4.『愛里』の作り方◆
脚の上を、サテンのベビーピンクのショーツを走らせていく。今日のためにお姉ちゃんから渡された新品。
穿き心地がなんとも気持ちいい。『私とお揃いだから』と宣言された一品。これと同じものをお姉ちゃんが今身に着けているのだと思うと静かな興奮が湧いて来る。
この5か月で穿き慣れてしまった女性用の下着。
ショーツとセットになったブラジャーを身に着けて行く。女の子らしくなるように仕草に気を遣いながら。
下着だけの姿で、最近僕の部屋にも備え付けられた等身大の姿見の前でポーズを取る。
同級生たちにはとても見せられない姿。化粧もウィッグもないのに、これだけで十分少女に見える……と思う。
その姿で部屋を出て、お姉ちゃんの部屋をノックする。
「どうぞー」の声にドアを開けると、僕とまったく同じ、下着だけの姿で勉強していたお姉ちゃんが顔を上げてこちらを見る。せめて服を着たらどうか。
ベッドの上に腰掛けてみると、お姉ちゃんが全身鏡をころころと移動させてくる。
そこに映るのは、ピンクのアンダーウェアを纏った少女。
モデルの世界に足を踏み込み、幾らかのモデルさんとも顔を合わせた今でも『世界で一番美しい』と思える少女……の似姿。
散々練習した笑顔を再現してみると、にっこりと可憐に微笑み返してくれる。
と、ベッドのすぐ隣に重みが加わるのを感じる。
気付かないほど見とれていたのかと内心呆れる僕に、さっき自分がしてみせたよりもずっと魅力的であでやかな笑みを向けてくれる。
互いに下着だけを身に付けた姿。“姉弟”でいる間には許されない距離感。肌の滑らかさと温度、漂う香りに意識を奪われる。
「本当、惚れ惚れするくらいそっくり」
「……そうかな? 結構違ってないかな」
「どこら辺が?」
お姉ちゃんの疑問に、まじまじと見比べてみる。
服を着て2人並んだことは多々あれど、下着のみというのは今日が確か初めてだったはず。恐れていたよりは似ていて、思っていたよりは違う、という状態だろうか。
「首から上はそうでもないけど、肩の形とか、ウエストのラインとか」
「……むう、なるほどねえ。となると第一候補は無理かなあ。……ま、あとで試してみよ」
半ば上の空で何かを考えつつ、準備してあったらしいアイテムを手に取るお姉ちゃん。
「んじゃ、日焼け止め塗ろっか。せっかくだから塗りっこしよ♪」
一瞬意味が分からず、意味が分かったあとも何が『せっかく』なのか分からなくなったけれども、よく考えるとこれはお姉ちゃんに直に触れ合える希少なチャンスだ。これを逃す手はない。
言葉に従い、お姉ちゃんに向かう形で身体をひねり、目を閉じる。
「肌綺麗だよねえ。羨ましい。すべすべもちもち……これが若さかあ」
頬に、額に、鼻に、顎に。ほっそりとした指先で、ひんやりとしたクリームのようなものを付けていく。
姿は見えないけれど、吐息が混じり合うような距離感。自分の顔を他の人に委ねる感覚。僕が“男”である時には存在しなかった感触。『女』の世界に迷い込んだような、招き入れられているような、不思議な錯覚。すべすべの掌が、僕の顔をそっと包んで柔らかく撫であげていく。僕が“弟”でいるときには決してあり得なかった役得。
「じゃあ、前は終わり。目を開けていいから、反対向いて」
顔に加え、首筋から胸の上半分まで一気に日除け止めクリームを塗ったあと、今度は言われるままに背中を向ける。
「……首筋も綺麗だね。私の同級生たちよりずっと綺麗。このままブライダルモデルにだってなれそう♪」
ウェディングドレスを着たお姉ちゃんの姿を想像してみる。
それは世界中のどんなモデルの人たちよりも美しく、華やいで、どこか女王めいて。
そしてそのすぐ隣でまったく同じドレスを纏い、鏡写しの存在として同じ表情とポーズを取る自分も。
努力を続ければひょっとしたら届くかもしれない幻想に酔いしれている間にも、作業が進む。耳の下から後ろにかけて、うなじから肩のところまで。普段一人で作業する時にはうっかり見過ごしてしまう箇所まで念入りに。
「じゃあ、交代。よろしくね」
そう言って手渡された日焼け止め。前に教わった通り掌に取り、指全体に馴染ませる。
今まで近づくことすら許されていなかった聖域、世界で一番愛している人、それでも願いが届かないと分かっている相手、最も近くて遠い人……その頬に指先が触れる。
クリーム越しに伝わる、滑らかな感触。それは想像していた以上に柔らかくていっそ蠱惑的なまでに指触りが良く、いつまでもいつまでも堪能していたくなるほどだ。
「何か、手つきがいやらしくない?」
そんな心理が表に出てしまったのか、瞼を閉じたままのお姉ちゃんが揶揄うように言う。
「……お姉ちゃんの肌が綺麗すぎるのがいけないんだ」
「あら、ありがとう?」
ボソリと無意味な責任転嫁を呟くと、くすくすと笑いながらの返事が戻って来る。妙に気恥ずかしい気持ちになり、頭が空っぽになるように念じながら先を進める。前を終えて、今度は後ろから。
これだけの至近距離から見詰めるのは初めてだろうか。春先に長かった髪をばっさりと切って良く見えるようになった、首筋の優美なライン。すんなり伸びた長い首。ほっそりとした顎。可憐な耳たぶ。
男のものとしては欠陥品と言えるほど小さな僕の手。その掌にすらすっぽりと納まりそうな小さな頭を指先で丹念になぞっていく。
自分は今、彼女の姿をどのくらい模倣出来ているのだろう。自分はこれから先、どの程度彼女の姿に近づけるのだろう。
鏡で見た限りそこまで違ってはいないようだったけど、客観的に見る機会はほぼないだけにどの程度なのか気になる。
そんなことを考えつつフェイス用の日焼け止めを塗り終わり、また交代する。ボディ用のものに切り替えて、僕の両腕両脚に丁寧に塗り込んでいくお姉ちゃん。
「やっぱり手触りいいなあ。素敵♪」
「あの、お姉さま、手つきがいやらしくありませんか?」
「うふふん」
普通に考えたら日焼け止めを塗る必要もない、脇の下や股の内側の柔らかい部分を『やられたらやり返せ』とばかりに入念に揉んでいるお姉ちゃん。ただの僕の役得である。
姉妹?でキャッキャ言いながら互いに日焼け止めを塗り合う。
僕が『愛里』として、お姉ちゃんの双子の妹として生まれてきていたなら、こんな日常もあったのだろうか。……まあ、相当に中の良い姉妹でも普通はやらなさそうだとは頭では理解しているけれども。
「じゃ、準備始めよっか」
日焼け止めを塗り終わり、手をしっかりと拭ったあとのお姉ちゃんの言葉に、我を取り戻す。
もう1日分には十分な体験をしたような気がするけれど、そう言えばこれはまだ準備の準備なのだった。
手渡された服を、目の前にいるお姉ちゃんの真似をするように袖を通してみる。……これはノースリーブのシャツ、か。やたらに丈が短くへそが丸出しのよう。
立ち上がり、全身鏡の前、お姉ちゃんの隣に並んでみる。
「ちぇ。せっかくお揃いで買ったのに無駄になっちゃったな。……まあ安かったからいいか」
お姉ちゃんと僕で、身体のラインが違う部分。肩の形やウエストのラインが妙に協調されている。
男のへその位置はウエストのくびれとだいたい同じ位置、と、どこかで聞いたことがあるけど僕の場合はそんなことはない。くびれのような部分よりは下にへそがある。
とはいえ、こうしてお姉ちゃんと二人ですぐ横に並んで立って直接見比べると、位置が違うことは歴然だ。へその形はだいたい一緒だし、見比べないと分からない差ではあるけれど。
言われた通りに脱いで、シンプルな白いTシャツに着替え、再度鏡の前に。
「良かった。こっちは大丈夫そう」
今までブラジャーの間から見えていたパッドが隠されて、また一歩お姉ちゃんに近づいた僕の姿。
でもこうやって見ると、男が着てもおかしくない服のはずなのに、偽の双つの膨らみが伸びない生地のシャツを盛り上げて、奇妙なくらいに『女』を感じさせる。
肩のラインも、ウエストのラインも違いがうまく隠され、これだとよほど注視しないと区別がつかないだろう。少なくとも、これが男の身体だと簡単にばれることはなさそう。
「こっちもうまく行けばいいんだけど……」
次に手渡された、デニムのホットパンツに脚を通す。お尻が見えないものの、脚がほぼ付け根の部分から見えるしろものだ。
お尻が寂しいのが気になったけど、横を見るとお姉ちゃんも大差なさそう。
それにしても──と今日だけで何度目になるか分からない感慨にふける。
お姉ちゃんは綺麗だ、と。
盛りあがった胸。薄く見えるブラの紐。ほっそりと長く伸びた首とそこに載る逆三角型の小さな整った顔。薄く、狭い肩。形の良い長い腕。シャツを通してうかがい知れる細いくびれ。そして何より長い輝く美脚が眼を惹く。
髪はばっさりショートカット。化粧もまだしておらず、男装にも分類されそうな服を着ているお姉ちゃん。でも今この状態を見て男と間違う人はいないだろう。
「こうして見ると私たち本当にそっくりだねえ。見分けが付かない」
お姉ちゃんの感心するような声に鏡に向き直る。
どうなのだろう……? 今の僕は、ただ立っている状態。いつもよりは女寄りな気もするけどそれでも男の立ち方で、外見とはいかにもちぐはぐで微妙だ。
ここ数ヶ月で散々練習を重ねて来たモデルの姿勢を意識しつつ、お姉ちゃんのポーズを模倣してみる。食い込んだ股の部分が挟んだものを押し上げて微妙に気持ちが良くなってみたりもするけど今はスルーだ。
ぐっと女らしく見えるようになった自分の姿。確かにこうして見る限りだと、世界で一番綺麗な少女であるお姉ちゃんと、ほとんど変わらないようにも見える。
つまり先ほどの感想は自分にも跳ね返って来るわけで。
例えばこの格好で他の人に『僕は男だ』とか、『僕を女扱いするな』とか、『僕を女と間違えるなんて』と主張したらどんな反応が返って来るだろう。……我ながら信憑性のないことおびただしいな。
「どうなんだろうねえ。自分自身では意外と気付かないことって多いし」
「かも知れないね。そこら辺はギャラリーに判定して貰いましょう」
……ギャラリー?
いったいどういう状態になるのか少し不安を覚えつつ、お姉ちゃんの指示に従って次はメイクを行う。
今日は薄め・軽めで、僕たちの微妙な顔の差を埋められる最低限のレベルで。リップは自然な色合いなものを2人で共通して使いまわしてみたり。
終わったあとにiPhoneで2人顔をぴったり並べて撮影。これも僕が僕でいる時にはあり得ない距離感だ。漂う香りに頭がくらりとする。
小さな画面に映し出されるお姉ちゃんたちの姿。
絶世の美少女とも言える瓜二つの美しい少女たちの画像。
一人は誇らしげに、一人は気恥ずかしげに微笑んで写っている。
もっと拡大されていたら分からないけど、確かにこのサイズではどちらがどちらか自分でも見分けが付かない。
「うん、いい感じ。そう思わない? 愛里」
そう笑顔を向けるお姉ちゃんに、同じ笑顔を返している自分に気が付く。
これからの時間、“僕”──いや『私』は、俊也という男性ではなく、瀬野愛里という女性。瀬野悠里の双子の妹として存在するのだ。
頭で考えるよりも先に、すとんと自然にそう思っている自分自身に、少し驚いてみた。




