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二人目 目の前に広がるこれは何?

 日本の戦闘機と言えばゼロ戦。海軍で最も使われたのも生産されたのもゼロ戦。


 最初から最後までゼロ戦だった。


 本来後継機となるはずの機体が海軍による無茶な要求や実際の戦局、エンジン選定の問題などがあってついぞ実戦参加しなかった。


 アレがコレがと考えられることは多くある。


 もしも、ハ42とハ43の開発が何かの間違いで逆転していればどうなっただろうか?


 ハ42は1939(昭和14)年に初号機が完成し、翌年には審査が完了している。


 もし、これが火星ベースではなく金星ベースであったならば?


 初期の出力はあまり大きくはない。しかし、1600馬力以上はあるし、十分に2000馬力を狙えることは分かっていたはずだ。


 そうであるなら、エンジンがない事で流れた十六試艦戦が流れずに開発されるのではないか?


 ゼロ戦ではない戦闘機が戦争後半に登場する。史実の烈風より少々小型化されるかもしれない。


 それはなかなか面白いと思った。



 そう、思ったのだ。



 しかし今、目の前で繰り広げられているのは、ラジコンや模型飛行機に興味のある大人が、子供の様な模型を飛ばしている姿だった。


 何が子供かって?


 飛行機に関心を持った小学校高学年くらいになれば、もっとマシな模型を作るというレベルのソレ。


 鳥を真似たり虫を真似た様なちょっとよく分からない模型を飛ばしている。


 正直見るに堪えなかった。


 業を煮やして竹組で飛行機の模型を作って飛ばすと、その大人が飛びついて来た。


「八郎!どうやったんだ?」


 長男なのに八郎という名前になったよく分からない俺。


 父親は二宮忠八である。


 そして、史実で俺など存在していないことは明白だ。


 まあ、そんな父親。いわゆる日本の「飛行機の父」である人物に、飛行機の基礎について説明した。


「動力無しでも長く飛んでいられるというのは凄い話だ」


 と、グライダーについて非常に興味を示していたので、何故か聞いてみた。


「これが飛ぶなら気球より自由に思い通りの所へ飛べるからだよ」


 という。


 鳥を見て、あのように自由に飛べたならと思って飛行機を作っているらしかった。


 そこで、まだまだエンジンの入手が難しい明治のご時世を考慮して、まずはグライダーづくりを始めることにした。


 初めは洋凧、よく正月に飛ばして遊んだカイトを作って飛ばした。


 それを更に飛行機型へと発展させ、とうとう人が乗って飛べる。琵琶湖大会なら出場可能であろうグライダーや人力飛行機が完成したところで父は日清戦争へと出征していった。


 父はその飛行機が気球同様に有用であると上司に説いたらしい。


 戦後、帰還した父に連れられて、髭の長いオッサンや顔の丸いオッサンらにグライダーや人力飛行機を実際に飛ばして見せるというデモンストレーションを行った。


「今は動力が無いので、このように滑空か人力でしかありませんが、動力さえ手に入れば、気球のような高度を自由に飛べる様になります」


 と説明したらしい。俺は人力飛行機を飛ばしてその辺りを周回していたので直接は知らない。



 しかし、協力は出来るが軍が直接開発する訳にはいかないと言われ、二宮飛行器を立ち上げ、民間からも資金を募って研究、開発を行う事になった。


 しかし、日露戦争前の段階では材料入手からして困難を極めた。


 結局はグライダーを主とした生産で何とか食つなぐような状態が長く続いたが、滞空時間が長い二宮滑空器は軍での利用も行われ、そこそこの売り上げを出す事が出来た。


 日露戦争後、何とかエンジン開発にも着手できるようになり、1906年、ようやく動力有人飛行を成功させることが出来た。


 程なくして欧米での動力飛行のニュースが伝えられるようになり、日本の動力飛行も世界に劣っていないと資金調達が容易になった。


 だが、日本は思うように技術が向上していないし、工作機械は輸入に頼る状態になっている。


 動力飛行で俺自身のの能力も認知されたし、自覚もした。


 そこそこ詳細な理論やデータが溢れて来るというのはチートだ。


 しかし、だからと言って、設計は出来ても製作は出来ない状態だ。


 頭にある知識やデータを用いれば、1990年代の自動車エンジンをベースとしたかなり高度で高性能なエンジンも設計できる。

 しかし、明治の日本でそんなものは実現不可能だ。


 まずは工作機械の内製化から手を付けて、戦後のJIS規格をベースにした二宮規格をコツコツ実現していく地道な作業が続いている。

 これが欧米であれば思うままに高性能複葉機やレーサーを実現して巨万の富を手にしていたのかもしれないが、残念ながら、日本では設計は出来るが部材の調達から一苦労で、製作には欧米の何倍も時間も手間も費用も掛かる状態となっている。


 そんな1913(大正2)年のこと、海軍の技術者が二宮飛行器を訪れた。


 そんな彼はジェットエンジンを作らないかと言ってきたが、そんなモノに対応した機体を製造できるのは25年は先の話しになると思われる。


 いきなり小型軽量なターボシャフトエンジンが開発可能な訳もなく、彼が言うにはまず舶用タービンからボイラーを撤去したモノを想定しているという。とんでもないが飛行機に積めるシロモノではない。


 ガスタービン艦船としては1956年に就役した駆潜艇「はやぶさ」がある。


 魚雷艇や駆潜艇ならば、軽量な航空用ガスタービンを扱えるかもしれず、ターボプロップであれば、今頭を悩ます高出力エンジンの代替になりうるかもしれない。もちろん、20年以上先の話ではあるのだが。


 




 

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