焼香
コーヒー600円という看板の文字を見て、わたしは戦慄した。
貧乏学生であるわたしが行くのは大抵駅前のドトールで、そこは270円で2時間程居座れる権利を与えてくれる。おまけのコーヒーまで添えて。けれど神保町の、三省堂の裏手にあるひっそりとした喫茶店は、600円で渋るような若者は来なくて結構とお店の雰囲気にプレミア価格をつけて販売しているのだ。それは表向きはひっそりと寂れて、助けてほしそうな雰囲気を醸し出しているくせに、ふたを開ければどこまでも高貴でお金持ちで、ともすれば不遜だ。本音と建て前のちぐはぐさだ。京都のぶぶ漬けだ。
久しぶりに会った、わたしよりはるかに大人な先生は(意味することは単なる年上ということではない)、こなれた雰囲気でわたしそこへ案内した。加えて、懐かしいと目を細める余裕さまで添えて。わたしは今日しっかりお化粧をして、シックなスカートを選んでおいてよかったと思った。
天井の低い室内は、味のある木ですべてが作られていた。ハイセンスな絵が掛けられた壁、テーブル、椅子、レジカウンター。唯一灰皿だけが、アルミの銀色を光らせながら静かにそこに居た。
わたしが久しぶりに会った大人な先生というのは、国語の教師をやっている人だ。だからたとえばこの文章が教科書に載っていたとしたら、63文字手前に戻って「どうして灰皿を「そこにあった」ではなく「そこに居た」と表現したのでしょうか」なんてことを生徒に聞かなくてはならないお仕事をしている。優秀な生徒は擬人法ですとか答えるだろうし、先生は教育要領の範囲を超えて人を物たらしめるものはなんぞや、人を人と定義づけるものはなんぞや……と哲学的な思考へと突っ走っていくのだろう。
歳をとり、生徒から学生になったわたしは、このあいだ書き上げたばかりの本を先生に手渡した。元よりそれが目的で、それを果たした今先生とわたしが同じ場所にいなければならない理由はどこにもなかった。けれどわたしも先生も、ものではなくにんげんで、懐かしいという気持ちを互いに持っているから、文学のこととか仏教のこととか道徳のこととか楽しいことをとりとめもなくはなすことができた。
「これはどういう本なのか」
先生は会話の合間に、わたしの著作について訪ねた。
「これは私小説です」
わたしは得意げに言った。しかし著作があまりにもお粗末でつたないことを自覚しているから、言った後すぐに後悔した。
「でも、拙いものです。私小説とよべるかどうかも怪しい」
わたしはあわてて付け足した。そしてやっぱり、言うんじゃなかったと後悔した。自分の発言に責任を負わないなんて、決まり悪い。
5万字越えの小説をはじめて完成させたわたしは、色々な人に本を渡した。友達、先輩、後輩、知らない人。それでも余った分は、就活中に会う人事部の人に名刺代わりに渡そうと思っていた。中島らももそうしていたから。
本のお駄賃だと言って、先生はコーヒーをわたしにごちそうしてくれた。先日友達と「居酒屋で800円の刺身を頼む気にはなれない」という話をしたばかりのわたしはたいそう嬉しがった。だってわたしにとっての600円は二日分の食費だ。
店員さんがやってきて、わたしと先生の前にコーヒーとミルクの入ったカップを置いた。わたしは普段ブラックしか飲まないけど、このときばかりはミルクと砂糖を入れた。ここのお店は角砂糖ではなくざらめを用意しているのを最初に確認していたからだ。透明なガラスにつつまれたおおぶりのざらめの結晶が、むき出しの樹木と相まってとてもいいものに見えたのだ。先生がコーヒーを飲む。わたしは店内をぐるりと見渡した。反対側に座っていた先客が、たばこに火をつけた。さて、今わたしが店内をぐるりと見渡したのには、どのような気持ちだったからでしょう。
「小説の中には、たばこがでてくるんですよ」
わたしは言った。
「先生はたばこ吸いますか」
「もう吸わないね。学生の頃は吸っていたよ」
ほら! わたしは心のなかでほくそえんだ。今日、スカートに足を入れるときに、先生がそう言うであろうと半ば確信しながら想像していたのだ。少し前、まだわたしが頬杖をつきながら先生の授業を聞いていたころに、教育要領の範囲をぶっちぎって「学生の頃は喫茶店に入り浸っていたね」と話す先生の姿を覚えていた。今と違って、少し前はみんなどこでもたばこを吸えた。芥川とかそういう文豪について少しでも触れた人ならきっと分かってくれる。たばこと小説家は間違いなくセットで、相棒なのだ。
「わたし、友達から一本もらって見たことがあるんですけど、煙を肺まで吸い込めなくて。「おまえのはふかしているだけだよ」って友達に言われました」
そう言うと、先生はにやりとわらった。
「今はもうたばこの時代じゃないからなぁ」
先生は嘆いた。わたしはうんうんと頷く。コーヒーを飲むけど、ミルクが乳臭いばかりでちっともざらめの味はしなかった。
「お寺の煙は御利益があるのに、たばこのけむりはどうしていやがられるんでしょうね」
わたしがそういったのを皮切りにして、話題は文学から仏教へと逸れていった。臨済宗とか曹洞宗とかの話をする先生に対して、わたしは華厳の思想で応戦した。大学の知識をフル稼働させて応じると、少し前までちんぷんかんぷんだった先生の話を正しく理解できることに気付く。わたしも少しは大人になっているのだ。
一通り話し終えて、午後、先生と別れた。コートのポケットには喫茶店でもらったマッチを忍ばせている。側面にヤスリのついたちいさい箱は、ざらめとおなじくらいにいいものに見えた。
せっかくならこれを有効活用したい。わたしは自宅最寄りのコンビニに寄って、16本入りのたばこを買った。家に帰って、コートとマフラーにリセッシュを吹きかけてから、台所のあかりだけをつけてたばこのリフィルを破った。いつも包みの銀紙がうまくちぎれない。とげが刺さりそうなマッチを一本取り出して、何度かヤスリをこすると、立派な火が燃え上がった。一口吸う。
嗚呼、先生。わたし、いっこ嘘をつきました。実はわたし、ちゃんとたばこ吸えるんです。
そうだ。嘘をついてはいけない。わたし別に仏教徒じゃないけれど、大学でお勉強もしたし夏には禅寺へ行って修行もしたのだから、すこしは仏教をふまえて素直にしなくてはならないのだ。だからわたし、さっき「つたない出来で、とうてい私小説とは呼べないかもしれません」って、いいわけをした。先生に私の臆病な自尊心と尊大な羞恥心を正しく伝えたかった。
初発心、とわたしは口の中で唱えた。初発心、初発心。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。仏様仏様、どうか嘘を償いますから、無意色界に行けますように。
メモに残っていたので供養します。