塩飽グループ
1995年8月8日。
今日で原井さんが戦死して50年になる。
今ならこの車を実現する事も出来る。
国民車と言う話から二コ自動車が誕生し、戦後、民間にも多くの軽トラやジムニーモドキが販売されることになった。
しかし、記憶にある「史実」とはまるで違う歴史を迎えた日本では、戦後もインフラ整備が中々進まない。
それと言うのも、日本が西側陣営の極東正面として東南アジアをまとめる立場になったからだ。
台湾の基龍には米海軍も駐留するし、北海道の千歳には米空軍も居る。
戦後日本は独立は保ったが、米国の下に着くことになった。
とは言っても「史実」とは大幅に違う構造の西側防共体勢によってだが。
戦後、講和と共に日本の軍備制限を訴える声が豪州や中華から起こったが、ソ連への備えとして一定規模を認められている。
さらに、憲法改正で軍は政府の指揮監督下に置かれたものの、「史実」の自衛隊のような立場ではなく、正真正銘の軍隊である。
そして、負け戦だったことで軍への侮蔑的な機運が国民の間にはひろまるのだが、とは言ってもソ連の存在がある事から、戦間期のソレ程に悪化もせずに済んだ。
この世界ではベトナム戦争まで核の使用は起きなかったとはいえ、実験での威力を宣伝する米国の動きが威力を周知する事になり、日本でも核開発が本格化し、1958年には硫黄島沖での核実験に成功し、核保有国となった。
そんな事からさらにインフラ予算は増えないまま、1972年に行われた東京五輪に何とか新幹線が間に合い、高速道路はその少し後まで完成できなかった。
政治家として交通行政にも携わり、高速道路や鉄道についていくつかの施策も行ったが、如何せん軍事予算に多くを取られてなかなか進まなかった。
それはつまるところ、日本の国民車が軽トラやジムニーモドキから脱皮できないことにもつながっていた。
それが悪い事ばかりではない。
道路整備が追い付かないのは日本に限らないので、東南アジアへの輸出は堅調だ。ただ、米国の環境規制やオイルショックで2ストはさすがに諦めざるを得ず、4ストに移行した。
二宮飛行器が二コ自動車に移管したレシプロ技術はどう見ても21世紀初頭のソレである。こんなもの、戦前の技術で実現するのは無理だったし、70年代でも難しかった。
だが、環境対応は大いに可能にするだけの資産ではあった。
戦後も二コ自動車は塩飽と二宮の資本によって運営されており、空母や潜水艦が原子力となって塩飽の手を離れ、本業の負担がなくなった俺は二コ自動車にウェイトを置くようになった。
悪路走破性の高い車両をウリに東南アジアからインド、アフリカや南米まで手広く販路を拡大している。北米はまあ、やってはいるよ。だが、二コ自動車は小型自動車がメインだからあまり売れてはいない。
軍との付き合いも軽トラ以来続いており、未だに贔屓してもらってはいるが、やはり「史実」の会社もどんどん成長しているね。
ホンダはオリンピックを機にF1参戦を打ち出しているし、他のメーカーもラリーに参戦している。
だが、小型車中心の二コ自動車はそう言った事はあまりしていない。あくまでも国民車メーカーなので。
そうそう、南部銃製造所は真部さんが遺したアサルトライフルを製品化している。
NATO標準化と言う事で7.62ミリになったが、それを見越していたんだろう。軽機関銃を軽量化した様な銃を開発したが、ベトナム戦争には改良型6.5ミリ弾を用いる新型を投入して、米国と新NATO弾論争を巻き起こすことになった。
なにせ、米国が採用した223口径弾よりも優秀だったんだ。新南部弾が。
結局は米国のごり押しで223口径を新NATO弾としたが、日本は従わずに新南部弾の採用を宣言している。
湾岸戦争では早速。新南部弾の優秀性が認められて5.56ミリ弾離れする国が出ている有様だが、どうなるんだろうか。
原井さんの遺産も今でも活用されている。
原井さんが開発したトルクコンバーターは戦後日本の自動車や機関車への応用が盛んに行われているし、オートマチックミッションは何をかいわんや。
そして、T44モドキに至った戦車はT55風な五式中戦車を経て、1963年に二三式戦車として「史実」74式戦車似のシルエットを持った第二世代戦車として誕生した。パワーパックは日本のお家芸であるガスタービン。
ちなみに、塩飽電装は戦後も様々なものを生み出している。米国に先んじてアレイ・レーダーを開発したし、もうすぐアクティブ・アレイも実用化出来るだろう。そろそろ「史実」のスマートフォンに似た携帯電話も実用化出来そうだが、普及にはまだ時間がかかりそうだ。
もちろん、歴史チートは大いに活用させてもらった。米国とうちのエースがOS戦争をやり合った。
そして、日本にはソ連崩壊とともにようやく好景気がやって来た。
ソ連が崩壊してテーハン紛争が再発したが、1992年には中華人民軍とロシア軍の戦闘というあらぬ方向に事態が動き、その結果日本は不介入を宣言した。下手に介入して樺太で紛争が再燃しては困るからだ。
結局、共産圏が内ゲバで弱体化する事態に日本では平和の配当への機運が盛り上がり、インフラ投資が盛んにおこなわれるようになった。
そして、ようやく原井さんの構想した車を二コ自動車が出せる程度にはインフラも整って来た。
あの頃は2スト3気筒700ccであったが、実現する今は4スト3気筒1200ccターボ。
鋼管フレームだったシャーシはアルミモノコックとスペースフレームへ。
しかしまあ、今だから違和感がないけど、カウルを被せたフォーミュラをデザインするとか、あの人は一体何者だったんだ?




