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修羅は闇に紛れて密やかに嗤う(前編)



間もなく秋が終わろうとしていた。

冬の到来を感じさせる凍てつく風に身を震わした。


十数年前までは紅葉が豊かだった小さな街だったが、急激な都市化計画によって街の景観は一変した。もはや季節を感じさせるものは全て人工物に取って代れていた。


かつての街並みに感慨があった訳ではない。過去を想起させる存在は全て俺にとって不快でしかない。全て消え去ってしまえばいい。

風城市を支配する高層ビル群は全て過去の墓標だ。忌まわしき過去を踏み躙り、どこまでも高く登れ。その果てに何があろうとも。



「あれっ? 東雲先輩?」



セントラル街を歩いていると、突然声を掛けられた。

どこか懐かしさを感じさせる声だった。振り返り、その姿を見ると過去の残滓が疼きを上げた。


極寒の冬とは対極的な温かさを感じさせる春の微笑み。全てを慈しむ優しさと強さを兼ね備えた顔立ち。その全てが記憶の海に沈めた想い出が浮かび上がる。


「………………あぁ、凪か」


一瞬の沈黙は彼女の名前を思い出すのに掛かった時間だ。

随分と懐かしい知人との再会だった。これだから日中に外を出歩くとロクなことがない。


気分は最悪だった。

落ちぶれる以前の知人と出会うのは不快以外の何物でもない。内心で面倒臭く思いつつも、俺はかつての優等生の仮面を被った。


「覚えていてくれたんですね。本当にお久し振りです」

「そうだな。高校卒業して以来だから、もう六年振りくらいか?」

「先輩もお変わりないようですね」


それは、とんだ節穴だな。

かつて陸上で活躍した優等生が今やドラッグ漬けのチンピラだ。なかなかの落ちぶれ具合だろう。笑いたければ笑え。殺してやるから。


「そっちは綺麗になったじゃないか? 職場ではさぞやモテてるんじゃないのか? 高校時代も毎日のように告白されてたしな?」


「は、ははは……。今は生徒に告白までされる始末で、断るのに昔以上に気を使うんですよね」


「……生徒? お前、教師にでもなったのか?」

「はい、母校の静林付属中の英語教師に赴任しました」


「………………へぇ、それはそれは……」


実に好都合だな。

先程までの不快感は嘘のように消え去り、こんなにも都合のいい獲物を用意してくれた悪魔に感謝した。


ここで凪桜と再会できたことは運命だった。


さぁ、あとはどうやって手薬煉を引くか考えるだけだ。女とガキを操ることなんて少々の手間を惜しまなければ、さして難しいことではない。











時は遡り、東雲正義がゲーム盤に上がる以前まで時計の針は戻る。

黒澤拓摩が風城市をチェス盤に例えたが、まさに今この街には白と黒のキングを守護するように多くの駒が配置されていた。


東雲正義は自身が気付かぬうちに黒の駒として配置され、ブラッドをばら撒くという役割を担わされた。彼の役割は、黒側にとって序盤を有利な形にするためだけの駒だった。


だから、ここで断言しよう。

東雲正義は白き駒によって破滅させられる。


時としてゲームの命運を左右しかねない重要な駒となることがあっても、チェス盤の中央を支配する力を持つ駒となることがあっても、その駒の破滅は必定していた。


極めて高度な知能犯罪を行うためには、熟考に熟考を重ねた計画が最低条件だ。東雲正義のように、たかだか数日程度の熟考では全く足りない。数年単位、時には十年以上の年月を掛けての計画立案の期間が必要だ。それは盤上に並ぶ全ての駒が行動し得る全てのパターンを何万、何億、何兆以上まで予測した上で、ようやく駒を動かすようなものだ。もはやプロのプレイヤーをも凌ぐ異常な熟考だ。


東雲正義を駒として操る黒き王はそれだけの期間を熟考した。


盤上のいかなる変化が起きようとも決して揺るがない絶対の自信を持ち、確実な勝利を得られると確信していた。白き王がどれほど奇抜な手を指そうとも、それは全て黒き王の掌の出来事に過ぎない。


だから、更に断言しよう。

黒き王は東雲正義の駒をサクリファイスにして確実な勝利を得る。

無論、それは東雲正義には直接関係のない物語となるが……。


白き駒は自らの破滅を知らず、目の前の駒を取るために行動を開始する。それが全てを終わらせると知らずに。




舞台は私立静林学園付属中学校に移る。

数年前に風城市中央区の一等地に設立された進学校だった。高等学校を頂点とした六ヶ年一貫教育の形態をとっており、現在では市内随一の進学率を誇っていた。


バロック建築の白亜の校舎は、青少年の学び舎というよりは王族が住まう居城のようだった。初めて訪れる者の大半はこの美麗な外観に圧倒される。内装は学び舎としての体裁をとっているため外装よりグレードは落ちるが、それでもビロード張りの廊下は普通の学校では考えられないものだろう。


生徒達にとってはあまり優遇された空間であるが、授業カリキュラムは苛酷であった。常に優れた成績を残すことが義務付けられ、成績不振の者は弁解の余地なく退学にさせられる。スポーツ特待生の場合は学業成績について問われることはないが、大会での結果次第では同様の末路を辿ることになる。


いわゆる飴と鞭政策である。過去幾度となく施行された政策であるが、現在では珍しいと言わざるを得ない。誰しも鞭で打たれるのは嫌だったが、この学園の飴はあまりに甘美であった。故に過酷極まりない教育方針であっても市内屈指の人気校だった。


かつては東雲正義が在籍していた学園でもあり、現在は凪桜が教鞭を振るっている学園でもあった。



変わらない学園の日常に変化が起きたのは、東雲正義が赤き魔性のドラッグ出会う前日のことだった。



「それでは自己紹介をお願いできますか、佐渡君」

「…………」



三年一組の教壇にはスーツ姿の凪桜教諭ともう一人、真新しい付属中学の制服を着た妙にひょろ長い少年が気だるそうに立っていた。


「……どうしました、佐渡君?」


佐渡と呼ばれた少年は、桜に声を掛けられても変わらず億劫そうな雰囲気が体全体から滲み出ていた。首筋をポリポリと掻いて、目線は明らかに誰もいない天井に向いていた。


身長は壇上に乗っていることを差し引いても一般的な男性を遥かに超え、百九十に届くか届かない程度だろう。にもかかわらず制服は何故か大きめのようで、袖は指先まで隠すように長かった。そのためか、体格はそれなりにいいはずなのに、ヒョロっとした印象を受けた。


髪は無造作というよりボサボサと寝起きのままのような酷い状態。顔立ちは割と端正そうに見えるが、目元まで隠すような大きな瓶底眼鏡が全ての印象を決定付けていた。


昭和の遺物としか思えないグルグル眼鏡を掛けた少年は、何というか一見して駄目そうな感じだった。



「あぁ~……、しなきゃあかんですか? だって、誰も僕に興味なんて持ってなさそうですし。需要のないことはしたくないんですよね。自分、資本主義の犬ですから」



そして、性格にも大分問題がありそうだった。これは駄目指数を大幅にプラス補正しないといけない。


クラスメイト達は予想を超える変人に奇異の視線を向けた。こんな奴が新たなクラスメイトになるかと思うと、とても楽しい気分にはなれなかった。


「え、えっと、それはしてもらわないと困ります」


桜も目の前にいる少年が問題児であることに気付きつつ、何とか笑顔を維持してそう言う。



「でも、先生。こんなグルグル眼鏡のアホ面野郎の自己紹介なんて誰が聞きたいんですか? 何というか、もう視界に入ってるだけでウザくねって感じじゃないですか? まぁ、それでも嫌がらせのように視界に入ってやるんですがね、うっひゃひゃひゃ~♪」


「さ、佐渡君……。お願いだから……」


「はいはい、冗談はここまでにしますよ。綺麗な先生を泣かすのはベッドの中だけにしとけって言いますからね」


「……転校早々、生徒指導室に行きたいんですか、君は?」



さすがに温厚な桜も強硬な態度をとって、この変わった生徒を戒めようとした。しかし、引き際と感じた少年は不誠実な笑顔で謝った。


「にししし、それは勘弁で♪ 自分、佐渡逸樹って言うんで、仲良くしてくれると嬉しいですわ」



逸樹の自己紹介を聞き、クラスメイト達は大きく溜め息を吐いた。

今の桜とのやり取りで彼の性質の悪さは十二分に理解できてしまった。可能であれば、関わり合いたくないと誰もが思った。


しかし、残念ながらそう思っても関わらざるを得ない人物が一人いた。その人物はこれから押し付けられる面倒事を予期して盛大に溜め息を吐いた。



「はぁ~……」


「じゃあ、佐渡君は一番後ろの空いている席へ行ってください。では、柊木さん、彼のことをよろしくおねがいしますね」



柊木真由美は不満そうな視線を担任教師に向けるが、桜は頼りなく苦笑するしかなかった。どのみち空いている席は真由美の隣しかないので、この厄介な転校生が彼女の隣に来るのは決定事項だった。











そして、二週間の月日が流れた。

盤上の駒は確実に進行するも、まだ衝突は起こらない。チェスの序盤はただ静かに駒が有利な位置へと移動をするだけだ。戦いが始まるのは、自陣の守りを固め、駒の展開を広げられた時だった。


東雲正義が行動を起こしてから、すでに幾日かが過ぎていた。


一方、この二週間という時間は柊木真由美にとって受難の月日だった。


クラス委員の柊木真由美は、美しくも少々刺のありそうな薔薇を連想させる少女だった。眼光も怜悧で初対面の相手には近寄り難い印象を与えるが、実は意外と面倒見のいい性格だった。その面倒見の良さが災いして、委員長という厄介事を押しつけられていた。


真由美はせっかくの昼休みだというのに昼食も早足で廊下を歩いていた。少し固めで癖のある長髪を掻き毟りながら、視線を周囲に巡らせて逸樹の姿を探していた。


一通り目のつくところを探したが、逸樹は見つからなかった。

どうやら、また性根の歪んだ連中に絡まれているのだろう。


静林学園は極めてレベルの高い進学校であるが、残念ながら苛めは存在している。成績優良だからといって善良であるとは限らない。さすがに表立って何かをしている訳ではないが、その分影でかなり陰湿なことをしていた。


逸樹の風貌はふざけたグルグル眼鏡をかけた駄目男だ。もう苛めてくださいと言わんばかりの容姿で、なおかつ性格もあのように褒められたものではなかった。


大抵は彼を無視するか、苛めの標的にするかのいずれかだろう。


そんな奴の面倒を見ている真由美は相当に希少な存在だった。

もはや逸樹のことは教師陣もほとんど諦めていた。担任の桜は割と頑張っているようだが、たまに疲れた様子で溜め息を吐いていた。真由美もあの飄々とした眼鏡野郎のせいで溜め息の数が増えていた。


最近では正直、心配するのも馬鹿馬鹿しい気はしていた。


どうにも逸樹はわざと苛めを煽っている風に見えた。いや、多分あの掴みどころのない変な性格のせいだと思うが、真由美は妙な違和感を拭い切れなかった。



「はぁ、全く何で私がこんなことを……」



あんな勝手な奴など放っておけばいいと思いつつ、どうにも無視することが出来なかった。


世話焼きなのは真由美の性分なのだろう。彼女には一つ年上の姉がいるのだが、どうにものんびりマイペースで危なっかしいタイプだった。そんな姉を常にフォローしているうちに、いつしか真由美は面倒見がよくなり過ぎてしまったのだろう。


くだらない自分の性格分析はさておき、真由美は逸樹を探して校舎内を駆け巡った。


陰湿な連中が苛めの対象を連れ込むとしたら、やはり人目の付きにくい場所だ。裏庭か、使用されていない教室か、体育倉庫か。ひとまずまだ足を向けていない体育館方面に向かった。


さっそく体育倉庫に行くと、扉の前にあまりいい噂を聞かない三年生の姿があった。何かを見張っているというより、逃げ道を塞いでいるような感じだった。幸い、注意が散漫になっているようだったので、真由美は足音を殺してなるべく目立たないように体育倉庫に近付いた。



「……何をしているの?」

「あァ? ひ、柊木!?」


「全く、またくだらないことをしているのね?」



見張り役の生徒を無視して扉に近付く。

しかし、彼も伊達に見張りで立っている訳ではないので、咄嗟に真由美を止めようと手を伸ばした。


咄嗟とはいえ、女の腕を力ずくで止めようとしたのだから悪いのは彼だろう。護身術の心得があった真由美は瞬時に彼の手を掴み、容赦なく投げ飛ばしてやった。


「あっ、やり過ぎた……。でも、悪いのはこいつだし」


見張り役の少年は白目を剥いて昏倒してしまったが、悪いのは多分真由美ではないだろう。


真由美は気絶した少年を一瞥したが、すぐに視線を体育倉庫の入り口に向けた。どうやら今の騒ぎは聞かれなかったようだ。真由美は気配を殺して扉に近付いて、中の物音に聞き耳を立てた。



「……という訳で俺達、金に困っている訳よ? わかる? 俺達の言いたいことわかるか?」


「うひゃひゃひゃ~♪ わかるわかる。馬鹿丸出しのカツアゲかい? いや、頭いいのに馬鹿だね、あんた等? あっ、スポーツ特待は馬鹿でもいいんだっけ?」


「てめぇ! 調子乗んなよ!」

「うひゃぁぁ~! 怖い怖い!」


「避けんな、コラ!! 大人しく殴られろ!!」



やはり絡まれる方にも問題がある気がする。一瞬放っておこうかという誘惑に駆られた。


体育倉庫の中がかなり騒がしいことになり始めた。乱闘が始まっているのだろう。いかに逸樹が問題児であっても、大人数で殴られるようなことを容認できるはずがなかった。


真由美は慌てて体育倉庫の扉に手を掛け、重い鉄製の扉を引き開けた。



「何をしているの、あんた達!?」

「て、てめぇ、柊木!? また邪魔しにきやがったのか!?」



最初に目についたのは、真由美と同じクラスのスポーツ特待生だった。彼を筆頭にした取り巻きが何人もいて、逸樹を取り押さえていた。



「おりょ? 早い登場だね、まゆみん?」



数人に取り押さえられ、何発か殴られている逸樹が何故か一番余裕そうな顔をしていた。


真由美はとりあえず逸樹を無視して、苛めの主犯格であるスポーツ特待生、長谷川を睨み付けた。彼はバスケットボールの有力選手として入学しているが、少々素行不良なところがある生徒だった。


静林学園において特待生は他の学校と比べて遥かに優遇される。成績優良者や部活動等で目覚ましい活躍をした者なら、多少問題を起こしてもお目溢しが許される。実力がある者なら何をしても許される。そんな空気がこの学園には満ちていた。


長谷川もまたスポーツで優れた成績を出し、実際に去年は男子バスケ部を全国大会まで導いた。故に学園側から優遇されて、少々増長していた。逸樹に限らず、この少年からカツアゲの被害を受けた者は何人もいた。そして、真由美はそうした被害者達から何度も相談を受けていた。


「……あんたも懲りないわね。もう一回宙を舞ってみたい?」


以前も苛めの現場に駆け付け、真由美は得意の護身術で長谷川を投げ飛ばしてやったことがあった。


「てめぇも調子に乗るなよ。俺はもう油断してないし、あの時とは人数が違うぜ? それに、今ここは叫んだところで誰も来ない体育倉庫だ」


下卑た笑みを浮かべる長谷川。

さすがにスポーツ特待生となるような男子を相手と戦うのは、真由美にとって決して楽なことではなかった。前回投げ飛ばしたような油断はないだろうし、他にも屈強な男子が五人もいいた。


状況は一見真由美にとって不利のようだが、彼女は全く動じる様子はなかった。



「別にあんた等まとめて投げ飛ばしてやってもいいけど、もうすぐ先生達が来るわよ? あんた、今年はいい成績を出していないんでしょ? この学園は成績を出した者しか優遇はしないわよ? 去年までみたいな勝手が通ると思わないことね」



実は先生達が来ると言うのはハッタリだった。

しかし、余裕に満ちた表情で言い放つことによって、それは充分な効果を示した。


長谷川の動揺を真由美は見逃さなかった。


一瞬にして長谷川の懐に入り込むと、彼の重心を崩して思い切り床に叩きつけた。更に倒れた長谷川の頭に一発踏み付けて、抵抗をされる前に意識を断ち切った。


続けて手の届く範囲にいた男の腕を取り、同じように床に叩きつけて昏倒させた。長谷川と取り巻き一人を潰し、残りは四人。あとは不意を突かなくても、なんとか真由美一人で対処できる数だった。



「佐渡を離して、とっと去りなさい!!」



真由美は強い語調で命じた。

リーダーのいなくなった群れが抵抗をするはずもなく、残っていた生徒達は逸樹を解放し、昏倒していた者達を連れて逃げて行った。


そして、体育倉庫に残ったのは真由美と逸樹だけとなった。


逸樹は相変わらずへらへら笑って、助けてくれた真由美に対して感謝している様子はなかった。面白い見世物を見られた程度の顔だった。



「きゃ! 女の子と二人きりって体育倉庫にいるなんて恥ずかしい! 押し倒してもいいですか?」


「……あんたも投げ飛ばすわよ」

「うひゃひゃひゃ~♪ やれるものなら、ご自由に?」


「ホント、ムカつくわね……」



一発くらい殴ってやろうかと思ったのだが、どうも逸樹は結構身軽で正面から殴り掛かったくらいでは当たらないのだ。実は運動神経がいいのではないかと思えるのだが、体育は全て見学していた(しかも、それが承認されていて、他の生徒達の不興を買っていた)。


真由美は握り拳を解いて、倒れている逸樹に手を差し伸べた。何だかんだ言いつつも、真由美は本当に面倒見がよかった。


そんな真由美の手を見て、逸樹は一瞬だけいつもの人を食った笑みではなく、ただ純粋に嬉しそうな笑みを浮かべた。



「……僕は真由美のそういうとこ、好きだよ」



いつもの飄々とした軽い言葉ではなく、逸樹が初めて真由美に見せた素の声色だった。



「なっ!? 何言ってるのよ、馬鹿!! 腐れ眼鏡!!」

「にししし♪ 初心なところも可愛いなぁ~。ねぇ、押し倒してもいいですか? ほら、あそこにマットがあるよ?」


「うるさい!!」



また軽薄な調子に戻った逸樹に、真由美は手加減なしの左ストレートを放った。間近の距離からの一撃だったが、逸樹は寝そべったまま悠々と回避して、追撃が来る前に立ち上がった。


本当に回避能力だけは一級品だ。真由美は忌々しそうに逸樹を睨んだ。



「……ねぇ、前々から思ってたんだけど、貴方って何者?」

「んん? 何者って?」


「……この時期に転校してきた奴を怪しむなっていうのは無理があると思うんだけど?」



真由美は怜悧な刃のような言葉を逸樹に突き付けた。

もし、彼が何も知らないのなら、それでもいい。何も知らないのなら、ただの詰問になるだけで意味は通じないだけだ。


だが、逸樹が違う目的を持って静林学園に、風城市に訪れたというなら、真由美にとって度し難いことだった。


佐渡逸樹が黒き王が配置した駒だとしたら、柊木真由美の敵となる。



「にししし♪ 愚かで経験不足なまゆみんに一つ教えてあげるよ?」

「だ、誰が愚か……、……なッ!?」



逸樹の言葉に腹を立てた真由美が一歩踏み出した瞬間、彼女の視界は天地が逆さまになった。


気が付けば、マットの上に倒されていた。叩き付けられた衝撃も痛みもなく、ふわりと優しく寝かせられたようだった。そのため、真由美は何が起きたかさえわからなかった。ただ、暗く汚れた天井が目の前にあった。



「尋問をしたいなら、相手が完全に抵抗できない状態にしてからじゃないと危険だよ? こうして思わぬ反撃を受けるかもしれないからね」


「ひゃううう!?」



死角から耳を甘噛みされた真由美は無防備で可愛らしい悲鳴を上げた。

真由美は一瞬何をされたかわからず混乱したが、不遜な笑顔を浮かべる逸樹を見た瞬間に全てを悟った。


真由美はすぐさま跳ね起き、隣にいる逸樹の頭を叩こうと拳を上げた。しかし、その拳は振り下ろす間もなく逸樹に掴み取られ、力ずくで下におろされた。


拳を握られたことで、いつも袖の下に隠れていた逸樹の手が見えた。

それは例えるなら、修羅の拳だった。


もはや傷のない場所などなく、傷が癒える間もなく傷の上に傷を負い、その無数の傷さえ黙らせるほどに殴り続けた拳だった。まさに破壊の象徴と呼ぶに相応しい鬼の拳だった。


真由美は視線を上げて逸樹の顔を見つめた。

そこには一人の修羅が恐ろしい表情で睨みを利かせていた。



「聞かれたくない話を聞き出すには大変なんだよ、まゆみん? そして、その聞かれたくない話の闇が深ければ深いほど、危険だって深まっていく。君はこのゲームの闇がどれだけ深いか知っているのにもかかわらず、馬鹿みたいに真正面から話を切り出した。

 ……今の僕の気持ちがわかるかな、まゆみん? 君が今、僕以外の人間に同じような質問をした時、どんな危険が迫っていたかを想像して、僕が何を想っているか?」


「し、知らないわよ、あんたの気持ちなんて……」



声が震えていた。

気丈に振る舞おうとしても、真由美は目の前の鬼を恐れていた。

だけど、その恐怖を見せることは逸樹を傷付けてしまうと思い、真由美は必死に強がった。



「……僕はね、まゆみんみたいな人が好きだよ」

「なっ!? また変な冗談を……」


「冗談なんかじゃないさ。君のその押しつけがましい優しいお節介が大好きだよ」


そんな甘い言葉を吐きながら、逸樹はすっと真由美に顔を寄せる。

今度は耳を噛むだけでは済まなかった。首筋に吸いつくようなキスをされた。


ぞくりと痺れる感覚が全身を駆け巡った。


牙を突き立ててられる訳でもないのに、まるで吸血鬼に血を吸われているような感覚だった。精気が根こそぎ奪われていく。強張っていた真由美の身体がふにゃりと崩れ落ちた。



「だからね、まゆみん? 君はこんなゲームに関わってほしくない」

「そ、それは出来ないわ! わ、私は……」


「君は駒じゃない。どれだけ白い王側に肩入れしようとも、君は駒になれない。わかっているはずだろう?」



残酷な真実が容赦なく真由美の心臓を貫いた。

逸樹の言葉は紛れもない真実だった。いかに心情的に一方に傾きながらも、柊木真由美の役割は決して駒ではなかった。


チェス盤には駒しか置けない。

駒でない柊木真由美に居場所などあるはずがなかった。それでもなおゲームに飛び込むつもりなら、それは強制的に排除されるだけだ。



「君はこのゲームの審判。いや、ルールそのものだ。戦うのは駒に任せるんだ。もはや君が死んだところでゲームには何ら影響はないだろうけど、君が死んだら悲しむ人はたくさんいるんだ。そして、僕も悲しむ一人だ」


「い、逸樹……」

「だから、危ないことはしちゃ駄目だよ」


「ひゃん!!」


先程キスされた場所を舐められた。

それがある意味トドメとなって、真由美はもう完全に腰が抜けて動けなくなってしまった。


「じゃあ、大人しくしてるんだよ、まゆみん♪」


真由美の味をしっかり堪能した眼鏡野郎は実に爽やかな笑顔を浮かべて、軽やかな足取りで体育倉庫を出て行った。

散々弄ばれた少女は募る鬱憤がたくさんあったが、今は何も口にする気力はなかった。


逸樹は体育倉庫から後姿が見えない場所まで移動すると、不意に軽やかな足取りを止めた。両手をポケットに突っ込み、ガサガサと弄りながら中のモノを取り出した。


右手には携帯電話。左手にはピルケース。


まずはマナーモードにしていた携帯電話を確認した。先程から何度か着信があったようだ。逸樹はその相手に電話を掛け直した。



「佐渡逸樹、そちらは順調かしら?」


「ご機嫌麗しゅう、岸辺藍さん。こっちの捜査は若干邪魔が入りつつも、割と順調ですよ。うひゃひゃひゃ~♪」



いつもの飄々とした口調ながらも、眼鏡の奥に潜む逸樹の眼光はまるで悪鬼羅刹のように酷薄だった。


一通りの報告を終えた逸樹は携帯電話をポケットに戻した。

そして、もう一方の手に握られているピルケースに視線を落とす。それを開き、中を確認すると赤き魔性のクスリが入っていた。


鬼はまた残虐な笑顔を浮かべ、迫りくる殺戮を待ち侘びた。


木枯らしが秋色の木々を散らしていった。凍えるような寒さだが、逸樹は震えるでもなく、ただ高く澄み渡る空を見上げた。例年より早く秋の終わり、冬はきっと今まで以上に冷え込むだろう。


そう、きっと血が凍るほどに……。

冬の到来は間もなくだった。





Tell the continuance in hell…


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