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学校

 学校は質素な石造り。既に数人が教室内にいた。

 私を見て、手を繋がれているジュンマを見て「おはよう」と声をかけてくる。

 私も平坦な声で「おはよう」と返す。ワンテンポ遅れて、みんなから挨拶されているのだと気付いたジュンマも「おはよー」と笑う。

 学校まで来れば、ジュンマの手を離しても平気だ。家と同じで、ここは彼のきちんとしたテリトリー。

 そして、いつものように孤立する私と、人に囲まれるジュンマ。

 ちいさい頃から成長していないけれど、ジュンマは人に愛される。それが半分の子故なのか、それともジュンマだからなのか、私にはよくわからない。

 でも、彼は無邪気に笑う。その笑顔が見たくて、構いたくなるのは、すこし、わかる。

「またバカが学校に来てるぜ」

「ほんとだ。バカがいる」

「おい、やめろよ」

 後ろで声がする。私をからかう奴等に、それをとめる奴。いつものことだ。

 泣いて暴れるのはもう飽きた。笑顔でいなすにはまだ子どもだ。だから、ひたすら無視をする。

 私は文字が読めない。

 なぜ、と聞かれても困る。教科書を開いても、そこにあるものは黒いくにゃくにゃした何かでしかなく、その中にひとつの形を見いだすことができない。

 見るたびに姿を変えているようしか思えない。

 母は必死で私に文字を教えようとした。

 たった一文字を一日中、私の指を持って何度も何度もなぞらせた。

 けれど、どうしてもそれが私にはわからないのだ。

 こう、まっすぐ下に降ろして、右にちょっと伸ばすと、何になる? と聞かれても、頭の中でそれは形にならない。

 私よりもずっと幼い子がすらすらと答えられる文字の問題を前に、私はずっと途方にくれる。

 だから、もう誰も私に文字を教えようとはしない。

たぶん、老いて息を引き取る瞬間まで、私は文字を読むことはできないだろう。もちろん、書くことも。

 島中にあふれる文字は、私にとっては雲と同じ。いろいろな色があって、いろいろな形があって、それは一定じゃない。だから、それが何なのかはわからない。

 だけど、私はバカじゃない。

 言葉は理解できる。問題文だって読んでもらえれば答えることができる。

 それに、この学校から出れば私は優秀だ。

 魚の捕るための銛の使い方は、女子の誰よりも早く覚えた。この教室内で一番深く海に潜れる。魚の捌きもどんどんうまくなるし、母が教えてくれた料理のレシピを忘れたことだってない。

 文字が扱えない代わりに、私には記憶する力がある。それを活かすための体もある。

 だから、私はバカじゃない。

 そう何度も何度も自分に言い聞かせて、私はなんとかここにいる。

 先生が教室に入ってきて、出席簿で机を叩く。

 この学校には教室が三つ。体のちいさい子、おおきな子、その間の子。そんな感じでだいたいで分けられている。ここは間の子の教室。

 先生は浅黒い肌によく似合う白いシャツを着ている。気だるそうに欠伸をしてから「席に座れー」と号令をかける。

 私の席は後ろから二番目。隣の席にはジュンマ。

 まわりに合わせて鞄からノートと筆箱、そして教科書を取り出す。それを見てジュンマものろい動きで筆記用具を取り出す。

 私のペンはとてもきれいだ。だって、使うことがないから。

 先生がのんびりとした口調で、点呼を取ると、授業がはじめる。

 先生の言葉を聞き流さないように集中する。板書をされても、私には読めない。書き写せない。それでも、周りに合わせてペンだけは握っている。

 私だけ特別扱いをしてもらえるほど、この島の教育制度は充実していないのだ。

 先生が黒板に何か書き「わかる人?」と声をかけた。一斉に手があがる。

 隣に座るジュンマの袖を引っ張る。すると、彼は淡々とした声で板書されたものを読み上げてくれる。

 掛け算の問題文だった。頭の中で計算して、遅ればせながら手をあげる。

 だいたいいつもこんな感じ。彼のおかげで、まだ何とか授業についていける。

 ジュンマは話すことは苦手だ。語彙があまりない。ただ、文章を読むことは得意だ。意味がわかっているかは不明だけど。そして、ちいさな声で一度読んだ文章を何度も何度も繰り返す。

 ただ、文字を読むことも書くこともできるジュンマは問題が出てもぽけー、としているだけ。半分の子だから、先生も叱らない。

 授業の終了を知らせる鐘がなり、やっと一息つく。やっぱりずっと集中しているのはつかれる。

 体から力を抜き休んでいると、途端「お前、いつまで学校くんの?」とバカにする奴の声が飛んできた。無視だ。無視。

 私だって本当は来たくない。漁港で働ければ、ここにいるよりもっと役に立てる。

 でも、ジュンマがいるし、何より今の時代では学校を卒業しておかないとダメなんだ、と父は口うるさく云う。必要なのは何を学んだかじゃない。学校を卒業とした肩書きなんだ、と。

 だから、我慢している。バカにする奴等の声も無視をする。ジュンマの袖をきゅっ、と掴むと彼が笑ってくれるから、それで心を強くする。

 休み時間になるとジュンマのそばには人が寄ってくるから、頃合いを見計らって彼から離れる。定位置は教室の隅。そこで、ぼんやり外を眺める。

「ギンリ」

 名前を呼ばれて、そちらに視線を向ける。この教室の中で最も背の高い少年。名はポステ。たぶん、年齢も一番上なのだろう。確認したことはないけれど。

「何?」

「さっきの授業、わかった?」

「だいたい」

「そう、ならよかった」

 そう云って彼は笑う。

 数日に一度、彼はこんな風に私に問いかける。やさしい人だな、と思う。わかりやすくやさしい人。そして優秀な人。

 だから、あんまり好きじゃない。

「ポステー、バカなんか構うなよ」

「そのバカってのやめろよ」

「いいよ。バカって云われても、私はバカじゃないから。それに、勉強ならジュンマが教えてくれる」

 そう云うと、ポステは困ったように笑う。それを無視して、私は教室から出て行く。

 けれど、ポステはそれを許してはくれなかった。

「待ってよ、ギンリ。喋りたいことがあるんだ」

 そう云って、廊下まで追ってくる。

 彼は気づいているのだろうか。貴方が構うから、他の奴らも私に構う。優秀でたぶん、この島の外交を担うことになる彼に近づきたい輩はいっぱいいて、私に構うことで、ポステに存在を認めてもらおうとする。

 ポステさえ私に話しかけなければ、私はただの劣等生のまま、透明人間のようにここでの時間を過ごしていける。

 だから、私は彼がきらい。

 ポステに逆らうなんて。そんな声にならない声が、教室中に満ちている。だから、余計、私はみんなに嫌われる。

 彼はそのことを知ってか知らずか、笑顔で話しかけてくる。

「あのね、ギンリ。こないだ図書館で調べてみたんだけどさ、ほら、この前先生が授業で云ってたろ。昔の文明の話」

 言葉を半分くらい聞き流しながら、まじまじとポステの顔を眺める。いい人なんだろう。演技なのか、素なのか知らないけれど。自分の存在自体が害になることなんて、想像すらしていないんだろう。

「覚えてないかい? この島には僕たちの前に先住民がいて、独自の文化を育んでいたって。ちょうど今、ミーチアの発掘が主に行われているあたりに多くの遺跡が見つかっているんだ」

「はぁ……」

 覚えていない。歴史の授業は書いて覚えることが多すぎて、私にとっては休憩時間も当然だ。無理なものは無理、役に立ちそうにもない、と早々に諦めがついた教科。

「でね、その先住民のことってほとんどわかってないんだ。もちろん、これは僕らに遺跡発掘の技術や、それを解析する力がなかったからなんだけど、それが最近になって変わってきたんだよ」

「はぁ……」

 この退屈な顔が見えないのだろうか。そんなの興味がない。

「ミーチア発掘がはじまって、遺跡群の分析も進んだんだ。それでそれについての本が出たんだけど、リガル島の言語で書かれているものだから、図書館司書さんが渋ってさ、もう何度も何度も頼んで、やっと入荷してもらったよ」

 この人、頭はすごくいいのにどうしてこんなに話が下手なのだろう。誰も注意する人間がいないからだろうか。なら、それはけっこう哀しいことかもしれない。

「やっぱり新品の本ってのはいいよね。あ、ギンリにはよくわかんないかな。いや、素晴らしいものなんだよ。新しい本ははじめて開く時にぱりっ、って糊が剥がれる音がするんだ。その音にはもう陶酔すらするね。ギンリも一度くらい本を開いてみるといい」

 むかついたので、つま先で彼の足を軽く蹴ってやる。本ぐらい開いたことはある。読めなかっただけだ。

「結局、何の話?」

 多少は痛かったのか、笑顔をほんのり歪めながら「そう、そうだったね」とポステは云う。

「僕が云いたいのはね、最近の研究で、どうやら先住民は文字を持たなかったかもしれない、ってことがわかってきたんだよ」

「文字を、持たない?」

「うん、遺跡群の模様を調べた結果なんだけど、規則性がどうしても見いだせない、本当にただの「模様」らしいんだ。それに、文字を記したような石版も見つかっていない。あれほどの遺跡を作れるほど文明が発達していたのに、どうしても文字だけは見つからない。不思議だろ?」

 喉に石でも突っかかったかのように、すぐに声が出なかった。それをどう解釈したのか、ポステはまた喋りはじめる。

「もしかしたら、彼らは文字を持たなかったのかもしれない。それでも栄え、何かしらのことで滅びた。すごいよね。そうそう、何が云いたいかというとさ」

 まるで犬が褒めて、とでも云うかのようにポステは満面の笑顔で云った。

「その人たちは、まるでギンリのようだね」

 反射だった。

 怒りが熱湯のように吹き出して、思わずポステの頬を殴った。

 揺らぐポステの体。やばい、と思う心。

 何にも考えらなくなって、駆け出す。

 同じにするな。例え、昔の文明の人々が私のように文字が扱えなかったとして、同じにするな。

 全員と一人じゃ意味が違う。文字が読めないからバカにされて、文字が書けないから授業についていくのに必死になる。

 その苦労を分からない奴が、私と誰かを同じと呼ぶな。

 感情と伴った言葉が大量に流れ出す。

 走って、走って、息が切れた。倉庫の近くまで来たらしい。よかった、ここならめったに人が来ない。

 座り込み、息を整える。

 冷静になれば、すこしはわかる。

 ポステが何を云おうとしたのか。なぜ、そんなことを私に話そうとしたのか。

 文字を扱えなくても、文明を栄えさせた人々がいる。だから、ギンリも大丈夫。

 たぶん、そういう意味だと思う。

 やはり、彼はやさしい人だ。そのやさしさが人を傷つけることを知らないくらい、やさしい人だ。

 ポステは私を下に見る。かわいそうな子だと思っている。

 文字が読めない、書けない、かわいそうな子。だから、みんなに私がバカって云われると庇う。ちいさい子をいじめる大きな子を咎めるように、私を庇う。

 だから、きらい。

 私はちいさくない。みんなと同じようになれるよう、精一杯努力してる。なのに、ポステはそれを認めない。

 かわいそうだから守ってあげる。

 そんな、バカみたいなやさしさが、一番きらい。

 魚を上手に捕れる。深く海に潜れる。魚の種類をいっぱい知っていて、調理の仕方も知っている。そんなこと、これからの島を背負うポステには、たぶん、意味のないこと。

 けれど、私にとって尊いほどに大事なこと。

 泣けてきて、必死で歯を食いしばる。

 五十年、早く生まれたかった。それがどれほどのワガママなのか、私はわからない。

「ぎんりー? ぎんりー?」

 声がして、跳ねるように起き上がる。私の名を呼びながら、きょろきょろあたりを見廻しているジュンマが目に入った。

 どうやら教室が出て行った私を心配して追ってきたらしい。方向音痴のくせに、人を見つけるのは得意なのが不思議だ。

「ジュンマ、ここだよ」

 呼びかけると、力の抜けた笑顔で近寄ってくる。

 泣いていたのに気づいたのか、彼はほのかに眉をよせ、そのままぎゅっ、と私を抱きしめる。

「どうしたの?」

 そう聞かれ、しばし迷ってから言葉を発する。

「うまくいかないね、ジュンマ」

「うまくいかないの?」

「うん、うまくいかないね」

 抱きしめられたまま、そう答える。

 祖母の話してくれる世界が好き。

 文字の読み書きなんて、重要じゃなかった世界が好き。ほんの一握りの人々だけが使いこなせていた世界が好き。本当に単純な言葉だけで、構成されていた世界が好き。一番魚が捕れる人間が偉かった、世界が好き。

 そこでなら、もっと軽やかに呼吸ができたろうに。

 ジュンマは慰めの言葉を知らない。ただ、哀しい顔をした人間より哀しい顔をして、こうして抱きつくことしか知らない。それが彼なりの慰めの方法。

 彼の背は高いから、私はすっぽり埋もれるよう。姿形は彼のほうが大人なのに、中身は反対。

 私が何も云わないでいると、抱きしめる力が強くなった。

 不安にさせている。そうわかった私はゆっくり言葉を紡ぐ。

「大丈夫。大丈夫。ジュンマ、大丈夫だから」

 おまじないように繰り返す。しかし、それだけでは効かないらしく、腕の力は強くなった。

「ジュンマ? 大丈夫、大丈夫だから、気にしないで、ね、ジュンマ?」

 さらに腕の力が強くなり、みしり、と骨が鳴った気がした。

 思わず、ばたばたと暴れる。

「ジュンマ、大丈夫! 痛い! 大丈夫。痛いから、あのね、痛いからね!」

「いたい?」

 やっと解放された。一息つく。半分の子だから力加減ができない。体が大きくなって力も強くなったのに、昔と同じと思っている。

「まったく……」

「ぎんり、いたい?」

 きょとんとした顔で聞いてくる彼の頭を、すこし背伸びしながら撫でる。そうすると、彼は穏やかに笑う。

 それに釣られて、私も笑う。

「授業がはじまってるから、帰ろうね」

「かえろうね」

 自然と手を繋いでくる彼。そのぬくもりがあるから、まだここにいられる。

 うまくいかないことばかり。

 それでも、投げ出したくなるほど悪いことばかりではない。

 授業が終われば、漁港に行ける。

 痛いくらいの太陽と、青い海がある場所へ行ける。

 日々を繰り返していけば、いつかはたどり着く。

 いつかこの場所を卒業して、漁港で一日過ごせる日が来る。

 ジュンマの手を強く握り返し、その日までなんとかこなしていこう、と思う。

 教室に行ったら、ポステに謝ろう。きっとやさしい彼のこと、何が悪いかわからないまま、私の謝罪を聞いて、きっと僕も悪かったよ、と云う。

 そうしたら、いつもの日々がはじまる。それを積み重ねていけば、もっといい場所は行ける。

 そう、思っていたんだ。

 あの時まで。


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