第44話 続・吾輩は鹿である
吾輩は鹿である。下ネタが好きな読者諸君ならば言わずもがな、知的好奇心旺盛な御歴歴もなぜ吾輩が用水に落ちたか承知したい所だろうから、今回も話を続けることにする。
「おいこら、待てというのに」
と吾輩は叫ぶが、彼女は軽快にピョンピョン跳ねて玉野橋を渡って行く。我々はほとんど助走せずに一・五㍍以上の障害物を易々と跳び越える能力を持つから、ヘタすると道幅が三㍍ほどしかない玉野橋の低い欄干を跳び越えて遥か下の庄内川に落下してしまう。しかし彼女は無事に橋を渡り終えると坂を一気に駆け上り、カラオケ喫茶の前でやっと立ち停まった。吾輩はゼイゼイあえぎながら強がりを言った。
「やっと観念したか」
「しつこいオスね。でも嫌いじゃないわよ」
と彼女も息遣いは荒いが、こやつの息が荒いのは走ったせいばかりじゃないことが、上目遣いに吾輩を見る目つきと発情したメス特有の強い匂いが証明している。かなり好色淫乱なメスに相違ない。
吾輩は再び彼女にマウントした。しかし、くそっ、疲労で足元がふらついてなかなか交尾できない。するとこの短気なメスはまた尻をクリクリッとひねって吾輩から離れた。
「あらまあ、だらしないわねえ」
「なにぃーっ!」
と吾輩が血相を変えると、彼女は、うふふ、と媚び笑いしてから再び跳びはねてJR中央本線の線路の方に向かった。線路沿いに県道が走っているのでいくら真夜中でも車が通らないとは限らない。危険だ。しかし彼女はそれほどの馬鹿でもないらしく、県道の手前で灌漑用水沿いの小道を右に折れた。プライドをズタズタにされた吾輩はもうこうなったら意地でもこのメスとの交尾を成功させてやろうとピョンピョン跳ねて後を追う。
そして、玉野水力発電所の敷地までやって来た。隣接する民家が、中日新聞の記事に載った第一発見者である大島靖博さんの家だ。実際は、彼の奥さんが掃除機をかけている時に家の窓から見える発電所の貯水プールの水面を泳ぎ回っている『犬のような動物』を発見して夫に告げたとのこと。
魔性の淫乱鹿はそこを通過してさらに用水と畑地との間のあぜ道をピョンピョン跳ねて行く。ここで、この用水と発電所について少し紹介しておかねばならない。
享保十四年以前、この玉野地区は庄内川流域にありながら高台に位置しているため水利が悪く、水不足に悩まされてきた。見かねた地元の庄屋、加藤助左衛門が私財をなげうって用水の工事に着手。数十年かけ、庄内川の約二㎞上流から水を取り入れて玉野用水を完成させ、集落は豊かになった。
そして大正十年、地主で県会議員を務めた森勇太郎が中心となって、高低差十六㍍で五百キロワットを発電する玉野水力発電所を建設。その際に、定光寺駅から数百㍍上流にあった取り入れ口を長さ四十五㍍、高さ八㍍もの重力式石張コンクリート造りの堰堤にし、用水幅を広げ高さ二㍍ほどの金網の柵で囲うなどの改良工事を行った。
発電所建設の話が持ち上がった際に地元では反対する声が強かったが、大正五年に「灌漑期は水田へ優先的に水を回し、発電は余った分を使う」という協定書を交わし、昭和二十六年に発電所の所有が中部電力に移ってからも「地域と共存共栄」の精神は健在で、現在は発電に使う水量の上限を毎秒四㌧と定め、五月から十一月までの灌漑期は水が田畑へ十分に行き渡るよう取り決めを結んでいる。
「おーい、焦らすのはいい加減にしてくれー。今度こそ一発で決めてやるから」
と吾輩が叫ぶと、彼女は更に五十㍍ほど行った場所でやおら立ち停まり、吾輩の方を振り返った。
「自信ある?」
吾輩は呼吸を整えながら言った。
「やってみる」
彼女はニタリと笑った。
「私、普通はイヤなの。常に刺激を求めているの」
「どういうこっちゃ?」
「ついて来て」
と言うと、彼女は一跳びで用水路脇の土手の上に立った。見ると、堅牢な金網フェンスの一部に扉が設けてあり、南京錠が外され扉が少し開いていて、用水から畑地へ水を引くための太い臨時ホースが延びている。扉は全開しないようビニールヒモでしばってあって、彼女はその狭い隙間から器用に柵の内側の幅が五十㌢ほどしかないヘリに入って行った。
「ほら、早くぅー」
魔性のメスは色っぽく尻をくねらせ、尻を網目にこすりつける。くそっ、と吾輩も一跳びで扉の前に立つ。だが、吾輩には角があるから隙間は狭すぎるので、ビニールヒモを歯で引きちぎり扉を開いて柵の内側のへりに入って行った。用水の流れが速いのでビビッタが、鼻先には粘液滴る外陰部が待っている。体の右側面を柵にこすりつけながらも吾輩はどうにかマウントした。と、その時、角が柵の網目に引っかかりバランスを崩して左後ろ足がへりを踏み外し、用水にドボンと落ちてみるみる発電所の方に流されて行ったのだった。