第1章 ブラッドリーとお嬢様⑤
「ブラッドリーくん、大丈夫?」
いつの間にか顔をしかめていたらしい。ルーシャが気遣わしげに尋ねて来る。ブラッドリーは目を開けた。
「ありがとう。大丈夫」
少ない悪意のぶつけ合いが尽きたのか、いつの間にか睨み合いに突入していたアンジェリカとベンフィールド家のご令嬢は、しばらく睨み合って、先に目を逸らしたのはアンジェリカではなかった。
「ふん! おかしな小隊に構っている暇は無いのですわ! 皆さま、参りましょう」
勝ち誇った顔をして、アンジェリカは告げる。
「どうぞお気をつけて!」
「プロウライトさんこそ!」
苛立たしげでも、お互いの安全を祈るのは育ちのいいお嬢様っぽかった。迷宮で死んじまえ、とかは言えないのな。案の定。
ルーシャを押しのけて、ベンフィールド家のご令嬢が妖精の扉を開く。その奥は、暗い木の洞ではなく、白と黒を基調にした迷宮が広がっているようだった。おお、これが妖精の扉か。
バタン、と苛立ちをぶつける様に扉が閉じられると、アンジェリカが嬉しそうにブラッドリー達の方へ駆けて来る。
「ふふふ、勝ったのですわ! 79勝78敗なのですわっ!」
先に目を逸らした方が負けって猫の喧嘩か、とか、79勝78敗とか僅差か、とか、そもそも数えてるのかとか、そこまで喧嘩してるって逆に仲良しだろとか、突っ込みどころが豊富過ぎた。
ブラッドリーが何とも言えずにいると、ルーシャがアンジェリカに右手を差し出した。
「ありがとねぇ」
アンジェリカはその手を強く握って微笑む。
「もちろんなのですわ! ルーシャの為なら、何度だって勝ちますわ! ……さ、参りましょう!」
元気よく、アンジェリカは妖精の扉に向き直る。
「それじゃあ」とルーシャが扉を開けた。
つい先ほど見た洞の中の景色と変わっている。
だだっ広い草原が、広がっていた。
誘われるようにブラッドリーは1歩踏み出す。木の洞に入ったはずなのに、明るい。そりゃそうだ。頭上には何もない。空だけが広がっている。良い天気だ。春の日だ。なだらかな丘陵地帯が続いている。見渡す限りの草原だ。時折、春に咲く黄色い花が光を凝ったように生えていた。
「……どういう……?」
「これが妖精の扉ですわっ!」
自分だって使用するのは初めてだろうに、アンジェリカは偉そうに解説する。
「凄ーいのですわっ! さ、魔物を探して魔法水晶を集めましょう!」
いや、全然解説になってなかった。雑だ。もしくはアンジェリカも理解していないのか。
「妖精の扉は空間を捻じ曲げると言われていて」
ルーシャが相変わらずおっとりした声で言いながら、扉を閉じた。おっとりした声は歌のようだ。淀むこと無く、焦ること無く、どこまでも滑らかに語られる。
「レインウォーター学園の聖なる大樹と、世界中の迷宮を繋ぐことが可能だって言われている。扉は妖精が管理していて、妖精の気紛れと優しさで、私達は私達に相応しい迷宮に案内される。ここもただの草原に見えるけれど、移動範囲が決められている迷宮に定義されるんだろうね。始まりの草原――もしくは初心者の平原。そんな所かな?」
「移動範囲が決められている?」
ブラッドリーが尋ね返すと、ルーシャは少しだけ首を傾げた。
「おかしな事を言ったかな? 迷宮は魔法水晶が見せる幻覚。亜空間の一種とも言われているね。限定空間、と呼ぶことの方が多いけど――ここの草原にも何処かに壁があって、私達の移動範囲は制限される。迷宮の広さは、迷宮が内包する魔法水晶の量に比例するから、魔法水晶を次々と私達の人形に食べさせてしまえば、この迷宮は消滅するはずだよ」
ルーシャは当然のように語り、アンジェリカは「そんなことも知らないだなんて、まったく、無知ですわねっ!」とか言っている。
レインウォーター学園に編入の形を取ったブラッドリーには――というより、人形使いの家系に生まれ育っていないブラッドリーにはよく分からない。分からないから、とりあえずルーシャの言うままに覚える。
「迷宮は限定空間、広さは迷宮が持ってる魔法水晶の量に比例、人形が食べたら魔法水晶は迷宮のものではなくなる……ん? 迷宮は消滅する? じゃあ、いつかはこの世から迷宮は、魔法水晶は、無くなっちゃうのか?」
ブラッドリーが呟くと、アンジェリカは綺麗な形の眉を寄せた。
「無知を披露するものではありませんわよ! 迷宮は無くなりません」
「魔法水晶は無限だから?」
「まさか! 魔法水晶は有限ですわよ。だから、人形使いは魔法水晶の確保に躍起になるのです」
「ううん……?」
ますます訳が分からなくなってくる。誰かすぱーんと親切に解説してくれないもんか。期待を込めてルーシャを見やる。ルーシャは小さく顎を引いた。
「人形が動いたり、魔法を使ったりするので魔法水晶は消費されるでしょう? 消費された魔法水晶はこの世から消えてしまうわけでは無くて、迷宮に還元されるの。だから、この世に人形が居る限り、迷宮はなくならないと思うよ」
「魔法水晶はぐるぐる巡るわけか」
「そうだねぇ。私達人形使いは人形を使役するために魔法水晶を集めて、使役された人形は迷宮を生み出す。人形だけでは、いつか迷宮の難度と人形の強さが釣り合って魔法水晶を得られなくなってしまうから、現代では私達人形使いの魔力も使って迷宮を探索する必要があるんだよ」
「そうか、人間の魔力も人形を動かすもんな……」
ルーシャに言われて、ある程度は腑に落ちた。が、物凄い問題も同時に浮上する。
「人形だけでは、迷宮から魔法水晶を得られない?」
「そうねぇ。こうやって人形使いが妖精の扉を開けて、いってらっしゃーいって人形を見送るだけで魔法水晶が手に入ったのは昔の話だね。人形が使用した魔法水晶と、人形――の主素材である魔法水晶に注がれた人間の魔力も取り込んで迷宮は出来上がるから、迷宮の難度って言うのは全体的にどんどん上がっているんだよ」
「何てこった……!」
ブラッドリーの、将来寝て暮らす計画にヒビが入る。駄目じゃんか。人形は勝手に自給自足してくれないと困るのに。