2-3.僕は、花嫁になる
「うわ、すっごく綺麗……」
「こんなに綺麗な花嫁さん、初めて見ました」
改めて鏡の前で自分の姿を確認する。
スタッフさんたちの賞賛も当然だと思ってしまう、『完璧な花嫁』がそこにいた。
高く結い上げられた黒髪。麗しい朱に彩られた唇。丁寧に化粧された顔。地に着くほどに長い袖。胸高に結んだ帯。床に柔らかく広がる裾。
世の男性はまず一生着ることのない、女性であっても一生に一度しか纏えない衣装。
白無垢の白。綿帽子の白。足袋の白。水おしろいで首筋や手首まで塗られた白。
白一色なのに色とりどりに煌めく、花嫁の白。
そんな白の花嫁の婚礼衣装を纏った自分……
……というよりも、その婚礼衣装を完成させるための一つのパーツとして存在している自分。
「スレンダーで、なで肩で、肩幅狭くて、首が細くて長くて、頭も小さくて……腰の位置が高すぎて少し不安だったんですけど、それも見た感じ問題なさそうですし……」
「世界じゅうの女子高生を集めても、悠里さんよりも白無垢の似合う人っていないと思います」
女子高生じゃなくて男子中学生なんだけどな、と頭の中でこっそり訂正して一人苦笑する。
なるほど確かに僕以上に『白無垢の似合う男子中学生』はそうそう居ないだろう。
そもそもとして、『白無垢を着る男子中学生』のライバル自体が稀そうだ。
腕を持ち上げ、袖の部分をしげしげと観察する。
学生服の『黒』と喪服の『黒』が違うように、普段着る服の『白』とはまったく別の『白』がそこにある。
きめ細やかで、滑らかで、柔らかそうで、穏やかに光り輝いて。
刺繍も見事。
白い布に白い糸で縫った刺繍。遠目で見ると見落としそうなものなのに、こうして見るとびっしりと匠の技で入れられていることが分かる。
裏地ですら滑らかに光り輝いていて、普段着る衣装とはまったく違うものだと自己主張してくる。
「悠里さん、すいません今やってる撮影が延びているそうなので、もう少し調整させて下さい」
「あっ、はい」
感動のようなものに浸っている僕に、どこか苦笑した声でスタッフさんが声をかけてくる。
内線で撮影現場に連絡を取っていたらしい。
白無垢姿で居られる時間が伸びたことを喜べばいいのか、この重く苦しい衣装に拘束される時間が伸びたことを悲しめばいいのか。
差し出された椅子に腰かけ、メイクと鬘に微妙な調整をされるに任せる。
女性が最高に輝く特別の日のための、特別の衣装。
本当は男性である僕が、そんな衣装に身を包んで、美人な女性スタッフさん達に挟まれて、『女性』としての完成度を更に一段と高められていく。
鏡から見返す自分の姿が、おしろいと衣装の匂いが、身を動かすたびに耳に届く衣擦れの音が、ずしりと全身を包む重みと袖口で触れる正絹の肌触りが、僕が今、ひとりの『花嫁』であることを教えてくれる。
瀬野悠里であること。瀬野俊也であること。瀬野愛里であること。
女子高校生であること。男子中学生であること。
私であること。僕であること。
そのすべてを脱ぎ捨てて。
ただただ、『花嫁』としてある自分──
「それでは、そろそろ移動をお願いします」
何かを掴めそうな気がしていたのに、その言葉で断ち切られてしまったのが残念だった。
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白無垢での移動の仕方を少し教えてもらって、撮影場所へと移動を始める。
床に付きそうなほどに長い袖。手で持ち上げていないと地面に引きずって広がる裾。びっしりと入った刺繍。
すべての要素の当然の帰結として、やたらに重い衣装。
和服の常として、大きく歩幅を取ることも出来ず、膝同士を付けた状態で内またの小幅で歩いて行くしかない。
立っている時座っている時とはまた違った、重量感と圧迫感を改めて知覚する。
「流石ですね。若いかたで、和服でこれだけ綺麗に歩ける方、なかなかいませんよ」
「ありがとうございます。でも花嫁さんって、本当に大変なんですね……ドレスならまだいいんでしょうけど、白無垢のこの状態で何時間も過ごすとか」
「ああ、今の衣裳は撮影用のものですので、普通の白無垢はもっと楽なんですよ。重さも半分以下のはずです」
「なるほど」
大昔、結婚式は三日三晩ぶっ通しでやって、その間花嫁は婚礼衣装を纏ったままほとんど飲まず食わずで過ごしたとか。
当時なら、その花嫁は僕と同じか、それ以下の年齢の女の子のはず。仮にこの半分でも負担は大変なものだっただろう。
……それを実際に体験してみたいと、憧れている自分も密かにいるのだけれど。
さて、うっかりしているうちにかなり気分が緩んでいたような気がする。
『私は瀬野悠里。高校二年の女の子』
帯の許す限り深呼吸して意識を切り替えたあと、撮影現場となる神前式の式場の扉をくぐる。
見覚えのある雑誌側のスタッフさんが数人と、見覚えのない多分ホテル側スタッフさんたちが慌ただしく準備を進めている。
声をかけて挨拶しつつ、習慣的にお辞儀しようとして頭が崩れそうな気がして、僅かに下げただけのところで動きを止める。
いつも半ば無意識に行っている動きが制限されて、柔らかな嫋やかな動きを強制される。
そういう意味でもこれは『花嫁になるための衣裳』なのだな、と、腑に落ちる。
視線を感じて目線を上げると、ホテル側スタッフの男性と目が合う。
途端に硬直して、しばらくすると再起動するその男性。その後も動きがなんだかぎこちない。
今の自分の姿は、花嫁衣装を見慣れているはずの式場関係者さえも見蕩れさせるほどのものだと、自惚れてしまっても良いのだろうか。
自分自身を客観的に見るのは難しいだけに悩むところ。
邪魔にならない位置に移動して、細かい手直しを再度してもらう。
気をつけていたつもりだったけれども、それでもあちらこちら調整が必要だったよう。
先ほどの美人スタッフさんたちが2人がかりで手際よく進めていても、酷く時間がかかっている。
そうこうしているうちにチャペルでの撮影にひと段落をつけたのか、チーフさんカメラさん以下の雑誌側スタッフさんたちがやってきて、撮影準備開始。
試行錯誤してカメラと被写体などの配置を決めたあと、仮の被写体役をしていたスタッフさんが立っていた位置まで移動する。
普段着る服とはまったく異なる、柔らかさと滑らかさを持つ生地を手に取って裾を引き上げ、顎を引いて伏し目がちに先の床に目線を預け、内股を意識しながら小幅でゆっくりと。
地面に付きそうなほど長い袖が揺れる。
胸元に挿した懐剣に付けられた房飾りが揺れる。
綿帽子の下、外から見えないはずなのに飾り付けられた簪が揺れる。
自分は今、花嫁なのだと、改めて実感させられる。
定位置につき、立ち位置を微調整して、裾を下ろして再びの調整に入る。
足の位置や角度も合わせられ、掛下の裾を細かく直し、襟から調整し、一部針でや洗濯バサミで留めしたりして、微に入り細に入り調整を重ねていく。
その間に少し化粧直しもする。
姿勢や腕の位置や角度も、指示されるままに細かく直していく。
なるほど、これは『特に意識せずにそれに従えば大丈夫』と言われるわけだ。
最後に小物である扇を手に持たされて、これでようやく完成。
タイミングを合わせたのか、ちょうどカメラさんや照明さんたちの調整も終わったようだ。
姿勢を保つのも腕を保つのも正直きつくなってきているけれども、これでようやく撮影に。
本職モデルに混じる形での、初めての撮影体験。
この1日半の見学で思い知らされてきたけれど、読者モデルの撮影と本職のモデルの撮影は違う。
上手く撮影出来るかどうか、緊張で心拍数が高まっているのが分かる。要らない力が入りかけている身体を、無理やり鎮めるように努める。
寸断なく浴びせられるフラッシュとシャッターの中で、カメラさんの意志を自分で汲んで、その衣装が最も生えるポーズや表情が得られるように、微妙に変えながら。
『白無垢での綺麗な写り方』を調べる時間も練習する時間もなかった私にとって、細かな指示が得られる和装のモデルはまだしも幸いだったのかもしれない。
伏し目がちに神妙にしたり、前を見て笑顔を作ったり、袖を広げてみたり、背中側を撮ってみたり、途中からは綿帽子を外してみたり。
その度に襟や袖の調整が入るのが閉口だけれども。
昨日今日の見学内容を思い浮かべつつ、『より美しく』写るように考えながら。
「可愛かったよー」
「凄い綺麗だった」
「流石、東京のモデルさんはやっぱり違うねえ」
と賞賛の声を受けつつ、でもチーフさんの顔に浮かぶ表情に少し怯えた気分になりつつ、長かったような短かったような撮影に一区切りがつく。
招きにしたがって、たった今写した写真を表示するディスプレイの前に移動する。
「あれ、ルシアさん、いらっしゃっていたんですか」
「うん、悠里ちゃんの時間休憩タイムだから、見学させてもらってた」
「なんか恥ずかしいです」
日欧ハーフで、スタイルの良い本職モデルである平井ルシアさんと、そんな会話。
今回同行している3人の本職モデルさんの中で、唯一私に対して好意を持っている人で、色々良くしてもらっている頭の上がらない先輩である。
でも私、この人が来ていたことに気が付かないほど、視野が狭くなっていたのか。
それはともかく、鏡の中とはまた印象ががらりと違うディスプレイの中の自分に魅入る。
白無垢に綿帽子、白塗りに朱色の口紅を引いた、可憐な花嫁さん。
これが自分だという事実に、再び鼓動が高まっていくのが分かる。
でも。
「……うーん、これは酷い」
「え? すっごく可愛くて綺麗だと思うけどな」
「そうそう。こんな娘を花嫁に出来る人が羨ましい」
「悠里ちゃんもそう思った?」
「……変なりきみがあると、予想以上にすぐに分かってしまうものなんですね」
「そんなことないと思うけどなあ。十分可愛いって」
「あと、洋服の感覚で綺麗になるように考えたのが大失敗ですね。頭を完全に切り替えないと」
「あら、アドバイスしようと思っていた点、全部自力で気付いたんだ。凄い」
周りのスタッフさんたちの中には褒めてくれる人も多かったけれども、これを『瀬野悠里』として世に出すのは余りに恥ずかしいと思う自分がいた。
ルシアさんとの対話によって、自分が直感的に思った違和感を口に出して纏めていく。
「でも……じゃあどうすれば良いのか、というとさっぱり」
「撮影前、この部屋に入ってきたときのほうが良かったと思うから、その時の感覚を思い出してみたら?」
ルシアさん、そのタイミングからから居たのか。そしてそれに気が付いていなかったのか。
自分がいかに緊張していたのか、ものが目に入らなくなっていたのか。思い知らされて恥ずかしくなる。
それから少しの対話ののち、再び撮影に入る。
これで何度目になるかの襟・裾・袖の調整を待つ間に、『この部屋に入ってきたとき』を思い出そうとする。
意識して、全身から余分な力を抜いていく。
白無垢を、『花嫁の衣裳』を纏う自分ではなく、『花嫁』を構成する一つのパーツとしての自分を考える。
意識して、心から余分な思考を抜いていく。
『花嫁としての自分』、『人生の最高の日を迎える女性』としての自分だけを思い浮かべる。
撮影の最中も、可能な限り頭で考えることなく、ただただ、『花嫁であること』を意識して。
撮影を終える。
先ほどと比べて、何が変わったと胸を張って言えるわけでもない、でも自分の中には達成感がある。
チーフさんの渋い顔は変わらないけれど、でも少し緩んだようにも思える。
「さっきと比べて、随分と良くなったじゃない」
「ありがとうございます」
そんな会話をしつつ、再度ディスプレイを見せてもらう。
不満はあるけれども、さっきと比べれば『瀬野悠里の花嫁姿』として恥ずかしくはない、と思える。
『この衣装を、白無垢を纏えることに喜びを覚えて』いることがありありと分かる、一人の愛らしい少女がそこにいる。
いつもよりもあどけなさ、幼さが出ていて、その分庇護欲を誘うような、可憐な少女だ。
「でも、これで最高っていうわけでもないのよね」
「それは、十分分かりました」
優しいけれども、甘くない人だと感心する。
「『白無垢で撮影される』ことに関する、経験と知識と技術が全然足りていませんよね」
「……それが自分で分かっているならいい」
「あ、はい。練習と研究が必要だと痛感しています」
いきなり後ろから声をかけてきたチーフさんに驚きつつ、慌てて回答を返す。
こんな急に言われなければ準備出来ていたのに、と悔しく思う。でも同時に、本当のプロになるためには、そんな悔しさを感じる機会がないように色々な探求が必要なのだと思い知らされる。
今後の人生で、あと何度僕が白無垢を着る機会が、僕が花嫁になる機会があるか分からない。
本来僕は男で、生涯一度も着ることがないのが普通ではあるのだ。
それでも叶うなら、花嫁となるあの高揚感と陶酔感をまた得てみたいと思う、そんな自分がいた。




