卵焼きの角
大切な人が残してくれたものは、物だけではありません。
この物語は、父と娘が一つの卵焼きを通して受け継いでいく、
家族の絆のお話です。静かな想いの重なりを感じていただければ幸いです。
妻が死んで三年、俺は毎朝五時に起きて弁当を作っている。
最初の年は、卵焼きの端が焦げた。フライパンの温度がわからなかった。
妻がいつも使っていた小さな鉄の卵焼き器は、取っ手の付け根が緩んでいて、
菜箸で巻くたびにがたがたと揺れた。
娘の莉子は、それを黙って弁当箱に詰め、黙って学校へ持っていった。
「まずかったか」
夕飯のときに聞くと、莉子は箸を止めずに、
「別に」
と言った。
高校二年生の女の子が、父親に本当のことを言うわけがない。
俺だって、母親を亡くした年頃の娘が何を考えているのか、
わかったためしがなかった。
二年目、俺はレシピノートを買った。
妻が台所の引き出しに残していた古いノートには、彼女の字で、
「莉子・卵焼き・甘め」
とだけ書いてあった。
分量は何もない。
妻は目分量で料理をする人だった。
砂糖を小さじ何杯、醤油を何滴、などと考えたこともないらしい。
俺にはそれができなかった。砂糖と醤油とみりんを何度も量り、
卵を焼いては失敗した。
焦げた卵を、こっそり自分で食べた朝が何日もあった。
台所の窓から見える隣の家の庭に紫陽花が咲く頃になっても、
俺は卵焼きの角をきれいに巻けなかった。
四角い卵焼き器の四隅に卵液が薄く残る。そこだけ先に火が入り、黒くなる。
妻はどうやっていたのだろう。
菜箸を入れる角度。
卵焼き器を傾けるタイミング。
火を弱める瞬間。
聞いておけばよかったと思うことばかりが、あとから増えていった。
莉子は塾から帰ると、弁当箱を流しに置いて二階へ上がった。
俺は空になった弁当箱を洗うとき、隅々まで見るようになった。
ご飯粒がどれくらい残っているか。
卵焼きが残されていないか。
ミニトマトのへたが取り除かれているか、そのままか。
それだけが、娘が何を思っているかを知る手がかりだった。
ある朝、卵焼きを四つに切り分けていると、莉子が台所へ降りてきた。
制服のリボンをまだ結んでいなかった。
「お父さん」
「なんや」
「その巻き方、逆」
莉子は俺の手元を覗き込み、菜箸を取り上げた。
「奥から巻くんちゃう。手前から。お母さん、いつもそうしてた」
俺は何も言わず、場所を空けた。
莉子は卵液を流し込んだ。
菜箸を入れる。
手前へ引く。
卵焼きが、するりと巻かれていく。
角がきれいに立った。
「お前、いつの間に」
「小学生のときから見てたし」
莉子はそれだけ言うと、洗面所へ行った。
その日から、朝の台所に莉子が立つ日が増えた。
何も言わずに卵焼き器を取り、俺が別のおかずを作る。
二人で並んで台所に立っても、会話はほとんどなかった。
油の匂い。
包丁の音。
菜箸が鍋肌に触れる、小さな音。
それだけで朝が過ぎていった。
高校三年の秋、莉子は東京の大学を受けると言った。
母親の実家が近い土地だった。
「好きにせえ」
俺はそれだけ答えた。
それ以上のことは、何を言っても余計な気がした。
合格発表の日。
莉子は自分の弁当だけでなく、俺の分まで作った。
仕事に持っていく弁当だった。
頼んだ覚えはない。
「なんでや」
「別に。作りすぎただけ」
昼休みに蓋を開けた。
卵焼きが入っていた。
角が、きれいだった。
四隅まで均等に火が通っていて、焦げは一つもなかった。
俺が何度やってもできなかった角だった。
三月、莉子は東京へ発った。
駅まで送る車の中で、二人ともほとんど喋らなかった。
改札の前で、莉子がふいに鞄を開けた。
一冊のノートを取り出した。
妻が残した、あのレシピノートだった。
「これ、お父さんが持っといて」
「お前が持っていけばええやろ。自分で使うんやったら」
「いらん」
莉子はノートを俺に渡した。
「もう覚えたし」
そう言って、改札の向こうへ歩いていった。
振り返らなかった。
その夜、俺は一人分の卵焼きを焼いた。
手前から巻いた。
角は、まだ少しいびつだった。
火を止めて、まな板の上に置いた。
四つに切る。
いつもより、ゆっくり切った。
台所の引き出しにノートをしまおうとして、最後のページに目が止まった。
妻の字の下に、いつの間にか別の字が書き足されていた。
「卵焼き・甘め・手前から巻く」
莉子の字だった。
俺はしばらく、その一行を見ていた。
それからノートを閉じた。
台所の電気を消した。
暗くなった流しの向こうで、卵焼き器の四角い輪郭だけが、
しばらく残っていた。




