1. 水の国
グローリアとエテルニタスの終戦から百数年もの月日が経ち、戦争で荒れ果てた世界は見違えるほど復興した。
兵士の死体が転がっていた荒地には青々とした緑が芽吹き、人々は豊潤な食料で腹を満たす。武器を作り出していた鋼鉄所では家庭の台所で使われる鍋が量産され、女子供を過疎地へ送っていた汽車からはスーツを着た男性達が乗降する。
西の方では広場の噴水が子供達の眩しい笑顔を太陽に照り返した。
西の小国 "ラクーナ"。
ラクーナは大きな湖を持つことで「水の国」と異名を持つ。かつての大戦では勝利したグローリアと同盟を結び、何万というラクーナの兵士が世界各地の戦線へ送り出された。還ってきた遺体や遺品たちは大湖へ祈りとして投げ入れらると、そこは残された遺族の集う場となり、次第に平和を祈願する象徴となっていった。
そんなラクーナも今では戦争の影が見えないほど賑やかになり、人々は穏やかな暮らしを叶えている。
ラクーナの都心に シデラ という少女が暮らしていた。
シデラの軽やかな足は、雨にぬかるんだ地面に沈むことなく駆けていく。
「おはよう。シデラ」
パン屋のおじさんが明るく手を振った。
「おはよう、おじさん」
シデラは笑いかけると、足取りはさらに軽くなり、そしてスキップで市場を抜けた。
「シデラ、おはよう。今日も頑張るんだよ」
朝の散歩をしている老婆に声をかけられると、シデラは「ありがとう」と明るく返した。
街の人はシデラの華奢な背中を見送る。
そんなシデラの足は、高い壁に囲まれた街の中心にあるアカデミアの門前で止まった。
馬車が2台通れるほど大きなアカデミアの正門は、塗装が剥がれた鉄が露出し、錆が風に吹かれる。奥にそびえる真っ白な巨石を積み上げた建物の壁には、天にでも見せびらかすかのように『ラクーナ学術院』の巨大な文字が彫られている。
シデラは大きく息を吐くと、その一歩を踏み出した。
「おはようございます!」
ラクーナ学術院 第9棟 アルガス研究室の扉が勢いよく開いた。
戸のつまみを握りしめるシデラに向けられる笑顔は無い。机に向かう数名の研究者同僚たちは、まるで何事も起こらなかったかのように黙々と作業を進める。
どこからか「はあ」とため息も聞こえた。
研究室内に無機質に並べられた机の端、陽の当たらないジメジメとした席がぽっかり空いている。シデラは音を立てないように椅子を引いて、ゆっくりと腰を下ろした。
分厚い書物のページをめくり、ペンを走らせる音が部屋に響く。女性はシデラ一人だった。
その時、また扉が開かれると、研究者たちは一斉に席を立った。
「「アルガス教授!!」」
整えられた白髪に襟の立った皺のないシャツ。コツリと革靴の音が響き、その男は瞬く間に部下たちに囲まれた。
「教授、昨日ご指摘いただいた部分を修正しました! どうか読んでいただけませんか」
「本日いい結果が得られそうなんです!」
「なにかお手伝いすることはありませんか?」
先ほどまで静かだった同僚たちは鼻息を荒くしてアルガスに縋った。
アルガス・レトリック。
ラクーナ学術院において動物学研究室を主宰する教授の一人である。生物行動学および湿地帯特有の生態系研究において、学内でも特に研究成果が認められている人物である。その影響力から学術院会議にもたびたび出席し、議論の方向性に対して意見することもあるという。
アルガスに群がる同僚たちと競うことはしないものの、シデラは部屋の隅で席を立ち、彼が教授席につくのを見届けた。
「ああ、そうだ。シデラ君」
突然呼ばれた名前に驚き、一瞬反応が遅れたシデラは慌てて教授席まで駆けつけた。
「昨日私にくれた書類だがね、あれはなんだ?」
同僚たちはお互いに顔を見合わせ、アルガスの背後から嫌悪を含んだ目でシデラを睨みつけた。
「は、はい。"ラクーナ湖における淡水生物の"……」
「そんなことを聞いているんじゃない」
ピシャリと低い声が響く。朝の研究室は静かで、いつもより声が通る。
「あんなのは研究なんて言えない。まず参考文献がないじゃないか。証拠や過去の研究を参照せずに、どう論文にするんだ?」
「それは………」
シデラは口篭った。うまく言葉が出てこない。同僚のシデラへの冷たい目線はどんどん鋭く針のように突き刺される。彼らがどことなく笑っているようだったが、顔を上げることができない。
「このアカデミアの研究員なら、まず正しい論文の書き方を学びなさい」
そう嗜めるアルガスの口元の端が上がったような気がした。
「……はい…」