燃える炎のスケートリンク
雪は降るたびに人を見上げさせる。
だが、その名を覚えている雪片など一つもない。
美しいと思った瞬間には、もう消え始めているからだ。
奈緒は、スケートリンクを覗き込みながら、いつか聞いたその言葉を思い出していた。
「そろそろ雪奈の出番だね」
里穂が私の顔を覗き込みながら、話しかけてきた。
私は大のフィギュアスケートオタクだ。
昔は里穂と一緒に習っていたこともあるけれど、二人とも才能はなかった。回転は半分も回れず、スピンは目が回るだけ。気づけば私は滑る側ではなく、ただのオタクとして見る側の人間になっていた。
だけど、雪国で育ち、物心ついた頃から一緒に雪で遊んでいた親友の雪奈だけは違った。私や里穂が転んでばかりいる横で、彼女だけは綺麗に氷の上を滑ることができたのだ。
リンクの端でそれを見ていたのが、元プロの氷川誠コーチだった。
「いいセンスをしている。うちに来てフィギュアスケートをしてほしい」
ふいにそう呼び止められてから、雪奈は忙しく彼の元へ通い詰めるようになった。
いつも三人で遊んでいたから、少し寂しかったのを覚えている。会えなくなることは増えた。それでも私は試合の結果を誰より先に調べたし、優勝した日は自分のことのように喜んだ。雪奈が負ければ一緒に落ち込んだ。
気づけば私は親友ではなく、一人のファンになっていた。
雪奈は本当に練習熱心だった。膝はケガまみれで、いつも痛々しい練習の跡がのこっていた。雪奈は女の子らしくそのかさぶたを隠すように、いつも長いズボンを履いていた。
「ジャンプできちゃった……まだ二回転とかだけれどね」
と言っていたのは彼女が小三の時である。
そこから彼女は、血の滲むような鍛錬を積み重ねて一気に頭角を現した。ジュニアの大会を総なめにし、瞬く間に日本のトップクラスへと駆け上がっていく。私たちはすごいと思った。でも、その時はまだ伝説の始まりだなんて思ってもいなかった。
時は流れて高校一年生。
中学生のころから注目を浴びていた彼女のシニアデビューの反響は大きく、最近のファンの数の増え方がうなぎのぼりである。私たちの自慢の友達は、今、初の世界選手権の切符をつかむため、日本選手権へ出場していた。
大会の前、私たち三人は放課後集まってこんな話をしていた。
「明日、雪奈の演技が終わったらシロクマのぬいぐるみ投げるから受け取ってよ」
「え?くれるの?」
「もちろん、奈緒も一緒に投げるよね」
「そらそうだよ、だから雪奈、頑張ってきて!」
「うん!」
なにせ最近、とりあえず動物の名前の前にカタカナの「シロ」をつけるキャラクターが流行っていたもので、私たちもそれで遊んでいたのだ。
ちなみに私の推しはシロアライグマである。絶妙に可愛い。
そして今、雪奈の滑走が始まろうとしている。
「今日のメニューは三回転アクセルと、ルッツループのコンビネーションと……」
「ちょっと奈緒、一人でなにブツブツ言ってるのよ」
里穂が苦笑いする。彼女の右手には、かわいい顔をしたシロクマががっちり握られていた。
「シロクマ死んじゃうよ。もっと優しくしなきゃ」
「あはは、確かに。なんで投げる私たちが緊張するんだろうね」
「ほんとにね。でも私たちは一番近くで雪奈を見てきた。あの子には世界に行ってほしい」
「なにそれ、保護者みたい笑。あ、ほら始まるよ」
場内がすっと暗くなり、すべての視線が一点に集中した。
『レプリゼンティング ジャパン――ユナ ハヤセ』
氷を削る鋭い音が響き、彼女がリンクに入ってきた。
勢いよく登場した彼女は、リンクを大きく一周まわり、審査員の目の前でピタリと動きを止めた。その瞬間、鮮烈なライトが一斉に彼女を照らし出す。雪奈は顔を上げた。
音楽とともに、演技が始まった。
まずは冒頭のトリプルアクセル。完璧な助走から、彼女は前向きに力強く踏み切った。氷を離れ、重力から解放された空中で、三回転半を正確に回りきる。着地の瞬間、エッジが氷を深く削り、鋭い溝を作った。直後、会場を揺るがすほどの割れんばかりの拍手が沸き起こる。
何度見ても信じられない。小学校のときは転びまくって膝を傷だらけにしていたあの雪奈が、たくさん努力をして、今はこうして日本の頂点の舞台でたくさんの人の視線を集めている。
後半の難関、ルッツループの連続ジャンプも、氷を裂く高い音とともに美しく決まった。オタクの私が言うから間違いない。完璧だ。
彼女は最後のステップシークエンスまで流れるように滑り切った。
音楽の終止符と同時に、割れんばかりの歓声が降ってくる。
「完璧だよ完璧!!」
「里穂、シロクマシロクマ!」
「そうだ、感動しすぎて忘れかけていた!」
演技が終わったリンク上に次々と投げ込まれる花束やぬいぐるみ。私たちも約束を果たすため、せーのでシロクマを投げ入れた。ぬいぐるみはぽてっとリンクの端に落ちる。
彼女はリンクをぐるぐる回りながら観客に応えている。けれど、彼女の足元には、すでに別のシロクマのぬいぐるみが転がっていた。
「あれ、私たちのじゃないよね……」
里穂のつぶやきが、なぜか心にずっしりと圧しっかかった。
私たちのものではないそのシロクマは、妙にずんぐりしていた。同じシリーズのはずなのに、なぜか腹のあたりだけが不自然に丸く膨らんで見える。
最終滑走の雪奈の後ろにはもう誰もいない。フラワーガールがぬいぐるみやバラを回収していく中、雪奈はその「もう一匹のシロクマ」を、お礼を言うように両手で拾い上げた。
「キスクラ見て帰ろうか」
「なんでキスクラっていうの」
「それは――」
言いかけたそのとき、ツンと鼻を突く、妙な火薬の匂いがした。
「なんか臭くない?」と隣の観客もざわつき始める。
ふと、前方へ視線を戻した。
雪奈が、手元のシロクマの腹部に触れている。破れたぬいぐるみの隙間から、何かが覗いたのだろうか。
大型スクリーンに映し出された雪奈の表情が、一瞬にして凍りついた。
見たこともない恐怖に顔を歪ませ、彼女の唇が「な、お」と動いた気がした。
次の瞬間、大きなぬいぐるみのおなかが、内側からグニャリと歪んで火を上げた。
――っつ!
ボカンという凄まじい爆発音。
熱い風と白い煙が、私たちごと会場全体を容赦なく包み込んだ。爆発の衝撃波が遅れて私の鼓膜を突き破る。
「キャアアアアアアア!」
「爆発だ、逃げろ!速く!」
会場は一瞬で地獄と化した。出口を求めて逃げまとう人々の体が私に容赦なくぶつかってくる。
「奈緒、奈緒!!早く逃げよう!」
里穂に腕を引かれて、やっと我に返った。
「でも、雪奈が……!」
「死ぬよ?奈緒、死んじゃうよ!!」
私は出口へ連れ戻そうとする里穂の手を振り払って、煙の立ち込めるスケートリンクへと駆け出した。胸の奥が、ちぎれそうなほど痛い。
「急がなきゃ、雪奈が…」
後ろから里穂が追ってくるのが見えたが待ってる暇はない。
人の波をかき分け、ぶつかりながら、なんとかリンクのフェンスにたどり着く。
だが、私の目に飛び込んできた光景は、恐れていたものとは全く違っていた。
そこに、雪奈はいなかった。
砕け散った白色のリンクの上にポツンと残されているのは、綿に火種がくすぶっている、黒焦げたシロクマのぬいぐるみだけ。
血もない。
衣服もない。
ただ、そこに雪奈という人間だけが、最初からいなかったかのように消え失せていた。
その時私の脳裏に、あの言葉がフラッシュバックした。
――雪は降るたびに人を見上げさせる。だが、その名を覚えている雪片など一つもない。美しいと思った瞬間には、もう消え始めているからだ。
「う、そ……」
冷気と暗闇の中、黒焦げのぬいぐるみだけが、私をじっと見つめ返していた。
第一章 燃える炎のスケートリンク 完
第二章書いてる途中です。
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