食事と最悪
崖を登り切ると、鬱蒼とした森があった。ああ、やっぱり怖いな、と思う。いつもなら絶対に近寄らない場所。おそらくいつもなら獣が跋扈する場所。
崖登っただけあって、知らない世界だった。
しばらく、その場所でへたり込んだ。
「大丈夫かい? ギンリ」
「大丈夫」
答えてから、首を傾げた。
「なんだか妙にやさしくない?」
「君に対してはこの方がいいだろう。なあ、泣き虫勇者」
「……やさしいの、気のせいだったみたい」
ぽそり、と呟いて立ち上がる。
「ところで、お腹空かないかい? ギンリ」
「あ!」
云われてはじめて思い当たった。何の食料も持ってない。それどころか、水さえ持っていない。
「どうすんのよ! 何にもないわよ!」
「あるじゃないか」
「何が?!」
「【魔法】が」
嫌な予感がした。
「……食べろと?」
「正確に云うならば、飲食だ」
「そんなの気持ち悪い!」
「それ以外、君の欲望を叶える方法はないんだよ。ギンリ」
諭すような口調で云われて、絶望的な気分になった。
「嘘でしょぉ……」
「人体に害がないことは私が確約しよう。それで十分だろう」
何が十分なのだろう。思わず空を見上げた。
だが、喉は乾いている。正直、お腹も減っている。
森に入り、木陰に腰掛ける。
息を整えて、覚悟を決めた。
黒く染まった手で合わせ、器のような形を作る。そして、イメージする。水、水、水。
たぷん、と手の中に黒いものが満ちた。
こうしてよく見てみると、黒いものはどこかトゲトゲしていた。短い細い糸が幾重にも絡まったかのようだ。
そっと手に口をつけ、一気にそれを飲み干す。それは確かに、水のようなものだった。
「問題ないだろう? ギンリ」
「…………わからないわ」
一気に飲み込んだせいで、本当によくわからなかった。だが、喉の乾きはまだ完全には癒えないので、何度かそれを繰り返す。
気持ち悪い。気持ち悪いけれど、確かに喉は潤った。
「あとは食料だが――」
とりあえず何も考えず黒い丸を作り、かじりついてみた。ふにゃりとした感触を感じながら飲み込む。
「まずい……」
「君は話を聞かない才能があるな」
「まずい……」
本当にまずかったので、真摯に訴えた。
「まったく。美味しいものをイメージすればいいだけのことだろう」
美味しいもの。船の上でさばいた魚が一番先に思い当たったが、それを黒い姿で食べるのは嫌だ。
いろいろ考えて、身近な果物を想像する。一口大の果物。手の中で形をとったそれを、恐る恐る口にいれる。
あまい。それが妙に気持ち悪くて、思わず顔が歪んだ。
「うまくイメージできなかったのか?」
「ううん」
それは確かに果物の味だった。なぜだかそれが切なくなって、まだ瞳が潤む。ありえない世界で、馴染みの味はなんだか心を寂しくさせた。
「また泣くのか」
「泣かないもん」
「どうだが」
盛大にため息をつかれて、むっとする。ただ、この状況で確かに私は泣き虫だ。
「あんたは、涙を流したりしないの?」
「私にはそのような機能はついていない。見ればわかるだろう」
「……それもそうね」
納得した。馬鹿な質問をしたものだ。
「休んだら出発するぞ」
「あんたは元気よね……」
「案内人に必要となるものは道標になる声。勇者に害を与えず疲れない体。そのように作られたのだから当たり前だろう」
「作られた……?」
「ああ。何か不思議か」
そうか。考えてみればカアサが自然発生したとは思えない。今更なことに気づくと、疑問がふつふつと湧いてきた。
「どうして作られたの?」
「勇者の案内人が必要だったからだ」
「じゃあ、どうして勇者は必要なの?」
「時間軸を元に戻すためだ」
そうか、と納得しかけて大事なことに気づいた。
「じゃあ、どうしてその時間軸はずれちゃったりするのよ?!」
「私の知識の中に答えはない」
「何よ……それ」
「私に必要な知識は勇者が時間軸まで辿り着き、再生に戻すまでのことだ。その中に、時間軸が何であるかの説明はない」
「それはわかったけど、そうじゃなくて……」
愕然とした。原因がわからない、なんてそんな馬鹿げた話があっていいのだろうか。
「だって、勇者には倒すべき悪があるはずでしょう?」
「ああ、そう云われれば確かにギンリを勇者と呼ぶのはおかしいな」
「納得しないでよ!」
カアサにそう云われてしまったら答えに辿りつけないではないか。
もしかして、答えなんてものはないんだろうか。
時間軸が停止へ動くことに理由などなくて、原因もなくて、ただ単なる太陽が昇れば沈むように、月が欠けてまた戻るように、自然現象のようなものの一部なのか。
寒気がして、ぶるりと震える。
それは、なんて恐ろしいことなのだろうか。
こんなにも悪意に満ちた事態が、誰の意思でもなく行われるのか。
それならば、人災だと云われたほうが納得できる。
「君はよくわからないことを考えるな。ギンリ」
「…………よくわかんないものの集合体のようなあんたにはあまり云われたくない言葉だわ」
「私の存在は合理的だ」
「不合理よ!」
「休憩はもういいか?」
私の話に飽きたのか、カアサはそう云う。これ以上問い詰めてもたぶんわかることはなさそうだ。
「もう少し待って」
黒いもので果物を作り、三個お腹に入れた。
「よし」
「では、行こうか」
カアサはくるくると周りながら、先導してくれる。
黙々と歩いた。考えることや思ってしまうことはいろいろ出てきたけれど、悲観的なことは全部振り払った。
考えるべきことは、母のこと、父のこと、祖母のこと、ジュンマのこと。幸せな日常のこと。
すべてが固まっているから、道ではない道を歩くのは一苦労だ。それでも足や手を踏ん張りながら歩き続ける。
足や手をつければその辺のものは「所有」とみなされるようで、それが唯一の助かる点だった。
すべてが動かないよりはマシだ。
太陽が沈みかけている。空が青から赤へと変化する。その分だけ森は不気味さを増していく。
何の危険もないとわかりつつ、恐怖心は消えない。
「カアサ。もっと強く光れない?」
「怖いのか」
ふん、とないはずの鼻で笑われた。それでも、カアサは光を強くしてくれる。
ふと思い立ったようにカアサが問いかけてくる。
「ギンリはいいのか?」
「何が」
「動かすことはできないが、切断することはできる。前の勇者はそうだった」
「何の話?」
「止まっている人々の話だ」
人々、切断……? しばらく考えて、カアサを殴る。もちろんするりと抜けられてしまう。
「何云ってんの?!!!」
「怒っているのか? ふむ。前の男とは違うんだな」
「当たり前でしょ! 何、前の勇者は人を殺したわけ?!」
「偉い人間を選んで数人な」
「最悪!」
カアサはくるくると回る。心の中が嫌悪感でいっぱいになって、吐き出すように叫ぶ。
「最悪! 最悪! 最悪!」
「ギンリ。君にだってきらいな人間くらいいるだろう」
私のことバカにする奴らがよぎって、噛み付くように云う。
「殺すほどじゃないわよ!」
「そういうものか」
「ああ、まったく、ありえない!!」
叫んでから、あの嫌な奴らも私の日常に組み込まれていることに気づいた。
バカって云われるのは辛い。嫌だ。それでも、それを含めての日常だった。
「私はいつもの暮らしに戻るの!」
「そうできるように私も尽力しているよ」
ああ、まったく嫌になる。
目一杯叫んだせいで喉が痛い。それでもまだ云い足りなくて、吐き捨てる。
「前の男は最低最悪ね」
「自分を勇者と名乗るような男だからな。あまり頭がよくないのは察しがつくだろう」
「……あんた、私のこと、もし次の人があったらなんて云うつもり?」
「それは泣き虫だろう」
「…………最悪」
この程度のコメントなら許されるだろう。ただ、完全否定ができない。
「最悪なことが多いな。ギンリ」
当たり前でしょう、と云いかけて、脱力する。
それからは無言でひたすら歩いた。道まわりはどんどん暗くなっていく。
カアサは煌々と光っている。
便利だ。としみじみ見上げながら思う。
カアサはむかつきはするが、優秀な案内人だった。