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金波銀波  作者: 食物連鎖
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5. 親切


街の図書館はシデラが唯一閲覧できる文献だった。


学術院内の書庫なら、街の図書館の何倍も科学の本があるのに…


そう思いながら図書館の帰り道を歩いていた。

明日の朝また学術院へ向かうのも気が引ける。シデラの一歩は地面に沈み込んでいく。


「ダリオ……」


彼は今日の朝、確かに『下っ端の僕』と言った。

ケルネッツ教授は会議で『先週から補佐になった』と言った。どちらが真相かなんてくだらない。今はただ、春のひだまりが泥に変わってしまった事実に胸が苦しいだけだった。大広間で他の教授陣に囲まれて、シデラを嘲笑うダリオの声が頭にこびりついている。


すっかり日の沈んでしまった市場は蝋燭の灯りで溢れ、陽気な男達が店から出てくる。

街の図書館で借用した『ラクーナ淡水魚図鑑』の表紙を見つめながら歩いていると、そのうちの一人にぶつかってしまった。


「__っ、ごめんなさい!」

「…あ?」


酒場から出てきた男性達は、思わず鼻を覆ってしまうほど酒臭く、真っ赤に(ほて)った顔と虚な目がシデラを睨みつけた。


「おいおい、なんだ? 喧嘩売ろうってのか」

「いや、違……」

「女が本なんて読んでんじゃねえよ!」


大柄な男がシデラの手にしていた図鑑を取り上げると、勢いよく地面に叩きつけた。


「ちょっと……何するのよ!! 借り物なのに!」


慌てて拾い上げると、背表紙の角が潰れ、表紙には黒い泥斑点が飛び散っていた。ページの断面には薄く汚れが滲んでいる。ハンカチで汚れを擦るシデラに大柄の男は舌打ちをした。


「お高く止まりやがって。これだから女に教育はいらないんだ」


シデラの心臓がドクンと跳ねる。

汚れの滲んだハンカチに皺が寄った。


「なんですって!」


右手を勢いよく振りかざすも、その華奢な腕は男性の掌に捕まえられてしまった。


「…!」

「おいおい。俺たちに反抗しようってか? 女はすぐヒステリックになって困っちまう」


一歩後ろでタバコを吸っていた男が前に出てくると、その酒臭い鼻息を下唇を噛むシデラに吹きかけた。


「なんか見たことあると思ったら…あんた、国立学術院の女研究員だろ? この辺りじゃ有名だよな」

「ああ! 俺も聞いたことあるぜ。男衆に混ざって一丁前におままごとしてるらしいじゃねえか」

「お前、知ってるか? 数年アカデミアにいて何の成果も出せてないらしいぜ」

「「アハハハハ!」」


市場に響く笑い声が耳の奥で聞こえなくなった。

掴まれた右腕からどんどん力が抜けてゆく。喉から空気が通らなくなる。瞳の奥から熱が噴き出てくる感覚に耐えきれなくなると、嗚咽混じりの声が出た。


「__っ」


その時、背後から剣を突き刺すような靴の音がした。



「寄って(たか)って弱いものいじめか」



その声に大柄な男の顔が曇り、シデラの右腕を離した。

タバコ男からも笑顔が消え、眉間に皺を寄せて背後の影をまじまじと見た。


「…なんだお前、偽善者ぶりやがって」

「女の前だからってカッコつけてんのか?」


シデラは図鑑を強く抱きしめた。握りしめるハンカチが震える。ふと、最奥に鎮座するナヴェルシア院長の瞳を思い出した。



「偽善って言っておけば自分の愚かさを誤魔化せるのか?」


まるでこの空間を制圧するような、威光を纏った気高い圧。


「なんだと!?」

「てめえっ!」


シデラがゆっくり背後を振り返ると、大柄の男と襟シャツは地面に叩きつけられていた。まるで彼らがシデラの抱える図鑑にしたように。


「!?」


泡を拭き白目をむいている二人の男の上にまたがり、身動きを奪ったその青年は、店前の蝋燭の炎が揺れると同時に顔を上げた。


「気にするな。弱い者に集り虚勢を張る者こそが弱者だ」


灯火を宿したかのようなセダーレッドの瞳は真っ直ぐシデラを見つめ、立ち上がった。騒動に市場の人が集まり始め、開店したばかりの酒場からも店主が心配そうに顔を覗かせる。

青年が踵を返して場を去ろうとすると、俯いていたシデラは声を絞り出した。


「…………ない」

「?」


青年が振り向く。気絶した男二人のそばをコオロギが跳ねて行った。


「___私は弱くなんてない!!」


図鑑を持つ手がブルブル震える。恐怖や緊張ではなく、激しい()()であった。

青年は困ったように頬を掻くと、倒れている二人を指差した。


「現実を見ろよ。ふりかざした手を簡単に掴まれてた。お前はこの世界では弱い者なんだ。弱者じゃなかったらなんだ?被食者か?」

「……っ!」


言葉に詰まって下唇を握るシデラ。目元には今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まる。


「……なんで言い返そうなんて思った?」

「悔しくてっ…。学びに性別なんて関係ないのに」


青年はシデラの持つ図鑑に目を落とすと、ため息をついた。


「そうか…あまり危ない真似はするな」


青年が身を包むローブに金の刺繍が入ってるのを見つけた。所々ほつれて汚れており、年季がうかがえる。


「…あなた、旅の人?」

「そうだ。部外者が介入して悪かったな」


フードを被り直して歩き始めた青年に駆け寄り、シデラは唾を飲んだ。


「待って」


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