3. 荷物
その日は夕方まで集中できなかった。同僚の研究の手伝いでミスを犯し、休憩時間も呆けてランチを食べ切ることができず、何もかもが上の空だった。
時折自身の愚行を思い出し、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
「……私のバカ…!」
突然机に伏せるシデラを同僚たちはいつもより更に不審そうに見ていた。
ダリオはラクーナ学術院の同期だ。第7棟で天文学の研究をする青年で、シデラとは同じ歳だった。学術院にはシデラ以外の女性がおらず、味方のいないシデラにダリオはいつも優しく接してくれた。
唯一友達と呼べる存在だ。
いつからかシデラはダリオに恋心を抱くようになっていた。院内で恋なんてしてはいけない。何の成果も出せていない今の状況で恋にうつつを抜かしていたら、また揶揄される。
_____女だから。
幾度となく浴びてきたその言葉を、シデラは気にしていないわけではなかった。むしろ、アカデミアで女性の地位確立のきっかけになろうと責任感さえ持っていた。
女であるという理由で書庫に入らせてもらえないのも、私で終わりにするんだ。学術院で得た折角の研究の機会を無駄にはしたくない。後続の女性たちに、道を作ってあげるんだ。
鼻から熱い息を一気に吐くと、シデラは背筋を伸ばして座り直した。
「…よしっ」
唯一シデラが閲覧できる文献は、シデラの所属するアルガス研究室に保管されている書籍だけだ。シデラの現在取り組んでいる研究とはなんら関連のないタイトルを開くと、一文でも研究のヒントがあればと、卓越した集中力を発揮してページを捲り続けた。
彼女にとっては、どのくらい時間が経ったかわからないほど一瞬だった。
椅子を引くアルガスの声で我に返った。
「時間だ。学術院会議に出席してくるよ」
重い腰を持ち上げて部屋を出ていくアルガスに、同僚たちは勇ましい声で「いってらっしゃいませ」と声をかける。
「…もうそんな時間」
窓からは傾いた日差しが入り込んで同僚たちの机を照らす。
アルガスが去った研究室には緊張が緩んだ声がざわめき始めた。
「学術院会議か…俺もいつか出席したいなあ」
「お前には無理さ! 教授補佐になんてなれやしない」
ははは、と爽やかな笑いが部屋を満たす。
「なれるさ! 10年…いや、5年以内には必ず出世するんだ。
教授補佐どころか教授になって出席してやるぞ」
同僚たちが雑談を交わし始めると、シデラはそれを横目に席を立ち上がり、輪に入ることなく研究室の戸に手をかけた。
背後から大きく野太い声が被さる。
「シデラ。一体どこへ行くんだ?
お前は議会に出れないぞ!」
どっ、と笑いが起こった。軽快な冗談ではない。嘲りと愚弄を含んだ、嘲笑だった。
シデラが彼らの輪に入るのはこういう時だけだ。
「……わかってます。お手洗いです」
「"お手洗い" だってさ!」
さらに広がる高笑いを振り払うかのように戸を閉めた。
第9棟のトイレはとても綺麗だ。
そう思っているのはシデラだけかもしれない。他の棟には女性がいると聞いたことああるが、科学を担う第9棟の女性用トイレはシデラ専用となっていた。
科学研究に用いる器具が多く運ばれて来るためか、第9棟は学術院の中で最も大規模な建物である。部屋も人数に比べて広々としているが、研究室の大部分が書類と大きな機械に埋もれているため、特段広いと感じたことは無い。壁や廊下には装飾こそ少ないものの、窓は大きくて壮麗な棟だ。
そのためか、学術院会議は第9棟で行われる。
1階の大広間には他の部屋とは打って変わって高級な絨毯が敷かれ、歳を重ねた院長のために柔らかな椅子が用意されているそうだ。
院長そして各研究科の教授と教授補佐のみが出席する会議の内容は明らかにされておらず、院長から決定事項が公に述べられるまで、下っ端研究員たちには何も知らされない。
シデラと同僚たちにとって学術院会議は夢のまた夢だった。
重い足取りで研究室へ戻る廊下を歩いていると、再びアルガス研究室から笑い声が聞こえ、思わず立ち止まってしまった。
「…戻りたくないなあ……」
意図せず溢れた自分の言葉に、肩に何かが乗ってきたような感覚を覚えた。
憂鬱だ。
「…」
夕方に差し掛かった空はほんのりと赤みを帯び、第9棟の大きな窓には黄金色の日差しが満ちる。
ふと、朝の光を思い出した。
ダリオの頬は白く柔らかく、太陽の熱で溶けてしまいそうだった。小麦色の髪が揺れてオリーブの瞳が輝き、麗らかな声がシデラの名前を唱う。彼は春の太陽そのものだった。
握られた手の熱がぶり返す。
廊下の先からは未だ同僚の声が聞こえる。
学術院会議は開始時刻を過ぎただろうか。
シデラは踵を返し、第9棟の階段を下っていった。