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卵焼きの角

掲載日:2026/10/22

大切な人が残してくれたものは、物だけではありません。

この物語は、父と娘が一つの卵焼きを通して受け継いでいく、

家族の絆のお話です。静かな想いの重なりを感じていただければ幸いです。

妻が死んで三年、俺は毎朝五時に起きて弁当を作っている。


最初の年は、卵焼きの端が焦げた。フライパンの温度がわからなかった。

妻がいつも使っていた小さな鉄の卵焼き器は、取っ手の付け根が緩んでいて、

菜箸で巻くたびにがたがたと揺れた。


娘の莉子は、それを黙って弁当箱に詰め、黙って学校へ持っていった。


「まずかったか」


夕飯のときに聞くと、莉子は箸を止めずに、


「別に」


と言った。


高校二年生の女の子が、父親に本当のことを言うわけがない。

俺だって、母親を亡くした年頃の娘が何を考えているのか、

わかったためしがなかった。


二年目、俺はレシピノートを買った。


妻が台所の引き出しに残していた古いノートには、彼女の字で、


「莉子・卵焼き・甘め」


とだけ書いてあった。


分量は何もない。


妻は目分量で料理をする人だった。


砂糖を小さじ何杯、醤油を何滴、などと考えたこともないらしい。

俺にはそれができなかった。砂糖と醤油とみりんを何度も量り、

卵を焼いては失敗した。


焦げた卵を、こっそり自分で食べた朝が何日もあった。


台所の窓から見える隣の家の庭に紫陽花が咲く頃になっても、

俺は卵焼きの角をきれいに巻けなかった。


四角い卵焼き器の四隅に卵液が薄く残る。そこだけ先に火が入り、黒くなる。


妻はどうやっていたのだろう。


菜箸を入れる角度。


卵焼き器を傾けるタイミング。


火を弱める瞬間。


聞いておけばよかったと思うことばかりが、あとから増えていった。


莉子は塾から帰ると、弁当箱を流しに置いて二階へ上がった。


俺は空になった弁当箱を洗うとき、隅々まで見るようになった。


ご飯粒がどれくらい残っているか。


卵焼きが残されていないか。


ミニトマトのへたが取り除かれているか、そのままか。


それだけが、娘が何を思っているかを知る手がかりだった。


ある朝、卵焼きを四つに切り分けていると、莉子が台所へ降りてきた。


制服のリボンをまだ結んでいなかった。


「お父さん」


「なんや」


「その巻き方、逆」


莉子は俺の手元を覗き込み、菜箸を取り上げた。


「奥から巻くんちゃう。手前から。お母さん、いつもそうしてた」


俺は何も言わず、場所を空けた。


莉子は卵液を流し込んだ。


菜箸を入れる。


手前へ引く。


卵焼きが、するりと巻かれていく。


角がきれいに立った。


「お前、いつの間に」


「小学生のときから見てたし」


莉子はそれだけ言うと、洗面所へ行った。


その日から、朝の台所に莉子が立つ日が増えた。


何も言わずに卵焼き器を取り、俺が別のおかずを作る。


二人で並んで台所に立っても、会話はほとんどなかった。


油の匂い。


包丁の音。


菜箸が鍋肌に触れる、小さな音。


それだけで朝が過ぎていった。


高校三年の秋、莉子は東京の大学を受けると言った。


母親の実家が近い土地だった。


「好きにせえ」


俺はそれだけ答えた。


それ以上のことは、何を言っても余計な気がした。


合格発表の日。


莉子は自分の弁当だけでなく、俺の分まで作った。


仕事に持っていく弁当だった。


頼んだ覚えはない。


「なんでや」


「別に。作りすぎただけ」


昼休みに蓋を開けた。


卵焼きが入っていた。


角が、きれいだった。


四隅まで均等に火が通っていて、焦げは一つもなかった。


俺が何度やってもできなかった角だった。


三月、莉子は東京へ発った。


駅まで送る車の中で、二人ともほとんど喋らなかった。


改札の前で、莉子がふいに鞄を開けた。


一冊のノートを取り出した。


妻が残した、あのレシピノートだった。


「これ、お父さんが持っといて」


「お前が持っていけばええやろ。自分で使うんやったら」


「いらん」


莉子はノートを俺に渡した。


「もう覚えたし」


そう言って、改札の向こうへ歩いていった。


振り返らなかった。


その夜、俺は一人分の卵焼きを焼いた。


手前から巻いた。


角は、まだ少しいびつだった。


火を止めて、まな板の上に置いた。


四つに切る。


いつもより、ゆっくり切った。


台所の引き出しにノートをしまおうとして、最後のページに目が止まった。


妻の字の下に、いつの間にか別の字が書き足されていた。


「卵焼き・甘め・手前から巻く」


莉子の字だった。


俺はしばらく、その一行を見ていた。


それからノートを閉じた。


台所の電気を消した。


暗くなった流しの向こうで、卵焼き器の四角い輪郭だけが、

しばらく残っていた。


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― 新着の感想 ―
こんばんは。 とても可愛らしいお話で、でも少し切なくて。 お父さんの頑張りをみていたから、莉子ちゃんも教えてあげようと思ったのでしょうね。 母親から娘、そしてお父さんが寂しくないように莉子ちゃんが、巻…
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