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二宮飛行器

 1982年。


 まさか、転生などと言う事が本当に起きるとは思わなかった。


 今から振り返っても信じられない。もしかすると、またどこかへ転生するのだろうか?しかし、実のところ、今更自分の前世がいつの誰であったかなど思い出しようがない。


 転生ということ自体が単なる思い込みなのかもしれないが、しかし、今この日本が自分が知る日本とは別物だという確信もある。


 1945年に一応の戦争は終結した。


 しかし、そこからが新たな戦争の始まりであったのは記憶と現実に大きな違いはない。


 1945年8月15日。


 それが何の日だったかなど、今この場所で誰に聞いても同じ答えは返ってこないだろう。


 一応、南樺太防衛の日とはなっているが、樺太や北海道ではともかく、それ以外ではあまり知名度は高くない。


 二宮飛行器は戦争が終わってなお存続した。


 この世界では米軍による占領統治は起きることなく、しかし、米英による厳しい追及によって軍は大粛清を敢行し、政治も大きく変革することは避けられなかった。


 なにより、満州朝鮮を失った事は軍や政府にとっては責任問題であり、その責任を取るよりほかなく、敗戦責任の追及という大嵐が吹くことになった。


 そんな混乱の中、陸軍技官であった原井氏が南樺太防衛戦で戦死した事を知る。


 前年末には海軍技官が亡くなっており、これから南部銃製造所でアサルトライフルを作ろうという段階で真部氏も事故に遭い亡くなってしまう。


 残されたのは、俺と塩飽造船の香西氏。


 ここまで歴史が変わったのだからと、我々はとうとう政治の世界へと飛び込んでいく事にした。


 ソ連に占領された朝鮮半島で抗戦を続ける日本軍残留兵や朝鮮独立派支援を続け、多くの武器密輸にも携わった。


 変わったのは日本だけではない。


 ドイツも少々変化している。


 日独技術交流が行われ、1942年にはドイツへとターボプロップエンジンが伝えられ、翌年には実用化に扱ぎつけたらしい。


 送った資料は遠心2段圧縮タイプのモノなので、歴史に多大な影響はないとタカを括っていたのだが、予想は大きく外れている。


 その技術情報からターボプロップエンジンを作り、メッサーシュミットはBf109に替わる戦闘機を開発しているし、爆撃機や襲撃機も新たに作られている。


 より大きかったのは、誰が混ぜたのか赤外線センサーだったらしい。


 ドイツも誘導爆弾のシーカーとして実用化し、ノルマンディーで猛威を振るったという。


 さらに、東部戦線ではクラスター爆弾によるソ連軍への攻撃なども行われている。


 こうしたちょっとした違いからノルマンディー上陸は失敗し、ソ連は記憶上の被害以上を上積みしているらしい。


 その結果、Me262に限らない戦力強化で米英軍の進攻はイタリアからに限られ、1945年になってようやくブルターニュへの上陸に成功する。

 ソ連軍はと言うと、ドイツが高速重爆を装備した事で兵站を各地で破壊されて遅々として進軍が進まなくなったという。


 1945年7月にヒトラーが死去した事でドイツは米英の停戦を受け入れて対ソ戦のみとなったらしい。


 10月には米英軍がドイツへの支援を表明した事で、20日にようやくソ連も停戦に応じている。


 実は12月には中欧戦線へと米英軍が参戦する準備が進められている最中だった。


 つまり、あとひと月遅ければ、対ソ戦争が勃発していた訳だ。


 結局、ソ連はポーランドの半分、スロバキア、ハンガリーのカルパチア地方を得る事は出来たが、そこで停止している。


 もちろんと言うべきか、停戦時のドイツ軍戦車にガスタービン戦車があったのはまあ、当然か。


 1000馬力仕様のガスタービンをパンタークラスの車体に乗せ、ティーガーⅠの主砲を積むというちょっといびつな戦車だが、開発したのはチェコの企業らしいのだ。


 戦後の話だが、テーハン動乱は1949年まで続いたが、さすがにいつまでも続けられるものではなく、テーハン人民共和国というソ連の連邦内自治国家が樹立されると日本としても支援を止めるほかなくなる。


 だが、その終わりは大陸動乱へと変化しただけだった。


 米国は中華民国支援を積極的に行い、反ソ、反共と言う事でその勢力維持を図ろうとした。


 逃げ場のない蒋介石も上海を中心とする沿岸部で踏みとどまり、米国の要請を受けて日本もその支援に乗り出していく。


 結局、膨大な支援を受けた中華民国は上海やその周辺沿岸部から英国が支配する香港周辺というごく限られた支配地域しか手に入れられない状態になってはいたが、1954年に中華人民共和国が建国した時にも沿岸部を保持したままだった。


 それでも戦争は終結せず、俗に中華大乱という名称でそれまでの紛争が呼ばれ、以後も東西戦争と中華民国が呼ぶ紛争が継続している。


 日本については二宮飛行器は順調にジェット機開発を続けている。


 ターボプロップ旅客機は西側世界でヒットしたし、今はステルス機開発を行っているところだ。


 ちなみに、炎龍はその後の改良で超音速機として長寿機となった。退役したのは昨年だ。


 後継機の剣龍は1952年に進空させたし、一昨年には第四世代機である闘龍の初飛行もつつがなく成功した。

 もはや、俺の知る歴史と言うのは何かの夢だったのではないかとすら思う。


 あの歴史に居た人達と、もし会う事があれば、今の歴史は自慢できるのではないだろうか?

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 面白かったけどドイツと継戦中のソ連が満州へ攻め込むのは難しくないですか?
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