2 『悠里』としての初外出
「わっ」
家のドアを閉めた直後に吹いてくる14階の風。
ふわっと舞い上がるスカートを慌てて押さえたあと、「きゃっ」と小声で言い直す。
春先の冷たさの残る風が、むき出しの太腿から下着1枚挟んだ股間にダイレクトに当たってくるのが厳しい。短パンより露出度が低いと油断していたのが仇だったのかも。今よりずっと寒い時期に、生足で歩いている女の子たちを改めて尊敬する。いや、今は“僕”──じゃない『私』も、『女の子』の一員ではあるのだけれど。
いつもお姉ちゃんが履いている女物の黒のローファー、太腿までの長さの黒のサイハイソックス、黒のオーガンジーのミニスカート、黒のシフォンのフリルブラウス。全身黒で統一した衣装の上に、オフホワイトのゆったりとしたニットのポンチョを羽織った、そんなコーディネート。
本物のお姉ちゃんより少し短いだけの、黒のストレートのウィッグ。左のこめかみあたりで細い三つ編みにした以外は、背中に流して緩く一つに纏めてリボンを模した白いバレッタで留めてある。
ちなみに服や生地の名前は、ほとんど全部お姉ちゃんの受け売りだったり。
サイハイとオーバーニーとハイソックスの違いとか色々説明されたけど、きちんと理解できたかは今一つ自信が持てない。身に着けていくたび、身動きするたびに自覚させられる、男の衣類とは違いすぎる感覚。柔らかさ、滑らかさ、頼りなさにずっと気を取られっぱなしだったから尚更に。
「お姉ちゃん、お待たせ」
少し遅れて、家から僕の服を着こんだお姉ちゃんが出てくる。
黒いジーンズに白いトレーナー、黒いジージャン。長い髪は無理やり帽子の中に押し込んでいるらしい。
今日、これから私は瀬野悠里。今度高等部4年に進級する女の子。
この少年は弟の瀬野俊也。私の2つ下の男の子。
それが家から出る前におね──俊也とした、今日の『デート』での約束事なのだ。
さっきから胸がバクバクしてちっとも収まらないのは、一体何が原因なのだろう?
「ね、俊也。私どこか変なところない?」
家を出る前に鏡で確認したときには、『いつも通りの』可愛い女の子に見えた自分の姿。でも他の人の目から見るとどうなのだろう? エレベーターで降りる最中、少し不安になって聞いてみる。
「うーん、強いて言うなら、可愛すぎるのが変かな」
「もうっ、この子はまたそんなこと言って」
自分の口からそんな言葉がすらりと出たことに、少し驚いてみたりもする。
「坂本さん、こんにちは」
8階でエレベーターが開き、2歳くらいの男の子連れの女性が入ってきた。言い合いを中断し、前2人一緒に会ったときにお姉ちゃんがどんな反応を返していたか無理やり思いだしつつ挨拶を。
「悠里ちゃん、俊也くん、こんにちは。相変わらず美人で羨ましい……こら、ダメでしょ亮」
声でばれないか冷や冷やしたけど、気付かれなかったらしい。
と、ほっとしたのも束の間、男の子がスカートを興味津々で持ち上げたりしてきた。
俊也が無言のまますっと移動して、亮くんの手からカバーする位置に入ってくる。
「いいえ、大丈夫ですよ。一番上のスカートだけなら別にめくられても」
今私が穿いているのは、二重のオーガンジースカートの下にサテンのスカートが入った計3枚のスカートが一体になったもの。今みたいに1番上だけなら別に問題はない。一番下までめくられて、下着まで見えたらまずかったけど──と意識した瞬間、なぜかぴったりとした下着を持ち上げて、股間にあるはずのないものが堅くなってきたけれど。
「どうもすいません。亮もお姉ちゃんに謝って。本当にごめんなさいね。ところで今日はこれからデートなの? お洒落して、いつもより可愛さ3割増しって感じ」
「ええ。今日は僕とお姉ちゃんの2人でデートなんです」
「なるほど仲良くていいなあ。凄い美男美女カップルね」
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「……ばれなかったなあ」
玄関先で坂本さんたちと別れて、ふうっと息をつく。
「ばれる、って何が?」
悪戯っぽい顔で聞いてくるお姉ちゃん──じゃなくて俊也。
「え? いや、なんでもないのよ」
今一瞬、素の自分に戻り過ぎてやばかったと反省しつつ、意識を切り替えようとする。幸い、今の出来事で自信が持てた。
これから“僕”、いや『私』は瀬野俊也ではなく、瀬野悠里。瀬野哲也パパと瑛梨奈ママの長女。1993年8月17日生まれの15歳。酉年でしし座のO型。身長164cm、体重と3サイズは秘密。今日はそんな、世界で一番綺麗な女の子としてデートを楽しむだけだ。
そう心に決める。
……まあ、そんな浅はかな決心は、すぐに崩れてしまうわけだけれども。
たとえば『歩く』という、いつも何気なくやっている動作。
でも『瀬野悠里らしく歩く』というのは、これはなかなか大変なことだった。
姿勢をまっすぐに、肩の力を抜いて、腰に重心を置いて、視線は前方を保って。出る前にうちでレクチャーされたけれども、簡単に身に付くようなものでもない。意識しないとできないし、意識しすぎるとやっぱり変になる。普段こっそりと見惚れていた仕草も、自分の体で再現しようとするとなかなかに大変なのだった。
1分や2分くらいならまだそれでも可能だ。でもこの動きを続けるとなれば、かなり厳しいものがある。
「きゃっ」
そんな感じで街中を歩いている最中、不意に強い風が吹いてくる。小さく叫び声をあげて、とっさに舞い上がるスカートと飛ばされそうになるウィッグを手で押さえる。
3度目の正直、今度は女の子らしい反応が出来たと内心ガッツポーズをしてみたり。
背中で纏めた髪が膨らむ。小さく編んだ三つ編みが躍る。ポンチョがはためく。胸の部分が押し付けられて、二つの膨らみが顕になる。薄くて短いスカートがめくれそうになる。手で押さえられた前側は良いけれど、後ろは下着が見えていないか不安になる。
男でいるときは気にもしなかったような風が、女でいるときは肉体感覚として強く意識される。むしろ女の子の髪型、衣装というのは、より強く“風”を感じるのを目的で作られているんじゃないか?
そんなことを実感させられつつ顔を上げると──
大学生くらいの男の人が、こちらを凝視しているのに視線が合ってしまう。一瞬後、慌てた様子で視線を外す彼。でも一旦意識し始めるとそこら中が視線の渦だった。どの方向を向いても、だいたい自分のほうを向いている視線に出会う。目を向けると目を反らしたり、凝視を続けたり、ちらちら覗き見を続けたり、変な笑顔を返してきたり。
「ん、お姉ちゃんどうかした? なんかキョロキョロして」
「やっぱり私、どっか変なのかな。なんだか注目されてる気がする」
「そりゃあ、お姉ちゃん可愛いから。ひょっとしてこんな視線、慣れてないの?」
その言葉、信じてしまっても良いんだろうか。
私が男でいるときも、確かに視線を受けることは多かったし、慣れているつもりだった。でもこうして『女の子』として歩いているときの視線は、その比じゃない。目を向けてない方向でも、なんだか見られている場所がチリチリと視線が刺さってくるような気がする。体じゅうの色々な場所。顔と、あと脚のあたりがなんだか特にムズムズする気がした。
ただの自意識過剰だろうか? そうならいいんだけど。背中からお尻、太腿にかけて何度も舐めるような視線を感じて目を向けると、中年男性が慌てたように目を反らすのが見えた。顔を前に戻すと、また戻ってくるその視線。ほとんど『だるまさんが転んだ』状態。
『見る性と、見られる性』
──どこかで読んだ、そんなフレーズが頭に浮かんでくる。
自分は今、『見る性』である男から、『見られる性』である女になってしまったんだ。そんなことを、頭でなく心でストンと理解させられてしまう。まあ私たちのことを「あの2人かっわいいねー」とか指さしている女子高生集団もいたりして、余りあてにはならない指標ではあるけれど。
風が吹く。さっきとは違う春先の優しい風。
髪を、スカートを軽くたなびかせる風を、心地よいと感じた。
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その『視線』に会ったのは、買い物を幾つか済ませたあとだった。
どこに行っても常に付きまとう視線の渦には未だに慣れなくてめげそうになるけれど、それとはまた別の種類の視線。『視線はもう、そんなもんだと割り切ってしまって、気にしちゃダメだよ』そう『俊也』に忠告を受けていたけれども、ふとそちらに顔を向ける。……と。
「ひょっとして、悠里ちゃん?」
視線の主だった、微妙に記憶にある気がする女の子が声をかけてきた。太い黒ぶち眼鏡。ややぽっちゃり体型。お洒落すればなかなか可愛いタイプだと思うけどあんまり興味がなさそうで、少し野暮ったい格好をしている。
(本物の)瀬野悠里の知り合いとのエンカウント。本来、予想しておくべきだったのにしていなかったイベントに、内心うろたえる。
「あ、はいっ」
「やっぱりそうだったんだ。すっごい久しぶりー。もう何年ぶりかな? 最初見つけて、『どこの芸能人?!』って思っちゃった。すっっっごい脚長くて細くて頭小さくて首細くて顔すっげー可愛いしさ。でもなんとなく見覚えある気がして。よく見るとあれ悠里じゃん、って。もう何年ぶりかな? あ、ひょっとしてあたしのこと覚えてない? 中里美亜紀」
予期せぬトラブルと、マシンガンのようなトークで止まっていた思考を無理やり動かす。
「あーっ、ミアっちなんだ。ごめん気付けなくて。久しぶりー。可愛くなったねえ」
お姉ちゃんの小学時代の友だちで、昔はよく家にも来ていた。僕も知っている相手だ。
──違う。『私』の友だちで、『俊也』とも顔を合わせたことのある女の子、だ。
「むぅ。それ嫌味か。いやあんた昔から美少女だったけどさ、ここまで可愛くなるとはなー」
「いや本当だって。お洒落に気を遣ってないのもったいないなあ、って最初に思ったもの」
「気を使ってもらってありがと。でもこれだけ美人ならモテモテじゃない? つかこちらのイケサマが彼氏さん? お邪魔しちゃってごめんなさいねー。って今更か」
「美亜紀さん、僕ですよ。悠里お姉ちゃんの弟の俊也です」
にっこり笑ってお辞儀する俊也。『目がハート型になる』って漫画にはある表現、目の前で見られるとは思わなかった。
「きゃあっ。凄いびっけー。少女漫画の王子サマかと。悠里もなんだかお姫様みたいだし」
「ここで立ち話もなんですから、どこか喫茶店でも入りますか?」
「あっ、ごめんあたしこれから用事なんだ。でもまた遊びたいなあ。……悠里はまだあのおっきなマンションに住んでるの? 引っ越したりしてない?」
「いや、まだあそこだけど」
「ほんじゃー。また遊びに行かせて。都合のいい日があったら言ってね。あたし大体ヒマだからさ。ケー番教えて? ……うん、ありがと。今日の夜かけていい? じゃあまたねー」
ぶんぶん手を振りながら、嵐のように去っていく少女。
最近会ってない相手とはいえ、『瀬野悠里』として、『女の子』として、疑われることなくうまく対応できたようだったことに、安堵の溜息をついた。
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「お疲れ様。今日はどうだった?」
そのあとも散々遊び歩き、結局夕食まで外で食べて家に帰る。服を取り換え、ダイニングでお茶を飲みながらほっと一息。自分の服から微かに立ち上るお姉ちゃんの残り香が、なんだか僕をドキドキさせる。
向いに座っているのは、さっきまで僕が着ていた服を纏ったお姉ちゃん。でも『もう一人の私が目の前に座っている』ような違和感があるのはなぜだろう。
最後のほうでは特に気にならなくなっていた、女の子の衣装。それが男の服に戻った途端に、滑らかな肌触りを生々しく思い出す。実際に女装していた時よりも、男に戻った今のほうが、『ああ僕は女装して、女の子として街を歩いたんだ』と意識させられてしまう不思議な感覚。
「うーん、色々言いたいことはあるけど、まず第一に、疲れたねえ。普段使わない筋肉使いまくったから、もう筋肉痛になりかけてる」
「まあ、ぶっつけ本番だった割にはうまくモデルウォークとか出来てたと思うかな。まだまだ甘いから、たくさん練習しないといけないけど」
「練習させられちゃうんだ」
「そ。私も身に付けるまで結構研究と練習を重ねたからね。常日頃から綺麗な動きを保てるように。あと歩く以外の動作もお互い真似できるように練習して」
「それ馴染んじゃうと、女っぽいとか言われないかなあ」
「私は今日特に動作変えてなかったけど、普通に男に見られてたし、大丈夫だと思う。あと『女っぽい』で思い出した。あんた会話中に指先で髪をいじるのは止めたほうがいいかも」
「……ええっ? あれお姉ちゃんがやってる仕草を一生懸命マネしてたんだけど」
「へ? 私、そんなことしてる?」
自覚がなかったらしい。それから暫く、互いに相手の癖を指摘しあって驚くタイム。
「……うわぁ。なんだかショックだなあ。でも俊也、私のこと凄い細かく見てるのね」
それは、自分でも少し驚きだったかもしれない。『お姉ちゃんだったらこういう動き/反応をするだろう』というのが、自分でも不思議なくらいにすっと思い浮かんでいた気がする。
「お姉ちゃんは、今日はどうだった?」
「楽しかった! なんだかいつもより気楽に素のままで行動できてた気がする。あとやっぱり長年の夢が叶ったのは嬉しいな」
僕を女装させて連れまわすのが夢だったんだろうか。ありうるだけに聞き返すのが怖い。
「世界で一番可愛い女の子と、一度でいいから一緒にデートしてみたかったんだ」
違った、とほっとして良いのか悪いのか。
「……お姉さま。それはひょっとして、自画自賛というものではありますまいか」
「もちろんそうよ。俊也はそうは思わない?」
にっこりと笑って合意を求めるお姉ちゃん。自分では隠していたつもりのこの思い。やっぱりバレバレだったのか。
くっきりした二重と長い睫毛に縁どられた、強い意志を示す瞳。すっきりした鼻筋、綺麗な形の唇。小さな顔、腰まで届く漆黒の艶やかな髪。ポンチョは着てないから、今は服も含めて黒一色の姿。細身の体を包む黒のブラウスに黒のスカート。この人には『黒』が良く似合う、と改めて思う。
確かにお姉ちゃんは可愛い。
そしてほんの30分ほど前まで、僕はこの可愛い姉のふりをして、誰からも疑われることなく存在していたのだ。この人が今着ている服を、下着まできちんと身に着けて。
それを思い出すと、かっと身体が熱くなってくるような気がした。
「そういえば、よくばれなかったよね。エレベーターの坂本さんとか、声を出したあとで『しまったこれでばれるかな』って思ったのに」
むくむくと元気になり始める股間のものから意識を反らすため、気になっていたことを訊いてみる。
「まあ、あんたはまだ声変わりしてないし、電話越しとかだったら前から時々間違われてたからねえ。あと狭いエレベーターだったから、微妙に声が反響してたのもあるかも。他は、今日会った知り合いってミアっちだけか。そう考えるとラッキーだったね。もっと親しい知り合いだったらバレてたと思う」
「やっぱりそっかあ。声もそうだし、仕草も違うし、結構『本当の僕なら、そんなこと言わないしやらない!』って思うことあったしね」
「そう? 言動に関してはいつもの俊也通りにやってたと思ったんだけどなあ」
「これ、ずっと言いたくて我慢してたんだけどさ。今日のお姉ちゃん、イケメンすぎ。スカートめくられた時にすっとカバーに入ったり、女の子を茶店に誘ったりとか。僕ならそんなことできないもん」
「そっかなあ?」
「だいたい、美亜紀さんが説明なしに『彼氏』? って聞いてきたのもびっくりしたんだ。僕の場合はほら、男の服を着てても女と間違われるのが普通だし。今日、男らしさで僕はお姉ちゃんに完敗したんだなあ、って」
「それを言うなら、今日の俊也は美少女すぎだと思うんだ。坂本さんから『可愛さ3割増し』って言われちゃったけど、それよりもっと上かも。外で男たちの目が吸い付けられていく様子とか、見てて面白かったな」
それが今日一番、大変だったことだ。今でもまだ誰かに見られているような気さえする。
「私たち、生まれる性別間違えたのかな。ね。これからずっと入れ替わって生活してみる?」
「『ずっと』って、嫌だし、無理だよ。これから僕は、どんどん男になってく時期だもの」
「じゃあ、あんたが男らしくなるまでかな。入れ替わりは」
「そうだねえ」
「よし決まりっと。じゃあ明日からもっと本格的に入れ替われるよう、これから特訓ね♪」
「……ええっ?」
軽い相槌のつもりで言った返事が、酷い地雷だったことに気付くのに、少しかかった。
そして自分が、お姉ちゃんの言葉に喜んでいることに気づくのは、更にもう少しかかった。