勇者になる
世界は思いの外簡単に壊れてしまうのだと、ぼんやりと思う。ほんの一瞬、呼吸をすっと吐くほどの時間。いったい、その間に何が起こったのだと云うのだろう。
いつものように重い鞄と一緒にジュンマを迎えに行って、教室でバカにしてくる奴らを無視して、いつもの席についた。そして、だるそうな教師の言葉に耳を傾けた。
太陽が燦燦と教室の中に差し込んで、汗ばむほど。
おかしなことなんてひとつもなかった。
本当に、その一瞬前までおかしなことなんてひとつもなかった。
なのに。なのに。なのに。なのに。
現実を思い出し、私は狂ったように叫び声をあげる。いや、狂ってしまったんだと思う。だって、こんなことあるはずがない。
眩い光にも見えた。暗黒の闇にも見えた。おかしな何かが一瞬、世界を覆った。その一瞬で、世界は止まった。そう、ちいさな光が私に説明するのだ。
ジュンマに触れる。体温は感じない。ぼんやりと黒板を見ている。けれど、その目が瞬かれることはない。強く肩を引き寄せようとしても、ジュンマは石のようにぴくりとも動かない。
そう、石だ。色彩を保った石。すべてを保ったまま、すべては石になってしまった。
教室のすべてが止まっていた。先生も生徒も、すべて。石のようになって、止まってしまっていた。
私は不気味な教室を飛び出して、家へと走る。
おかあさん。おとうさん。
助けてもらわなきゃ。大変なことが起こってしまったんだって。なんとかして、って頼みにいかないと。
息を切らし、私はできる限り地面だけを見て走った。だって、本当のところはわかってた。
音がしない。喋り声も歩く靴音も、私が走って呼吸をしている以外の、音がしない。
それがどういう意味なのか、わからないほど馬鹿じゃない。
それでも、それでも、それでも。
「おかあさん!!」
そう叫びながら家の扉を開ける。母は台所で焼き菓子を作っている最中だった。
そう、まさに最中。屈んでオーブンの中を見つめている。ぴくりとも動かず、オーブンの中を見つめ続けている。
劈くような悲鳴。自分の声だとわかりつつも、それは別の誰かの声のようだった。
私は、おかしくなってしまったのだ。
そうじゃなければ、こんなことが起こるはずがない。私の世界だけがこんなふうになってしまっただけで、教師は今日も気だるげに授業をしているはずだし、ジュンマは微笑を浮かべながらそれを受けているはずだし、母は美味しい焼き菓子を作っているはず。
私だけが間違いで、私だけがおかしくなってしまっただけで、私だけの問題だったらいい。
気づけば、床に突っ伏して泣いていた。
世界は止まってしまった。
私だけを残して、止まってしまった。いや、きっと、私が止まってしまっただけなんだ。私がおかしなことになっただけなんだ。それだったら、まだ救いようがあるのに。
「ギンリ」
私以外が止まってしまったはずの世界で、そう声がする。私の知らない声がする。ずっと、無視していた声がする。私は顔をあげる。浮遊するちいさな光。
「そろそろいいかね? 君は私の話に耳を傾けるべきだと、先ほどから説明しているだろう。ギンリ?」
深みのある男性の声。やさしく、紳士的な。けれど、感情は読めない。
その声は、ちいさな光から発せられていた。
海の中で見たことがある、夜中に淡い光を放つちいさな烏賊。それによく似た光。室内は明るいのに、それよりもっと強く光るそれは、ふわふわと空中に浮いている。
教室の時から、ずっと私のそばにあり、何かしらを語りかけてきた光。
「プロセスを踏もう。まずは挨拶からだ。こんにちは、ギンリ」
私は耳を塞いでその声を聞かないようにする。これ以上、何も起こってほしくない。
「それとも時間的にはこんばんはかな? ギンリ。耳を塞いでいても何も変わらない。状況は現実的だ。まずは私の話に耳を傾けることだ。この状況は夢物語でも君の幻想でもない。現実だ。わかるかな?」
わからない。と思わず首をふる。
こんな現実は知らない。
「まったく飲み込みが悪い。ギンリ。この世界は停止した。時計軸が動いてしまったんだ。故に君が選ばれた」
「…………時計軸?」
反応してしまったのは、その単語を聞くのが初めてだったからだ。この世界が私が狂ってしまった証なら、私の知らない単語が出てくるはずがない。
なのに、ふわふわと光るそれは私の知らないことを云う。
「やっと私を認識したようだね。では、挨拶をしよう。こんにちは、ギンリ。私の名はカアサ。そう呼んでくれて構わない」
「カ……サ……?」
そんな単語も、私の中にはない。
「ああ、そうだ。昔、私をそう名付けた男がいた。その男の言葉で光と云う。もし、別の名で呼びたければそれで構わない。あくまで便宜上のものであって、私そのものには何の影響もない、言葉遊びの延長でしかない。わかるかい?」
わからない。何も、わからない。
ぼんやりとカアサと名乗った光を見つめる。
「端的に話をしよう。この島は停止した。時計軸が動いてしまったからだ。今、この島で生きているものは君しかいない。他にものも死んではいないが、生きてもいない。時計が止まってしまっているからね」
「…………わからない、わ」
ひどく震えた声だった。カアサは落ち着かせるように私の頭のまわりを三回ほどまわり「なるほど」と落ち着いた声で云った。
「では、もっと簡単に。世界が停止した。それを救えるのは勇者である君だけだ。ああ、この勇者ってのは私をカアサと名づけた男が自分のことをそう自称していたのだがね。でも、よくある話なのだろう? 世界が危機に陥ったら、それを救う勇者が現れる。今回の勇者はギンリ、君だ」
私は、やっぱり狂ってしまったんだろう。それとも頭を打って長い夢でも見ているのだろか。
こんなバカげた話があるのだろうか。言葉が読めない私のために、祖母や母はお伽話を山のように読んでくれた。そうすれば、いつか娘も文字を理解できるだろう、と希望を込めて。
その願いは叶わなかったけれど、私はたくさんのお伽話を知っている。その中には確かに勇者が世界を救う話がある。
知恵と勇気を携えて、希望を目指し戦う人。
それが、私?
「ポステじゃないの……」
ぽろり、と漏れた言葉にカアサは失笑したようだった。
「君しか資格がない」
「資格?」
「この停止した島で動けるのは君だけだ」
頭がおかしくなってしまったのだ。きっと。私は変な光と会話をしている。そして、私は勇者なのだという。そんな話は、おかしくなければできない。
「あなたは、精霊……?」
こんなことをするのはきっと精霊。この島に住まう何者か。そう思ったのに、光は左右に揺れ云う。
「違う。君らがそう呼ぶ何者かは私ではない。私はただの案内人。それ以上でもそれ以下でもない」
やっぱり、よくわからない。
精霊としか思えないのに、違うと云う。じゃあ、いったい、何が起こっているのだろ。
いいや、と思った。狂ってしまったのならそれでいい。大事なことはひとつだけ。
「みんな、元に戻るの?」
「その方法はある。元に戻る、というのは語弊があるがね。今は停止している状態で、それを再生する手段があると云ったほうが正しい。まあ、君にとっては些細な差だろうが」
「元に戻るの?」
「戻る。まったく、君は端的に話さないと理解できないようだね。困ったものだ」
そう云って、カアサは不安定にふわふわ揺れた。
「どうすればいいの?」
「なるほど。そこらへんの飲み込みは早いようだ。簡単は話だ。時間軸が停止へ動いた。それを再生へ移動させればいい」
「再生?」
「ああ、そうだ。君は選ばれし者。それを行うことができる者。さあ、旅に出ようか」
カアサは左右に激しく動き、私を急かす。
「時間軸までは私が案内しよう。よろしく、ギンリ」
「よろしく……」
答えながら、ゆっくりと立ち上がる。
停止した世界で、私は勇者になった。