先輩の前髪、切ってもいいですか?
目元が隠れるほど前髪の長い男子高校生、細浦英嗣。そんな彼の目の前に立つ、肩に届かないくらいの髪の長さのボブの女子高生、袖山海帆。
場所は最上階の学校の廊下の突き当り。放課後という事もあり、二人以外の生徒はいない。
男子の方が女子に言い寄っている場面にも見えたが、その立場は完全に逆だった。
英嗣は冷たいコンクリートの壁に背中を押し付けられていて、海帆の方が彼に迫っていた。
「先輩? わたしの言いたいこと、わかりますよね?」
彼女の問いに、英嗣は答えなかった。
二人は一年と二年、後輩と先輩の関係だが、今の立場は逆のようにも見えた。
それもそのはずで、英嗣は今、海帆に脅されている状態にあった。
半袖の制服から覗く色白の細い腕。その先にある右手に握られた銀色のハサミの刃が鋭く輝いていた。
英嗣は前髪の下にある小さな範囲の視界からその刃物を目にして、ゴクリと唾を飲み込む。
ハサミの先を彼の方にゆっくりと近づけながら、海帆は尋ねかける。
「先輩の前髪、切ってもいいですか――――?」
「ダメです!」
元気に即答して断った彼に、彼女は「ムムム」と眉をひそめながら彼との距離をさらに詰めていく。
「でもそんなに長いと前が見えないですよね? 米〇玄師の曲に感化でもされたんですか?」
「そういうつもりは全くないけど……米〇玄師は好きだよ?」
「ホントですか! わたしも好きですよ?」
「わたしは~はいぼくしゃ~」とおかしい歌を歌いだす海帆に苦笑いする英嗣。
上手い具合に話を逸らせたかと思っていた彼だが、海帆の手には未だにハサミが握られている。
そして、様子を窺っている彼の視線に気が付いたのか、彼女は歌うのをやめて話を戻した。
「それより前髪切りましょう、先輩。そんなに長いとわたしの顔も見えてないんじゃないですか?」
海帆の言う通り、英嗣は自分の前髪が長いせいで、彼女の顔もまともに見えていない状態だった。
図星なので何も言えないでいる英嗣と同じように、彼女の方も急に静かになった。
持っていたハサミをスカートのポケットにしまい込んで、じっと彼の様子を窺っていた。
突っ立ったまま動かなくなってしまった彼女にしびれを切らして、英嗣は口を開く。
「なにしてるの?」
「なんにもひへないれすよ?」
滑舌の悪い彼女の答えに、何かをしている事は分かったが、それ以上は前髪が邪魔で、英嗣には見えていない。
それをいい事に、海帆は両手を駆使して自らの頬の伸ばしたり潰したりしながら変顔を試みていた。
改めて自分の首より上の範囲が見えていない事を確認した彼女は、両手を上げて、ギリギリ彼の視界に入らないようにしながらその手を彼へと近づけていく。
そして彼女の手は、彼の前髪に触れて、ゆっくりとかき分ける。その先から覗く彼の目と彼女の目が初めて合った。
急に開けた視界に戸惑う彼に対して、彼女は優しく微笑んでみせる。
「先輩って綺麗な目してるんですね」
「!!!!!!??????」
彼は顔を赤らめて伏せようとするが、その前に彼女の手の方が彼から離れていった。
「今日はこのへんにしておきましょう。先輩の前髪切るために、明日も来ますからね?」
そう言って海帆は、彼に背を向けて、廊下をてくてくと歩いていく。
去り際の彼女の表情は、彼には見えていなかったが、その声色から一瞬だけ見えた微笑んでいる彼女の顔を思い出す。
彼女の顔をもっと見たければ、彼は前髪を切るしかないだろう。
「でも、明日も来てくれるのか……」
そう思うとジレンマに陥り、最終的に彼は前髪を切らない事を選択した。