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「日常」
僕達がそう呼ぶ平穏な日々の、幸せの日々の積み重ねは、水彩画のように一色の絵の具、一つの出来事でその姿を大きく変えてしまう。
そんなことに気づいたのは随分と気持ちが落ち着いてからのことだった。
僕が永遠だと信じて疑わなかった「日常」が一色の絵の具で姿を変えてしまったのは今から一年前、高校に入学してからおよそ一年が経とうとしたあの日、その気配を少しも見せることもなく、突然にやってきたのであった。
一人息子として育てられた僕はこれといった大きな幸福も不幸なく、特に不自由することなく、変わり映えなく過ぎ去ってゆく穏やかな毎日を過ごしていた。
中肉中背、学校の通知表はほぼオール3、器用でもなく、不器用でもない。
目立ったことはしたがらず、中学では三年間、どの学級委員にもならなかった。
誇れるような武勇伝も、腹がよじれるほど笑えるような恥ずかしい話も持ち合わせてはいなかった。
そんな、「普通」という枠にすっぽりとはまってしまうような、物語では名も付かない登場人物のような僕は高校受験を無事に終え、県立の可もなく不可もない高校へと入学し毎日をその日のことだけを考えて過ごしていた。
それなりに友人がいて、それなりに勉強をして、それなりに部活をして――
何か夢があるわけでもなく、何か悩みがあるわけでもなく、ただ時に身をまかせるような生活。
生活もどちらかと言えば裕福だったのだろう。来る明日を特別不安に思うことなんて微塵もなかった。
そんな日常に僕は満足していた。
高校生になってからの僕の日曜日は、部活、友人の家でテレビゲーム、少しアクティブな時は街へ出て映画、カラオケ、ボーリング、買い物、と、思い出づくりにはあまりにチープな予定に費やされていた。
毎月の小遣いが中学の頃に比べ五千円に増えたことから考えれば、それは金額的にはチープではなかったのかもしれないが、今現在、思い出という引出の中に、ほとんど記憶に残っていないことから判断するに、やはり思い出としてはチープだったのだろう。
「今日友達と買い物にでかけてくるから夕飯おそくなるかもしんない」
「あら、そうなの。今日は父さんもいるからなるべく早く帰ってね」
「わかった。あ、何か買ってきてほしいものとかある?」
「うーん……あ、じゃあ、お庭に植えるお花の種でも買ってきてもらおうかな」
「えー、またかよ……じゃあメールで買う物送っといて」
こんなやりとりをし、その日曜日も僕は街へと向かった。
いつもの待ち合わせの場所にそろういつもの面子が三人そろう。
「今日おれ行きたい店あるんだ」
「お、それこないだ言ってた雑誌に載ってたあの服屋?」
「そうそう。あのTシャツが売ってるとこ。売り切れてなけりゃいいんだけど」
「拓は今日行きたい店ある?」
そう言って友人の一人が僕を見る。
僕はファッションには疎い方でいつも行く店は友人に任せていた。
「僕はどこでもいいよ。あ、悪いけど途中でいつものとこ寄ってくれ。母さんに買い物頼まれてるから」
僕の言葉に友人たちは苦笑する。
「はいはい、いつもの植物店な。ほんと好きだよな、お前の母ちゃんは」
友人たちが苦笑するのも無理はない。僕たちは街へ出ると九割がた植物店に足を運んでいたからだ。
その植物屋は複合商業施設の中にあり、そこには映画館や雑貨店、服屋といった若者むけの店も在店していて友人たちもそこまで嫌がることはなかったが、それでも僕としては少し申し訳ない気がしていた。
母はガーデニングが趣味で、それは結婚後父にも伝染し、父も庭に野菜を植えるようになった。
そんなことから家の庭は大きくはないが、僕から見ても綺麗にまとまったものであった。
両親の趣味がガーデニングだからといって僕自身は植物に対する興味はなかった。それでも庭にできる、店に売っているより少し小さい野菜を家族で分けて、苦いだとか、甘いだとか言いながら笑い合っていたことに僕は家族というものの暖かさを感じていた。
僕たちは実のない会話をしながらぶらぶらと街を徘徊し、月の小遣いの大半を消費した。
いつも通りの安い服、いつも通りのファーストフード店、いつも通りのゲームセンター。
植物店では、母から届いたメールを見ながら聞きなれない名の花の種を探した。
雑誌に掲載された服屋では、あいつはお目当てのTシャツを買うことができた。
実はそのあたりの記憶は今となっては曖昧で、それはもう数年前のことだからという理由だけではなく、そのあとの出来事があまりに痛烈に僕の記憶に刻まれたからだ。
街が夕陽のオレンジ色に染まり始めた頃、僕達は既に帰りの電車に乗っていた。
いつも通り、テレビ番組がどうだとか、宿題がどうだとか、部活がどうだと、愚談を交わしながら駅までの時間を過ごした。
駅に着くと各々が「また明日」と、いつも通りの別れを交わし僕の日曜日はいつもと変わりなく幕を閉じようとしていた。
いつも通りの公園近くの交差点を曲がり、いつも通りの白い犬に吠えられ、いつも通りに家に着く。
見慣れた植物たちが僕を出迎える――はずだった。
交差点を曲がった時、これから起こる日常の変化などは微塵も予想していなかっただろう。
白い犬に吠えられた時、いやな胸騒ぎ――というようなドラマめいたことはなかったし、靴ひもが切れるなんてこともなかった。
ただ、今でも、一歩一歩、家へと近づくにつれてその倍の距離が現実から離れていく感覚だけは覚えている。
目の前には僕の知らない光景が広がっていた。
端的に言うと僕の家は燃えていたのだ。
それは夕日の色よりも真っ赤に。
僕が見た赤色の中で一番まぶしくて、一番残酷に。
見たこともない景色に僕の脳は揺さぶられ、僕の体は動くという行為を忘れたように脱力した。
どさりという音を立て、花の種と安いジーンズが入った紙袋が僕の手から滑り落ちる。
その音をきっかけに、「奪われた」という感覚が僕を支配した。
ゆらゆらと黄色に輝く炎と、不吉にのぼる黒い煙に視覚を――
悲壮な嘶きのように鳴り響くサイレンと、野次馬のざわめきに聴覚を――
鼻腔をつきぬける不快な空気に嗅覚と味覚を――
怒りを含んだような辺り一帯の熱気に触覚を――
五感を――
奪われてしまった。と。
それは僕にとってあまりに突然、非劇的、非日常のことだった。
家族の象徴である植物たちが枯れてしまったように燃え尽きていく景色を最後に、僕の記憶は途切れた。気づけば僕は祖父母の家に居て出火原因不明という無関心な情報と両親を失ったという残酷な情報だけが残った。
誰かが「引火しなかったのは奇跡的だった」と口にした。
僕はその「奇跡的」という言葉がひどく無責任に感じられた。
その後僕は、その日からおおよそ二ヵ月間を引きこもった状態で過ごした。
僕を訪ねる友人もいたが、僕は会わなかった。
どんな顔をして話せばいいのか、そもそも何を話せばいいのかわからなかった。
やがて僕は、誰の声も聞こえない、どんな光も目に入らない、そんな異世界に自分だけが取り残されたような非日常が次なる日常へと変わりつつある中で、言いようのない居心地の悪さを感じることとなった。
どうして僕だけがこんな目に?
どうして僕だけがこんな感情に?
どうして僕だけがこんな日常に?
僕が何か悪いことをしたのか?
僕じゃないといけなかったのか?
どうして?
どうして?
残された負の感情は僕から理性を少しずつ食いつぶし、大きくなった。
それは考えれば考えるほど、出口を塞いで頭痛の種だけを増やしていった。
理性が完全になくなってしまう前に、僕に残された道は出口を無理やり作り上げるほかになかった。
「僕はもうここで居座る必要はない。僕が生き続ける意味はない」
そう考えた刹那、僕は安堵からか睡魔に襲われた。
それはそれまで体感したことのない睡魔だった。
そして、その日見た悪夢は良くも悪くも僕の日常の色を再び変えてしまった。