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たったひとつの宝物

作者: 山中小春

『たったひとつの宝物』




『不思議な音色』


「奏音ぇ、あたし、バスケ見てくっから」

一緒に部活見学をしていた七橋奏音の親友、スーちゃんこと涼歌はそう言って体育館の方に行ってしまった。

今年中1でゆかり中学に入学してきた奏音達は、ようやく中学生生活最初の一週間を終え、中学に入ったらできる部活見学を今日からするのだ。とは言っても奏音の場合、母の勧めで最終的には吹奏楽部に入部する事になっている。別に奏音も音楽に興味が無いわけではないが、音楽歴はさほどない。小学3年の頃、1年ピアノを習ったが飽きてやめてしまったからだ。


吹奏楽部の部員はみんな1階のホールで椅子を並べて練習をしていた。フルート、クラリネット、サックス、チューバ、トランペット、トロンボーン、それにパーカッション…次々楽器を眺めていた奏音の目がある楽器でピタリと止まった。クラリネットより1回り小さくて、キーがとても複雑そう、吹き口は『竹』のような薄っぺらい板を2枚重ねて糸で巻いた物を取り付けて吹いている。何かとっても落ち着いているけれど、綺麗な音色だ。思わず聴き入ってしまう。奏音は吹いている男の子にそっと近づいた。聞いていると、男の子と視線が合った。その子は吹き口から口を離し、口を開いた。

「気に入ったの??」

「あっ、はい。綺麗だなぁって…」

どぎまぎしながら奏音は答えた。しかし、その目は輝いていた。余程、興味を抱いたのだろう。

「へぇ、そうか。あんま目立たない楽器だから、僕は後輩が入ってきた事も教えた事もなかったんだよね。この楽器の名前、何だか知ってる??」

そう質問する男の子はとても嬉しそうだ。何も知らないにしろ、興味を抱いてくれた奏音が気に入ったらしい。

「分かりません。何て言うんですか??」

奏音は首を振り、尋ねた。

「oboeって言うんだよ」

男の子は優しく答えてくれた。

「オーボエ??」奏音は聞き慣れなくて、思わず繰り返した。

「そう。o.b.o.eって書いてOboe」

重ねて男の子は教えてくれた。

「どんな楽器なんですか??」

見当がつかなくて、奏音はそう尋ねた。

「んー、そうだね。高音の木管楽器。目立たなそうに見えるけど、実はsoloが多くて、楽器の女王とも言うんだって」

手にした楽器を見せながら、そう答えてくれた。

「楽器の女王??すごい楽器なんですね」

奏音はオーボエに凄く興味を持った。

「良かったら、吹いてみる??最初はリードだけど…」

2枚リードが重なった、いわゆるダブルリードを差し出してくれた。中の空洞は5mm程度で落としたら、すぐに割れてしまいそうなほどに薄い。奏音は壊れものでも扱うかのように受け取った。

「いいんですか??先輩のなのに」

心配そうに奏音は聞いた

「いいんだよ。1年生に吹いてもらえるなら…。ところで君、名前は??」

奏音は、あっと思い出したように答えた。

「えっと七橋奏音(ななつばしかなね)です」

「かなねちゃん」

珍しい名前なので男の子は聞き返してきた

「はい。奏でる音って書いて奏音です」

リードを持ったまま、奏音は頭をぺこりと下げた。

「ふーん。奏音かあ。いい名前だね。あっ、僕は3年の愛河幸季(あいかわこうき)。よろしく」

そう言って、男の子は右手を差し出してきた。

奏音は恐る恐るといった感じでその手を握り返した。

「私、この楽器何か気に入りました。コーキ先輩」

奏音はそう言うと、リードに口を付け、思い切り息を吹いた。しかし、スーッという息の通る音しか出ない。何度か繰り返すうちに段々口の周りが強張ってきた。

「外側の唇同士を中の方で合わせて、口内を広げて思い切り吹いてごらん」

コーキ先輩がそう言って、見本を見せてくれた。すると

「ビャーー」

何とも言えない奇抜な音がした。新品のリードでしか、この音は出せないらしい。何しろリードの寿命は最低で3日、最高でもわずか一週間なのだ。だから、先輩のリードケースには常に10本程のリードが鎮座して出番を待っている。しかも1本3000円という、決して馬鹿に出来ない価格だった。 それから、奏音は10分程練習をした。すると、さすがに「ビャーー」という音は出なかったが「ピーッ」という音は出てきた。楽器も取り付けて吹いてみたかったが、時間がなかったので明日挑戦することにした。


『責任』


家へ帰ると、母・和音(かずね)に真っ先に聞かれた。

「おかえり。奏音。吹奏楽部どうだった??何か吹いてみた??」

奏音は、和音が予想しているのは名の知れたフルートやクラリネットだろうと思った。

「吹いた。オーボエ」

鞄を下ろしながら、奏音は答えた。

「オーボエ??何それ」

和音は食卓に皿を並べながら、怪訝そうに聞いてきた

「木管楽器でクラリネットみたいな奴。soloが多いんだって」

目を輝かせて奏音は言う。

「ふーん。よくそんな目立たない楽器に興味を持ったわね。アンタっていっつも目立たないで端っこにいる方だけどせめて楽器くらい、名の知れた奴にすれば??私みたいに」

和音は不満そうに言う。和音は自分の気に入った物しか、娘にも夫にも与えないし、自分は結構目立ちたがりやなのだ。しかし、珍しく奏音は和音に反論した。

「いいじゃない。私、興味を自分から持ったんだから、絶対にオーボエは続けられる気がするの。吹いたやクラリネットよりもずっとね」

和音は驚いたのか、しばらく口をあんぐりさせていたが、ハッと気がついたように口を開いた。

「珍しい事もあるもんね。奏音が私の知らない物に興味を示すなんて。まあ、それだけ言うならがんばりなさい。でもそれって…値段いくらするの??」

和音が地区の吹奏楽団で愛用しているクラリネットは約10万円だった。確かコーキ先輩は安くて30万、高くて5.60万だと言っていた。勿論自分は学校の備品を使用しているらしいが…。奏音も震え上がるくらいだから、和音はもっと驚くだろう。

「安くて、30万で、高くて5.60万だって」奏音は恐る恐る口にした。案の定、和音は目を丸くした。

「さ、さ、さん、じゅうまん!?」

まさに信じられないと言った顔だ。奏音は慌てて言った。

「別に無理に購入しなくてもいいんだよ。備品が学校にあるし、それに使い込まれた楽器の方がある程度、手入れも簡単だし、吹きやすいって先輩が言ってた」

それを聞いて、和音はいくらか安心したようだ。引きつった頬が緩む。

「そ、そう。考えてみるわ。奏音がどれほど頑張ったかにもよるし…

戸惑い顔の和音にいくらか期待感が混じっている事を奏音は見逃さなかかった。


爽華は林檎のほっぺを両手で押さえて、目を瞑っている。爽華は本気だ。

「お待たせ。奏音ちゃん」

そこへコーキ先輩が楽器ケースを片手に戻ってきた。これ以上、爽華に首を突っ込まれなくて済む、奏音は内心ほっとした。先輩は楽器ケースを開き、組み立て方を教えてくれた。

「オーボエはね、上管と下管とベルの3つに分かれているんだ。端がコルクで出来ているから、コルクにグリスを塗ってから、そっと差し込んでね。あと、持つときにキーを曲げないように気をつけて」

言われた通りに組み立ててみると、結構重たかった。コーキ先輩が奏音にリードを渡す。

「本当は使う前に新品なら5分くらい、使い慣れたものなら3分くらい、水に浸すんだ。丁度カメラのフィルムケースに水を入れて浸すといいね」

「大変なんですね。オーボエって…」

奏音はただただ驚くばかりだった。

「じゃ、昨日みたいにリードだけで、吹いてごらん」

コーキ先輩はそう言って見本を見せてくれた

「はい」

昨日、コーキ先輩に教えられた事を脳内に蘇らせながら吹いてみる。

「ピーッ。ビ、ビャーー」

すると小さいけれど、先輩と同じ音がでて奏音は嬉しくなった。

「すごい。奏音ちゃん、出たね」

コーキ先輩は拍手をしてくれた。楽器を吹いてみて、こんなに嬉しい気持ちになったのは生まれて初めてだ。

「じゃあ、リードのコルクの方にコルクグリスを塗って、本体に取り付けてみて」

奏音はゆっくりリードを楽器の上管に差し込んだ。これでオーボエ本体の完成だ。

「じゃあ、上管の上から2つめまでね丸いキーを左手の人差し指と中指で、それぞれ穴をふさぐようにキーを押さえて。下管の1番目の丸いキーを右手の人差し指で左手と同じように押さえて」

難しかったが、奏音は言われた通りにキーを指で押さえた。思ったより軽い。

「それじゃあ、ベルがおへその少し上くらいまでになるように楽器を持ち上げて、脇の下を広げて。肘の角度が90度より少し狭いくらいにして」

コーキ先輩が見本を見せながら、教えてくれる。奏音もそれを真似る。

「そう。これがオーボエを吹くときの構え方。奏音ちゃん、初めてにしては上手いね。そのまんま吹いてごらん。オーボエの基本音階、シ、ミ、ラの♭3つの変ロ長調の最初の音。シの♭が出るよ」

奏音は腹式呼吸で息を吸い、思いっきり吹いてみる。すると、先輩の音色には程遠いが、オーボエらしい音だ。ただ、まだ音量はわずかだ。

「すごい、奏音ちゃん。そうだよ。上手いね」

コーキ先輩はそう言って、基本音階、シドレミファソラシの音を教えてくれた。チューニングは合ってないにしろ、音階が何とか吹けるようにまで上達した奏音は達成感を覚えた。

「そこまで出来れば、あとは大きさや音程をあわせればばっちりだね。僕が初めて吹いた時よりも上手くて驚いたよ」

「先輩のお陰です。ありがとうございます」

そう言った彼女の目は、素晴らしい楽器と友達になれたような目でキラキラと輝いていた。同時にこれから大変なことになりそう、とそう奏音は肩をすくめた。




『厳しい要求』


翌日から、1年生も本格的に部活動に加わることになった。顧問の伊藤先生は、部員が多いからにはチームワークが大切だと言った。コンクールや音楽祭が多い吹奏楽部は楽器の上手い下手だけではなく、いかに団体行動を速やかに行えるか、また準備や後片付けなどがスムーズに出来なくてはならないとも言った。ちなみに服装や態度にも厳しく、制服のスカートは膝下3センチ、ブラウスの第1ボタンを開けるのも駄目。カーディガンをブレザー下や袖口から出すのも禁止。遅刻や無断欠席はもってのほかだとも言われた。

さすがの奏音も厳しい要求に驚いた。そして、注意事項や規則、年間スケジュールが記されたプリントが各々に配布された。

「ねぇ、奏音ちゃん、案外あまいモンじゃないのね、ここって」

プリントを見ていた奏音に隣に座っていた爽華が耳元でそう囁いた。そういう爽華は新1年生だと言うのに物凄い格好だ。校則で禁止の白いカーディガンをスカートまでべろんと出しているし、ボタンを第2ボタンまで開けているし、ルーズをはいてスカートは太ももの中程まで短くしている。しかもチークやマスカラもばっちりだ。たぶん、コーキ先輩に色目を使うのだろう。

「甘いなんてもんじゃないわよ。爽華ちゃん、1年生がチャラチャラしてちゃ、先輩に目、つけられるよ。まるっきり校則違反の格好じゃない。街中に遊びに行くんでもあるまいし」

しかし、またしても爽華は最後まで聞いておらず、コーキ先輩に話しかけていた。

「先輩、こんにちは 」

さすがの先輩も爽華の格好には驚いた様子だった。

「君…、爽華ちゃんだっけ??フルート吹くのに相応しい格好かなぁ、それ…

しかし、当人はちっとも動じない。

「そうですかぁ??さやか、カワイイでしょ」

彼女はそう言って小首を傾げてみせる。

コーキ先輩は頭が痛いとでも言いたそうに眉間を軽く押さえた。余程呆れたのだろう。


その翌日も奏音が楽器を組み立てていると、横からコーキ先輩が教えてくれた。

「オーボエってね、とてもデリケートな楽器なんだよ」

「だから、女王様なんですか??」

丁寧に楽器を取り付けながら、奏音は尋ねた。すると

「イヤ…、そういう意味とは違うんだけどね、直射日光の時、屋外で吹くと割れてしまうときがあるんだちなみに楽器の女王様といわれるのは、soloが多いし、目立たないようで案外目立つからじゃないかな??」奏音がへえー、と感心しているとまたしても天敵、爽華がやってきた。


「どうもぉ、仲宗根爽華ですぅ。今日から部員なのでよろしくお願いしまあす」

爽華ときたら、気合い入れなのか唇にリップグロスを塗りたくり、精一杯可愛い声でコーキ先輩に挨拶しているのが見え見えだ。コーキ先輩も少し驚いている。

「よろしく。爽華さん。僕、オーボエ担当の愛河幸季です。君、奏音ちゃんの友達??」

「はい。奏音ちゃんの友達ですぅ。楽器はフルートですぅ。八神莉紗先パイと一緒だけど、さやか、コーキ先輩とも仲良くしたいですぅ」

「そ、そう。よろしくね。あと1つ言いたいんだけどそんなにグロスを塗ると、フルートがベタベタになるから取った方が良いよ」

途端に爽華は罰悪そうに頬を膨らませ

「それじゃあ、さやか、失礼しますぅ」

と去っていこうとした。奏音が慌て止め、彼女の耳元で囁く。

「ちょっと爽華ちゃん、いくら何でもやりすぎよ」

「あらあ、奏音ちゃんもコーキ先輩に気があるの??」

爽華は突拍子その途端、コーキ先輩に雷が落っこちてきたような怒鳴り声が響いた。

「コーキ、爽華に甘いこと言っちゃダメよ。もっと厳しくしなきゃ。あんた、それでも先輩なの??」

コーキ先輩が声の方を見上げると声の主は部長の岡部清南(おかべさやな)だ。

「すいません」

お母さんに怒られたようにしょんぼりとうなだれるコーキ先輩。奏音はクスクスと笑った。やっぱり世の中、男より女が強いのだ。

「爽華!!あたし生活委員なんだけどね、そんなヒドい格好見たの、あんたが初めてよ。今度そんな格好であたしの前に現れたら、ただじゃおかないよ。部長のあたしが追い出すからね」

清南部長はさっきと同じくらいのすごい剣幕で爽華にそう言った。

「あっ、部長さん、すいません、気をつけまーす」

爽華はさも反省しているみたいにうなだれてみせたけれど、視線の先はしっかりとコーキ先輩を捉えている。部長さんが言ってしまうと、奏音は、やれやれといった感じで楽器を吹き始めた。そして

「先輩、ここってこういう指使いでいいんでしたっけ」

奏音はふと隣のコーキ先輩に聞いた。コーキ先輩が答えようとしたとき、突然先輩の目の前で爽華が滑ったのか、尻餅をついた。

「キャー」

「大丈夫??」

コーキ先輩がすぐさま爽華に駆け寄った。そして

「立てる??」

と重ねて尋ねる。

すると

「んー、足くじいちゃったみたい」

めいっぱいカワイイ声で答える爽華。

「しょうがないな」

制服にしわがつくのに注意しながら、両手で彼女の後頭部とお尻を持ち、爽華を抱き上げたコーキ先輩。たちまち、皆から注目の視線を爽華も浴びる。

「うわぁ、いいなあ、さやかちゃん」

「もしかして、コーキ先輩と出来てんの??」

「ラブラブー」

何も奏音は求めていないはずなのに、何故か焼き餅を焼いていた。コーキ先輩はただの先輩なのにどうしても爽華が結びつくとなると、とられたと思ってしまう。

そんなもやもやした気分を振り払うかのように奏音は練習に集中しようと再開した。しかし、いつまでも壊れた再生テープのように先ほどの光景がぐるぐると頭を回っているのであった。


もないことを返してきた。

「違うわよ。先輩に色目使い過ぎだって言ってるの」

「そんな照れなくてもいいわよ。奏音ちゃん。さやか、負けないからね」

どうやら、爽華には何を言っても通じないようだ。




『先輩の怒り』


奏音が予想していた通り、翌日の部活は最悪だった。ありとあらゆる場所に“爽華&幸季先輩はラブ②”とか“実は付き合ってたり??”などという真相が明らかなでない貼り紙が貼ってあるばかりか、部員達の会話もその話題で持ちきりだ。そんな雰囲気が気に入らない奏音はイライラした気分で練習していた。しかし、実際には少しも身が入らず、失敗を繰り返したり、いい加減な音程で音階を吹いたりしていた。最初は静かに注意を促していたコーキ先輩もついに爆発した。

「奏音ちゃん、やる気あるの??」

「あっ、すみません。あります」

どうせすぐ終わるだろうと奏音は軽く謝った。

「あります??だったらどうしていつもみたいに30分基礎練習しないんだい??そんなんじゃアンサンブルコンテストなんて出さないぞ。君は2ヶ月先なんてまだまだだと思っているだろうけどそんなの、あっという間なんだ。もっと時間を大切にしたらどうなんだ!!それから、君はどうやら昨日のことを気にしているようだけど、君が怒ることじゃないんじゃないかな。彼女もわざとじゃないって言ってるし。焼きもちでも焼いているのかい。君。彼女みたいに彼氏探し目当てで部活に来ているんだったら、今日にでもやめな。清南も納得すると思うし、君みたいな人なんか、いなくても困らない」

奏音の両目は涙でいっぱいだった。鞄も持たず、奏音は外へ飛び出して行った。

背後でコーキ先輩が何か言いかけたような気がしたが、気にもとめなかった。その時、奏音は“部活なんか一生やめてやる。二度とやるもんか”と思っていた。『小さな希望』



息も荒く奏音は家の中へと入って行った。珍しく和音の姿はなく、外出したようだった。仏頂面で居間へ入ると、和音からの置き手紙が置いてある。涙で濡れた瞳で奏音は読んだ。



“奏音へ


おかえりなさい

プレゼントがありますよ

自分の部屋を見てごらんなさい



奏音は、何だろう、誕生日でもあるまいし…と思いながらも部屋へ行ってみた。部屋の中央に置かれた茶色い長方形の箱が“奏音、早く開けてごらんなさい”と言っているようだった。

奏音は丁寧に包装紙を剥がした。すると、見覚えのあるケースが入っている。まさか…と思い、中を開けてみるとそこにはピカピカのオーボエが入っていた。たった今捨ててきてしまった思いに後悔した。そうね、私が好きなのはオーボエだ、コーキ先輩じゃない、たったひとつの宝物、それはオーボエなのだ。

走りまくって乱れた制服や髪を直すと、新品のオーボエを胸に小さな希望を抱いて学校へと奏音は戻って行った。歩きながら奏音は母に申し訳ないと思った。買うのも大変だっただろうに…。奏音は

「お母さん、ごめんなさい」

遙か彼方の空に向かってそう呟いた。



『宝物』


校舎はすっかりオレンジ色に染まっていた。辺りはもうとっぷりと日が暮れている。奏音は急いでホールへと駆けて行った。既に下校時間が過ぎており、ホールもどんどん人が帰っていてガランとしていた。その中に何とコーキ先輩の姿があった。奏音は先輩の方へ歩み寄ったが、彼は気付かないようだった。

「あのぉ…」

奏音はそんなコーキ先輩の背中越しに遠慮がちに声をかけた。コーキ先輩がゆっくりと振り向いた。その瞳は驚きを示しているようだった。

「奏音、ちゃん…」

「先輩、さっきはすいませんでした。今更自分で逃げておいて図々しいと思うかも知れませんが、もう一度私にオーボエを教えてください。私のたったひとつの宝物は、先輩でも爽華でもありません。宝物はオーボエです」

必死の思いで奏音は語った。しばらく、コーキ先輩は黙っていたがゆっくりと口を開いた。

「そうか…。良かった。僕も悪かったよ。追い出したはいいものの、本当はこんな奏音ちゃんみたいな才能のある子、追い出しちゃって良かったのかなぁって内心不安になっていたんだ」

穏やかな口調だった。

「ありがとうございます。先輩。新品の楽器も母が買ってくれたのでこれからは一層、宝物に情熱と愛情を注ぎます」

「え、新品!?いいなあ」


そんな2人をホールの片隅で清南は見ていた。

「やっと、あのコもやる気になったみたいね。今回は許しましょうか」


それぞれの家路へと帰っていく幸季と奏音の後ろ姿をいつもより明るく月明かりが照らしていた。




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