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透明な空はそれでも青く

 講義の終わりを告げるチャイムの音が響き渡ると、大教室にいた学生たちは一斉にざわめきだした。

 だが、その一角に座っている菊池亮介は、頬杖をついて黙っていた。

「リョースケー。起きてるかー?」

 隣に座っていた柳田真吾がリュックに教科書をしまいながら大きな声で聞いてくる。

「真吾。次って何だったっけ?」

「美菜ちゃんも受けてる心理学だな」

 真吾はいたずらっぽく笑った。

「なぁ亮介。心理学ってすげぇ役に立つ授業だよな。悪徳商法の話とかしてさ。まぁ人間は元々信じやすい生き物だって言うし、まして今のお前ような状態じゃ簡単にひっかかるんだろうなぁ」

 べらべらと喋って真吾はふっと顔を引き締めた。そして手に持った筆箱をリュックに押し込んだ状態で動きを止め、頬杖をついたまま真剣な表情の亮介に言う。

「破産しないために、ちゃんと聞いとけよ」

「……聞けると思うか?」

 亮介は少し間を置いて小さな声で言った。そしてようやく頬を圧迫することをやめ、自分のバッグを開いた。

「リョースケー、成績が悪いやつは美菜ちゃんも――」

 真吾はそこで言葉を切った。亮介がバッグに教科書を詰め込む手を止めて、にらみつけるように彼を見ていたのである。

「――そんなに好きじゃないかもしれないって橘女史が仰られていたような気がしないでもないぞ」

 やけにトーンダウンした。

 亮介はそんな真吾の様子を見てそれとなくため息をつく。

「お前のアイドルと美菜ちゃんは知り合いじゃないだろ」

「お、よく知ってたな。さては貴様、咲苗を狙っているのか!」

 真吾はニヤニヤと笑いながら片手片足を上げ、変なポーズを取った。彼なりに元気づけてくれていることぐらいは亮介にもわかる。だから、亮介もバッグに教科書を入れ直しながら無難なツッコミでこれに応えた。

「今の話からどうやってそうなるんだよ。それに、お前らの仲は俺なんかがちょっと出しゃばっただけで崩れるもんなのか?」

「んー……さぁ?」

 亮介は真吾の意外な返事を聞き、はっとしたように真吾の方を向いた。真吾はとぼけたように相変わらずニヤニヤしている。だが亮介にはどことなく貼りつけただけの表情に見えた。

「何かあったのか?」

「何か、ねぇ……なんていうか、人の気持ちなんてわからねぇもんだよなぁ。俺は咲苗のことを自分でも信じられないくらい好きだけど、向こうが本当はどう思ってるかなんて俺にはわからないんだよなぁ」

「はっ、柳田真吾が難しいことを言っている! これは大災害の前触れなのかー!」

 狼狽したように手を震わせながら教科書を持つ亮介を、真吾は呆れたような目で見る。

「おいリョースケ、そのキャラはやめとけ。全然似合ってないから」

「そうか? 俺にはお前の真似は無理ってことか」

 亮介はやっとのことでバッグに教科書を詰め終わり、それを持って立ち上がった。真吾もリュックを担いでそれに倣う。

「まあでも、俺だってキャラ作ってるかもしれないんだぜ?」

「アイドルと二人でいたら寡黙で弱気な柳田真吾が見られるってこと?」

「そゆこと。ってことで俺は寡黙で弱気になるために咲苗と二人で授業受けるから、お前も美菜ちゃんと受けろよ。二人で、な」

 言葉を失って動きも止めた亮介に真吾は言う。

「美菜ちゃんの友達は心理学の授業を取ってないから、彼女は一人で授業を受けている! これ情報源菊池亮介だからな」


  ◆


 講義開始のベルが鳴ろうかというところで亮介は教室の扉を開く。

 普段は真吾と踏み入れていたこの空間も、一人でいるととてつもなく拒絶されているような錯覚を覚えた。

 それは、入ってすぐ目についた、窓際列中央からやや後方にいる真吾と咲苗の仲むつまじく笑いあっている姿を見たからだろうか。だが亮介はすぐにそれは違うと否定する。そんなものは、これまで三人で講義を受けていた中で何回も経験しているのだ。

 つまり、と亮介は自分で結論を出す。

そして視線を二人から外し、教壇の正面に並ぶ机を、正確には前から七列目の机の右端に座る人物へと移した。

 亮介が小梅美菜を初めて見たのは、小集団で受ける講義の中であった。

 ちょうど亮介が教室に入ってきたとき、彼女が彼の方に振り返ったのだ。

亮介はぽかんと立ち止まってしまった。彼女はそのまま自分の席に座った。

そこではじめて、彼女がそれまで見ていたものは座る席が映し出されたスクリーンだったと亮介は気づいた。

 一目惚れなんて陳腐で滑稽なものだとひそかに思っていた亮介にとって彼女はあまりにも眩しかったのだ。

一呼吸おき、ようやく動けるようになった亮介は、スクリーンで自分と彼女の名前と席を確認し、そっと小梅美菜の方を向いてみた。   

しかし、彼女は講義の準備のため、手元のファイルからプリントを取り出しているところで、目は合わなかった。

 だがそれは幸いだったのかもしれない。彼はその日の講義をほとんど聞けなかったが、もし目が合っていれば何も聞けなかっただろうからだ。

 亮介は時計を気にしながらゆっくりと美菜に近づく。その様子に気づいた真吾が亮介に向かって手を上げて何か言ったのがわかった。もちろんそれは聞こえるものではなかったが、勇気づけられたように彼は机に近づく。

 彼女は右端に座っているので、左端は空いている。さらに、彼女の前の机も空いている。ここで亮介が取りうる選択は四つだった。つまり、空いている左端に座って話しかける方法、前に座ってから話しかける方法、いきなり彼女の座る机の真ん中に座って話しかける方法、そして全然関係ない席に座る方法。

 後者二つは即座に却下だ。となると、左か前しか残っていない。しかし亮介はすでに答えを決めていた。右端と左端では電車の中で座席の端と端に座っているに等しい。目の前に座ると話しづらく、彼女が講義を受けるのも邪魔してしまう。ならば、彼女から見て斜め左前に座るのが最良と考えていたのだ。

 自分の靴音がやけに大きく聞こえる。美菜の後ろ姿を見ながら横を通り過ぎ、ちらっと彼女の広げているノートを見てしまう。ちょっと丸みをおびた字が綺麗に書かれていた。

 バッグを机の上に置こうとして、亮介は考える。自分の右の椅子にバッグを置く動作ならば、自然と彼女と話すことができる体勢になるのではないか、と。

 早鐘のように打ち続ける心臓。茶髪とかピアスとかネックレスとかチャラチャラしている人でも、好きな人と話すときは緊張するのかな、などと意味もなく考えてしまう。

 バッグを椅子に置き、教科書を取り出そうとしながら、ごく自然を装って

「ちょっといい?」

 美菜はゆっくりと顔をあげ、声をかけてきた亮介を不思議そうに見てきた。さっきは見えなかったが、英語で書かれていると思われる本が机に置いてあった。

「俺、菊池亮介。俺のこと知ってる?」

「え、知らない」

 ざっくりとした彼女の言葉に、亮介の緊張も幾分か和らぐ。

「あ、何個か授業いっしょってだけなんだけど」

 亮介は一旦言葉を切って、彼女が思い出せるか試した。

「木曜二限目とか」

「それって小集団クラス? ……ごめん。覚えてない」

「いや、いいよ。目立つタイプでもないし……あー……キミが知らなくて当然だと思う」

「小梅美菜だよ」

 亮介はもちろん知っていたが、彼女本人から聞く響きは今までのものとは別物である。

「こうめ、さん?」

「美菜でいいよ」

「美菜さん?」

「だから美菜でいいって」

 彼女は笑っていた。亮介はなぜか慌てたように言う。

「いやでも、いきなり呼び捨てって――」

「何それ。じゃあ私は菊池殿とか呼んでいいの?」

「え? 亮介でいいよ」

 彼女が口元を押さえて笑い出したのと、講義の開始を告げるベルが鳴ったのは、ほぼ同時だった。教壇の前に立つ先生が、思わせぶりにマイクの調子を確かめている。

「この流れから、亮介でいいよって……」

 美菜は笑いをこらえきれないといった表情で亮介の言葉を繰り返した。

「あ、うん。そうかも……じゃあ美菜って呼んでいい?」

「もちろん。これまでもずっと友達とかとそういうふうに呼び合ってたからね」

 先生のだみ声がマイクを通して教室中に伝わってきた。と同時に、さっそく黒板に白い文字が書かれる。

「そうなんだ。なんかいいね、そういうのって」

「そう?」

 亮介は自然と笑った。美菜もつられて歯を見せて笑う。

「あ、そろそろ前を向かないと先生に注意されちゃうよ」

「そうだね。じゃあこれからよろしく、美菜」

「うん。よろしくね、亮介」

 そんな二人を右斜め後ろから見ていた真吾は、なかなかうまくいっている様子に一人頬を緩めていた。

 ちなみに、彼の隣に座っている真吾のアイドル、橘咲苗は、「眠いし寝る。ノート取っといてね」と言い残し、さっさと伏せてしまっている。いつものことなので真吾は気にしていないが、それでも咲苗の方が成績のいいことだけは少し気にしていた。

「そんな賢くて要領のいい咲苗に惚れたんだよな」

「シンゴー……あたしの睡眠の邪魔したらクレープおごってもらうからね……」

「はいはい。好きなだけ眠ってください。お姫様」

「それでいい……」

 真吾はゆっくりと咲苗の背中に手を伸ばし、そっと優しくなでた。


  ◆


 前期期末試験を控える時期は、夏の熱気を肌にひしひしと感じるときでもある。

亮介の存在はすでに美菜に認知され、これまで彼女が一人で受けてきた心理学の講義では、隣に座って普通に話せる関係となっていた。

そして今、亮介と真吾は休講となった現代社会学の時間、照りつける太陽を避けてテーブルだけが開放された食堂にいた。講義を取っていない咲苗に招集されたのだ。

「二人でいたかったんじゃないのか?」

 亮介が開口一番そう言うと、あきれたような顔をした真吾がしみじみと返す。

「お前がいたって何も関係ないって」

「ああ、そう……」

「そうそう。だいたい亮介って変よね。あたしのことは咲苗って普通に呼んでるのに、美菜ちゃんにはそんな態度なんてさ」

 クレープをかじりながら咲苗が言った。

「そんな前の話……最初だったら誰でもそうなるだろ?」

 恥ずかしそうに言った亮介を咲苗はニヤニヤしながら見ている。真吾と咲苗はニヤニヤ顔が似ているな、などと亮介は思っていた。

「真吾もそうだっけ?」

「ん、覚えてないな」

 すでにこの二人は亮介のことを知っている。三人はよく一緒に遊びに行ったり、こうしてだらだらしたりする友達なのだ。

「で、どこまでいったの?」

 咲苗は興味津々といった様子で聞いてくる。たまに毒舌が入るが、咲苗は基本的に好奇心旺盛な女の子だった。

「どこまでって、まだ何もしてないよ。話してるだけ」

「デートは?」

「一回もしてない……というか、彼女の状況も知らない」

「はぁ!? 彼氏いるかも聞いてないわけ!?」

「まあね」

「バカじゃない?」

 一片の笑顔もなく早苗は言った。そして手に持ったクレープをおもむろに袋に戻す。

「あんた、美菜ちゃんのこと好きじゃないの?」

「それは、好きだけど……」

「じゃあさっさと聞くことね。今の関係を壊したくないとか思ってるならお門違いよ。これはあんたたち二人の将来のことを考えるためなんだから」

「まあ、亮介の気持ちもわかるけどな」

 真吾である。咲苗の言うことが正論とわかっているからこそ亮介をかばうのだ。

「ただの意気地なしじゃん」

「咲苗」

 とがめるように真吾は短く言う。だが、咲苗は亮介のことを心配して非難しているのだ。

「だってもう何ヶ月もたってるし、夏休みも近いのにそんなんでいいの?」

「……そうか、もう心理学の授業もあと一回しかないのか」

 来週の火曜日に心理学の授業は全十五回を終える。さすがに亮介も美菜の携帯電話のアドレスぐらい知っていたが、次にいつ話せるかなんてわからない。今日は木曜日ではあるが、心理学以外の授業では、彼女は友達といっしょにいて、亮介は近づけないのだ。

「そうよ。夏休みの間、ずっと携帯を握り締めて悩んでいたいの?」

 亮介はその時、はっきりと自分の姿が見えた気がした。

夏の暑い時期に、家で一人うじうじと考え込む姿だった。

――いろいろと聞いてみよう――

 そう決意した亮介の顔を見て安心したのか、咲苗はふっと頬を緩めた。そして隣に座る真吾を小突く。

「じゃあ真吾、あれ出して」

「え、ああ、やるの?」

 言いながら真吾は空いている席に置いたリュックをあさり、トランプの束を取り出していた。

「当たり前じゃない。何のために持ってきたのよ」

「まあ……そうか」

 三人は空き時間や放課後によくトランプに興じていた。他にやることがないといえばそれまでだが、雑談の肴のようなものであったのだ。

「負け越したらジュースおごりね」

 咲苗が高々と宣言する。そして真吾の手からトランプをひったくり、慣れた手つきでシャッフルし始めた。これは一種の力の誇示である。すなわち、始めの一回ぐらいはシャッフルしてあげるという余裕なのだ。

彼女にはどんな種類のゲームでも、要領よく効率的に運も味方して勝てるという才能があった。

「咲苗にはハンデをつけてほしいなぁ」

「亮介、無駄だってわかってるだろ?」

「……まあね」

「そうよ。ハンデなんてつけられて勝ったって何の名誉にもならないじゃない。男なら正々堂々と勝負してよね」

「それってジェンダー?」

「そんな風になよなよしたこと言ってるから亮介は勝てないのよ」

 自信満々な表情で咲苗は配られた手札を見ていた。勝負が始まると毒舌が増えるのも彼女の癖だった。

 結局、その日は真吾が僅差で最下位となり、亮介はタダでコーヒーを飲むことができた。


  ◆


 翌日の三限、亮介は時間割の空き時間を利用してレポートを仕上げようと、図書館へ向かった。この時間は亮介にとって、宿題やレポートを終わらせるために必要な忙しい時間なのだ。

「テスト勉強もしないとな……」

 入り口からまっすぐ本棚の間を通り抜け、勉強用の机の空いている席を探す。やはりテスト前ということもあって、人が多かった。

――空いてないなぁ――

 そう思って別の場所を探そうとした亮介の目に、見覚えのある英語で書かれた本が飛び込んできた。

 はっとして亮介はそちらに目を向ける。

 美菜だった。いくつかの教科書とノートを広げているが、別の本を読んでいた。それも英語で書かれているようだ。

 咲苗の言葉が脳内で反響している。心理学の授業を待たずとも、これは神様がくれたチャンスなのではないか。亮介はそう思った。

 ゆっくりと彼女から見えそうな位置で片手を上げ、何度か合図を送りながら近づいていく。図書館の中で声を出すのはおかしいと思ったのだ。

 幸い、美菜は途中で気づいてくれた。本を閉じ、驚いたように亮介を見て、彼のために席を空けた。その動作がごく自然で、亮介は嬉しくなる。

「レポートしに来たら美菜がいたからびっくりしたよ」

 座りながら言った亮介に、美菜は軽く笑った。

「勉強してたの。テスト前だし」

「がんばってるね」

 他愛もない会話をしながら、レポートをしながら、亮介はタイミングを図っていた。そもそも図書館で話すべき話題であるかも迷っていた。

 美菜は、亮介が来たので閉じた英語の本を、元から机においてあったもう一冊に重ねた。そしてシャープペンシルを持ち、教科書を眺めながら勉強を始める。

 亮介はその本が気になっていた。最初に話したときも机の上にそれはあった。何度か彼女が読んでいるところも見ていた。

 だから聞いた。ごく自然な行動だった。

「その本、読んでるの?」

 ひどくぶしつけな質問だったが、美菜は勉強する手を止め、本を手に取って答える。カラフルな表紙はやはり英語で書かれていた。

「勉強、集中できなくって」

 そう言ってはにかんだ美菜は、亮介が今まで感じた中で一番かわいく見えた。だから自然と頬を緩め、

「それで英語の本?」

 とごく自然な質問をする。

だが、その答えは亮介の想像を遥かに越えてしまっていたのだ。

「あ、うん……留学するんだ」

「えっ?」

 呆然と口を開けたままになる。

 あまりにも唐突なことに、亮介の思考は停止し、ある一つの思いだけがぐるぐると頭の中を駆け回っていた。

 ――もう、会えない?――

「テスト終わってから――」

「ど、どこ行くの?」

 せめて期間はまだ聞きたくなかった。

「イギリスだよ」

 だが、聞かなければならなかった。会話の流れから聞かなければ不自然すぎた。

「……どれくらい?」

「一年」

 そう言って美菜は笑った。ただ嬉しいだけの笑いではなかった。そこには寂しさや希望や不安がないまぜになっていた。それぐらいは亮介にもわかる。だが、その寂しさが彼に向けられているのかどうかなど、わかるはずもなかったのだ。

「一年も……すごいね」

 その時間は、確実に二人を遠ざける。

 もはや亮介は美菜の言葉を虚ろにしか聞けなかった。だが、何とか出発の日と、空港までの経路だけは覚え、その日は終わった。茫然自失の態で、亮介は家路につき、そのまま眠った。

 夢であることをひそかに期待したが、もちろん彼女と図書館で会ったという現実は残っている。そして、おそらく彼女とゆっくり会える最後に日、火曜日の心理学の授業中、テスト対策の復習というゆるい雰囲気であったのに、亮介と美菜は淡々と、いつもと変わらないぐらいあっさりと、その時間を終わらせた。

 亮介にとっては、あっという間にテスト期間は終わった。美菜が旅立つのを三日後に控えていた。

もう亮介は学校に行かない。もう亮介は美菜に会えない。一年もの間、二人は別の土地で暮らす。

「たった一年……それが、どうしたって言うんだ」

 亮介は一人呟く。

「彼女とは、なんでもなかった。それだけだろ?」

 亮介は一人自問する。

 時計の針が深夜零時を示した。

「もう、明後日か……」

 携帯電話を開いてみても、もちろん彼女から連絡はない。

「…………当たり前か」

 投げ捨てるように携帯電話を机に置き、亮介はゆっくりとまぶたを閉じた。


  ◆


 その日、亮介は早く起きてしまった。

 眠たそうに目をこすりながら新聞の日付を確認すると、彼の脳裏に図書館での会話が突然、蘇ってきた。

――九時過ぎに空港行きの特急に乗るの。それで十一時二十分ぐらいの便で――

 時計を確認する。彼女が特急に乗るまで、十分に時間はあった。髪を洗っていても余裕で間に合うほどだった。

 洗面所でドライヤーを当て、髪をセットしながら亮介は考える。もしかしたら駅に美菜の彼氏がいるかもしれない。自分はもっと惨めな気分になるのかもしれない。

「……でも、ここで行かなきゃ、俺は一生後悔する」

 リップクリームを唇に塗り、亮介は満足げに頷いた。

「うん。いい感じだ」

 自転車をこぎ、駅へと向かう。

 構内図を見て、美菜の来そうな改札口を目指す。

 すると、何か人だかりができていた。亮介はその中に美菜の友達を見つけ、これが彼女の見送りなのだとわかった。

 こうやって見ると、たくさんの人がいた。美菜は本当に様々な人に好かれていたのだ。何人か男もいる。だが亮介は、彼氏などという特別な存在ならば、空港で別れるのだろうと思いこみ、この時点ではすでに安心していた。

 そして彼女はやってきた。

 図書館で留学の話をしたときと同じような、不安と希望がないまぜになったような表情で、見送りに来た人に笑顔を振りまいていた。

「……来てくれたんだ」

 それが亮介への第一声だった。それから美菜は「ありがとう」と続けた。

「今日、ちょっと早起きしちゃってさ」

 亮介はできる限り軽い感じで言う。美菜はそれを見て一度笑い、もう一度

「ありがとう」

 と言った。そして「元気でいてね」と付け足し、亮介が「そっちも元気で」と言うと、すぐに別の人のところに行ってしまった。そうしているうちに、彼女の乗る電車がもうすぐ到着するとアナウンスが入る。

 美菜は名残惜しそうにゆっくりと改札を通っていく。

 亮介には、彼の腰ほどの高さしかない改札機が、まるで二人を遮る高い壁に見えた。

 その高い壁の向こうで彼女が振り向いた。

 手を振っていた。笑いながら、歩きながら、手を振っていた。

 亮介は一瞬、彼女と目があった気がした。

 手を上げて、亮介も笑うと、彼女も一層笑った気がした。

 気がつくと、美菜はもう行ってしまっていた。


  ◆  


 まだ昼にもなっていないにもかかわらず、亮介はのろのろと自転車を押しながら歩いていた。

「結局聞けなかったなぁ……あぁ、咲苗に怒られるなぁ」

 こんな時に、咲苗に怒られるなどと考えている自分がおもしろくて、亮介は微かに笑った。

 と、その時、亮介のポケットの中が震えた。携帯電話がメールの受信を告げていたのだ。

 緩慢な動作で携帯電話を開いた亮介は、文字通り押していた自転車を放してしまった。

『小梅美菜』

 けたましい音を立てて自転車が倒れたが、亮介は気にすることなく差出人の欄を穴の開くほど見ている。幸い、このあたりは交通量が少なく、邪魔になることはなさそうではある。

「メールって、どうやって見るんだったっけ……」

 何の意味もない言葉を呟き、震える親指が別のボタンを押さないように気をつけながら、亮介はメールを開いた。

 ―――一年ほど行ってきます! 絶対に成長して帰ってくるから、楽しみに待っていてね!――

 短い文章と、簡素で控えめな絵文字が亮介の手の中でずっと表示されている。

 これは一斉送信なのかなと、一瞬考えたが、すぐにどうでもよいことだと気づいた。

「……いってらっしゃい」

 わざとらしく息を吸いながら倒れた自転車を起こし、亮介はそっと呟いた。


  ◆ 


世間は夏休み真っ盛りだった。テストも終わり、学生たちは思い思いに夏をすごす。

それはもちろん、この三人も同じである。

「で、何も聞いてないって……なんなのよ、あんた」

冷房の効いた喫茶店で、スペシャルベリーパフェをほおばりながら咲苗が呆れたように言った。喫茶店とは言っても、品格の漂うそれではなく、駅地下にあるチェーン店である。

「咲苗、そんなカロリー高そうなもの食べて大丈夫か?」

 あからさまに真吾は話題を逸らそうとしたが、咲苗は完全に無視し、

「それで、一年も超遠距離恋愛してるかもしれないって人を想い続けてすごしていくわけ?」

 と、スプーンをパフェに突き刺しながら言った。

「それに向こうでも出会いなんてあるでしょ? 亮介や真吾じゃ勝てっこないかっこいい外人との出会いが」

「やっぱり外人はかっこいいって思うわけ?」

 真吾である。ちょっと拗ねたような表情をしていた。ああ、これがアイドルの前だけで見せる表情なのか、と亮介は思い出していた。

「真吾よりかっこいい人なんて日本人にだっていくらでもいるわよ」

「それひどいな」

「でも真吾よりイケてる人はいないかな」

 亮介も真吾も目を丸くして驚いた。特に真吾は固まったようにしばらく動かなかった。

「あれ? 今あたし変なこと言った?」

「いや。大好きだよ、咲苗」

「何それ。気持ち悪い」

 真吾は手を広げて笑う。

「大丈夫だ。いつもの咲苗だった」

「ちょっと、どういう意味?」

「でもさ」

 亮介が、咲苗につられて頼んだスペシャルベリーパフェをスプーンでつつきながら言った。わざと二人の邪魔になりそうなタイミングを選んでやった。

「今はただ、美菜には幸せになってほしいって思ってるんだ。そりゃ今でも好きだけど、それ以上に、一年たったあとまた会えたらいいなって感じ。その時二人ともどうなってるかなんてわからないけど、きっと美菜はもっと魅力的になって帰ってくるはずだからね」

「なにそれ。もう変態じゃん」

 咲苗は本気で笑いながら言った。

「咲苗の毒舌にも慣れたよ」

 平気そうな顔をして亮介は返す。

「ほんと? じゃあこれからは遠慮なしでいくからね」

「……真吾って大変なんだな」

 今度はうんざりした顔だった。

「ああ、もう右から左だけどな」

 スプーンの持ち手をのぞかせた咲苗の右手が、裏拳の要領で真吾の脇腹に飛ぶ。向かいに座る亮介は、その様子に二人の絆の深さをはっきりと見てとっていた。

 そうして何か言い争いをはじめた二人を前に、亮介はさりげなくポケットに手を入れ、携帯電話の存在を確認する。見送りとメールの話は誰にも話していなかった。

――楽しみに待っていてね!――

 駅で笑いながら手を振っていた彼女の姿に重なって、その声がはっきりと聞こえた気がした。

 窓の外は青い空。亮介も美菜もその下で暮らしている。

 またどこかでひょっこり会おう、小さな小さな声で呟き、亮介は遠い空を飛んでいく飛行機の軌跡をじっと追っていた。


(了)

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