3 『女の子』の独り歩き・入門編
「ありがとうございました」
「またのお越しをお待ちしております」
店員さんたちの声に、振り返って会釈を返しつつ店を出る。
手には着てきた黒いワンピースを入れた紙袋。纏うのはたった今購入した真新しい服。
女装外出2日目にして、初の『女の子』1人だけでの街歩き。
ズボン姿では歩き慣れたこの道も、スカート姿だと新鮮なことばかり。
中の人は少しも変っていない。身に付けている布が何枚か違っているだけ。それだけで、こうも相手の対応が、世界そのものが変わってくるのが面白い。いや、変わったのはむしろ、自分の内面、自分の受け取り方の側かもしれないけれど。
柔らかい風が街中を駆け抜ける。くるぶしまでの柔らかな長いスカートがふわりと風をはらんで舞い上がり、目の粗いニットチュニックの中を通り抜ける。今日は結んでないストレートの髪が舞い踊る。
まるで、風そのものを纏っているような気分。
若草のような淡いグリーンのロングスカートに、淡いピンクの花柄のロングブラウスをオーバースカート風に合わせる。ゆるめで下の見える白いチュニックをふわりと羽織り、大きなリボンのついた白いベルトを高い位置できゅっと結ぶ。
まるで自分が花束と化したような、そんな衣装だった。
今日のマイ・テーマは、『瀬野悠里はどれだけ可愛くなれるか』。
心なしか、道行く人からの注目度も1ランク上がったように思える。鼻歌でも歌いたくなるような気分の良さに浸りながら駅のロッカーに荷物を仕舞い、次はデパートに入る。
デパート1階。男の時には、そそくさと通り過ぎることだけに注力していた『女の空間』。でも今は、ここは『私たちの場所』なのだ。
中身は何も変わっていない。ただ着ている服が変わっただけ。それだけでこんなに印象が違ってくるものなのかと驚く。
「あの、すいません。よろしいでしょうか」
首から下を整えたあとは首から上のお洒落ということで、化粧品売り場で店員さんを捕まえておずおずとお願いしてみる。
「はい。何でしょう。気になる品がございましたか?」
「図々しくて申し訳ないのですが、よろしければフルメイクお願いできませんでしょうか」
「はい。承りました。どうぞこちらにおかけください」
昨日聞いたときは半信半疑だったけれど、お姉ちゃんの言葉通り色よい返事が返ってきた。いやそれ以上か。喜色満面、とはこの表情を指すのか、というくらいの笑顔だった。
勧めに従い、売り場の椅子に座る。昨日の夜に特訓させられた通りぴったりと膝を揃えて。
小さな女ものの下着の中にある股間のものが、少し窮屈で辛いけどそこは我慢。背筋をぴんと伸ばし、浅く腰掛ける。こんな動作一つとっても男とは大違いなのだった。
「これからデートでしょうか?」
「はい。そんな感じです」
「こんなに可愛らしくて素敵な恋人がいるなんて、彼氏さんが羨ましいですねえ」
『可愛らしくて素敵』──自分が“男”でいるときには一応反発していたそんな台詞。でも『女』でいる今なら、素直に喜んでしまっていいのか。
そう考えている最中に、スーツ姿の綺麗な店員さんに「ではまず、このウィッグを外させて頂いてもよろしいでしょうか」と訊かれて戸惑ってしまう。
「……ウィッグって、分かるものなのですか?」
「頭のサイズがかなり違いましたし、悪くないウィッグではあるのですが、古いもので少し痛んでおりましたので……普通のかたには分からないと思いますが」
流石はプロ、ということなのだろうか。カツラを外してもらい、肩を覆うように白いケープのようなものをかけられる。
「ではまず、お化粧の落とし方から説明しますね。まだお若いですからピンと来ないかもしれませんが、10代の化粧でも、一番大切なのはスキンケアなんです」
流れるような調子で、化粧落としの様子を事細かに指導される。概ね昨晩お姉ちゃんに指導されていた通りだけど、丁寧さが段違いでわかりやすい。
一連の作業が終わって現れたのは、常日頃鏡で見慣れた通りの自分の顔。カツラもなくメイクもなく、首から下は白い布で服が隠された状態。いつもは学ランを着て、普通に男子中学生として生活している、そんな姿。
『失敗したかな? これだと僕が女装した男だとばれるかも』……内心渦巻く、そんな不安。
「すっぴんでも本当に可愛らしいですねえ。同じ女として嫉妬してしまいます」
でも幸い、店員さんにはばれなかった様子。これは男として、喜んで良いのやら悪いのやら。
「肌も本当にお綺麗で。お化粧とか普段あまりされてない?」
「私、この春から高校生になるんです。それでこれから化粧にも挑戦していきたいな、って」
「あらあらあらあら。本当にお若いんですねえ」
普段一緒に居るのは同級生の女子たち。
先生や家政婦の鈴木さんもいるけど、それを除けば身近にいる唯一の『年上の、大人の女性』だと思っていた、お姉ちゃんの年齢。それが『若い』と言われることに、違和感と面白さを覚える。
「あ、忘れてました。私の肌に合う化粧品があれば教えてください。揃えていきたいですので」
ふと思い出した、お姉ちゃんからの伝言を口にしてみる。
「はい。ありがとうございます。高校生のお小遣いで買えるものがよろしいですよね……」
「そこら辺は気にせずに良いものをお願いします。幸い、お年玉が結構ありましたので」
母親は何年か前に死去したとはいえ、母方の親戚とはそれなりに親交はある。叔父が医者と弁護士な上に、従兄弟たちも相次いで大学院を卒業して、今学生なのは僕たち姉弟のみ。
そんな関係から、割と人前では言いにくい金額が『お年玉』として入って来ていた。お姉ちゃんから預かってきたその予算額を告げる。あからさまではないけれど、物腰が変わったのを、少し楽しく感じてしまった。
「メイクはどのような感じがご希望でしょうか」
「ナチュラルメイク、って言うのでしょうか。自然な感じでお願いします」
「承りました。世界で最高の美少女にして差し上げますね」
そんな会話から始まったフルメイク。
「メイクに慣れないうちはつい厚くしてしまいがちなんですが、10代のうちは素肌の綺麗さを生かした、薄い感じのメイクがいいですね。特にお嬢さまはお肌が本当にお綺麗ですから、ファンデもコンシーラーもいらないですね」
『お嬢さま』、っていきなり呼ばれて戸惑ったけれど、そうかこれは僕のことなのか。
「ベースメイクとして、肌の艶感をさりげなく演出するために、薄くそっとフェイスパウダーを載せていきます」
僕の目からは余り差のないように見える7種類のパウダー。それを丁寧に丁寧に、場所ごとに替えながら肌の上に載せていく。
一通り終わったあとには、そんなに化粧をしていないように見えるのに、でも化粧前とはまったく違った輝きを見せる顔の肌があった。
「チークは軽く、本当に軽く、頬の一番高い箇所にほんのりと当てる感じで。次はアイブローですね。……眉毛を整えさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「……ええと、目立たない感じであれば」
「畏まりました。もとから形がよろしいので、それほど直す必要はないのですが」
そう言って小さな鋏を取り出して、眉毛を微かにいじってくる。
『新学期になって、これで僕が女装していたことがばれるんじゃないか』
そんな懸案が心を通り過ぎるけど、それより『もっと可愛くなりたい!』という欲望が強くてあっさりと敗北してしまった。
「ラインを引くのではなく、このようにぼかす感じで……」
「わあっ、あのお姉ちゃんすっごくきれい!」
眉を描いてもらっている最中に、不意に幼女の声が届く。顔を動かせないので視線だけを向けると、幼稚園くらいの小さな女の子がキラキラ輝く瞳で自分のことを見つめていた。
そっか。『私』は『きれいなお姉ちゃん』なんだ。ペンの当たってない側の目でウィンクして、小さく手を振る。連れている母親は申し訳なさげな表情をしていたけど、大喜びしてくれる様子が心強い。
「続いてアイメイクに移ります。まずはビューラーで睫毛をカールさせますね」
先を急ごうとする母親に女の子が駄々をこねて、このまま見ていることになったらしい。少女の視線を浴びながら、丁寧な説明付きのメイクが続く。
鋏のようなものものしい物体が、目の前でカチカチと小刻みに動かされる。少し恐怖に似た感情を覚えるけど、小さな女の子の前で表に出すわけにはいかない。
「本当、睫毛が長くて濃いですねえ。付け睫毛とか必要ないですね。羨ましいです」
鏡の中の『私』の印象は、また一段と変化していた。いつも睫毛で少し翳になっていた目に光が入り、ライトを受けていっそ眩しいくらいに輝いている。
「アイラインは……そうですね。濃い目のブラウンが良さそうですね。睫毛を繋げる感じで。マスカラは付けずに、シャドーは肌の色に近いものを、ほんの少し」
化粧は魔法だ。そんなことを考える。
ペンが、筆が、指先が、私の顔を撫でていくたびに、鏡の中の私がますます輝いていく。
『私』という存在が、塗り替えられていく。
「あの娘可愛いね」
「頭小さいし、首細いよねえ」
「モデルさんの実演販売なのかな?」
「メイクの説明も分かりやすくていいね。割と目から鱗だわ」
どうも陶酔に浸り過ぎていたみたい。ふと気づくと女の子の他にも何人かギャラリーが出来ていた。
店員さん含め、全員が女性。
その中で唯一の男である僕が、他の誰よりも女らしい可愛らしい姿にされていく。店員さん含めて、誰一人として僕が男であることを気づいていない。飛び切り綺麗な女の子だと思われている。そんな不思議な感覚。この場で自分が男であると知っているのは、僕一人。いや、自分の心さえ騙して女の子になりきってしまえば、ここにいるのは一人の少女になる。
そう、思ったのに……何故かむくむくと股間のものが自己主張を始める。まるで『ボクの存在を忘れないで!』と主張するかのように。
デパート1階、女の園。そこで可愛らしい服を着て可愛らしいメイクをされて。
周囲の誰からも女と思われている状況で、僕はこっそり男としての欲情を持て余していた。
「最後に口許のメイク。10代のうちは口紅やグロスは使わずに、色付きのリップクリームで仕上げたほうがいいですね。唇は少しお手入れがよろしくないようですね。唇を舐めたりしちゃだめですよ。きちんと手入れをすれば、すぐに彼氏さんがキスしたくなるようなプルプルの唇になります」
“彼氏とキス”……僕がそんなことをする日が来るんだろうか。来ないでほしいけど。
「まずは保湿用のリップクリームですね。終わったら、ティッシュを軽く咥えて、リップを押さえてください。ほんの軽くで結構ですよ? そのあとリップコンシーラーを……」
まるで呪文のような言葉が続いていく。
最後にリップを塗って終わった時には、軽い疲労感と不思議な達成感があった。世の中の女性は皆これを毎日やっているのか。羨ましいのか大変だと思うのか、自分でも決めかねる揺れる心が自分の中にある。
鏡の中にいるのは、ほとんど化粧をしてないように見える、でもメイク前とは明らかに変貌を遂げた、美しい少女の姿。目は微かに潤み、頬は紅潮を湛え、眩いくらいに光り輝いている。
その様子は完全に『恋する乙女』。そしてその恋の相手は、世界で一番可愛い女の子。お姉ちゃんであり、鏡の中の自分でもある、そんな女性。
「女の子はまず、自分自身に恋をしないと」
“彼女”が時折口にしていた言葉を、ふと思い出して納得する。
「ナチュラルメイク、って手間がかかるものなのですね」
メイクが終わり、ギャラリーが去ったあとに店員さんに疑問を投げてみる。
自分では『高い』と感じた化粧品が、飛ぶように売れていたのが驚きだった。自分はお姉ちゃんからの軍資金がなければ、絶対に買わなかった値段なのに。
「薄化粧とナチュラルメイクは違いますので。化粧してないくらいに自然に見えるようにメイクするのは、かなり大変なんです。お嬢さまは肌がお綺麗ですから大分楽でしたよ?」
なるほど、奥が深いと感心する。はまってしまいそうな自分が怖いとも思う。
「ところでお嬢さま、お時間はよろしいでしょうか」
「えっと、今何時でしょう? ……あと1時間半くらいでしたら大丈夫です」
「畏まりました。そうですね。では……」
店員さんに連れられてデパート内を移動し、まず到着したのはウィッグを売っているお店。
「お嬢さまは頭が大変小さくていらっしゃいますから、なかなかピッタリ、というのは難しいですね。出来ればフィットするものを新しく作ったほうが良いのですが」
そんな言葉を受けつつ、ウィッグを色々試してみる。
見慣れたはずの自分の顔。でもウィッグを変えるだけで随分と印象が変わるものだと驚く。女の子って、髪型一つでまるで別人になるものだ、と改めて驚かされる。今は髪型だけでなく、長さも色も変えたい放題だから余計にそうだった。
結局衣装にあう髪ということで、茶色のセミロング、軽くウェーブのかかったウィッグを購入。それをそのまま頭にかぶった状態で、次の店の女性靴売り場に。
『自分の足にぴったりと合う』靴が販売されている事実に軽く驚きつつ、色々試してみる。
結局3センチのヒール付き、可愛らしいデザインの白のパンプスをさっくり購入し、続いてネイルサロンに案内される。
「随分せかしてしまって申し訳ありません。次は、もう少しお時間のある日にお越しくださいね。本格的なネイルケアやエステなど、最上級のサービスで案内させて頂きます」
その店の人だけでなく、化粧品店の店員さん含めた3人がかりでマニキュアが施される。
控えめで淡いピンク色の爪が輝く、見慣れたはずなのにそうは見えない手の指。いつもは『女みたいだ』とからかわれる、でも今日は『とってもお綺麗で羨ましい』と絶賛を受けた、男としては(女としてすら)華奢で小さくて指の長い手。
それに見とれる間もなく、次は3階へ。
これまで男女共用のトイレで済ませていたから、記憶にある限りでは初めて入る女子トイレ。ここで女装がばれたら、言い訳がしようもなく本格的に犯罪だし変態だ(手遅れかもしれないけど)。でも、ここで入るのを拒否したり立ち竦んだら拙いだろう。
なるだけ平然と見えるように取り繕いつつ、少女らしい白のパンプスを履いた足でその中に入る。
「お嬢さまは、こういった場所はこれまで利用されたことはありませんか?」
「すいません、ありません……初めてです」
「やっぱり。ではパウダールームの利用方法と、化粧直しのやり方を説明させて頂きますね」
『女性』としては来慣れてないとおかしかったか、と一瞬発言を後悔したけど、変には受け取られなかったらしい。『世間知らずの超箱入り娘』とでも思われているのだろうか。
にっこり笑って、ここまで案内してくれた店員さんが説明を開始する。
女性がトイレを『化粧室』と呼ぶのが不思議だったけど、見ただけで納得させられる異空間。
男子禁制、女だけの秘密の場所。ライトが照らす、綺麗で明るい空間。
本当はこの場で唯一の男なのに、備え付けの三面鏡の中では、この場で一番美しい女の子が化粧直しを済ませたばかりの顔で、にっこりと微笑んでいた。
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もっと時間を余らせて、『女の子の独り歩き』を体験したいと楽しみにしていたのに、結局待ち合わせの時間ピッタリになってしまった。
いやそんな時間に間に合わせてくれたのか。そういえば、『そんなに使えないんじゃ?』と懸念していた軍資金。これも2万残るくらいでほぼピッタリ使い切っている。
デパートを出る。
店内に居る時から感じてはいたけど、路上に出ると視線が凄い状態になっていた。昨日が『視線の渦』だとしたら、今は『視線の嵐』みたいな状態。
自意識過剰な部分もあるのだろう。冷静に見回すと全員が全員僕を見ている状況でもない。
それでもチラ見する人、二度見する人、ガン見する人、わざわざ立ち止まって見る人、色々な視線が僕を包み込む。昨日はお姉ちゃんが、今日も店員さんが保証してくれたけど、それでも不安が駆け巡る。僕はやっぱりどこか変なのかと。女装少年がそんなに珍しいのかと。見世物扱いなのかと。
それでも立ち止まるわけにはいかない。一歩を踏み出したとき、呼び止められる。
「そこのお嬢さん、ちょっとよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう?」
返事して振り向いたあと、『お嬢さん』と呼ばれて自分がごく自然に反応したことに少し驚く。
「いや本当に可愛らしいお嬢さんだ。私の理想通り……いやそれ以上か。もし時間がありましたら少し話をさせて頂きたいのですが……」
少し乱れた白髪に白い髭、多少くたびれた感じの老紳士、といった感じの人物だった。
「あの、すいません。デートの待ち合わせに間に合わなくなるので、私はこれで」
「ほう。それは本当に済まないね。出来れば時間があるときに連絡してくれると嬉しい。呼び止めてしまって申し訳なかった。彼氏さんによろしくね」
そう言って名刺を渡して立ち去っていく紳士。今のは一体なんだったのだろう。
「ねーねー、そこの彼女」
再び歩き始めて2分も経たないうちに、次の声に呼び止められる。つい「?」と振り向いてしまって後悔。軽薄そうな男性が、ガムを噛みながら立っていた。
「うわっ、思ってたより何千倍も美人! もしかして芸能人? ねーねー今日お暇?」
「すいません、待ち合わせの時間に間に合わなくなるので」
「そんなつれないこと言わないでいーじゃん。それともオレみたいなブサメンと話すの嫌?」
「やめなよ。この子が困ってるじゃないか」
見るとナンパ男の後ろから出現した、背の高い知らない男性が制止してくれている。
軽く礼をして、そのまま逃亡。
後から来たほうもどうせ下心見え見えなのだ。関わらないほうがよさそうだ。
でも……とすると。今までの出来事を、軽く反芻する。
今の僕──いや『私』の姿は、一人の『女の子』として、十分自然で魅力的だと信じてしまってもよいんだろうか。
これは、珍奇な存在を不審がる視線じゃなくて、『世界一の美少女』に見惚れる視線。仮にそうでなかったとしても、そう信じてしまおう。
大きく深呼吸して、背筋を伸ばして歩き始める。唇の端に笑みが浮かぶのを覚えた。