「もしかして金田君に...根本君?」
「あぁ? えーっと...誰だよ?」
同じクラスの生徒だというのに、ナオトはピンと来ないらしい。
「もしかして許村?」
翔太が代わりに答えた。ナオトは知らないだろうが、ナオトやまーさんが起こす騒動の被害者になった生徒は皆この保健委員のお世話になっている。
「もとむらぁ? しらねぇな」
「知らないって、貴方のせいで私いっつも授業中断して保健室に連れてかなくちゃならないし、すごく迷惑かけられてるんだけど、それでも私の事は知らないって?」
「俺がこさえた怪我人を、お前が勝手に連れて行ってるだけだろ?」
横柄なナオトの態度に、許村は気を取り直そうとするかのように一度深呼吸して諭すように言った。
「お母さんを避難所に連れて行くのを手伝って欲しいの」
ナオトは表情を変えず、半壊した許村の家をしげしげと眺めて言った。
「怪我してんのか?」
「うん、余震で箪笥が倒れてきたときに足を怪我しちゃって…昨日はなんとか過ごせたんだけど水道も電気も止まってるし...しかもこんな状態で女二人なんて不安じゃない」
ナオトは翔太を一瞥してから少し考えるように俯いて、言った。ただ、表情を隠すつもりはないのか、その顔はいつものようにニヤニヤとしている。
「怪我人、連れていけばいいじゃねぇか、保健委員だろ?」
ナオトの冷酷な返答は翔太にとっても意外だった。
「はぁ?! 今まで誰も助けてくれなかったのよ!」
許村が怒気を強めていった。
腰に手を当てて正面からナオトを覗き込むように睨みつける姿をみるにつけ、もしかしたらナオトからは制服の襟から胸元が見えているかもしれない。ちょっとした嫉妬が湧き出てくるのを閉め出しつつ、思わず翔太は天を仰いだ。
睨みあいが——睨みつけているのは許村だけだけど——一生続くような気がしてきて、滅入ってくる。
とにかく、こんなことを続けるには今日は暑すぎる。
「ナオト君、埒が明かないし助けてあげた方がいいんじゃないすかね」
最初に反応したのは、ナオトだった。
許村はと言うと、驚いた表情で翔太を見ている。 ナオトの飾りか金魚の糞だと思ってた。 とでも言いたげに。俺がこんな発言をするとは思っていなかったらしい。
「つまりしょーちゃん、お前が助けんのか?」
「いや、皆でっすよ」
翔太はナオトを見つめたまま、彼が何か言うのを待った。ナオトがなんだかんだ翔太の意見も尊重してくれるのは知っていたし、ナオトも翔太の提案を期待していたような気がしたのだ。
「偉そうな事言う割に、他人任せな奴らだな。 夏音、さっさと案内しろよ」
肩をすくめてから、ナオトはマウンテンバイクを降りた。
「あ、うん。 ていうか…名前覚えてるじゃん」
「それと金田君じゃなくて、ナオト君な」
言いおいて一人でずかずかと入っていくナオトを見ながら、翔太は水を一口含む。
汗を拭って追いかけようと思ったところで、ようやく許村がこちらを見ていることに気付いた。
「なに?」
「あ、えと、さっきはありがと」
「ナオト君はああ見えるけど、いいトコを引き出す手続きがちょっと面倒なだけなんだよ」
「ふうん、こう言うのも何だけど、問題さえ起こさなかったら、もっと楽しい学校生活送れそうなのに」
「おい、テメェら早く来いよ!」
庭先からナオトの鋭い声が聞こえてきた
「でも確かに、学校の印象よりはちょっとだけイイ奴なのかもね」
許村はそう言って、ほんの少しだけ笑ってから、家に戻っていった。
「あら、夏音のお友達? よく来てくれたわねぇ」
布団に寝かされた許村の母親は意外にも元気そうだった。
父親は勤務先から帰ってこれないらしく、二人は崩れかけの和室で一夜を過ごしたらしい
「俺がツレだったら夏音のやつぁ、他にお友達がいなくなっちまうぜ」
ナオトはバッグを許村の母親の近くに無造作に置くと、許村に振り返っていった。
「これから足診るからよ、夏音、お前は避難所に持ってく身の回り品用意してこい」
「うん…分かった」
「持ち歩ける量だからな! 生理用品も忘れるなよ!」
念を押すように言ったナオトに、一瞬顔を曇らせたものの許村は素直に従った。小走りで廊下へと出て行った許村を見送ってから、ナオトは振り返って翔太へ人差し指を突きつけた。
「それとしょーちゃん、お前はまーさんに定時連絡しとけ」
「了解っす」
バッグにしまったトーキーを取り出し、翔太はマイクに向かって語りかけた。ナオトとまーさんがよくお遊びで使っているのを横で見ているから、自分でもある程度の使い方は分かっているつもりだった。
『えー、こちら、翔太、翔太です。 まーさん、取れますか?』
予想に反して、返事はない。
『まーさん、翔太です。 取れますかー?』
相変わらず返事がないので似たような文言をさらに続けようとした時、後頭部に物凄い衝撃が走った。
翔太の目の前を無数の星がちかちかと舞った。
「PTTスイッチ押したままで受信できるわけねぇだろうが」
「ご、ごめん」
「貸せ」
許村の母親が何かを言ったのを聞き流しつつ、ナオトは翔太からトーキーをひったくった。
『あー、こちらナオト。 現在地は許村夏音の家だ。 ちょっとタスクが増えちまったが問題ねぇ』
ナオトは簡潔にそういうと、トーキーを翔太に投げ渡してから再び許村の母親に向かっていった。
「定時連絡ってのはこうすんだよ」
ほぼ同時に、無線機からまーさんの聞きなれた声が流れてきた。
『はいはい、毎度毎度のまーさんだ。 許村夏音の家って、随分珍しい組み合わせだな。 どーぞ』
慌てて、トーキーを握りなおす。
『いや、途中で会って、許村のお母さんが怪我してるって、それで今家にいるんすよ』
流石にもう殴られたくないので、今度はきちんとPTTスイッチを切った。
『ああそうかい、ご苦労なこった。 んでラジオの災害情報だが、 被害はそっちの方に集中してるようだ。交通路のほとんどが規制されているらしい』
『こ、こちら翔太。 了解っす』
『そういやよぉ、タラバガニの缶詰が見当たらないんだが』
『あ、えーと、どっかひっくり返った荷物の中にあるんじゃないっすかね』
『まじかよ、もう一度探してみるか』
それきり、無線機はうんともすんとも言わなくなった。
一息ついて翔太が振り返ると、ナオトはバッグの中から救急キットを丁度取り出したところだった。
「おばちゃん、安心しろよ、二人共避難所に連れて行ってやるからよ」
「いろいろと、ごめんなさいね」
ナオトは救急キットから包帯と湿布を取り出しながら肩越しに翔太へ振り返ってから言った。
「おい、なんか添え木になるもの持ってこいよ」
「えっと、どこから持ってくれば...」
「いいから行けっつうの」
鉄拳が飛んでくる雰囲気を感じて、翔太は部屋を飛び出した。
納屋で障子の組子を3本ほど拾って渡すと、ナオトはそれを手馴れた様子で右足に添えると、包帯を注意して縛っていった。
「なんか意外ね」
いつの間にか戻ってきた許村が、ナオトの邪魔をしないよう悪戯っぽい顔で翔太に囁いた。
「自分で保健委員やればいいのにね」
喧嘩した相手を保健室に連れて行って治療するナオトを想像して、思わず吹き出しそうになった。
「よし、これでいいぜ」
「どう? お母さん、痛くない?」
許村が母親に向かって心配そうに尋ねた。
「大丈夫よ、元々怪我だって見た目ほど酷くはなかったの」
「おばちゃんよぉ、こいつはあくまで応急処置なんだ。 準備したらさっさと行くぜ」
ナオトが割り込むと、そのまま強引に会話を切り上げた。自分のバッグに救急セットを手早く詰め込みなおして軽く叩いてから、ナオトは翔太に向かってにかっと笑った。
「んじゃ、しょーちゃん。 避難所までおばちゃんのこと運んでいけよ」
一瞬固まってから、翔太は確認するように呟いた。
「え…俺が一人で運ぶんすか?」
「当たり前だろ。 オメェが言い出したことだからな」
避難所までの道は影まで焼きつきそうなお天道様の下で自分と同じぐらいの体重の人を戸板に乗せて運ぶ、という翔太が今までに味わったことのない苦行だった。
翔太の代わりにマウンテンバイクを押す夏音に気遣われつつ、音を上げそうになる腕と膝を、見栄と根性で使い潰して、ようやく許村の母親を避難所の体育館に下ろした。
許村の母親から言われたありがとう、という言葉をナオトが全て掻っ攫っていっても、翔太には文句を言う気力すら残っていなかった。
一時間ほどの休憩の後、運行を停止した東海道線や京浜東北線の線路を横目に蝉の音が響き始めた国道一号線を翔太達はひたすら速度を上げて南下していた。
「ねぇ、もっと速度出してよ!」
許村夏音が向かい風を受けながら楽しそうに言った。
風を掴むように広げていた右手を翻して、翔太の肩を叩く。
翔太の肩を握った左手には汗を吸って濡れた服の相当気持ちの悪い感触があるはずなのだが、許村は気にする風でもない。
「オメェ、なんで付いて来たんだよ!」
「なんでって、私の勝手よ! それにあんた達二人放っておいたら何か問題起こすでしょ!」
ハブステップに立った許村が向かい風にまけじと大声で答えた。
車道をすれ違う人や交通整理の警官の奇異と怒りの混じった目線は気にならないらしい。
前を走るナオトと一瞬目が合ったものの、苦虫を噛み潰した表情なのかにやりと笑ったのかは分からなかった。
「お母さんと一緒じゃなくていいの?」
「折角の夏休みなのに地震で台無しにされたくないのよ!」
「夏休みって、許村何か部活やってなかったっけ?」
「陸上っ、部! って、わぁ...っと!」
横浜駅へと近づいていくにつれて目立ち始めた道路の隆起や陥没を飛び越える度、許村が素っ頓狂な声を上げた。
自然と、翔太は自分の肩を掴んだ夏音の手に力が篭るのを感じた。ナオトはと言えば、そうした瓦礫や道路の隆起を器用に避けながら振り返りもせずに先を進んでいた。
「根本君てさ、なんであの二人といつも一緒にいるわけ?」
翔太はハンドルを操る手に意識を集中しながら、ほんの少しだけ考えた。
「友達だからっしょ」
「友達っていうか、ただのパシリじゃん」
翔太からは許村の表情は分からないけれど、少なくとも笑ってはいない気がする。
「あの二人みたいに喧嘩が好きってわけでも、趣味が合うわけでもないんでしょ」
翔太は目の前の瓦礫を越えるのに集中しているふりをして無理矢理会話を断ち切った。二人との付き合いを否定されているような気がして、これ以上何も言いたくなかった。
立町の歩道橋が見えてきた時、先行していたナオトが何やら迷彩服を来た大人達となにやら揉めているのが見えた。
「あれって、もしかして自衛隊じゃない?」
まーさんが部屋に飾っていた自衛隊のポスターを思い出しながら、翔太は頷いた。制止する自衛隊員達に向かってナオトは身振り手振りを交えながら、通してくれと訴えているらしい。
翔太は、封鎖の50メートル程後ろでマウンテンバイクを停めると、許村がハブステップから軽やかに降り立った。
「行かなくていいの?」
「こういう時は何人で行っても無駄だよ」
二人が様子を見ている間、自衛隊員と散々やりあっていたナオトも、さらに10分ほどたっぷり駄々をこねてようやく諦めたようだった。
「こういうこと、初めてじゃないんだ?」
「似たようなコトは何回か」
「ほんと、悪友って感じね」
許村はそうは言いつつ、ゆっくり戻ってくるナオトと翔太を交互に見て笑った。屈託のない笑いに翔太は思わず目を逸らして、努めて不躾に言った。
「悪友じゃない、仲間」
「仲間?」
「そう、友達じゃなくて仲間」
「この道はどうも駄目みてぇだな、もう完全に封鎖されちまってるよ」
戻ってきたナオトが言った。
「別のルートっすかね」
「山を迂回する道はあるんだが、あいにくそっちでもあちこち崖崩れが起きてんだってよ」
ナオトは翔太のバッグに掛けていたラジオのボリュームを全員に聞こえるように最大まで捻った。
まーさんの家で聞いたよりも、その声は大きく鮮明に聞こえる。
ラジオから流れる住所は、この立町の交差点を越えて坂道を上ればすぐの位置にある。
「あともう少しなんだがな」
「いいじゃない、その迂回するルートから行けば」
許村がさも当然のように口を出した。
「オメェ、横浜は山やら坂がクソ多いっつうのに崖崩れなんて起きたらまともに通れるわけネェだろ」
「そんなの程度によるじゃないの。 それに、実際無理そうだったら上る前から分かるわよ」
言い合う二人を見ながら少しだけ迷ってから、翔太は覚悟を決めた。
「折角ココまで来たんだし、行くだけ行ってみないっすか? そのルート」
「おいおいショーちゃん、俺達も違法無線局を流すハメになるぜ?」
「でも、俺達が行かなかったら、誰も彼女に気づかないかもしれないっすよ」
「ねぇ、他にもっとちょっとした道とかないの?」
「あぁ? 山の上にある寺を抜けるルートがあった気がすんだけど、あんまし道覚えてねぇな」
「あるじゃない!そこのルートにしましょ!」
夏音の有無を言わせぬ決定にナオトは「へいへい」と一言だけ嫌そうに答えた。
三人は一度国道を大きく戻ってから、避難所になっている小学校の前を曲がった。ナオトの話ではそこから坂の上まで走っていけば自ずと寺の敷地まで辿りつくらしい。立て壊しにあったかと思うような家がいくつかあったものの、思っていた以上に道路に被害はないのは幸いだった。
おかげで三人は大した時間もかけずに寺へと続く坂まで辿りついた。
「寺さえこえりゃ、後は下ってすぐだな」
息を切らしながら、ナオトが坂道を睨みつけて言った。
「あら、ナオト君。 随分辛そうね」
一人先頭を歩いていた許村がくるりと振り返って笑った。首筋から流れるの一粒の汗が、息が弾むのに合わせて制服の内側へと消えていくのを見て、翔太は少しどきっとする。
「オメェ…こっちはマウンテンバイク押しながらバッグ背負ってんだぞ」
「それ以前に、タバコの吸いすぎなんじゃない。 ねぇ、根元君もそう思うでしょ?」
許村がにこにこしたまま翔太へと向かって聞くと、返事する間もなくナオトが言葉を継いだ。
「お前、荷物背負ってこの暑さの中進むのがどれくらい大変かわかんねぇだろ」
「それだけ息切れてても、吸いたくなっちゃうの?」
「吸いたくなるのは俺の勝手だ」
「ふぅん、でも私がいない時に吸ってよね。 私まで同類って思われたくないもの」
真面目に生活を送っている許村と、それとは間逆のナオトが喋っているのを見ながら、何事もきっかけ次第だな、なんてことを翔太は考えていた。
「あっ、これ、結構ヒドい」
一足先に坂道を曲がろうとしていた許村が不意に足を止めて言った。
数秒後に許村の立っている場所に着いた二人が見たものは、巨大なブルドーザーで道路ごとひっくり返したような土砂崩れの現場だった。ぽっかりと無くなった道路の先に置かれたカラーコーンの下では、赤黒い土や千切れたフェンスの一部分が一緒くたになって住宅の窓を突き破っている。
「寺の敷地に入るのは無理そうだな」
崩れた崖の周りを検分していたナオトが言った。
先程までの元気が萎びたらしい許村の横で、翔太とナオトは互いに目を見合わせて頷きあった。
「ナオト君、やるしかないっすね」
「あぁ? まぁ確かに他のルート探すのはだるいしなぁ」
口には出さないものの、口をヘの字にした許村が答えを急かしているのは分かった。
「ここから登るんだよ」
ナオトは、崩れず残っていたおよそ2.6メートル程の高さの寺の石塀を指した
「チャリといらない荷物は此処に置いていくぞ」
ナオトと翔太は手慣れた様子で必要のない荷物を隠すと、塀の上へすっかり軽くなったバッグを投げ込んだ。深呼吸してから石塀に寄りかかると、バレーの選手のように両手を組んで待ち構えた。
翔太が頷くと、ナオトは慣れた様子で両手に右足をかけてから、さらに右膝を足場にしてあっという間に翔太の両肩へと登った。
よし、という声が聞こえた次の瞬間には、ナオトは石塀を乗り超えていった。
「おい夏音! 今やってみせたように登ってみろ」
塀から顔を出したナオトが言い終わるより早く夏音は首を降った。
「待って!私にもこれをやらせるつもり?制服なんだけど!」
「ん?だからどうしたんだよ?」
「私スカートだから最後に登りたいのよ!」
「最後って、オメェにゃしょーちゃん担げねぇだろ?」
「それだったら、結局根本君が最後になるじゃない。 どうやって登るのよ」
人ハシゴの体勢のまま、五分と一二秒間、翔太は二人のやりとりを聞かされる羽目になったものの結局、登ってる間は絶対に上を見るなと念押しした上で、許村が折れた。
許村がなんとか登った後、約束を破って多少の元気を貰った翔太がどうやって登ったのかといえば、助走をつけてジャンプしてナオトの手に捕まる、というただそれだけだった。
「最後に一服しようぜ」
寺の駐車場の脇に生えていたミズナラの木の陰にどっかと座り込みながら、ナオトがタバコを取り出した。
「お前らも今の内に休んどけよ、熱中症で倒れちまうぞ」
ジリジリジワジワと蝉の鳴き声が響きわたる中、三人は暫くの間誰も喋りだそうとしなかった。
駐車場も、そこから見える景色も、ナオトの吐き出す煙以外には動きらしい動きはまるでない。
翔太も同じようにタバコをくわえた時には許村はこちらをちらりと盗み見たものの、文句を言うそぶりは見せなかった。
『32時間が経ちました。 飲み物が必要です。 誰か、誰か助けてください』
ラジオから流れる音は目的地が近いせいか、彼女が背後で気休めに流している音楽が微かに聞こえる程にノイズが気にならなくなっていた。
「コイツ、イイ趣味してんな」
放送を黙って聞いていたナオトが、急にくつくつと笑い出した。ナオトが何故笑っているのか分からず、許村も翔太と同じように当惑していた。
「バックに流れてるヤツ、|パピヨン・スー(papillon soo soo)の曲だぜ、これ」
「誰それ?」
ナオトを挟んで座っていた許村が、小首を傾げながら聞いた。
「ミー・ラブユー・ロングタイムで今度調べて見ろよ」
「全然聞いたことないわね」
「そりゃ、古い映画に出てくる曲だからな」
「助けた奴が可愛いと良いなぁ、しょーちゃん」
ナオトは相変わらずにやついたまま、何度も翔太の肩を叩いてから煙草を地面に押し付けた。
その時バッグに入っていたCB無線から、ガリガリという雑音混じりに声が流れてきた。
『おい、ナオト。 定時連絡もねぇ、カニ缶もねぇ、どうなってる?』
ナオトはマイクを掴もうともせず、水を勢いよく飲んでからそっぽを向いた。
「おいしょーちゃん、なんか返事しとけよ」
「あっ、わたしやってみたい」
手を上げた許村に無言で応じて、翔太はバッグごとCB無線を手渡した。
マイクの使い方を簡単に教えてもらってから、許村は少し緊張した様子でトーキーを口元にあてた。
『もしもし? 聞こえますか?』
少し長い間を置いてから、まーさんが答えた。
『混線しちまったか。 クソっ、誰だ?』
『許村夏音、知ってる?』
『許村? 一体そっちはどうなってんだ、もしかしてまだ避難所にいんのか?』
無線機越しでもまーさんが驚いているのが分かったのか、許村はくすくす笑ってからさらにからかうように続けた。
『ううん、今は立町近くのお寺の駐車場』
『まじかよ、もしかして二人にくっついてきたのか?』
『だって、放っておいたらなにしでかすか分からないし』
『お前、保健委員の割には随分とやんちゃなコトに首突っ込むもんだな』
『折角の誕生日と夏休みを地震で一緒に潰されちゃったんだし、一日中避難所にいるのも味気ないじゃない』
『ああ、なんつーか...まぁ、誕生日おめでとう』
許村とまーさんの会話を黙って聞いていたナオトは、許村へマイクを貸すように手振りで示した。
『そろそろ行くぜ』
『あ、ああ、気をつけてな』
バネのように立ち上がったナオトの後を追って、翔太は重い体に喝を入れて立ち上がった。
「そういえばさ、聞こうと思ったんだけど」
ぽんぽん、とスカートについた埃を落としながら許村は翔太へと視線を向けた。
「なんだよ」
「なんで3人はそんな仲良いの?」
「そりゃ、他にツレががいねぇからよ」
「ナオト君には聞いてない、私は根本君に聞いてるの」
許村の言い方にナオトが怒りだすのではないかと翔太は思ったものの、当のナオトは気を悪くするでもなく話題を翔太へ譲った。
「いやまぁ、なんつーかやっぱ仲間だし」
翔太はそう言ってはみたものの、他に明確な理由も思いつかなかった。
「仲間。 へぇ、それって友達とは違うんだ?」
許村の質問への答えを、バッグを担ぎなおしたり水を一口飲んだりして時間稼ぎしつつ、翔太はどう答えようか迷っていた。
「友達か仲間か、なんてな。 簡単に分かるぜ」
答えに窮した翔太を見ながらナオトが言った。
「1ヶ月あらゆることを一緒にやって楽しけりゃ、そりゃ仲間だろ」
「じゃあ、私は仲間じゃないってこと?」
「そりゃ、夏音次第だろ」
結局、ヒートアップした許村の友達論を延々と聞かされながら、3人はまた歩き出した。
“女の子との付き合い方”とかいうよく分からない話を聞かされている時にナオトがうっかり“こいつは彼氏ができそうにない”なんて言葉を言ったが為に、許村の逆鱗に触れて会話から締め出されてしまった。許村から解放されたナオトがラジオから聞き取った住所と地図、そして傾いた電柱から目的地を確認しているのに気づかず、話に熱中していた二人はナオトの怒鳴り声が無ければ危うく行き過ぎるところだった。
「まーさんが言ってたようなアンテナは立ってないけど、本当にここっすかね」
拳骨食らった頭をさすりながら、翔太が聞いた。
「無線っつってもコンセントに端子ぶっ刺して電灯線をアンテナ代わりにする方法があんだよ」
ナオトがガラスの無い窓に頭を突っ込みながら答えた。建物は屋根が不自然に傾いており、家の中は残骸が埋めている。続いて、翔太も横から玄関に半身を入れて屋内の状況を覗いた。
中は薄暗く、めちゃくちゃに荒れているものの落ちて傾いた梁や壁材にさえ注意すれば、なんとか進めるスペースはありそうだった。
さらに一歩踏み込もうとした翔太を、ナオトが首根っこを掴んで制した。
「オメェ、通れそうに見えてもいつ崩れるかどうかもわかんねぇんだぞ」
「ここまで来たのに、今更引き下がれないっすよ」
「チッ、しゃぁねぇな」
ナオトはズボンのポケットをごそごそと漁って、防災用の笛と軍手を翔太の胸へ押しつけた。
「中で頭守るもんあったら、拝借しろ」
ナオトの目はいつものようには笑っていなかったものの、翔太にとっては今はそれが心強い。
「了解っす」
「よし、夏音」
ナオトの真剣な表情を察したのか、許村も黙って頷いた。
「お前は...そうだな、自衛隊でも消防でもいいからとりあえずその手の人間呼んでこいよ」
「うん、分かった」
「なんだおめぇ、随分素直になったな」
ナオトは一瞬にやりと笑い、CB無線機を家のブロック塀の陰に置いて手早くまーさんに現状の報告をしはじめた。
『そういや、まーさんよ。 例の件、やっぱ俺の勝ちだぜ』
『最初俺が言ったじゃねぇか、賭にならねぇって』
『つっても、結局そっちに張ったのまーさんだろ?』
『まぁな、でもまだ確定したわけじゃないだろ?』
『救難無線のバックでミー・ラブユー・ロングタイム流してるんだぜ? そろそろ何奢るか考えといた方がいいぞ』
「ねぇ、何の話?」
「さぁ?」
トーキーを置いたナオトに向かって、許村が同じ質問を繰り返したものの、ナオトはにやにや笑うだけで全く取り合わなかった。
「個人的な賭の話だからな、お前らが聞いても面白くねぇって」
「翔太君だって蚊帳の外だし、かわいそうじゃない」
「いや、俺はあんまり知りたくはねぇっす」
二人がコソコソしている時は大抵良い話じゃない、聞かないで済むならその方がいい。翔太をダシに話を聞き出すのに失敗した許村は、不機嫌そうにさっさと人手を探しに行ってしまった。
「おい、地下室の入り口はよく探せよ」
柱や重なり合った瓦礫の強度を確かめながらそろそろと進んでいたナオトは、翔太に振り返りもせずに言った。
玄関に全ての荷物を置いて、二人は薄暗く蒸し暑い倒壊家屋の中を、ペンライトだけで這うように進んだ。軍手をはめた手が、汗と埃でベトベトして気持ち悪い。ナオトが照らすペンライトの光を受けて一面に舞っていた埃がちかちかと輝くのをみるたび、喘息になりそうな気がして、翔太はマスクも持ってくれば良かったと心底思った。
「なんだぁ、これ?」
翔太が上を見上げると、いくつもの雑誌が二階の床、つまり一階の天井から見え隠れしていた。地震で家が倒壊したのはこれが原因だろう、ものぐさな性格が命取りになったということか。
「結構な量っぽいし、落ちてきそうでコエぇな」
少しばかりの身の危険を感じたのもあり、二人はさっさと地下室を探すことにして、最低限動かせるものだけ邪魔にならないように除けながら進んだ。
少し進んでは瓦礫の隙間から奥を覗き込んでいたナオトが、突如怪訝な表情で呟いた。
「もしかして地下室って、アレか?」
ナオトに続いて通路の先に目を凝らした翔太は、障害物に阻まれた通路の先にある段差の低い階段に取り付けられたドアがあるのを見つけた。
ただ、ドアの上には瓦礫や建材といったものが山積みになっていて、辿りつくだけでも去年やらされた障害物競走よりも難度が高そうに見える。
それでも、ゆっくり慎重に這っていけば、ドアの前まではなんとか一人は行けそうだった。
「これ以上はヤバ過ぎるぜ、俺達で救助は無理だ引き上げようぜ」
「俺の体格なら行けますよ、せめて生存確認だけでもしましょうよ!」
「しょうがねぇな、5分で戻ってこいよ」
身を縮こませたナオトの脇をすり抜けて、翔太は妙な曲がり方をした壁材の下を這い進んだ。膝を立てることもできない強烈な圧迫感とこもった熱気、ガラス片や尖った木材やらが食い込むたび、嫌な汗が背中をさらに濡らしていくのが分かった。
ドアまでのたかだか数メートルの距離が、思った以上に遠く感じる。
「瓦礫かなんかぶつけて、そこで合ってるか確認してみろ」
ようやく後1メートルほど近くまで近づいたところで、手元に落ちていた木片を地下室の入り口へと投げつけた。
二度、三度と同じようにぶつけた時、地下室のドアからコンコン、という返事が返ってきた。
念のため、もう一度同じことを繰り返してから、翔太は後ろで見ている筈のナオトへ叫んだ。
「ナオト君! ここで間違いないっす! 返事ありました!」
翔太は一旦戻ろうとして体をもぞもぞと動かし、右足に引っかかった椅子の残骸をむりやり脇へどかそうと力を入れた。上方で何かが折れた音が聞こえたとほぼ同時に、物凄い量の埃が目の前に落ちてきてもうもうと舞い上がった。頭上からは何かが折れたり落ちる音があちこちで聞こえてくるのに、舞い上がる埃で何も見えなかった。
――やばい、死ぬ。
「翔太!!」
頭のてっぺんからつま先まで余すところなく竦んで動けなかった翔太の両足を、ナオトが思い切り掴んだ。
猛烈な力で引っ張られている自覚はあっても、翔太は目の前で次々と瓦礫が崩れていく光景から目を離せなかった。先ほどまでいた空間がすっかり瓦礫の山に塞がれているのを呆然と眺めながら、腹這いになったままナオトに対する感謝の言葉すら口に出せなかった。
「おい、しょーちゃん」
頭をぺしぺしとはたかれ、さらにナオトの拳骨が飛んできてようやく、身体の感覚がどこか別の世界から戻ってきた。
「早く来いよオメェ、さっさと出るぞ」
「り、了解っす」
ナオトの背を必死で追いかけながら家から飛び出て、翔太はフラフラと座り込んだ。ショックで気の抜けた翔太を尻目に、悠々とタバコをくわえて空を仰いでいたナオトが、突然ゲラゲラと笑い出した。
「いや、すげー危なかったな。 アドレナリンドバドバ出まくったぜ」
「笑い事じゃないっすよ」
「いや、おもしれぇな、まじでおもしれぇ。 とにかく吸えよ」
ナオトの吸いかけのタバコを受けとった翔太は、気を落ち着かせようとタバコの煙を吸い込んだ。
「とにかく俺たちじゃもうどうしようもねぇし、夏音待ちだな」
「いやもうほんと、これで可愛くなかったらやる気無くなっちゃいますよ」
翔太がゆっくりと吐き出した煙が様々に形を変えていくのを眺めつつ、ナオトが聞いた。
「しっかし、今回は命張り過ぎだぜ、しょーちゃん」
「いや、だって」
「俺やまーさんだって、楽しく生きてたらたまたまそういう機会があっただけだしよ」
「こんな調子じゃ童貞捨てる前にお陀仏だぜ?」
言い終えてから、ナオトがくつくつと笑った。
「なんていうか、それだけじゃなくて、二人が羨ましいんすよね」
翔太はどこか遠くをぼんやり見ながら、今しか言えない気がしたことをつい口走っていた。
「ナオト君もまーさんの武勇伝みたいな、すごい体験が欲しいっていう感じなんすかね」
「お前、クッソ恥ずかしいこと言ってんぞ」
ナオトが二本目のタバコに火を点ける時、翔太はその横顔が少し嬉しそうな表情をしているのに気が付いて思わず固まってしまった。
「好きなコトやって馬鹿笑いしてぇだけだよ」
「ヒマ潰しにバカやってるだけさ」
タバコをくわえたままラジオを両手でもてあそんびながら「にしても」とナオトは続けた。
「お前、夏音のことどう思ってんだ?」
翔太は一瞬呆気にとられたものの、話題を変えたいのだと思ってそのまま合わせることにした。
「どういうことっすか?」
「お前、まだ何かあいつのこと避けてる感じあんだろ」
「いや、自分的にはそんなことなかったっす」
「だって、俺と夏音の時で口調違うんだもんよ」
「今日会ったばっかじゃないすか」
「俺とかまーさんはそんなことしねぇぞ」
互いの言葉が切れた丁度その時、大型車両の重厚なエンジン音が坂の下から響いてきた。
「根本君!ナオト君!」
石塀から顔を出して音と声の方向を見ると、消防車の窓から夏音が大きく手を振って叫んでから、車内の人間と何事か話し始めた。
「アイツ、結構手際がいいじゃねぇか」
タバコを踏み消しながら、ナオトが感心したように言った。
消防車が家の前に止まると、少しやつれたような顔をした浅黒い顔の消防士が顔を乗り出してきて言った。
「この家に取り残された人がいるって?」
「地下室のドアに瓦礫ぶつけたら反応あったから俺らで助けようとしたんだけど、天井崩れてあぶねぇから逃げてきたっつーわけ」
「そんな危険な真似、遊びじゃ済まなくなるぞ」
「コイツでたまたま受信しちまったんだから、しょうがねぇだろ」
ナオトが手のひらに乗せたラジオをひらひらと見せつけた。
「違法無線局の電波を偶然拾ったんだ」
「アマチュア無線かなんかか」
関心したのか要領を得ないのか、消防士は少し考えてから言った。
「まぁいい、無線はともかく、今は一人でも多くの人を助けなきゃいかん 」
消防士達が次々と展開する中で、ナオトは消防隊の隊長に家屋の状況について分かる限りのことを伝えていた。
ナオトを見ながらぼけっと突っ立っていた翔太に向かって、工具を準備しながら若い消防士が笑いかけた。
「中に取り残されているのは、友達とか知り合い?」
「いや、ラジオ弄って聞いてたら、偶然電波拾ったんすよ」
「それでわざわざ助けにきたの?」
埃や煤にまみれたまま、ずっと救助活動をしていたであろう消防士を前にして、翔太はとても出会いが目的とは言えなかった。
「他に電波拾った人がいる確証もないし、それに相手、同い年の女の子なんすよ」
「女の子で無線か…なかなか、変わってるね」
消防士が苦笑してから、工具を担ぎ上げた。
「手伝ってもいいっすか?」
それはダメ、と即答すると、若い消防士は走って建物の中へ消えていった。
消防士達の動きは素早くテキパキとしていて、素人目にも厳しい訓練を積んだと分かるものだった。
消防士同士が掛け合う言葉に流石に気付いたのか、いつの間にかラジオの声は全くしなくなっていた。
「どういう子なのかな? 無線が助けを呼ぶくらいだから根暗な感じだったりして」
「貞子みてぇなヤツだったりしてな」
「だったらヤダなぁ、友達になれそうにないもん」
許村はナオトのバッグに入っていた水を勝手にあけながら、好き勝手なことを言っていた。ナオトはそんな許村に相槌を打ちつつ、ずっと消防士達の動きを眺めている。
翔太はというと、ラジオから流れていた声からあれこれと相手の容姿を想像して、時間を紛らわしていた。考えるほど、現実はそんなに甘くないと知りつつ自分の理想を想像してしまうのだから、どうしたって期待してしまう。
「救助者確保!」
いよいよその時が近づいてきたとあって、翔太はもう一度覚悟を決めた。消防士達が、続々と工具を持って家から出てくる。
消防士達の後ろから出てきたそれは、等身大のボンレスハムだった。
もしくはだるまに服を着せてドイツソーセージを据え付けたような、何かだった。
何かというより誰かだが、テカテカ光る額を手で拭う何者か、ということ以外分かりそうにない。
噴出す汗が一挙に冷や汗に変わるのを感じながら、翔太は助けを求めて視線をさ迷わせた。
ナオトは明後日の方向を見ながら肩を震わせて、許村はペットボトルを口に当てたまま固まっている。
ハム人間が何事もなかったかのように三人の横を通り過ぎる時も、ラジオの主は、翔太が助けようとした相手は遂に現れなかった。家屋から同僚と連なって出てきた若い消防士が翔太に気がつくと、気まずそうに目線だけで慰めた。
「おい、おっさん、中三の女で、ラジオやりながらパピヨン・スーを聞く奴なんていねぇよ」
ナオトの言葉にハム人間が一言も返すことなく姿を消しても、何故か消防士達は待っていてくれた。
『状況終了。 やっぱ俺の勝ちだったぜ、まーさん。 写真におさめてぇレベルの清清しいおっさんだった』
『翔太には気の毒だが、まぁ現実はそんなもんだろうな。 しっかし、今回はちっと一緒に行ってみたかった』
『くわしくは帰ってからな話してやるよ』
ナオトは時折笑い声を立てながら、CB無線でまーさんにコトの顛末を簡単ながら伝えているところだった。
「消防の人達が家の近くまで送ってくれるって」
許村がうなだれ、座り込んだ翔太を励ますように努めて明るく言った。
「元気出せっつっても、まぁショックはでけぇよな」
心の整理がつかないままの翔太の肩を、先に帰り支度を終えたナオトが軽く叩いた。
「夏音、俺達はチャリと荷物回収して帰るからよ」
「うん、じゃあ私は乗せてもらって帰る」
許村がこくんと頷くと、そのまま3人連れだって消防車の前までゆっくり歩いた。僅かな距離を歩く間、先頭を歩く許村の後ろにいたナオトが、翔太の腹に何か硬い物を押し付けた。
「お前はコレな」
腹に押し付けられたものはバッグに数時間入れっぱなしのまま、すっかり忘れられてぬるくなったビールだった。
「おい、夏音!」
消防車の前でバッグからカニの缶詰を取り出して、ナオトは許村に向かって放り投げた。
「まーさんと俺からだ、避難所で食え」
「あ、ありがと」
「それに、翔太からもあるぜ」
翔太は少し逡巡しながらも、ぬるくなったビールをそっと、許村の前に差し出した。
「ごめん、未成年の上にかなりぬるくなってるけど、これしかなかった」
「うん、ありがと」
車から消防士達の好奇の目線を感じて、翔太はなんだか急に照れくさくなった。
「おい、おめぇらお見合いしてんじゃねぇんだぞ」
じれったくなったのか、両手を組んで仁王立ちしていたナオトが声を張り上げた。翔太にとってそんなナオトの姿が少しおかしく見えるのは、ナオトが満面の笑みで言うべきことを待っているからだ。
翔太はナオトに頷き返して、ゆっくりタイミングを計ってから勢いよく言った。
「ハッピーバースデー!」
夏音は少し呆れたような顔をしてから、二人の目をしっかりと見た。
「 なんていうか、根元君とか結構最後かわいそうな感じだったけど、今日はいろいろありがと」
「ちょっとというか、確かに、結構ショックでかかった」
それ以上は何も言わず、許村に背を向けてナオトと翔太は歩き出した。
「翔太君! ナオト君!」
消防車に乗る前に、後ろから許村が呼びかけた。
「夏休み終わったら、また学校でね!」
二人は振り返らずに片手を上げて応えるだけにしておいた。
消防車のエンジン音が遠くに響いて消えてから、ナオトは感慨深けに呟いた。
「いや、最高に楽しかったぜ。 皮肉でもなんでもなく、いい笑い話になった」
「俺には皮肉にしか聞こえないっす」
いつも通りにニヤニヤ笑いながら、ナオトは大きく伸びをした。
「そうか? しょーちゃんは女と話すこともできたし、今日は悪くなかったと思うんだけどなぁ」
もしかしたら、確かに自分が思っている以上に今日というものは悪くはないかもしれない。
「良かったな、しょーちゃん。 また学校でね! だってよ」
くっくっと笑いながらナオトはタバコを二本取り出して、その一本を翔太に渡した。「さっさと帰って、酒飲もうぜ」
「そうっすね」
翔太はタバコをくわえながら、切り忘れていたラジオの電源を切った。