槻の樹の下
仲郎よ、見舞いに来たぞ。
帝たる我が自ら、汝の屋敷へ足を運んでやったのだ。有り難く思え。
……病は重いようだな。が、汝は知恵者であろう? 唐の《六韜三略》に通じていると申しておったではないか。
謀でも何でも、さっさと自慢の頭脳を用いて、病に打ち勝ってみせよ。
なに? 齢五十六の老の身に、無茶を言うなとな?
馬鹿を申すな。我が母上は、六十八の御年で筑紫にまで出向き、軍の指揮を執られたのだぞ。
かの武内宿禰は、三百の歳になるまで生きたと聞く。それを思えば、五十六などまだ若い。
何を笑っておる?
日嗣の皇子は、相変わらずでございますなぁ……だと?
寝惚けたことを申すな。我が帝となり、とうに八年ぞ。
まぁ、我は皇太子の位にあるのが長かったからな。汝がうっかり口にしてしまうのも、無理からぬことかもしれん。
そうだ。我は天皇となって、まだ八年なのだ。
なさねばならぬことが、山積みだ。汝には、まだまだ我の為に役だってもらわねばならぬ。
我が要らぬと断じるまで、汝は働きつづけるのだ。
だいたい、汝は未だ、己が真の望みを叶えておらぬのでは無いか?
我と汝が初めて会ったのは、我が十九、汝が三十一の時であったか。つい、昨日のように思えるな。
法興寺の西、大きく育った槻の樹の下。
蹴鞠に興じていた折に脱げて飛んでいってしまった我の靴を、汝が捧げ持ってきた。
ふん。秘かに、我の様子を窺っておったのであろう?
恭しく跪く態度とは裏腹に、汝の瞳は冷静に我を観察していた。
我が気付いていなかったとでも?
一介の連に過ぎなかったにもかかわらず、汝は帝室の者たる我を値踏みしておったのだ。
我に近づく前、汝は叔父上と親しい仲であったが、器量なしと見切るや、冷然と叔父上より離れてしまったそうではないか。
当然、我は知っておったぞ。
汝は我を、己が野望実現のための道具にしようと考えたのだ。そうであろう?
だが我は、それも面白い、と思った。
君と臣が利用しあう関係も一興ではないか? と。
役に立たなくなったら、汝を捨てれば良いのだ。無論、汝が我を捨てるのも、ありだ。
鞍作臣――蘇我入鹿を誅したのは、我と汝が出会った翌年、乙巳の年だったか。
飛鳥板蓋宮の大極殿――天皇たる、母上の御前。
鞍作にとっても、晴れがましい死に場所であったろうよ。
しかし、汝が連れてきた刺客の二人が怖じ気づいたのには弱った。結局、我みずから剣を振るって鞍作を斬ったが。
倒けつ転びつしつつ、母上に縋る彼奴の姿は滑稽きわまりなく、如何なる俳優よりも人を笑わせてくれたわ。
鞍作の父である大臣の蝦夷をも滅ぼし、そして改新の政を始めたわけだ。
我としては、己が思うままに政治を行ったのみだがな。
民も土地も公のものとなし、日の本を生まれ変わらせる――別に、理想でも何でもない。
唐の脅威が迫っている以上、誰かがやらねばならなかった。それだけのことだ。
日の本初の元号は、大化。
群臣を、あの大槻の樹の下に集め、盟約を交わした。
君に二政なく、臣に二朝なし――と。
単なる美辞麗句、茶番だ。
けれど、我と汝のみは、槻の樹に意味を見出していたはず。
互いの利用は、これからも続くのだ――
お飾りの帝には叔父の軽皇子を就け、我は皇太子、左大臣には阿倍内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂……汝は、己は何の位も望まぬ、と申しおったな。
分かっておるぞ。警戒しておったのよな? 蘇我や阿倍などの大豪族からの嫉視を。それにも増して、我の眼差しを。
我は、我の進むべき道を邪魔する奴原を、決して許さぬ。
敵は当然、足手まといも用なしも、余さず片づけるつもりであり――そして、躊躇なく始末した。
古人大兄――我が異母兄ながら、弑逆者たる蘇我馬子の血を引いていたのが不運だったな。
我が皇位を継ぐ際の障りとなるやもしれぬ血統であったし、生かしておく必要を感じなかった。
倉山田石川麻呂――鞍作誅殺の功臣であり、我が嬪の父でもあるが、あまりにも頭の中身が古すぎた。改新の政に抵抗する豪族どもへの見せしめとして、その子息ともども消えてもらった。
報を耳にし、嬪は心を病んでしまったが……仕方なきことよな。心の弱き者は、これだから困る。
扱いに困った人物と言えば、叔父上。御輿の分際で我に逆らうとは、天皇となったことで、己に何か力があるとでも勘違いしてしまったのか?
我と汝が難波より飛鳥に移るや、文武百官は叔父上を見捨てて、ぞろぞろと付いてきおったな。難波宮に一人置き去りにされ、叔父上も己が無力さを思い知ったことであろうよ。
末路は窮死だか憤死だか知らぬが、羽虫の最期など気にもならぬ。
そして、叔父上の子、有間……。狂人の振りをしていたが、我の目は誤魔化されぬ。父の仇を討とうとするのは構わぬが、企てが未熟すぎたな。
我は、他者の愚かさを見過ごせぬのだ。遠慮なく、縊り殺させてもらった。
処刑前、我に有間は、
――中大兄。汝には、血も涙も無いのか
と叫んでおったが、何を馬鹿な。我は人。論なく、赤き血が流れておる。
しかしながら、有間のたわ言にも一片の真実はあるやもしれぬな。
物心ついてよりこの方、我は涙を流した覚えなど、まるで無い故。
仲郎。汝も、我を怖れておったか?
汝は、位も富も望まなかった。願えば、訳なく手に入ったであろうに。
汝には、野望があったのではなかったのか? 何を考えて、日々の政務に励んでいた? 何を思って、我の側に居続けたのだ? 内臣などという、汝のためにのみ用意したあやふやな官位ひとつで満足していたのか?
そんな訳が、あるまい。汝には、まだまだやりたいこと、やるべきことが残っているはず。
病などに罹っている場合では無いのだぞ。
仲郎よ……仲郎よ。もはや、立てぬのか。もはや、我の側に居られぬのか。もはや、我と日の本の行く末を語り合うことは出来ぬのか?
……そうか。分かった。我の役に立たぬのなら、汝に用は無い。
何か、言い残すべきことはあるか? 聞くだけは、聞いておく。
なに?
――己が葬儀は、手軽にしてくれ、と?
つまらぬ。つまらぬ、申しようよ。汝はそのような、つまらぬ男であったのか?
――生きて軍国に務めを果たせなかった、己が不甲斐なさを詫びる、と?
白村江の負け戦のことか?
確かに多くの兵を死なせ、百済復興の企てが潰えたのは、無念ではある。が、あの機に乗じて、厄介な豪族の将軍どもをまとめて半島の地に送り込み、葬ることが出来たのだ。狙いのひとつは、当たったと言える。
汝が今更、気に病むことでは無い。
我にとっては、もはや済んだことだ。我は前しか、見ぬ。
思えば、我はひたすら政に邁進するあまり、数多のものを振り捨て、顧みることをしてこなかった。
敵を殺し、異母兄を殺し、義父を殺し、従兄弟を殺し、嬪を狂わせ、母に孝をなさず、将を死なせ、兵を死なせ、遷都や雑役で民を悩ませ……周りを見渡せば、真に心を許せる者、味方が誰一人として居らぬのも当たり前よ。
けれど、仲郎。汝のみは、何があっても我についてきた。我の側に居た。何の思惑があるのかは知らぬが、我を支え続けた。富貴を求めず、栄達も望まず、あの槻の樹の下、汝の瞳にこもっていた野望の正体はいったい何だったのだ?
我は知りたい。我に教えぬか、仲郎。我を、もっと利用せよ。我も、汝を更に利用してやる。使ってやる。使い潰してやる。
道は、まだ半ば――たどり着くべき真秀場の国は、遥か先。
日の本は唐に追いつき、追い越すのだ。
そのためにも、百姓の戸籍を作らねばならぬ。律令を整備せねばならぬ。国土の開発も急務。新羅との外交。唐との和平。
汝には、より一層、働いてもらわねば――
……仲郎、どうした? 何を黙っている。何か言え。目を覚ませ。目を開け。身を起こせ。我に政の策を献じよ――
そうか。もはや、無理か。意識が無いのか。再び、目を覚ますことは無いのか。
ふん。くだらぬ。くだらなすぎるぞ、仲郎。
我より先に死ぬとは、許されぬ行いだ。そんな汝には、罰を与えねばなるまい。
そうだな。まずは、汝に大織冠を授ける。最上の冠位だ。これまで、如何なる高官にも与えられたことは無い。おそらく、今後も無いであろう。汝だけの、特別な冠だ。
なおかつ、大臣に任ずる。汝は位が上がるのを殊の外、いやがっておったからな。いい気味だ。
そして、汝は、新しき姓を賜ることになる。
姓は、藤原だ。
仲郎。今より汝は、藤原鎌足だ。
藤原――良き姓と喜べ、仲郎よ。
藤は、樹に巻きつき、育ち、花を咲かせる。
我が帝室の子孫は日の本の中心に聳え立つ、大樹となっていくであろう。我と汝が出会い、そして大化の年号のもと、群臣とともに盟約を交わしあった――あの法興寺の槻のごとき大樹に。
汝の子孫は、せいぜいその大樹に寄り添いながら生きていけ。
我の子孫と汝の子孫は、互いに求め合い、利用し合い、いつしか一つとなっていくに違いない。
愉快ではないか。皮肉では無いぞ? 真に、そう思うのだ。
その光景を、汝と見たい――
この日の本を、我と手を携えつつ新しく作りかえた汝と。
汝……と……
仲郎、仲郎よ。
逝ったか。黄泉の道へ旅だったか。
この馬鹿者、この不忠者めが。
病になすすべもなく負けてしまうとは、古今随一の謀の達人が、聞いて呆れるわ。
まぁ、良い。仲郎よ。黄泉路で少しばかり待っておけ。我も近頃、身体の調子が今ひとつだ。
遠からぬうち、我も汝のもとへ参るであろうよ。
今度は、黄泉の国の作り直しでも始めるか?
我と汝の二人なら、黄泉津大神をも容易く屠れようぞ。
その前座として、雷神を打ち倒すのだ。更に、黄泉醜女の軍勢を蹴散らして……ふむ。考えると、胸が躍るな。
汝との再会が、今より楽しみだ。
ははははは。
はははははははは。
ははははははははははははははははは。
――――黄泉に、槻の樹はあるのであろうか? 確かめておけ、仲郎。
♢
天智八年。西暦六六九年。近江大津宮にて、内大臣の藤原鎌足(字は仲郎)逝去。
享年五十六。
天皇、藤原内大臣の家に行幸す。
『藤氏家伝』は記す――――「帝、こう咽、悲しみにみずから勝てず」と。
了
※天智天皇(中大兄皇子)と藤原鎌足(中臣鎌足)のイラスト【AI生成画像】を、かぐつち・マナぱ様より頂きました(2024/11/9)。ありがとうございます!
◯補足
※天智8年10月(西暦669年11月)に藤原鎌足が逝去すると、盟友のあとを追うように、その2年後の天智10年12月(西暦672年1月)に天智天皇(皇子時代の「中大兄皇子」という呼び名が有名)は崩御しました。
※本作の中で天智天皇は「我が帝となり、とうに八年」と語っていますが、先帝の斉明天皇(天智の母)が西暦661年に崩御してから7年間は、天智は皇太子のまま称制(天皇になる資格のある人物が即位をのばして政治をすること)していました。正式に即位して天皇となったのは西暦668年です。ただし称制時代も実質的に天皇であったことは、本人も自覚し、周りもそのように認識していたのは間違いない……と思われます(自分の考えです。諸説あります)ので、この発言となりました。
※藤原鎌足は史料上は長男となっていますが、何故か字は「仲郎(なかろう・ちゅうろう)=2番目の男子」となっているため、実は兄が居たのでは? との意見もあります。