帰宅
鳥に似た物は、空を飛んだ。
嘘、と思ったが黒い翼を動かし、尻尾も動かし、自ら風を起こして飛んだ。
浮上した瞬間「ぎゃー!」と叫び、カアサに「うるさい勇者だ」と注意された。
でも、叫ばずにはいられない。
意味がわからない。世界には空を飛ぶ機械があるらしいが、私はそんなもの見たこともない。
なのに、今、私は空を飛んでいる。
座り込んで柵を必死に力で握りしめながら、眼下をものすごい早さで森が通過していく。
「ぎゃー!」
それを見てまた悲鳴をあげると、カアサが「君がおかしなことをしない限り大丈夫だ、これは君を町まで戻す役割を担っている。信じるといい。ギンリ」
おかしなことって何。
何がおかしいの。しがみついてていいの。立ったほうがいいの。それは無理無理無理。
頭の中では言葉は氾濫するのに、声にはならない。
帰る手段がこんなのなんて聞いてない。
それはもう目まぐるしい時間だった。
飛行は安定しているが、恐怖心は止まらないし、カアサはふゆふゆ浮いているだけだし、先ほどとはまったく違う意味で泣きそうだった。
意思の力を振り絞り、空を見上げることにする。
ここは地上。ここは地上。ここは地上。そう必死に云い聞かせる。
雲がいつもより早く流れていく気がするけれど、気のせい。気のせい。気のせい。
「さあ、ギンリ。そろそろだ」
そう云われて、下を見てしまいまた「ギャー!」と叫ぶはめになった。
ただ、カアサの云う通り、町が見えはじめていた。
機体がゆっくりと降下していく。叫びたい恐怖を感じたけれど、歯を食いしばって耐える。
カアサにからかわれるのは嫌だ。なので、今度は目をつぶることにした。
びゅうびゅうと耳元で風が鳴るけれど、これならまだ地上だと思うことができる。
「近くの森へ降りるぞ。ギンリ」
「うん」
短く答えることしかできない。
風は徐々に弱くなり、下降してスピードを落としているのだとわかる。
木々のざわめきが聞こえだして、やっと私は目を開ける。
着いたのはミドアクアの森らしい。機体は平坦な場所を選んだ着立した。乗っているのが恐ろしくて私はすぐに機体から離れる。
機体は消えていく。
これが最後の【魔法】。ああ、本当にすべてが終わろうとしているのだと実感した。
近くに人の姿はなかったが、大きな道はすぐそこに見える。ここからならきっと迷わず帰ることができる。
そう思うと先ほどまでの恐怖は消えて、うきうきしてきた。
「帰ってきたわね、カアサ」
「ああ、そうだ。ここからの道はわかるな」
「たぶんね」
「なら、ここでお別れだ」
「え」
それは当然のことだった。カアサが他の人の目に触れたら何が起こるか、きちんと考えればわかることだった。
けれど、何だかそれは突然で、不意打ちだった。
「いなくなるの? カアサ」
「しばらくはここに留まるが、そのうち消える。何か聞きたいことがあったら帰ってくるがいい。今までの勇者はすべて一度は帰ってきた。だが、今回もそうだとは限らない。だから、ひとまずここでお別れだ」
「そっか……」
帰ってくる理由なんてあるのかな、と疑問が浮かぶけれど、それよりも気になること。すべてが元に戻ったのだから、当然の帰結。
カアサとここで別れるのか。
「なんだか寂しい」
素直にそう云う。
「君は感傷的だな。ギンリ。当たり前のことだろう。私が行う役目は終わった。それだけのことだ」
「……うん」
頷きながら、なんとか自分の心を整理する。
今すぐ日常に戻りたいのも本当。今この状態が名残惜しいのも本当。
それでも、どちらかと選べと云われれば選択肢はひとつしかない。
「お別れだ。ギンリ」
「お別れね。カアサ」
そうお互いに云って背を向ける。
「さようなら、カアサ」
「さようなら、ギンリ」
それを最後の会話にして、私は歩き出した。
体は疲れているけれど、それ以上に高揚している。
発掘作業をしている人達が動いているのに安心しつつ、走りはじめる。
会いたい人。いつもの日常。
それだけを目指して走り続ける。
まず一番にお母さんに会いに行こう。何で学校に居ないの、なんてビックリされるかもしれない。
もしかしたら、サボっちゃダメじゃない、なんて叱られるかもしれない。
カアサとの冒険を話したら、なんて云われるだろう。やっぱり頭がどうかしたかと思われるかな。
それとも信じてくれるかな。頑張ったんだよ、って云ったら褒めてくれたりしないかな。
思うだけで心は暖かくなって、はしゃぎたくなる。
お父さんにミーチアは昔も使われていたんだよ、って云ったらふざけるな、って怒られるかな。
私、勇者だったんだよ、って胸を張ったらおばあちゃんはそれはすごいね、って云ってくれるかな。
考えるだけで楽しくて、足はどんどん速くなる。
町が近づいてきて、少し歩を緩める。
最初になんて云おう。そう考える。
ただ、走りながら気になることがあった。なんだかいつもより騒がしい。止まっていたってことわかっているのかな? と思ったけれど、そんな感じでもない。それに町が妙にすっきりして見えて、それもおかしいなぁ、と思う。
でも、そんなの些細なことだと思った。
最初にお母さんに会いに行って、お父さんとおばあちゃんの顔を見て、ジュンマに会いに行こう。きっと私がいなくて不安がっている。ジュンマに渡した首飾りも返してもらおう。「おなじー」と笑う彼に「そうだね」と返事をしよう。
やっぱり町中が騒がしい。ざわざわとまるで森の中のよう。不安そうな人々の囁きが聞こえて、おかしいなぁ、と思う。
でも、私にとってはちいさなこと。
見知った道へ入り、るんるんとスキップする。
家の前に母の姿が見えて「おかーさん!」と多きな声を出した。駆け寄っていく。
母はなぜだか泣きそうな目をしていた。
いつもと同じ格好なのに、不安でしょうがない、そう云う顔をしていた。
「ギンリ?」
そう私を呼ぶと、目から涙がこぼれた。
「お母さん?」
不安がざわりと心臓を撫でた。
とんでもないことが起こってしまった予感。
立ち止まっていると、人の声がよく聞こえる。
どうして? 何で? こんなことが起こるなんて…。そう口々に人々が云う。
「ギンリ。無事ね」
母が私の頬に手を伸ばす。
服はぼろぼろだし、お風呂に入ってないから汚いし、大冒険の後だから素直に無事とは云えなかったけれど、母の悲しそうな目にそれを云うことはできなかった。
「無事だよ。お母さん。どうしたの? 何が起こったの?」
誰かが死んだの? 停止している間に何が起きたの? 疑問符で頭が爆発しそうだった。
「ギンリ……とんでもないことが、とんでもないことが……」
そう云って母は俯く。
おかしい。もっと楽しく迎えてもらえるはずだった。学校サボったの? なんて優しく云ってくれると思っていた。
「お母さん? ねえ、どうしたの。お母さん」
「ああ、そうね。ギンリ。あなたにはわからないわね」
絶対おかしい。直感した。
母は私のことを差別的に扱わない。文字が読めない。それを強調した云い方なんてしない。なのに、今の母はそれを云うのだ。
「ギンリ。まわりをよく見てご覧なさい」
そう云われて、まわりを見回す。
いつもと同じ町並みに見えた。人が多くて不安そうなざわめきを生んでいるけれど、いつもと同じ……。いや、視界がなんだかすっきりしている。何かが足りない。いつもそこにあるはずの何かが足りない。
そうだ、ぐにょぐにょ、がない。
文字が、ない。
え。と呼吸が止まった。
花火のようなものが、頭の中で炸裂した。
カアサが云っていた。
『この島に蓄えられているエネルギーを凝縮したのがその黒い塊だ。』
『正確には黒の他に様々な色が混ざり合っているが、君の目には黒にしか見えないだろう。』
全身が寒い。
震えだすと母が不思議そうに私の頭を撫でる。
頭の中で何かが繋がった。【魔法】を使うと毛羽立ってみえたあの細い線。糸のように見えたそれ。
それが、文字、そのもの?
私だからそれが何なのかわからなかった。
全身が凍りついたようだった。
文字が読めない私にだってわかる。この島の文字全部がなくなってしまったら、何が起きるのか。
何千枚という契約書も何千冊の本も、みんなが勉強していた教科書も、写しとったノートも、看板の文字も、何もかもが消えた。
気づけば走りだしていた。
カアサに聞かないといけない。何が起こってしまったのか、私がいったい何をしでかしたのか。
足は相当に疲れていたけれど、精一杯走った。
頭の中がぐるぐるする。
だから、私だったのか。【魔法】が何かわからないように。
【魔法】の糸のように見えたあれらはきっと、文字の形をしていたのだろう。それに気づかず、最後まで役目を完遂するように。
そのための、私だったのだ。
文字を認識できないこの脳みそだからこそ、私は勇者に選ばれたのか。
そんなこと。そんなこと。そんなこと。
気づくと涙が出そうになっていた。
とんでもないことが起こった。だけど、どうしたらいいのだろう。
カアサに会わないと。会って、説明してもらわないと。
がむしゃらに走って、少々道に迷いながらカアサの元へたどり着く。
平坦な場所で、カアサは何も変わらずふよふよと浮いていた。
「やあ。ギンリ。お帰り」
落ち着いた声でそう云うのだ。
すぐに問いただしたいのに、息があがってしまっている。
「カアサ……カア……サ」
「とりあえず、息を整えることが。ギンリ。私はすぐに消えはしない」
「……あんた……何を……」
「何を。とか具体的にどういうことだ」
涙がこぼれて、服でそれを拭う。泣いている場合じゃない。今、泣き虫になっている場合じゃない。
「どういうことなのよ……カアサ」
「君も今までの勇者と一緒か」
カアサはそう云ってため息をつくのだ。そうだ。別れる時カアサは云った。今までの勇者はすべて帰ってきた、と。
今になってその言葉の意味がわかる。日常から文字が消えて、説明を求めない者などいない。
「どういうことよ、カアサ」
「私は最初に云っていただろう。あれはこの土地に蓄えられた力。それを君たちは【文字】と呼ぶ。それだけのことだ」
「それだけって、それだけって……」
「他に選択肢はないんだ。ギンリ。時間軸が停止へ動いてしまったら、それを再生する手段が必要だ。それが【魔法】という【文字】だ。シンプルだろう?」
目からいっぱいの涙が出てくる。
なんてこと。私は、なんてことをしでかしたんだろう。
私は【魔法】をすべて使ってしまった。何もかもひとつも残さず、すべて使った。
「どうして……こんなこと……」
「私を作った人間が決めたことだ。それを何故と聞かれても私は答えを知らない」
仕組まれていたのだ。そう直感した。
カアサは私に倒す悪はないと云った。けれど、この仕組そのものが悪だったのだと気づく。前の勇者たちもきっとそうだったのだろう。この悪意に満ちた仕組みに最後まで気づかないように。文字が認識できない人間が勇者になる必要があったのだ。
「どうしてくれるのよぉ……」
「ギンリ。私は君に何度も問うたはずだ。そして君は時間軸を再生に動かすことに決めた。君が勇者にならなければ島は停止したままだった。個人的に君は間違ったことはしていない。そうなる運命だっただけだ」
頭が痛い。泣いているせいか声がおかしくなる。
「ねえ……カアサ……。私がもっと魔法を節約していたらもっと違ったの……?」
「ギンリ。過去を仮定することは無意味だ。すべて必要だったのだ。例え、最初から【魔法】が【文字】だと知っていても、同じことになっていた。再生に動かすと決めた時から、君に選べる道はない」
「じゃあ、どうしようもなかったの……?」
「そうだ。ギンリ。君は役目を全うした。【魔法】も役目を全うした。私も役目を全うした。それだけの話だ」
それだけが、なんと悲しいことだろう。
文字のない世界が好き。でも、それは文字がなくなった世界ではない。
ふと、ポステの話を思い出す。文字を持たなかった昔の文明。
「昔も……同じことになったのね……」
「そうだ。幾度となく繰り返されてきたことだ。幾度も【文字】は消滅してきたのだ」
昔の文明は文字を持たないわけではなかった。ただ、消えたのだ。今と同じように。
カアサは云った。前の勇者は偉い人たちを殺したと。
きっと勇者が主要人物を殺した後では、再建できなかったのだ。文字が消え混乱し、そして滅びたのだ。
そして、今、文字が消えた。
それだけのことがなんて悲劇的なことだろう。
悲しくて悲しくてその場に座り込む。
「ギンリ。君は立派な勇者だ。それだけは私が保証する」
勇者なんかじゃない。むしろ私は倒さるべき悪だったじゃないか。そうカアサに云おうとしても、涙が邪魔して何も云えない。
これから何が起こるのだろう。
これから、何が起こってしまうのだろう。
「再生にしなければよかったの……?」
「それは、私の答えることではない」
もし、私が文字を認識できたらなら【魔法】が文字だと看破して、もっと違う方法を探すことができたのだろうか。
私が勇者になったのは、仕組まれた悪意のせいだったのだ。この世界が滅びに向かうための。
そう思うとさらに泣けてきて、視界がどんどん歪む。
「ギンリ。そろそろ時間だ」
「時間……?」
「私に聞きたいことは他にないか?」
「……これから、どうなるの?」
「それは君たちが決めることだ。私が感知するところではない」
私はこんなに混乱して泣いているのに、カアサが何にも変わらない。不思議と笑いが出た。
「ひどい」
「ああ、そうだな。だが、これが現実だ」
ぽろぽろ涙をこぼれる。カアサの光がいつもより輝いて見えた。
「そして、お別れ?」
「ああ、そうだ」
カアサが近くに寄り、私の頭上をくるくると回った。
「これで本当にお別れだ。ギンリ」
「うん……」
カアサに怒鳴り散らしてもよかった。ぜんぶあんたのせいだと、怒ってもよかった。
けれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。
カアサはカアサのやるべきことをやっただけ。それだけであることを、私はよく知っている。
「さようなら。ギンリ」
そう声がして、カアサは消えた。明るく光っていた点は、何かの錯覚だったかのように見えなくなった。
ああ、これからどうしたらいいんだろう。
冒険は終わった。残った現実はあまりにも厳しい。
声をあげて泣いた。
それ以外、どうしようもなかった。