1.誘惑の世界
小さな筆が、顔を丁寧に撫でていく。
そのたびに、艶やかに彩を増していく唇。
軽く口角が上がっていくのを止められない。
ほんの数十分前、学校から戻ってきたときの一応少年?な僕の顔が消え去り、美しい少女の顔がそこにある。
スリップから覗くピンクのブラの紐も女らしい。
学校から真っ直ぐ帰宅し、肌の手入れを丹念にしたあとメイクの練習。
最初の頃は自分の不器用さ、思い通りにいかなさに落ち込んだりしたものの、ようやく多少は納得いく水準になってきた。触発されたのか、お姉ちゃんもメイクの練習にこっそり励んでいるのが少し面白い。
グロスまで終えてパッチリとウィンク。ウィッグを慎重に被り、そのまま表情の練習に移行する。
笑顔。拗ね顔。甘え顔。
一瞬見蕩れそうになるけれど、それでも脳裏に思い浮かべるお姉ちゃんのものとは雲泥の差。どのように顔を作れば少しでも近づけるか、当分試行錯誤が続きそうだ。
ふと気が緩んだ瞬間に男っぽい表情になってしまうのは全然克服できていないし。
くるくると僕の思い通りに表情を変えていく、世界で一番愛おしい、世界で一番の美少女の顔をしばらく堪能。
つい自慰に耽りたくなるのを断ち切って立ちあがり、女もの下着一式のまま衣裳部屋に移動。
ここ最近、一日の中で一番楽しんでいる時間かもしれない。
衣装持ちなお姉ちゃんだけに、数多く仕舞われている沢山の服。男服にはあり得ないバリエーションの豊富さに目移りする。同じ服でも、組み合わせ次第によってがらりと印象が変わるのも面白い。
ついつい長時間過ごしてしまいそうになるのを抑えて、今日の目的も考えて淡いピンク色、ニットのノースリーブとブルーのプリーツミニスカートを着こむ。
身体のラインをくっきりと映す衣装。盛り上がった双つの丘。お姉ちゃんは「本物そっくりの感触」と言うけれど、実物もこんな触り心地なのだろうか。
そのままリビングに移動して、モニタなどのスイッチをオン。
大きなモニタの中に、女装をした僕の姿が映し出される。かなり慣れて来たとはいえ、パステルカラーの衣裳と、大胆にむき出しになった太腿が恥ずかしい。
背筋を伸ばし、笑顔を作って軽く手を振って、今度は仕草の練習を開始する。
最初に外出した日に教わった内容と、記憶の中のお姉ちゃんの仕草をなぞるように、姿勢を正して部屋の中を何度も回り続ける。
ブラジャーの中に仕込んだパッドの重みと揺れる感覚。スカートの裾が翻る感覚。練習用で穿いているハイヒールが足を締め付ける感覚。
自分が女として生まれてきたのなら日常だっただろう非日常的な感触に心が躍る。
数分過ごしたあと、サブモニタにお姉ちゃんの昔の記録を、メインモニタに今撮った自分の記録を同時に映し出す。
……うん、大分良くなってきたのかな?
この練習を始めたころは、きちんとやれていたつもりだった自分の動きの杜撰さに落ち込みそうになったけれど、そこそこ見られるようになってきた……と思う。
そろそろお姉ちゃんにチェックしてもらおうか。どれだけ指摘が飛んでくるのか、怖くもあるけれど。
一区切りつけて、夕食にはまだ少し早いので服も着替えずに宿題を始める。
『お姉ちゃんと一緒に勉強をしている』ような感覚。白く細い指先が、問題の分かりにくい部分を指して解説してくれているような錯覚。実際のテストや学校の勉強でもこんな風に進めばいいのに、とつい思ってしまう。
いっそ女子制服で学校に行って……いやいや。せめて下着だけでも……いやいやいや。
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思った以上に宿題は捗って、少し遅めの夕食のあとは自由時間になってしまった。
演劇部は大変なようで、お姉ちゃんはまだ帰ってきていない。
前までなら図書館から借りて来た本などを読んでいた時間。お姉ちゃんのベッドに座ってファッション誌などを眺めてみる。うん、女の子気分。
ちらりと姿見に視線を動かすと、うっとりするくらいに綺麗な少女が見返してくる。短いスカートをきちんとお尻の下に敷いて、輝く膝をきちんと揃えて横に流して、こちらをちらりと見て微笑みを返してくれる。
思わず女物の下着越しに僕のものを慰めたく気持ちなってしまって、それを抑えるために手元に意識を戻す。
最初はまったくピンと来なかった、ファッションの差、モデルさんたちの差。自分で女の子の服を選んで着てみてポーズの練習をし始めて、何となくだけど分かり始めてきた……ような気がする。
自惚れかも知れないけど。僕なんかまだまだだとは分かっているけど。
同じような服を着ていても、目を惹く人は違う。それは容姿・スタイルだけでもなくて、わずかな表情やポーズの差だったり、小物の差だったり。
お姉ちゃんが彼女たちの中に混じったらどんな感じになるだろう。僕が彼女たちの中に混じったらどんな感じになるだろう。
ベッドから立ち上がり、鏡の前に立つ。
今日だけでもう何時間も向かい合った、それでも決して見飽きることのない、お姉ちゃんの似姿。
男のものである身体の上に女ものの下着を身に付け、パッドで胸を膨らませ、プリーツスカートを穿いて、滑らかな細い手足を惜しげもなく晒して、ウィッグを被り、化粧も済ませて。
ずっと憧れていた。手に入れたいとも思っていた。でも結ばれることはないとも分かっていた。最も近くて、最も遠い存在である僕の姉、瀬野悠里。
それが今は、今の間だけは、鏡越し手を伸ばせば届きそうなところに存在している。
僕の思い通りに、『彼女』の姿を動かしてみる。モデルの女の人たちに混じって、一人の女の子としてファッション誌に載る様を思い浮かべながら。
……まあ、とりあえずはまだまだ練習が必要か。
ページをパラパラとめくっていって、目についたポーズを真似てみる。
一見何気なく見える仕草ほど、自分の身体で再現しようとすると難しいことに気付かされる。単純なようでかなり奥深い世界。
強くなる心臓の高鳴り。
その世界に飛び込みたくなる誘惑に負けたくなる誘惑に抗いながら、お姉ちゃんが帰って来るまでの間、鏡の向こう側で色々なポーズを取る美しい少女を鑑賞していた。




