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第一話

新しい作品です。

出会いと別れの恋愛中編になると思います。

彼女は海のような人だった。


抱きしめようとするとするりとすり抜けるし、いたずらっ子のような笑みを浮かべて抱き着いてきたりする。


それでいて、どこか掴みどころがなくて人で、掬えど掬えど彼女の本質は分からないままだった。


指の間からさらさらと零れ落ちる、彼女との記憶。


確かに、数年もの間一緒の時を過ごしていたはずなのに、今となっては思い出したくても断片すらもこの胸に留められていない。


でも、確かにいたはずなのだ、彼女は、権田原芙由という人は。


断片が埋められていなくても、彼女との思い出は傷みとなって疼いたままなのだから。




高校の正門へ通じる坂道から海が見えるのが気に入って、おれは湊浜高校へ進学を決めた。というのは後付けで、第一希望の私立が落ちたからだ。中学時代に打ち込んでいた陸上を高校でも続けたくて、中学時代にお世話になった部活の先輩が進学した高校に行きたいと必死に受験勉強を頑張っていた。部活の先輩は大会の実績を残していたためスポーツ推薦で進学したが、おれはそこまでの実績を積んでいなかったため、学力の部分で進学を勝ち取る道しか残されていなかった。


だけど、家族からはあまり推奨されていないのは分かっていた。


というのも、父が大手企業を退職し、長年の夢だったというパン屋を開きたいと急に言いだしたからだ。


寝耳に水とばかりに、母はおれの受験もあるし、妹の桜良の習い事のこともあるので反対したが父の意思は固かった。


母はフリーのwebデザイナーをしているのだが、父ほどの安定した給料は貰っていないだろう。おれたちが住んでいる場所も社宅のため強制的に退去しなくてはならなかった。


新しい家を探す手間や、引っ越しの準備や手間、新しい生活を順風満帆にさせるまでの心労などを考えると、母はしばらくはぐったりとしていて疲れ切っているようだった。


今までの貯蓄と父の退職金で引っ越し、家賃、父の店舗や設備投資などを鑑みて、ほとんど手元に残らないのではと、おれですら危惧していた。


だけど、そんな焦燥感で鬱々としている家族内の雰囲気を変えたのは桜良の後押しがあったからだ。


父は休日にはよくキッチンで自作のパンを焼いてくれた。おれも母もどちらかといえば白米の方が好きだったので、お昼などに食べてはいたが少し飽きていた。対照的に桜良は小さい頃からパンが大好きで、よく父と並んでパン作りに勤しんでいた。


「パパのパンは世界一だから!桜良が保証する!学校が終わったら、パパの手伝いをする!」


目をキラキラさせながらそう言い放った。


その時、母は桜良の将来のためにとたくさん習い事をさせていた。ピアノ、習字、ダンス、そろばん塾と多分、毎日のように習い事に通ってほとんど放課後に友達と遊ぶようなことをしていなかったと思う。


おれも小学生の時は色々とやらされていたが、今は学習塾の一つだけだ。


「桜良、あなたは放課後習い事とかあるでしょう」


「別に、桜良がやりたくて始めたわけじゃないし。ママがやった方がいいっていうからやっていただけ。だけど、パパの仕事が変わったら、習い事だって難しいでしょ?お兄ちゃんの塾代だってあるんだから。だから、習い事はもう全部やめるよ。パパと一緒にパン屋さんやる」


毅然とした桜良の言葉に、母は少なからずショックを受けたみたいだったが彼女の意思の固さを最終的には受け入れたようだ。


そして、着々と準備は進み、父のパン屋「SAKURA」は元々パン屋さんだった店舗を居抜きの形で借りて始めることとなった。


瞬く間に、父が大手企業をやめてパン屋を始めたという情報が知れ渡ってしまった。一部の嫌な感じの教師には「お父さん、勿体ないことしたなぁ」なんて嫌味を言われたが、無視した。


母は今まで以上にたくさんの仕事を受け入れるようにしたのか仕事部屋からなかなか出てこなくなったので、使った食器はそのまま、洗濯物はあらゆるところに散乱したりなど段々と家の中が汚くなってきた。その時のおれは週に三日は塾に通っていたので、出来る限りの家事はやったが、夕飯はパン屋の残りのパンだったりとあまりちゃんとしたご飯を食べることが少なくなったような気がする。


父のパン屋「SAKURA」もまだまだ認知されておらず、売り上げも軌道に乗らなかった。


その時の我が家は、みんな何かを我慢し、無理をして、神経をすり減らしていた。


塾へ向かう時、何気なく父の店の前を通った。夕方という時間もあったのか、お客はゼロでたくさんパンも余っているように見えた。


「あれ、お兄ちゃんどうしたの?塾は?」


いつの間にか後方から手にたくさんの紙を抱えた桜良がこちらを不思議そうに眺めていた。


「い、今から行くんだよ」


「ふうーん、パパのお店がどうなってるか気になって見に来たんじゃないの?」


「別に、そういうわけじゃないけど……」


「なんかさ、最近家の中がぎすぎすしちゃってて良くないよね。お兄ちゃんも、そう感じてるでしょ?」


「まぁ」


「パパのお店の売り上げがばーんと上がればさ、ママもあんな無理して働かなくたっていいんだし、ご飯だってちゃんと作ってくれるんじゃないかと思うんだよね。だから、売り上げ貢献のために桜良はチラシを作ってみました」


「チラシ?」


桜良の抱えた紙の一枚を見せてもらうと、そこには手書きで謎のうさぎが吹き出しで「おいしいパンがたくさんあるよ」「買いに来てね」といったことが書いてあった。


でも、うさぎらしき物体は耳は長くなくて今にもちぎれそうだし、何故か鼻はブタ鼻になっていてお世辞にも可愛らしいとは言えなかった。


「……桜良は、字は綺麗なんだけどなぁ、絵がなぁ」


「しょーがないじゃん!じゃあ、お兄ちゃんがお客さんがチラシを見て今にも買いに来てくれそうな感じなの描いてよ!」


「いやいや、おれだって絵が上手くないのは分かってるだろ。あ、母さんに描いてもらえばいいじゃん、デザイナーなんだし」


「―――ママにはあまり頼みたくない」


先程の笑顔とは一変して、どこか落ち込んだようにそう呟いた。


おれはふうっと一息つくと、「責任感じてるからか?」と訊いた。


「それもある、けど、最近ママの諦めきった視線が嫌で、あまり話したくない」


父の新規事業を自分の一言で後押ししたことと、色々と桜良の未来に投資したことを全否定されたと思い込んでいると事があって、母の機嫌があまり良くないことはおれも薄々と気づいていた。


だから、この事態を打開するために桜良が一生懸命になっているのだ。


まだ小学6年生だというのに、家族の顔色を窺いながら責任を一人で背負いきっているのは、おれもどうにかしてやらないととは思っている。


だけど、絵心は皆無で、こればかりは協力してやれないと忸怩たる思いであることは分かって欲しい。


「あれーこんなパン屋さん、いつの間に開いたの?」


その声に後ろを振り返ると、同じ塾の安東くんが立っていた。亜麻色の髪に西日が差し込んでいてきらきらと光っている。顔も周りの女子が振り返るくらいに整っており、以前中学のクラスで女子内の攻防戦に巻き込まれ辟易し、今はほとんど学校に通わず塾だけ行っていると人伝に聞いたことがあった。


「ん?何か君、塾で見たことがある顔だな。誰だっけ?」


「えーと、いちを同じAクラスの多田です」


「あ、あー思い出した。多田くんだ。え、でもそろそろ授業始まっちゃうけど、こんなところで何やってんの?」


「あ、そうだ!やば、遅刻する。桜良、チラシの話はまた今度で」


「何?チラシ?」


遅刻しそうなはずだが、安東くんは興味津々に桜良の持つチラシを覗き込んでいる。


「え、何これ、クマ?」


「―――うさぎです!」


まじかーと言いながら安東くんはげらげらと笑っている。


「え、何、ここのパン屋さんのチラシ描くの?へぇーじゃあ俺の知り合いに絵が上手い奴がいるから掛け合ってあげるよ。あと、ここのパン、一つ貰ってもいい?お金はきちんと払うから」


桜良は「SAKURA」の中に入っていき、余っているパンを二つほど持ってきた。


「助かるわーこれから9時近くまで授業なのに何も食べてこなかったし。え、何これ、まじでうめぇじゃん」


「ツナコーンカレーパンと、ヨーグルトデニッシュコロネです」


「いや、多田くん、俺結構パン巡りとか好きでさ、色々食べ歩いているんだけどこれはまじで旨いよ。桜良ちゃん、だっけ、店舗とかこのパンとか写真に撮ってもいい?インスタとかに載せとくよ」


桜良はうれしそうに「ありがとうございます」と頭を下げた。


「……そっか、宣伝とかならSNSとかにしとけば良かったのか」


「んーでも一個人のSNSだとあまり宣伝効果ないのかもしれないよ」


安東くんのその言い回しに、おれは少しむっとした。


「安東くんだって、一個人だろ?」


おれの言葉にきょとんとした顔をすると、その後ににやっと口元に笑みを浮かべた。


「な、何だよ」


「んーいやぁ、そっか、何か俺、多田くんと友達になりたくなっちゃったな」


いしし、と笑いながら肩に手をまわしてくる安東くんが気味悪かったが、桜良が嬉しそうに手を振っていたのでそのままおれも小さく手を振り返した。


その日から塾が始まるとやたらと隣の席に座るようになった安東くんが何者かを知るのは、数日後のことになる。




それから桜良とおれがかわりばんこに味噌汁や生姜焼きのたれにひたした肉を焼いたりと家族再生のため、何とかご飯を作るように努めた。自室の部屋の母を呼ぶと、涙ながらに夜ご飯を食べてくれた。そして、おれが受験生なのにちゃんと支えてあげられなくてごめんねと謝ってくれた。


別に俺は母親らしいことをしてほしいとは思っていない。


夜はパンじゃなくて、温かいご飯を食べたいという気持ちはもちろんあるけれど、それ以前に母が無理をして体を壊さないかが心配だった。


久々にまともに顔を合わせた母はどこかげっそりとしていた。不健康の極み、といった具合だ。


でも、ご飯をまた皆で囲んで食べられたことでおれと桜良は互いに顔を見合わせた。父も毎日朝早くから仕込み、販売、片づけを一人でこなしているのでとても疲れているようだったが、おれたちの作ったご飯を振舞うと嬉しそうにしてくれた。


少しずつ家族と絆が取り戻されてきたと感じた頃、桜良が疲れ切った顔をして塾帰りのおれを出迎えてくれた。


父も早々と寝てしまったらしい。


夜食のお茶漬けをの用意をしながら、桜良に様子を聞いてみた。


「え、何かすっごい疲れ切ってるけどどうした?」


「―――今日ね、めっちゃお客さんが来たの」


「え?良かったじゃん!」


「うん、何か学校終わってすぐにお店に行ったんだけど、お昼も終わったぐらいなのに店の外までずらーって並んでて。パパも一人だから追いつかなくて、すぐにレジとかに入ったんだけど、人が切れなくて凄かった」


なんだったんだろ、と呟く桜良もとても眠そうだ。


お風呂入って早く寝るように促すと、桜良は眼をしょぼしょぼさせながら脱衣所に向かった。このことを報告したくてずっとリビングで待っていてくれたのだろう。


その時、おれは安東くんのインスタのことなどすっかり忘れていた。


次の日、同じクラスの女子からインスタの話を聞いて思い出したくらいだ。


「やっほー多田くんこんばんは」


おれは塾のクラスに入らず、教室前で安東くんを待っていた。


呑気に手を振ってくる安東くんを人が少ない場所まで移動させた。


「安東くん、うちの店インスタに載っけてくれた?」


「あ、うん、載せた。許可は取ったはずだよ」


「いや、載せてくれてありがたいんだけどさ、フォロワー数150万って何これ?芸能人並みに多くない?」


「あ、俺の母親がさ姫埜志保子なんだよね。その親族って誼で多いんだと思う」


「え、あの女優の―――」


「こらー安東、多田、授業始まるぞ。教室に入りなさい」


先生の言葉に一旦言葉を切ると、「まぁ、あとで話そう」とウインクしながら安東くんは先に教室に入っていった。


9時近くまでの長い授業が終わると、おれは安東くんと並んで帰路についていた。


「俺もさ、小さい頃は母親の勧めで少し芸能活動していたんだよね。CM出たり、劇団所属してミュージカルに出演したり、だけど小学生の時にそれが面白くなくて突っかかってくる奴とかいたわけだよ。一般人と違うことをしてる、違う生活をしているっていうだけでこうも言われるんだって思うと、一般人という枠からはみ出している生き方をしているのがバカバカしくなってきちゃって。そこからすぐに辞めた」


「そうだったんだ……」


「でもさーそういう枠から外れたいという割に、結局母の名前を借りてインスタをやった方がフォロワーも増えるんだよね。当たり前のことだけどさ。やってることが矛盾してるな、と思いながらも、今回多田くんの役に立てたから良かったなと思ったよ」


にこっと笑みを浮かべながらこちらを見やる安東くんに、おれはどう反応を返したらいいのか分からなかった。


「あと、そうだこれ。知り合いに描いてもらったチラシ。桜良ちゃんに渡してくれる。使っても使わなくても構わないから」


渡された紙には大きくて昏い海をゴンドラのような舟に乗った二人の少年少女が描きだされている。その中央には月明かりが映し出され、「SAKURA」と印字されていた。


「この2人の少年と少女は多田くんと桜良ちゃんらしいよ。パン屋さんは「SAKURA」って話したんだけどね。淡いピンクで来るのかと思ったらこんな暗い感じになっちゃって……多田くん?」


おれが黙って見入っているのに気づいた安東くんが声を掛けてくれたが、おれはこの絵から目が離せなくなっていた。


色合い的には陰鬱としたものかもしれないが、孤独な旅路から月明かりという希望が差し込み、出口に向かってひた進んでいく自分の藻掻きを投影させていた。


活路を見いだせ、そんな叱咤激励をどこかで感じ取っていた。


その絵は結局チラシにならず、おれの机の壁に貼ることにした。チラシに関しては、お店をこっそりと見に行った母が独断で作ってくれたものを店の前に貼ることにしたらしい。




父のパン屋も軌道に乗り、おれは受験本番を迎えた。


お店が上手くなり始めても、やはり以前のような余裕ある生活に戻ることはなかなか難しいと思ったし、家から自転車で20分くらいの公立高校で良かったのだと今は思える。


そして、何故か安東くん―――秋人も一緒に湊浜高校に通うことになった。


秋人なら余裕でもっと偏差値の高い私立を目指せると思ったが、高校に通うなら充春と同じところにするという確固たる姿勢を崩さなかった。


海を眺めながら自転車をこいでいると、今もなお壁に貼ったままの絵を思い出す。そういえば、秋人の知り合いだというあの絵の著者にまだお礼を言えてなかったことを思い出した。


クラスは4クラスあり、秋人とはクラスが分かれた。本人は悔しがっていたが、行きと帰りがなるべく一緒だからな、と約束を取り付けられた。


知り合いのいないクラスは何だか入口からそわそわとしてしまう。初対面の生徒同士が多い中、同じ中学同士なのかもう会話が盛り上がっている人たちもいる。


はっきり言って自ら声を掛けて友達を作りに行くタイプではないので、声を掛けられるのを待ってしまう。でも、それに徹してしまうと、友達の輪からいつの間にか外れて置いてけぼりにされてしまう残酷な現実も分かっていた。


そんな時、席に座らず窓から外を見ながら何かを描いている女子がいた。


気になりながらも絵を覗き込むのも失礼だし、声を掛けると集中が削がれてしまうのも気がかりだ。


湊浜は海が近いからクラスの窓から海が見える。窓を開けると爽やかな潮風が入り込んでくる。


その時、ふざけて女の子にぶつかった男子がいた。女子は大分小柄で痩せていたのでそのまま大きくよろめいた。


「―――あぶない!」


女子の肩をそのまま抱き留めた。その時、手の中のスケッチブックが見えた。青々としたブルーではなく、どこか鬱々とした深いブルーと人魚の絵だ。その深いブルーには見覚えがあった。まさか、とは思いその女子と目が合った。


「そろそろ手を放してくれないかなぁ。注目の的になってしまう」


「―――ご、ごめん!」


ふふっと小さく笑いながら彼女はどこか艶っぽく笑った。

充春と芙由をよろしくお願いします。

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