第百九十四話◆剣編:Last lecture
第百九十四話
冬も近づく十一月。俺たち二人はマラソンから帰ってきた。体が冷えるといけないのですぐにコタツの中に入り込む。
「一先輩はいつかこのアパートを出て行くのですか」
剣はコタツに入らず、お茶を注ぎながら俺に尋ねた。その流れるような手つきは落ち着いており、今日倒れた人物とは思えない。
「ん、まぁ、そりゃそうだな。ま、それが来るのはもっと先だろうから安心しろよ。気の済むまでいていいから」
そういうと剣は俺の目の前に少しだけ乱暴な手つきでお茶を置く。何か不満点があったのだろうか。
「別に自分のことが心配になって聞いたわけじゃありませんよ。大体、気の済むまでいていいって言ってますけど親からは『彼女ができるまで』いていいといわれています」
「え、お前に彼女が出来るまでか」
「一先輩に、ですよっ。なんで私に彼女ができるのですか」
いや、意外と出来そうだぜと口が裂けても言えなかった。冗談が通用しない相手だということを最近忘れつつあるのが怖いな。まぁ、それだけ長い間一緒にいたってことだろうし。
「でも、何で彼女ができるまで居ていいんだろうな。別に彼女が出来てもここに居ていいんじゃないのか」
「そうですよね。しかし、仕方がありません。やめろと言われればそれに従うしかありませんから」
両親を大切にしているんだな。まぁ、乱暴されてる満が聞いたら泣きそうな話だが。
「だから、一先輩に彼女ができたら絶対に教えてくださいね」
「ああ、わかった。約束するぜ」
まぁ、あと十年ぐらいはできそうにもないけどな。
ふと、剣のほうを見ると顔を真っ赤にして何かを言おうとしていた。
「えっと、あの」
「ん、どうしたんだよ」
「い、いえ、ちょっと私が言うようなことではありませんし、一先輩にとって非常に迷惑なことかもしれません」
「とりあえず言ってみろよ」
「もし、一先輩の生活を乱すような方が、か、彼女になった場合は別れてもらいます」
「…」
「も、問答無用ですよ」
顔を真っ赤にして目をつぶっている。何で剣がそこまで俺のことを干渉してくるのかわからなかったがお世話になっているし、剣の眼鏡に適う人はとてもいい人なのだろう。
「ああ、好きにしろよ」
「ほ、本当ですか」
「どうせ結構先のことになるだろうし」
たぶん、俺のところに彼女ができることはないかもしれない。これから先、ずっと剣が俺の部屋に居座っていそうだ。
「じゃあこれから夕飯にしましょう」
「そうだな、でもお前はもう食べただろ」
「ええ、まぁ。しかし、走ってきたおかげでおなかがすきました」
「そっか、なら何か俺が作るよ。仮にもおまえは病人だからな」
「病人ではないのですが」
「固いこと言うなよ」
あんまり軽口叩いていたら剣に叩かれるからな。この程度にしておくとしよう。
「あの、一先輩」
「なんだ、手伝いなら要らないぞ。お前はそこに座ってな」
調理器具や材料を引っ張り出して準備を始める。今日は簡単に目玉焼きとウインナーソテーを作るとしよう。
「いえ、そうではなくて」
これまた珍しいことに口をもごもごさせている。言いたいことがあったらはっきりと言いそうなものだがどうかしたのだろうか。
「か、彼女とはどうやってなるものなのでしょうか」
「男の俺に言われても困るな。まぁ、好きな男の人に自分の気持ちを伝えて、男のほうがその気持ちにこたえて頷いてくれれば晴れて彼氏と彼女って関係じゃないのか」
油をフライパンに流し込む。次は火をつけて温めなければ。
「も、もし、拒否されたらどうなるのですか」
「そりゃ、簡単だ。彼女じゃないこれまでと同じ関係。下手したらそれまで築いていた関係が崩れる時もあるなぁ。だから勇気がないとなかなか告白とか出来ないもんだ」
「なるほど」
「お前の兄ちゃんに聞いたほうが詳しく聞けたかもしれんぜ」
「いえ、今ので十分です」
卵を片手で割る練習はたいてい、一週間程度でなれるものだ。まぁ、俺が一週間以内で体得したので基準値は俺というだけだが。
「あの、一先輩っ」
「ん、今度はどうした」
振り返るとそこには顔を真っ赤にした剣が立っていた。
これで終わりですよ。ええ、剣編の終わりはこんな感じにしようと前々から決めていました。次回はたぶん、朱莉の話ですかね。では、感想、評価などをお待ちしております。六月十五日火曜、十一時四分雨月。