第9話
「ん…、あ、あれ…?こ、こんな感じでいいのかな?」
セラフィーナは雑巾を絞りながら首を傾げ、そう呟いた。
ちゃんと絞ったつもりだが雑巾からはぼたぼたと水が滴っている。おかしい。全力で絞ったのに…。
セラフィーナは今まで掃除をしたことがない。いや、掃除どころか家事全般をしたことがなかった。
セラフィーナは元は侯爵令嬢であり、幼い頃から聖女として教会で生活をしていた。
身の回りの世話は全て教会の見習い修道女達がしてくれたので料理も掃除もしたことがない。
その為、セラフィーナは雑巾絞りすらもまともにできなかった。
水浸しの雑巾で床を磨くが絞り切れていない雑巾で拭くため、床が水で濡れてしまい、途中で滑ってドタッと床に転んでしまった。おまけに足を引っかけてバケツをひっくり返してしまい、床が水浸しになるはでちっとも綺麗にならない。
見よう見まねでやればできるのかと思ったが…、そんな考えは甘かったと気付かされる。
セラフィーナはガックリと項垂れた。
蜘蛛の巣を払ったり、塵を一か所に集めたり、カーテンやテーブルクロスをお互いに引っ張り合って埃を落とす等して掃除を手伝ってくれる鴉達の方が余程、手際がいい。
セラフィーナは自分の役立たず加減に落ち込んでしまう。
異世界の少女、メイが現れてから聖女の癖に無能だと言われたこともあったが本当にその通りだと思った。
自分はこんな基本的な事もできないのだから…。はあ、と落ち込むセラフィーナにフェルが
「カア?」
と首を傾げた。セラフィーナはそれに何でもないよと力なく答えた。
「こ、ここが黒の森…。」
「な、何だか如何にも呪われたって感じのヤバそうな森だな…。」
「ほ、本当にあの森に行かないといけないのかよ!?」
その頃、黒の森と王国の境目の所に複数の男の姿があった。
彼らは遠目でも不気味で薄気味悪い雰囲気を漂わせる黒い森を見上げて、怯えたように竦み上がっていた。
が、その中でも気が強そうな男が仲間を鼓舞した。
「馬鹿!何をビビってんだ!男の癖に情けねえぞ!」
「し、仕方ないだろ!黒の森っていえば、得体のしれない化け物が住んでるって話じゃないか!
し、しかも、森に入ったら呪われて、二度と生きては戻れないって昔から言われているじゃないか!」
仲間の一人がびくつきながら言った。
「あんなの、ただの迷信に決まっているだろ!今までの奴らだってただ単に迷って餓死したか、獣に襲われたかのどっちかだろうが!」
「で、でもよお…、」
「そもそも、俺達には武器があるんだ!しかも、メイ様がわざわざ俺達の為に魔力を注いで作ってくれた魔石までくれたんだぞ!?何を怖がる必要があるんだ!」
メイを崇拝する男はそう言って、誇らしげに胸を張った。
「そ、そうだな!俺達にはメイ様がいるんだ!」
「メイ様の為なら…、」
男達は全員、異世界の少女、メイを盲目的に崇拝していた。
彼らは内密に王子達から命令を受け、あの偽聖女の死を確認してこいと言われ、黒の森でまで赴いたのだ。
本来なら、あの偽聖女を護送した兵士達に確認すればいいと考えていたらしいのだがその兵士達はいつまで経っても帰ってこない。だが、国王はその事実を知っても調査する兵士は遣わさずに捨て置けと言うのだ。
それに、納得いかないのが王子達だった。何せ、メイが偽聖女が生きていたら仕返しに来るのではないかと怯えているのだ。だから、メイを安心させるために偽聖女の死を確認して来いと男達は命じられたのだ。初めは躊躇したが王子達にメイの為だと言われ、その命令を受けることにした。あの真の聖女であるメイ様が望んでいるのなら…、と。
「それに、俺達はあの女の遺体を確認すればいいだけだ。森の奥まで行く必要はない。」
女の足だ。そう遠くへ行けない筈だ。多分、森へ入ってすぐに獣にでも食い殺された事だろう。その形跡でも見つけて証拠品を持ち帰ればいい。男達はそう考えていた。
男達が森に近付くと、護送用の馬車を発見した。馬車は横転し、荒らされていた様子だった。そして、周囲には…、鎧や銃、剣、布切れが散乱していて、血痕が残されていた。
「な、何だ?これ…、もしかして、血?」
「ま、まさか…、あの女の…?」
「それなら…、何であの女の物が何も残されていないんだ?」
そう。そこには、偽聖女、セラフィーナの所持品が何一つないのだ。あるのは、外された手錠くらいだった。
散乱している武器も鎧も衣服の切れ端はセラフィーナの物ではない。それは、どう見てもあの兵士達のものだけで…、
「あの女が兵士達を殺して、森に逃げたんじゃないのか?」
「けど、偽聖女には魔力を封じる手錠がされていた筈だぞ!どうやって、この手錠を外したって言うんだ!」
「あの女、顔と身体はよかったからそれを使って兵士を誘惑したんだろう。きっと、そうだ。」
メイを殺そうとした悪女、セラフィーナ。男達はメイによってセラフィーナをそう認識していた。
「た、確かにあの女ならやりかねん…。聖女の癖に司祭や貴族の男とも寝る男好きだからな。」
「おまけにメイ様を殺そうとした女だ!人を殺す位、簡単にやってのけるさ!」
偽の証言と罪状を鵜呑みにした男達は好き勝手にそう口にした。
「森に逃げたとしても、どうせ碌な目に遭っていない。きっと、もうくたばっているだろうさ。」
そう言って、男達はセラフィーナの死を確認するために森に入っていく。
「な、何でこんなに暗いんだ…?」
「し、知るか。そういう森なんだろ。」
「…うっぷ、何だか気持ちが悪くなってきた…。」
「お、おい。大丈夫か?」
入って、数分後も経っていない内に男達は口々に不安を口にする。一人は顔色が悪く、今にも吐きそうだ。
「な、何だか…、ここの空気を吸っていると急に気分が…、」
「ど、どうなっているんだ…。」
「それは、瘴気のせいだね。君達、人間からすれば瘴気は毒みたいなもんだ。長時間吸っていたら、死んじゃうよ?」
頭上から聞こえた言葉に男達は一斉に顔を上げる。そこには、木の上に悠々と腰掛けた一人の男がいた。
へらへらとした軽薄な笑みを浮かべているがその目は爛々と輝かせ、背中には蝙蝠のような羽根が生えている。
「ば、化け物だ!」
男達は慌てて銃を向け、発砲した。が、男の姿は掻き消えるように姿を消した。
「き、消えた…?」
そう呆然と呟いたその時、突然、ザン!と音が聞こえた。ボトッと何かが落ちる音と赤い血が飛び散った。
「え…、」
そのまま一人の男の身体がドサッと崩れ落ちる。男の首は胴体から切り離されていた。
「ヒイイイイ!?」
仲間の返り血を浴びた男達は一瞬、何が起こったのか分からなかった。が、目の前で絶命している仲間の無惨な姿を見て、じわじわと何が起こったのかを理解した。
一瞬の出来事だった。仲間の首が切り落とされる瞬間すらも見えなかったのだ。その為、目の前の出来事をすぐに信じられなかった。だが、死体を前にして男達は漸くこれが現実だと知った。
「あーあ…。弱っちいなあ。人間ってのは。」
どこからかまた声が聞こえる。バッと振り返ればあの例の蝙蝠男が首をポリポリと掻きながら、呆れたように呟いていた。
「お、お、お前がやったのか!?こ、こいつを殺したのはお前の仕業か!?」
「んー?あれ?もしかして…、見えてなかったの?君達の目の前でわざわざ殺してあげたのに。」
へらへらと軽薄な笑みを浮かべ、スッと目を細めた。男達は背筋がゾクッとした。まるで獲物を前にした捕獲者の目。男達は本能的な恐怖を感じた。
「…次はどいつにしようかな。」
「う、うわああああああ!」
ニイ、と歪んだ笑みを浮かべる蝙蝠男に男達は一斉に逃げ出した。
やばい。あの男はやばい。皆がそう思ったからだ。反撃するとかそんな思いは微塵も抱かなかった。とにかく、あの危険な化け物から逃げ出したい。それしか考えられなかった。
「逃がさねえよ。…人間。」
そんな逃げる男達を見ながら、蝙蝠男は口角を上げ、聞いているだけで身震いするような冷たく、低い声で呟いた。その直後、男達の断末魔の叫びが森中に響き渡った。