3 扉を開く儀式
<<西原雄一郎視点>>
朝風呂を済ませて鏡台の前に座り、深呼吸をする。
結婚より一足先に越してきた新居。築20年だけどウォークインクローゼットが充実している、詩穂一押しだった物件。
鏡の中の自分を見つめる。
女ものの淡いピンクのガウンを着た、男とも女ともつかぬボクがいる。きちんと揃えて、斜めに流れる脱毛済みの白い細い脚。最近通わされ始めたブライダルエステの効用も相まって、とても綺麗に見える。
化粧水を染み込ませたコットンパックをはがしてから1分少し。
美容液を手に取り、顔全体になじませる。乳液を掌の上に少し置いたあと、指の腹でマッサージするように伸ばしていく。顔の脱毛も済ませた、滑らかな肌の感触が心地いい。馴染むのを待つ間に、髪を乾かす。
とはいえここまでは、大学に行くときもやっていた、会社に行くときもやっている日課。
「西原君って肌、綺麗だよね。手入れとかしてる?」
「いや、そんなの全然してないです」
「嘘でしょ。化粧のCMに出てそうな美人肌なのに。反則すぎ。羨ましい」
今まで何度も交わした会話。でももちろん、そんなことがあるはずはない。
日焼け止め成分入りの化粧下地を指先にとって、薄く均一に伸ばしていく。
ここから先が、女装の始まり。
世の男性には閉ざされた『女の世界』への扉を、裏口からそっと開くための儀式。
衰えることない陶酔感に包まれながら、ティッシュを肌に乗せてそっと上から押さえる。
いつからボクは、こんなに女装が好きになったのだろう?
それが『あの日』だということは分かっている。
でも、それがどの瞬間かは、自分自身にとっても謎のままだ。
2種類のリキッドファンデを手の甲で混ぜ、顔全体に付けたあと掌で包んでなじませる。
“トシコちゃん”が実は男と教えられ、『男でもあれだけの美少女になれるのか』と、背中を電撃が走り抜けるようなショックを受けた瞬間なのか。
『ユウコ』として、京介とキスをした瞬間なのか。
『一人の女性』として、京介にナンパされた瞬間なのか。
トシコちゃんのコーデで、完全に女性に見えるようになった自分を見た瞬間なのか。
智恵理さんの完璧なメイクが完了し、鏡を覗き込んだ瞬間なのか。
サーシャさんにファミレスで、「君は絶対、美人になれる」と断言された瞬間なのか。
あるいはひょっとして、もっとずっとずっと前からなのか……
何故だろう。今日は不思議と、色んな思いが次々と思い浮かんでくる。いつもなら、ほとんど無心で通り過ぎているステップなはずなのに。
ふと気づくと、詩穂がニコニコした顔で鏡の中のボクを覗き込んでいた。
「おはよう。詩穂は準備しなくていいの?」
「おはよ。それよりもっとユウコのメイクを見てたいな。ダメ?」
少しくすぐったい感覚を覚えながら、目の下のコンシーラーを伸ばしていく。
正直に言えば、結婚を控えたこの彼女を、ボクが本当に愛したことはない気がする。
男としての“雄一郎”が愛したのは、トシコちゃん一人。生涯で4時間しか一緒にいなかった相手。それでも魂に刻印された、ボクの初恋の人。
女としての『ユウコ』が愛しているのは京介ひとり。とっくにボクが男とばれて破局になっているのに、この気持ちは捨てられそうにない。
『それでも全然構わない』
──そう、あっけらかんと言ってくれるこの伴侶に、心の中で改めて感謝する。
ファンデが完全に馴染むのを待つ間に、ウィッグ下のネットをきちんとセットする。スポンジでファンデの“よれ”をオフして、ルースパウダーを顔全体に乗せていく。
いつもより少し明るめのチーク、ハイライト、シェーディングを撫でるように塗っていく。
……自分が『ユウコ』でいるとき、不思議なくらい性的指向は女性そのものになっている。
京介のたくましい胸板、響く低い声、力強い大きな掌を好ましく思う。そのあとボクが男とばれて大変なことになったけど、未遂でもあの一夜は大切な思い出だ。
元から男としては薄めの眉を、アイブローで丁寧に形を整える。
……自分がホモになったのかと、真剣に悩んだことは幾度となくあった。でも、自分が“雄一郎”でいるときに、男らしい男に惹かれたことは一度もない。
今日はあえて色を抑えめに、ベージュとブラウンのアイシャドウを入れる。
化粧前のボクは“雄一郎”という男性で、化粧のあとのわたしは『ユウコ』という女性。
じゃあ化粧の最中の自分はナニモノなのだろう?
男と女の間で揺らぎ続ける、自分のアイデンティティ。不思議なものだと思ってしまう。
リキッドライナー&ペンシルライナーで、目をくっきりと。
『男と女、どっちもイイトコ取りできるなんて、とても素敵なことだと思わない?』
その時々で言い回しは違うけれど、何度も言われた詩穂の台詞。年上の彼女の言葉には、勇気づけられていることも正直多い。
でも彼女の言葉に従うまま、『趣味としての女装』の枠を乗り越えてしまったら──
それはあまりに甘美で、それだけに恐ろしい誘惑だった。
ビューラーで睫毛をカールさせ、上下の睫毛にマスカラを塗る。いつもよりは少し控えめな長さの付けまつげを、ピンセットで付けていく。
口紅は使わず、リップコンシーラーとリップグロスで唇の仕上げを。崩れ防止用のミストをスプレーしたあと、手で肌になじませる。
鏡の中には、少し甘えた感じの可愛らしさと、色っぽさを兼ね備えた美人が座っている。
ここからの時間、わたしはユウコ。
意識がはっきりと切り替わっていくのを自覚する。地味な男性という蛹を脱ぎ捨て、誰もが振り向く美女として羽ばたく自分。
軽い飛翔感と、陶酔感とに包まれる。
「やっぱりユウコは美人よねえ。メイクもうまいし……ね、今日は私にメイクしてくれない?」




