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苦手な方はご注意ください。

殺人事件と雪ウサギ

 ランドセルが重い。

 六年生にもなると、授業で使う物も増えるから仕方ない。

 足が重い。

 長靴が雪に埋もれて一歩ごとにいちいち引っかかるし、年の割りにチビだから歩幅も小さい。

 心が重い。

 転校初日から遅刻なんかしちゃダメだって、わかっているのに、わざわざ走る気力が出ない。

 自己紹介がうまくできる自信がない。

 はじめまして、春日鱧煮かすが・はもにです。

 東京から来た、春日鱧煮です。

 皆と仲良くなれるようにって、ハーモニーから来た名前です。

 いくら頭の中で繰り返し練習してみても、大勢の人の前に出てこんなにすんなり言えるはずない。

 昨日の雪が、今日の日差しを跳ね返して僕の目を射る。

 過疎の北国の通学路には、僕以外の足跡はない。

 林の中の小道。

 木の枝から雪が落ちる音が大きく響いて、僕はビクリと立ち止まった。

 前の学校でクラスメイトにぶたれた時のことを思い出した。

 音がした方を振り返っても一人ぼっち。

 教室に入ったところで一人ぼっちなのはわかってるんだ。

 はじめまして、春日鱧煮です。

 いじめられて二度転校した、春日鱧煮です。


 やがて校舎が見えてくる。

 行きたくないのに見えてくる。

 校門の周りにたくさんの雪ウサギが並んでいた。

 ここの生徒が作ったのかな?

 生徒の数が少なくて、一年から六年までの全員で一つのクラスになってるって聞いてる。

 ウサギの数もちょうど一クラス分くらい。

 少し不恰好なのは一年の子が作ったのかな?

 僕と同じ六年生は何人居るかな?

 不恰好な雪ウサギは、一匹だけ離れた場所でポツンとしている。

 僕はそのウサギを両手でそっと持ち上げて、他のウサギの輪の中に入れてあげた。

 勇気を出すんだ。

 僕は校舎に向き直った。

 教室の窓が見えた。

 中では年下の子達が楽しそうに騒いでいた。

 前に通った二つの学校よりもはるかに古めかしい木製の机。

 窓際の一番後ろの机の上に…

 花が飾ってあった。


 息が苦しい。

 心臓が締めつけられる。

 前の学校で何度もやられたことだ。

 あれは死んだ子供にすることだ。

 まだ誰とも逢ってすらもいないのに、僕はもう死んだことにされてるんだ。

 嫌だ。

 怖い。

 あんな教室には入っていけない。

 僕は後ずさりをした。

 ぐしゃり。

 嫌な音がした。

 足元を見た。

 靴の下から笹の葉っぱが…雪ウサギの耳が覗いていた。

 僕は校舎に背を向けて逃げ出した。




 林の中を走る。

 スマホに着信があった。

 おじいちゃんからだ。

 出るまでもない。

 僕がなかなか学校に行かないから、先生から連絡があったんだ。

 パパは仕事があるから東京を離れられない。

 ママも、弟についていないといけないからこっちには来られない。

 弟は、僕が落ちた私立の小学校に通ってて…転校なんかさせられないって…

 おじいちゃんの家は他の人の家から離れて、林の向こうにポツンと建ってる。

 おじいちゃんはとても厳しい人で、僕がこんななのはパパやママが甘やかしたせいみたいに思ってる。

 僕はスマホの電源を切った。

 手袋をしてても指がかじかんだ。

 どこか暖かい場所へ行きたい。

 町はどっちだろう?

 見渡しても、雪の林。

 スマホを取り出した。

 電源が入らなかった。

 手袋を外してやり直したけどダメだった。

 僕は走った。

 雪に足を取られて転んだ。

 僕は歩いた。

 歩いても歩いても、町も、おじいちゃんの家も、何も見えない。

 朝日の射し込む雑木林は、いつしか木漏れ日にすらぬくもりのない深い森に変わっていた。

 僕はこれからどうなるの?

 このまま凍えて死ぬのは嫌だ。

 きっとおじいちゃんが捜しに来てくれて学校へ…

 ううっ、どっちも同じくらい嫌だ。




 風を避けて木の根元にうずくまる。

 何か小さなものが視界の隅を走り抜けた。

 ウサギ…!?

 耳だけが黒い、ちょっと変わったウサギだった。

 それは僕に気づかずに走り去った。

 僕は足音を忍ばせて、ランドセルがガサガサいわないように気をつけながら、雪に残った跡をたどってついていってみた。

 切り株の周りにできた空間に、たくさんのウサギが集まっていた。

 それは普通のウサギではなかった。

 木の実の目玉と笹の葉の耳。

 雪でできたウサギが動いて、ピョンピョン跳ねて、走り回ってる。

 僕は木の陰から覗きながら何度も目をこすって確かめた。

「居ないね」

「あの子、居ないね」

「どこに行っちゃったんだろうね」

 雪ウサギ達は人間の言葉でしゃべっている。

 何だろう?

 仲間が迷子にでもなってるのかな?

 雪ウサギは友達想いなんだな。

 僕も一緒に捜してあげたいな。

 仲の良いウサギ達の仲間になりたい。

 人間とはダメだったけど、雪ウサギとなら友達になれるかもしれない。

「あの人間の男の子」

「この辺りでは見かけない子」

「絶対に見つけなくっちゃね」

 もしかして僕の話をしてるの?

 ドキッとして、わくわくした。

 だけど次に聞こえた言葉は…

「仲間が殺されたんだもんね」

「絶対に許せないよね」

「敵討ちだ!」

「敵討ち敵討ち!」

 そうだ。

 僕は雪ウサギの仲間を踏み潰してしまったんだ。

 ウサギ達に気づかれる前にこっそりそこから逃げ出して、僕はしばらくふらふらと歩いた。

 転んで、雪に頭を突っ込んで、おでこが冷えて冷静になる。

 雪ウサギがしゃべるなんてありえない。

 きっと僕は寒さで幻覚を見たんだ。

 やっぱり僕はこのまま死ぬんだ。

 人生の最後にあんな幻覚を見るなんて、僕はいったいどれだけ寂しいんだろう?

 どうせなら、どうせ最後なら、せめて人間の幻覚を見たいや。




 木々の向こうで何かがキラキラ光ってる。

 行ってみると、凍りついた滝だった。

 水が、流れ落ちる形のままで固まっている。

 その滝を見上げる、僕以外の人影。

 滝壷に張った氷の上に、女の子が立っていた。

 一目でわかった。

 その人は、この世の人ではなかった。

 日焼けした肌が、わかりやすく透き通って、後ろの景色が見えていた。

 長い黒髪。

 涼しげな眼。

 雪景色の中で強い印象を植えつける、空より真っ青なノースリーブのワンピース。

 彼女に何があったのだろう。

 右の手首には、その先がなかった。

 幽霊が、僕の気配に気づいて振り向いた。

 薄い唇が開かれて、冷たく澄んだ声がこぼれた。

「あたしを殺したのはアンタ?」

 殺した?

 僕が?

 思い当たるのは一つしかない。

 彼女はきっと雪ウサギの化身だ。

 僕は悲鳴を上げて逃げ出した。

「声が聞こえた!」

「あいつだ!」

「あっちだ!」

「見つけたぞ!」

 雪ウサギの群れが僕を追ってくる。

 逃げて逃げて気がついたら、僕は斜面を転がり落ちていた。

「あっちかな?」

「こっちかな?」

 斜面の上でウサギが僕を捜してる。

 誰かが僕の腕を後ろから引っ張った。




 体がドッと倒れ込む。

 ランドセルがクッションになる。

 周りの景色が雪の白から闇の黒に変わった。

 僕は仰向けになって洞穴の天井を見上げていた。

「…行ったわ」

 洞穴の入り口で女の子の幽霊が外の様子を伺っていた。

 僕は周りを見回した。

 洞穴の奥には藁に包まれた何かの山。

 ここは、ただの洞穴ではなくて、洞穴を利用した倉庫になっているみたいだ。

 僕がよたよたと起き上がると、女の子の幽霊が近寄ってきて、僕の顔をじっと見つめた。

 吐き出す息が僕の顔にかかった。

 人の息の体温はなくて、ただの風みたいに冷たかった。

「余所者…だけどあたしを殺したのはアンタじゃない…」

 幽霊の口の端からは血が流れていた。

「き、君は…! ゆゆゆ、雪ウサギの化身じゃ…?」

「ナわけないでしょ何言ってんの?」

 幽霊は口許の血を邪魔そうに手の甲でぬぐうと、一歩下がって僕の全身をジロジロ見つめた。

 彼女は僕より背が高かった。

「あたしは木下夏憐(かれん)よ。アンタは?」

「か、春日鱧煮…っ」

「ハーマイオニー?」

「いえ、あの、はもに…」

「変な名前」

「………」

「春日って、林に住んでるおじいちゃんの親戚?」

「…孫…だよ」

「今って冬休み?」

「も、もう終わったよ。あの…今…三学期の始め…」

「じゃあ何で余所者がこんなとこで遊んでんの? アンタのとこ、学校は?」

「余所者じゃ…ない…よ…。一応、転校生…」

「じゃ、さっさと学校行きなさいよ」

「………」

「迷子? 恥ずかしがってると余計恥ずかしいわよ」

「…………」

「何よ?」

「………………」

「何だってのよ?」

「……………………」

「何とか言いなさいよっ!?」

「…だって…あの…」

「………」

「…窓越しに…花が見えたんだ…机の上に…」

「窓際の席?」

「うん…」

「一番後ろ?」

「うん…」

「じゃ、それ、あたしのだわ」

「へっ?」

「あんたもしかして、前の学校でいじめでそれをやられたの?」

「…うん…他にもいろいろ…いじめで転校するの、これで二回目…」

「ふーん。そういうのってホントにあるんだ。ドラマの中だけだと思ってたわ」

「…………」

「それにしても三学期かぁ。じゃあもう去年の話になっちゃったのね」

「………?」

「あたしね。殺されたの。去年の夏休みに。アンタばっかに嫌な話させちゃったからあたしも話すわね。犯人は、知らない人。余所者。車に乗った人。だからもうここには居ない。たぶん道を間違えてこの辺に迷い込んだんだと思うわ」

 夏憐はつまらなそうに淡々と語った。

「夏休みシーズンだったからね。あたしらの町には何にもないけどさ、あっちの方には廃村があるし向こうには廃鉱があるしで、実は心霊スポットに囲まれてんのよね。そーゆーのが目当ての人だったんだと思うんだけど、どこも噂ばっかりで、実際は大して怖くないのよ。で、廃墟でお酒を飲んで、道に迷ってあたしを撥ねたの。こんな森の中じゃあさ、見通しが悪くっても車の音がすればすぐに気づいて避けられるって思うでしょ? もちろん避けたわよ。でも追ってきて撥ねたのよ。それで車を降りて、まだ生きてるあたしの首を絞めたのよ。お酒のせいであたしがお化けに見えてたみたい。変な薬もやってたのかもね。おかげでこっちはホンモノのお化けよ。とんだ“夏休みの思い出”よ」

 僕はただ口をポカンと開けているしかなかった。

「犯人は捕まっていないわ。そもそも捜査もされていないの。犯人が、道から離れた場所に死体を運んで捨てたんで、熊やら野犬やらに荒らされちゃってね。殺したのも動物だろうって思われて、事故ってことにされちゃったの。だからあたしは、遺体の遺棄現場に留まって、犯人が何かの弾みでもう一度現れるのを待ってたの。ほら、犯人は現場に帰るって言うじゃない? 無駄だとは思うけど他に捜しようもないしさ」

 僕は口を閉じた。

 何を言えばいいかわからなかった。

「着いてきなさいよ。町まで送ってあげるわ。ついでにあたしの殺害現場も見てってよ。通り道だからさ。ついでよ、ついで」

 元気良く駆け出した夏憐を追って、僕も洞穴の外へ出た。




 見下ろす地面も見上げる枝も、全て真っ白な雪に覆われて、木の幹がやけに黒々して見える。

 空の他に色のない世界で、夏憐の青いサマードレスがやけに輝く。

「ここで車に撥ねられて、あたしはここまで飛ばされて、犯人の車はここに停まったの。で、あたしがここまで這いずって逃げたところで、犯人があたしに馬乗りになって首を絞めたの」

 夏憐は手のない右手首で車の位置を示したまま、自分が倒れた場所を左手で指差した。

「凍ってなければ滝の音はここまで聞こえるのよ。犯人はあたしの遺体を滝壷へ投げ込んだんだけど、遺体は下流のカーブになってるとこで岸に打ち上げられて、後は野犬のなすがままキュウリがパパ。ここと滝と下流の岸と、どこで待つのが一番いいのかちょっと悩んで、滝が一番綺麗だから滝にしたの」

「あ、あのさ…っ」

「何よ?」

「あのっ…えっと…」

「だから何なのよ!? ハッキリ言いなさいよ!!」

「そのっ! 右手! 君の…!」

「これ?」

「それ、その、もしかして、犯人に…切られたの…?」

「そーよ。これも動物に持ってかれたってことにされちゃったんだけどね」

「………」

「あたしね、犯人に首を絞められてる時に、もがいてるうちに手が犯人の服の中に入って、犯人の家の鍵を掴んだのよ。無我夢中だったから、鍵だってわかったのは殺された後だったんだけどね。死んでからも鍵を握ったままだったんで、犯人は手首ごと持っていったの」

「犯人に、切られたんだねっ?」

「そーよ」

「あ、あのさ…その…」

「だから何!?」

「手首は、見つかっていないの?」

「ないわよっ! だからっ?」

「てっ、手首はっ、この近くにあるかもっ!」

「犯人に遠くに捨てられちゃったでしょ」

「いや…それはないと思うよ」

「何でよ?」

「君が殺されたのは夏場でしょ? 臭いが車につくよ。ハエも寄ってくるし、血の他にも変な汁が出る。犯人は入念な準備をしていたわけではないみたいだから、コンビニのポリ袋ぐらいは持っていたかもしれないけれど、それだけで切った手首を長い時間、車に乗せたまんまで居るとは考えにくいよ。家に持ち帰るのは嫌だろうし、都会でゴミに出すよりも森に隠した方がいいもん」

「ふーん。で?」

 得意分野を珍しくスラスラしゃべった後で、冷たく返されてドギマギに戻る。

「き、切られた跡をちゃんと調べたら、刃物で切ったんだってわかるよっ。本体の方は火葬されちゃっただろうけど、切られた手首を警察に持っていったら、殺人事件だって証拠になって、ちゃんと捜査してもらえるよっ!」

「そーなの?」

「うん。…たぶん」

「そーゆーことはもっと自信満々に言いなさいよコ○ン君! 大事な話は堂々としなさい!!」

「え、偉そうにしたら、生意気だって言われる…」

「何ソレ。どーゆー環境よ?」

「ど、どこの学校だってそうだよ…前の学校もその前の学校もおんなじだったもん…きっと次も…」

「少なくともうちのはそんなじゃないわよ。あたしの友達を、子供同士いじめて偉くなった気になってるようなチンケなやつらと一緒にしないでよ」

 そして、夏憐が突然、笑い出した。

「鱧煮っておもしろいね! あたしさ、幽霊になってから今まで、アンタ以外の人の前に姿を見せたことってなかったのよね。アンタ以外っていうか、ほら、余所から来る人だけ狙ってたから。町の人を無駄に怖がらせたくなかったし、そうなったら家族もますます悲しむしさ。刃物の跡なんてあたしじゃ想像もつかなかったよ。クラスのコ○ン好きの子なら思いついたかもしれないけどね。あたし一人じゃ永遠に一人で待ってただけだったかも」

 夏憐の笑い声は、とても素敵な声だった。

 僕を馬鹿にするんじゃない笑い。

 人の笑い声を素直な気持ちで聞けたのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

 彼女のその澄んだ声は、霊感のない人には聞こえなかったりするのだろうか。




「聞こえた!」

「居た!」

 雪ウサギの声が響いた。

「やばいっ! 逃げなきゃっ!」

 慌てて走り出した僕を、雪ウサギの群れがピョンピョン跳ねながら追ってくる。

「ちょっと鱧煮ぃ! アンタなんであんなやつら相手に逃げたりなんかしちゃってんのよ?」

 横を見ると夏憐が僕にピッタリくっついて、ふわふわ飛んで着いてきていた。

「あ、あの子達の仲間を…踏み潰し…ちゃって…っ」

 走りながらしゃべって、冷たい空気を思い切り吸い込んで、喉が切れるように痛む。

「じゃなくて何で人間様がウサギなんかにびびってんのかって訊いてんの! あれくらい蹴散らしちゃいなさいよ!」

「ダメ…ムリ…」

 雪に足を取られて転んでしまった僕の上に、木の上から落ちてきた雪がドサリと覆いかぶさった。

「……………」

 雪に埋もれた僕の上を、ウサギ達が踏み越えて走り去る。

 少し待って僕が雪から這い出すと、夏憐も隠れていた木の陰から顔を出した。

「僕もう疲れた。それに眠い」

「後で添い寝してあげるわよ。あたしの手首を見つけた後でね」

「…………」

「何よ?」

「あ、あのウサギ達を作ったのは、僕のクラスの子達なんだっ。まだ会ったことないけど、今日初めて行くはずだった学校のっ。だから…クラスの皆も、あのウサギ達みたいに僕を攻撃するに決まってるんだ…」

「ウサギと人間をゴッチャにすんじゃないわよ」

「…………」

「アンタ別にクラスメイトを殺しちゃいないでしょ」

「…………」

 うつむいて、雪に凍えたつま先を見つめる。

 声にできない泣き声が、雪に吸い込まれて消える。

 今までずっと、何もしてなくてもいじめられてきたのに、何かしちゃったらもうムリだよ。

「居た!」

「こっちだ!」

「見つけたぞ!」

 雪ウサギ達が戻ってきて、僕はやっぱり走って逃げた。

 逃げ切れたからっていいことなんてないのに、幸せになんかなれないのに、わかっているのにそれでも逃げた。




 凍った滝の前に出た。

 夏憐と最初に出会った場所だ。

 昼を過ぎてしまった日差しが、氷に反射して目を突いた。

 僕は滝壷の縁をグルリと回って、滝の横の崖をよじ登ろうとしたけれど、ランドセルが邪魔になって落っこちてしりもちをついた。

 追ってきた雪ウサギの最初の一匹が、近道しようと滝壷に張った氷の上に躍り出て、ツツーッと滑って猛スピードでこちらに迫ってくる。

 仲間の雪ウサギも次々どんどん氷上に飛び出す。

 そして…

 最初の一匹が岸にぶつかって跳ね返って、あさっての方向へすっ飛んでいき、仲間の雪ウサギ達もツルツルくるくる、あっちへこっちへ…

 まるでデタラメなピンボールみたい。

 ウサギ達の悲鳴がキャーキャーと響く。

 やがてウサギ同士で衝突して追突して、雪と雪がくっついて、団子になって更にぶつかって、僕がポカンと見ている間にまたまたぶつかってぶつかって、最後にはとうとう一つの大きな雪玉になった。




 雪玉の動きは凍った滝に引っかかったところで弱まって岸辺で止まって、ウサギ達の悲鳴も収まり、辺りに反動のような静寂が降りる。

 一匹だけ遅れてきた鈍くさい雪ウサギが今更のように氷上に飛び込んだけど、うまく滑れず、じたばたしながらシャカシャカと少しずつ近づいて、ようやく雪玉のところにたどり着く。

 けれど勢いが足りなくってくっつけなくて、ポツンと取り残されてしまった。

「うきゅ? うえーんっ!」

 手足のない雪ウサギの胴体で、顎を擦りつけて引っかいたり体当たりをしたり。

 仲間をもとのウサギの形に戻そうとしているけれども、どうにもならない。

 雪玉は何も言わないしピクリとも動かなかった。

 夏憐が氷の上をふわっと飛び越えて雪玉の横に降り立って冷たく見下ろす。

「あーあ。こりゃもう雪ウサギとは呼べないわね。雪ダルマ? 首なしの雪ダルマか、雪ダルマの生首か。どっちにしろ死んでるわね。雪ダルマの死体。あきらめなさい」

「やだやだやだやだっ!」

 ウサギは雪玉への体当たりを続ける。

 僕は岸に沿って雪玉に近づいた。

 しゃがんで雪玉に触れる。

 指はとっくに凍えているので、今更冷たいとは感じなかった。

 僕はランドセルを横に下ろし、雪玉に手を突っ込んで、ウサギ一匹分の雪を掴み取って、楕円のウサギの形を作り直した。

 雪の中から赤い木の実と緑の葉っぱを掘り出して、ウサギに目と耳を付け直す。

 雪ウサギは元通りにピョンピョンと跳ね出した。

「よし! もう一匹!」

 二匹目、三匹目、四匹目。

 一匹ずつ、丁寧に作り続ける。

 ふと見ると、夏憐が呆れた顔で僕を見下ろしていた。

「何でそこまですんの?」

「だってこのままじゃウサギ達が可哀想だよ。それに…ウサギを作った生徒達も悲しむし…」

「どーせ春には解けて川に流れて、最後は一つの海になるのよ」

「うん。でもそれまでは」

 雪が手袋に滲みてきたので、手袋を外して素手で雪ウサギを作る。

「あんた、いい子ね」

「だから嫌われたんだ。いい子ぶりっ子だって」

「だからその学校、ゆがみすぎだってば」

 やっと半分を過ぎた。

 僕の周りでウサギがピョコピョコ跳ね回る様子を、夏憐が退屈そうに眺めている。

「あたしも手伝ってあげたいとは思うんだけどね」

 夏憐が雪玉に触れたけど、幽霊の手は雪玉をすり抜けてしまった。

「幽霊もいろいろ面倒で、あたしの場合、生きてる人間にしか触れないのよ。ほんと、死ぬって悲しいわー」

 日がかげり始めて気温が下がる。

 後ちょっとなのに指がもう動かない。

 夏憐が僕の手に掌を重ねてきた。

 夏場ならきっと冷たく感じたはずの幽霊の手は、だけど雪より冷たくはなくて、僕はもう少しウサギ作りを続けられた。




 そして雪ウサギの数がそろった。

 全部で二十匹。

 僕が通うはずの学校に、今朝居た生徒と同じ数。

「…僕が踏みつぶしちゃったから一匹減ってるはずなのに、全員そろっちゃった…」

「あの子とあの子ね。あの子とあの子も」

 夏憐が示した方を見ると、目が一つしかないウサギと耳が一つしかないウサギが、それぞれ二匹ずつ居た。

「あ…う…ご、ごめんなさい…」

「そりゃこんなにたくさん一人で一気に作ればね。足りない部品は後でどっかで拾ってくればいいわよ」

 泣きそうになってる僕の肩を、夏憐がポンポンとたたく。

 雪ウサギ達は目と耳のそろったウサギもそろってないウサギも一緒にピョコピョコ走り回って、まったく気にしていないみたいだ。

「こいつらは簡単でイイわね」

 夏憐が不機嫌そうにつぶやいて、僕は上げかけた顔をまたうつむかせた。

 人の命はああはいかないから。

 夏憐はあんな風には生き返れないし、幽霊の右手は消えたまんまで、僕の手を温めたのは左手だけ。

「ありがとう人間ー!」

「人間ありがとうー!」

 雪ウサギ達が僕の足に体を摺り寄せてきた。

「僕、鱧煮だよ」

「鱧煮、好きー!」

「鱧煮、好き好きー!」

「えっ…?」

 ドキッとして、胸がむずがゆくてこそばゆくて、でも締めつけられるような感じもする。

 すごく嬉しいのに僕なんかがって気持ちが沸いてしまうと居心地が悪い気分にもなって、嬉しいのに逃げ出したくて、嬉しいのに逃げようとする自分が情けなくて、口はニヤケて目は潤む。

 きっと変な風になってしまってる僕の顔を、ウサギ達は濁りのない赤い目で見上げてる。

「何かお礼するー!」

「お礼するー!」

「何か言ってー!」

「何でも言ってー!」

 僕はツバを飲み込んだ。

「じゃ、じゃあ、僕と友達に…」

「こいつらといくら仲良くなったって、冬が終われば一人ぼっちよ。それがこいつらの寿命なんだから」

 夏憐は何のつもりなのかわざとらしく意地悪な声を作っていた。

「どーせなら、もっと意味のあること頼みなさいよ。ま、こいつらにお金でも拾ってこいとか言ったところで無駄だろーけど」

 雪ウサギ達は身を寄せ合って、小さな目で不思議そうに僕らを見つめてる。

「じゃあ…さ…夏憐の右手を捜すのを手伝ってよ」

「わかったー」

「まかせてー」

 切り落とされた手首を捜す。

 良く考えればとんでもなくグロテスクなお願いなのに、雪ウサギ達はのうてんきな声を残して各々の方角へ散らばっていく。

「いや、そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけど」

 夏憐は一転して気まずそうに左手で頭を掻きむしった。

「僕も雪ウサギになりたい」

「アンタは人間で居るしかないわよ」

「だって僕っ、あんな大勢の前で言いたいことをちゃんと言えたのって初めてなんだよっ」

「そー。良かったわねー。だったら新しいクラスメイトともうまくやれるでしょうが! 人間の友達を作りなさい!」

「僕、君と友達になりたい」

「あたしもう死んでるのよ」

「友達ができるんだったら死んでもいいよ」

「シャレになんないわよ」

「だって…」

「前の学校で何があったか知んないけど、アンタ、いいやつだもん。あたしだって生きてたらアンタと友達になりたかったわ」

「………」

「………っ」

 人の目をじっと見ているってことに耐えられなくって僕は顔を伏せた。

 夏憐が怒ったのが気配でわかった。

 目をそらしたままランドセルを手に取ったその時…

「きゅーーーっ!」

 雪ウサギの悲鳴が響いた。




 ランドセルを投げ捨てて、声がした方へ駆けつける。

「危ない!」

 夏憐が僕の腕を掴んで引き止めた。

 急な斜面の下の方の、木立と岩で見えづらい場所に洞穴が黒い口を開けていて、中を覗くと転げ落ちてしまった雪ウサギが泣いていた。

「ここってさっき僕らが隠れた洞穴?」

 僕は慎重に穴の中に降りて雪ウサギを抱き上げた。

「ただの洞穴じゃなくて氷室よ」

 夏憐が洞穴の奥を示すけど、時間が経って太陽の角度が変わったせいで良く見えない。

 何があったんだったっけ?

 目を凝らすと、何かもさもさしたものがあった。

「熊だーっ!」

 雪ウサギが叫んだ。

「違うわよバカ。氷室だって言ってるでしょ」

「ひ、氷室さん? は、はじめまして」

 僕は洞穴の奥に頭を下げた。

 もさもさしたものは藁の塊だ。

 てことはみのを着た人影だ。

「ジェラシーでも何でも眠らせている場合じゃないわよ。人の名前じゃなくって、ほらァ…洞穴の中って一年中涼しいからさ、冬の間に湖の氷を切り出して保存しておくの。天然の冷蔵庫よ。冬の氷が夏まで解けないの」

「あっ。それならテレビで見たことあるよっ」

 熊も人も居ないってわかって、僕は雪ウサギを床に下ろして、藁をめくって中を覗いた。

 たくさんの藁の下に包まれた氷は、テレビで見た氷室のよりもずっと小さいし少なかった。

「これ、一年前の氷だわ」

 夏憐が悲しそうに首を振った。

「この氷室を管理してるの、あたしのおじいちゃんなんだけどね…あたしが死んでからほったらかしにしちゃってるみたいね…」

「………」

 僕は藁をもとに戻そうとして、藁の中に紛れていた何かを掴んで…

「ひゃっ!?」

 悲鳴を上げてそれを放り投げた。

 それは夏憐の右手首だった。

 切られてから半年経っているはずなのに、骨にもミイラにもなっていなくて、切られたばかりみたいに見えた。

 氷室で冷やされて保存されていたからだ。

 きっと犯人もこの雪ウサギみたいに足を滑らせてここに落ちて、でもここが氷室だって事には気づかずに、さっきの雪ウサギみたいに熊が居ると思い込んで、餌になりそうな夏憐の手首をオトリのつもりで投げ捨てて逃げ出したんだ。

「こんなところにあったのね!」

 夏憐が僕の肩を掴んで藁の中を覗き込む。

「ご、ごめん…乱暴にしちゃって…」

「ん。いやまあ、驚くわよ、これは普通に」

 犯人の家の鍵を握ったまま息絶えて、犯人に切り落とされて持ち去られた手首。

 指が傷だらけなのは、犯人が鍵を奪い返した跡。

 掌には、キーホルダーに刻まれていたアルファベットが、はんこのように押しつけられて…

 その文字は、今も変色したままだった。

 夏憐がその文字を読み上げた。

 明らかに人の名前だった。

「これ以上、触らない方がいいね。警察を呼ぼう。町まで案内してくれる?」

 僕は雪ウサギの方を振り返った。

「いいよー」

 床の上の雪ウサギが、耳をぴこぴこ振って答える。

 いつの間にか洞穴の入り口に集まっていた仲間達も、そろってぴこぴこうなずいた。

 数匹の雪ウサギがお神輿みたいに力を合わせてランドセルを担いで持ってきてくれていた。

「ボク達もそろそろ学校へ帰るー」

「もうすぐ授業が終わる時間ー」

「早く帰らないと居ないのがバレるー」

「そ、そうだねっ。急ごうっ!」

 僕は外に向かって走り出した。




 氷室の出口で“あること”に気づいて足を止めて振り返ると、夏憐は氷室の奥に立ったまま、こちらに背を向けて自分の手首を見つめていた。

 僕はここにきて急に、彼女に何て呼びかけたらいいのか迷った。

 木下夏憐。

 頭の中ではずっと夏憐って呼んできたけど、それはただそっちの方がわかりやすいからで、彼女の名前を声に出して呼ぶことは…意識的に避けていた。

 クラスメートになるはずだった女の子。

 男の子からの、女子への呼びかけ。

「木下!」

 夏憐が振り返った。

 睨まれた。

「…木下さん…」

 やっぱり睨んでる。

「ハ、モ、ニ?」

「…夏憐…」

「よろしい。で、何?」

「あの…誰かが僕のこと呼んでるんだ…春日君って…大人の人の声…いっぱい…」

「ああ。遭難したって思われたのね。そりゃこの季節だし、早く見つけなきゃヤバイって誰だって思うわよ」

「どどど、どうしよう! 僕、怒られちゃう!」

「ダイジョーブよ。死体の手首発見のニュースの前じゃ霞むわよ。ほら、さっさと行きなさい」

「夏憐は、これからどうするの?」

「警察が来るまでここに居る」

「犯人、きっとすぐに捕まるよ」

「そしたらあたしも成仏するわ」

「え…っ?」

「何よその顔。そんな寂しがるようなことじゃあないわよ」

「だって…」

「あたしもね、去年の夏からずっと一人ぼっちでこんなところに居て、そろそろ限界だったの。現世でやりたかったことはいっぱいあったけど、ここに居たってそれは一つも叶わないし、地縛霊なんかやっていたんじゃアンタを空から見守ってあげることすらできないからね。これ以上の退屈はゴメンよ」

 生きてる僕と死んだ彼女と。

 二つの世界を裂くように、僕らの間に雪がひとひら舞い落ちた。

「もう行きなさい。空が荒れたら大人だって町に帰れなくなるわ」

 雪は僕の肩で解け、夏憐の肩はすり抜けた。

 僕を呼ぶ声が近づいてくる。

 僕は涙をぐっとこらえた。

「鱧煮! あたしの人生で最後の友達がアンタで良かった!」

「僕も! 初めての友達が夏憐で良かった!」

 雪ウサギ達が僕を待ってる。

 僕は力いっぱい微笑んで、無理やりにでも微笑んで、僕を呼ぶ声のする方へ走り出した。


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― 新着の感想 ―
[一言] 雪の降り積もった寒い冬を舞台にしたお話なのに、不思議と温かさを感じました。 このひと冬の出会いが少年のトラウマも溶かしていってくれるといいですね。
[良い点] 面白かったです!とても読みやすく、スラスラ読めました。また、夏憐のキャラクターが魅力的だと思いました(*^_^*) また読ませていただきます。
2015/02/12 01:50 退会済み
管理
[良い点]  心温まる、けれど悲しい幽霊との交流。切ない。  雪うさぎがピンボールになって大きな雪玉になるところはクスリとさせられました。
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