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川のように水のように

作者: 高遠 凜子



 ひどい雨が降っていた。リーシェナは静かに音を聞きながら、来るべき人を待っていた。


 こんな時でも思い出すのはいつも同じ事で、これから何が起こるのかを知っていながらも、心は不思議と凪いでいた。甘く冷たい紅茶で喉を潤し、行儀の稽古で何度も習った座り方を反芻しながら、もう一生この座り方をすることはないのだろうと思う。


 それだけではない。芳しい花の香りがする部屋に入ることも、ピアノのような雨の音を聞くことも、冷やされた紅茶を飲むことも、可憐な服を身に纏うことも、今後の人生自分に訪れることはない。それでも、リーシェナの心は静謐に浸っており、その時を待ち望んですらいた。



 2年前まで、リーシェナはただの村娘だった。何もない地方で生まれ育った、いつまでも垢抜けない小娘、それが自他共に認める自分の1番の特徴であり、地方で生まれ育った女の特徴でもあった。1年後には一緒に育った牛乳売りの青年と結婚する予定であったし、たくさんの子供に囲まれて暮らしていくはずだった。こんな部屋で、こんな服を着て、甘い香りを嗅ぎながら雨を楽しむなんて一生あるはずもなかった。


 それを運命の悪戯と呼ぶのだろうか。狩りにきていた青年貴族と出会い、恋に落ち、駆け落ち同然で家を出た。慰め以外の持ち物はなく、彼の屋敷に転がり込む形で共に暮らし始めた。最初は反対をしていた彼の両親も、彼が本気だと知るや否や一切の援助はしないという約束と共に婚姻の赦しを与えた。その時がリーシェナの人生で最も幸福な時であり、無垢な時代だった。


 それがいつからだったか。すれ違い、憎しみあい、喧嘩が絶えぬ関係になったのは。最初は些細なことだった。けれど気がつけば大きなことになっていた。それまで炎は消化されることなくお互いの間で燃え広がり、やがて無くすことも消すこともできぬ存在にまで膨れ上がっていた。膨張した火はやがて決定的な亀裂となり、そして今へと繋がった。


 そしてリーシェナは待っているのだった。全てを終わらせ、清算し、未来へ進むために。



「リーシェナ。入るぞ」


 時は突然訪れた。ユリウスがノックと共に部屋に入ってくる。出会った時から変わらない、金の髪に青の瞳、いかにも貴族然とした姿だった。


「ごきげんよう、ユリウス」


 対するリーシェナも2年前の姿からは考えられない変貌を遂げていた。よく手入れのされた黒の髪、知的な緑の眼、どれも本来は持ち得なかったはずのものだ。


「今日呼び出したのは私たちの今後について話すためだ」


「ええ、もちろんわかっているわ」


 淡々と会話が進んでいく。ユリウスはその様子に少し驚きながらも、その話題を切り出した。


「単刀直入に言うと、今後君との生活を続けていくのは難しいと思う」


「そうね」


「だから聞く。君はどうしたい?」


 そこでようやくリーシェナはユリウスに目を合わせた。重なり合う青と緑の瞳。それはかつて恋に落ちた証だった。しかしそれも束の間で、お互いの視線は背けられた。


「どうもしないわ。貴方が出ていけというのであれば出て行くし、二度と顔を見せるなと言うのであれば見せません」


「そうやって私が追い出したらどうやって生きていくつもりなんだ?」


「さぁ」


「さぁって、君。自分の人生に興味がないのか?」


「別にそういうわけではないわ」


「じゃあ、」


「貴方、私と出会った時のことを覚えていらっしゃる?」


 リーシェナは被せるように言葉を重ねた。少し前に思い出していた自分が進むべきはずだった道と、どこかすれ違った道を思い出しながら。


「私、あなたと出会ってから人生に絶対はないと思ったわ。3年前の私なら、数年後に私がこうして生きているとは微塵も思わなかったし、タチの悪い冗談としか捕らえなかったはずだわ」


 一瞬間を置いてから、リーシェナは続ける。


「でも、私は今、ここで生きている。息を吸い、意思を持ち、この家で貴方と対等に会話をしている。そして、私はそのことを後悔はしていないのよ」


 真っ直ぐとリーシェナを見つめていたユリウスを見返す。そして微笑みながら言葉を告げた。


「だから、また流れに身を任せて生きてみようと思って。そこでまた壁にぶつかるのかもしれない、崖から落ちるのかもしれない。それでも貴方と出会ったあの川のように、そして水のように、私は生きてゆくのよ」


 その時、二人は同じ記憶を思い出していた。川に落ちたリーシェナを助けた瞬間、目があった刹那の高揚感、交わした甘い唇、抱き合う体の熱さ、全てが追想となり体を駆け抜ける。


 ユリウスは喘ぐように喉を震わせ、頭を振りをふった。


「そうか、君は。そうして生きていくんだな」


「えぇ、そうよ」


「……私のことを捨てていくのか」


「やあね、捨てて行くのではないわ」


 間を空けてリーシェナは言い放つ。


「連れていくのよ、思い出として。言ったでしょ、貴方と出会ったことを私は幸運に思っているのよ」


 生き生きと輝くエメラルドの瞳、きらきらと光る黒檀の髪、一瞬2年前の出会った日に戻されたかのようだった。その姿を眩しく思いながら、ユリウスは手にしていたものを渡す。


「餞別だ。これを君に渡すかずっと悩んでいた」


「あら、決心がついたの?」


「今し方な」


 渡されたものは家紋の入った豪奢なペンダントだった。


「何かあったら頼ってくれ。家を出て行ったからといって他人になるわけではない」


「さっきまで散々他人になりたそうな顔をしていたじゃない」


「気が変わったんだ。だからもし、万が一、君の気が一瞬でも変わってここに帰ってきたくなったら、また一緒に過ごしてくれないか」


 ユリウスが穏やかに問う。口論ではなく、ゆっくりと会話を楽しむのは久しぶりのことだった。


「一生気が変わらないかもしれないわよ」


「もちろんわかっている」


「新しい恋人ができるかも」


「……そうだな。」


「もしかしたらどこかで野垂れ死んでしまうかも」


「それだけはやめてくれ! 死ぬなら俺に一報を入れてから!」


「突然死ぬかもしれないのにどうやって伝えるのよ」


 困ったように笑いながらリーシェナは立ち上がり、ユリウスの頬を撫でた。


「そうね。万が一、億が一にでも気が向いたら帰ってきてあげるわ」


「本当か?」


「昔の貴方に免じてね」


「昔の私?」


 何も覚えていないユリウスの様子をすこし不満に、そしておかしく思いながら、リーシェナは紡ぐ。


「安心したのよ」


「何が?」


「貴方みたいな人でも、わたしたちのことが羨ましくなるなんて」


 それは出会ってすぐの話だった。木陰の下でリーシェナが作った粗末な弁当を食べながら交わした会話だった。


「あぁ、貴族も人間なんだって。わたしたちと同じように精一杯苦しんで、考えて、生きているんだなって。悪く思わないでね、わたしたちはそれくらい貴族とは縁遠かったのよ」


 その縁遠かったリーシェナをここまで連れてきたのはユリウスだ。そして知を、美を、富を与えたのも同様に。


「ふふっ、だから貴方も思うように過ごしてね。私に遠慮なんてしなくていいのよ。新しい(ひと)を見つけてもいいし、友情を深めてもいいし、美味しいものを見つける旅に出てもいい。だって、時間は私たちを待ってはくれないのだから」


 そう言うとリーシェナは静かに部屋を出て行った。ユリウスはリーシェナと過ごした日々を思い出しながら、少しの涙をこぼした。



 かくしてリーシェナは雨と共に去った。川の如く、水の如く、共に過ごした時は穏やかなものになり、やがて何事にも変え難い思い出へと変わるのであった。


「安心するの」

「何が?」

「貴方みたいな人でも、私たちの暮らしが羨ましくなるなんて」


というセリフから派生した話です。


(2021/07/14 改稿)

(2021/09/20 改稿)

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