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探偵は嗤わない

ゼラチン質の夢(上)【探偵は嗤わない、第四話】

作者: 黒崎江治

探偵は笑わない、第四話(上)となります。少々長いので上下に分けました。以前の作品を読んでいない方は是非一話からお読みくださいませ。

 退屈は人を殺すというが、今の俺にとっては平凡な日常こそありがたい。

 俺が警察組織を辞め、探偵になって四年が経つが、仕事にもこの街にも自分という人間が順応していくのを感じる。仕事には誇りを持っているが、別段天職という想いは無い。住めば都とは言うが、汚濁にまみれたこの街はどうも好きになれない。それでも俺は日々の仕事をこなし、時折怪奇にさらされて正気を揺さぶられながらも、なんとかやっている。助手の詠子君も経験を積んで逞しく成長し、もうそろそろ俺の手を離れても良いのではないかと思うほど探偵らしくなってきた。

 今日は昼日中に浮気をしている人妻を監視する仕事だった。この種類の調査が全ての依頼の実に六割を占める。本日の張り込みは空振りで、俺は簡単な日報を作成するために事務所に戻ってきていた。

 足元では事務所近辺に住み着いている黒猫のアウレリウスが丸くなっている。いつもはあまり触らせてくれないが、今日は機嫌がよいらしく事務所内まで付いてきた。

 自ら入れた紅茶を飲みながら報告書を作成する。俺が入社した当初はやや広いと思われた事務所も、四年の内に人員が増え、随分と手狭になってきた。近々支所を立ち上げるとかいう話を所長がしていたことを思い出す。事業の拡大は結構なことだ。ついでに福利厚生も充実すれば言うことなしだ。

 中小企業に勤める者独特の哀愁を感じていると、所長室のドアが乱暴に開かれ、その中から所長である赤間が出てきた。

 赤間所長は俺と同じ三十二歳。高校を卒業後上京、この街にあるオカマバーの店員として働き、二十代半ばでこの事務所を立ち上げた。実は俺と同郷で、中学校時代からの付き合いでもある。                                                  赤間は当時からオカマらしくなよなよしていたため、いじめの対象になっていた。それを見かねて俺が彼を庇ったのが二人の出会いだった。赤間はそのことに非常に恩を感じているらしく、ことあるごとにそのエピソードを所員に吹聴して回る。

 俺としては多少迷惑な話なのだが、そのおかげで警察組織を辞めてからの再就職先が見つかったのだから、あまり文句も言えまい。

 所長室から出てきた赤間は、真っ直ぐ俺のデスクに向かってきた。俺は彼の方に向きなおり、椅子から立ち上がる。いくら旧友とはいえ、所長には相応の態度を持って接するようにしている。

「猟ちゃん。大変なことになったわ」

 赤間は隙あらば俺をこう呼ぶ。プライベートならば自由に呼べばいいが、公私の混同は避けてもらいたいものだ。

「仕事中に猟ちゃんはやめてくれ」

「そんなこと言ってる場合じゃないのよ」

 元々胆力のある人物ではないが、これほど動揺するのは珍しい。

「少し落ち着け」

「とにかく話を聞いてちょうだい」

 そう言うと赤間は俺の袖を引っ張り、無理やり所長室へと連れて行く。赤間は体格も容姿もよい立派な男性である。ちゃんとした格好をすればさぞ凛々しく見えるだろうに、と俺はその横顔を見ながら思う。

 俺を所長室に押し込んだ赤間は、扉を後ろ手に閉めて一つ大きく息をついた。

「百戦錬磨の赤間所長ともあろう者が、そんなに慌ててどうしたんだ?

「ごめん、猟ちゃん。今お察しのように動揺してるから、普通に話すわね」

「猟ちゃんは……まあいい。何があった?」

「いい? 落ち着いて聞いてね」

 そう言って赤間はごくりと喉を鳴らす。まるでその話をすること自体が重大事であるかのように。

「若頭から電話があったわ」

「ほう」

 カタギの人間に若頭、と呼び慣らされる人物は、この街冠城町には一人しかいない。

 冠城町は東京の中心にあり、アジア有数の歓楽街として、四千を超える飲食店、風俗店、商店、ホテル、住宅などがひしめいている。その中には当然、暴力団やマフィアなどの反社会的組織の拠点も含まれている。

 この街の反社会的勢力の最大派閥。それは指定暴力団九頭竜会と呼ばれる任侠団体である。構成員四千を数え、東京を中心に関東一帯に勢力範囲を置いている。そして、この街を直接の縄張りとしているのは、その九頭竜会の二次団体、鯨組である。

 若頭、とはその鯨組の若頭のことだ。早い話が、この街の裏社会のナンバー2である。

「久慈のカシラか」

「そう、その久慈若頭」

 鯨組の現在の若頭は久慈、という男である。俺が持つ警察官時代の記憶とデータによれば、年は現在三十八。穏健派ながら決断力に富み、交渉の巧みさと外交手腕で現在の地位に上り詰めた男だ。穏健派といっても恐ろしい存在に変わりはなく、目を付けられれば翌日には東京湾に浮かぶ羽目になるだろう。赤間が慌てるのも無理はない。

「その久慈若頭がなんだって?」

「直接本人から電話があったのよ。用件は直接話す。一時間後にそちらの事務所で、と」

 そういう事らしい。使いの者ではなく本人が直々に出向くという事は、よほどの重大事なのだろうか。

「それはいいが、俺は何をすればいいんだ?」

「立ち会ってちょうだい。場合によっては対応をお願いするかも。一応、顔見知りなんでしょう?」

 確かに、久慈とは俺の刑事時代に顔を合わせたことがある。しかし向こうが俺の事を覚えているかどうかは分からない。その筋のもの独特の違和感を放ちながらも、知的な雰囲気を漂わせる男だったことは記憶している。

「同席するのは構わない。今報告書を書いているから、来たら呼んでくれ」

 用件はそれで済んだか? と俺は目で赤間に問いかける。赤間は全く肝が太い、と言いたげな目で俺を見てから、用件はそれだけよ、と会話を打ち切った。


 それから一時間。足元で寝ていたはずのアウレリウスはいつの間にかいなくなっていた。次なる案件の資料に目を通していると、事務員が慌てた様子で俺を呼びに来た。どうやら、件の若頭がお越しのようだ。

 応接室に入ると、右奥に久慈若頭、その手前に組の若衆と思われる男、左奥に赤間所長がそれぞれ席についていた。俺は一礼してから席に着く。

「さて、お待たせして申し訳ありません」

 赤間が厳かな声でそう告げる。美声である。

「なに、こちらこそ突然押しかけて悪かった」

 久慈が応える。印象は刑事時代の時のまま。放たれる威圧感はその肩書や百八十センチを超える長身のせいだけではない。その眼光や態度。おそらくは積み重ねてきた経験によるものも大きいだろう。ヤクザとはいえ、やはり大人物の風格を備えている。と俺は改めて思う。

「赤間所長。今日は時間を取ってもらってありがとう、それと」

 久慈はやおら俺の方に顔を向け、口元に笑みを浮かべてこちらの眼を見据える。

「犬塚君が、まさかこの探偵事務所にいたとはね。『猟犬』の鼻は健在かな?

「カシラに顔を覚えられているのは光栄ですね」

『猟犬』は俺の刑事時代のあだ名だ。やはり組織の上に立つ人間は、人の顔を覚えるのが得意なのだろうか。

「マル暴のデカ以外では一番有名だったからな。再就職には困らなかったろう。アンタの実力なら」

 ヤクザに認められたところで大して嬉しくはないが、侮られるよりは幾分ましだろうか。

「茶飲み話をしに来たわけでは無いでしょう。今日は何の用件で?」

 久慈の眼を見ながらそう言うと、横で赤間が身を竦める気配がし、正面に座っている若衆が気色ばむのがわかった。久慈は手を挙げて若衆を制する。表情は穏やかなままだ。

「あまり丸くなってはいないらしい。まあ、俺にとってもその方が都合がいいがね。さて、では本題に移るとしよう」

 久慈が若衆に合図すると、若衆は懐から何かを取り出して机に置いた。身を乗り出して見てみると、小さな袋に入った、丸い水色の錠剤だった。

「これが何だかわかるか」

 久慈が錠剤に目を下ろしたまま訊く。赤間がその小さな袋をつまみ、目の前にかざしてまじまじと観察する。

「……МDMA?」

 久慈は目線を動かさない。予期していた答の様だったが、どうやら不正解らしい。

「似ているが、違う。こいつは新型のドラッグだ。エクスタシーでも覚せい剤でもヘロインでもない。もちろん今流行りのハーブとも違う。何か月か前から出回り始めたモンだ。


 MDMAとはいわゆる合成ドラッグである。多幸感や他者との共有感を味わえるといった効果があり、セックスドラッグとしても知られている。だが目の前の錠剤はそれとは違うらしい。

 久慈は続ける。

「それは『J』と呼ばれている。そいつは略称で、本当は『ジェリーフィッシュ』というらしい。主な作用は意識水準の低下と幻覚」

「その新型ドラッグと、今回の件にはどんな関係があるんですか?」

 赤間が恐る恐ると言った感じで尋ねると、久慈はおもむろに煙草を取り出して一本口にする。何から話すべきか考えているような様子であった。

「この事務所は禁煙か?」

「ええっと……」

 赤間が困ったようにこちらを見る。この事務所内は基本的に禁煙だ。

「悪いがご遠慮願いましょう。『猟犬』は臭いに敏感なので」

 俺がやや冗談めかしてそう言うと、久慈は苦笑しながら煙草を胸ポケットにしまった。若衆は戸惑ったように久慈と俺を交互に見る。若頭に対してこういう態度をとる人間はあまりいないのかもしれない。

「さて、まず弊社の事業概要から説明しようか」

 久慈が足を組み替えてソファーに背を預ける。

 しかし、多少なりともこの街の裏社会に通じている者なら、鯨組がどういう組織かぐらいは知っている。比較的古風な任侠団体で、構成員は百五十人程度。主に縄張りにある各種の店舗からのみかじめ料を取り、代わりにその店で起きたトラブルを解決する、という方法で収入を得ている。確かドラッグ密売はご法度。ヤクザに使うのが適当な表現かどうかは分からないが、比較的健全な組織である。

「概要程度であれば存じています。確かドラッグ取引はご法度とか」

 赤間が神妙に応える。仮にも事務所の所長なのだから、もう少し堂々としていてもよさそうなものだが、元がいじめられっこならば肝が細いのも致し方なしか。

「そう。ウチはシマにある店のアガリの一部を主な収入源としている。だから店に客が入らなければ困る。客ってのはカタギの人間だ。街が荒れれば近づかなくなる」

 そう語る久慈の姿は、経営者の苦労みたいなものが、ほんの少しにじみ出ているような気がした。実際に彼が扱う金額は億単位のものであろうし、店の運営に気を配らなければならない立場なのだとしたら、経営者とそれほど変わりはないのかもしれない。

 俺は久慈の言葉を先回りする。

「ドラッグがはびこれば街が荒れる。街が荒れれば客足が遠のく。すなわち店の収入に直結するし、組の財政にも響く」

 つまりはそういう事だろう、と俺が久慈に目を遣ると、久慈は苦笑しながら頷く。

「理解が早くて助かるよ。さすがは優秀な刑事だっただけはある。まあ要するに、ウチのシマで好き放題やられると困るわけだ」 

「警察に任せておくわけにはいかんのですか」

 俺が指摘すると、久慈はそこだよ、と言わんばかりに身を乗り出す。それから再度タバコを取りだし、思い出したようにまた胸ポケットにしまう。

「成分がまだはっきりしないから、違法性もまだわからない。警察の動きが鈍いのはそれだけじゃなさそうだが、その辺の事情もどうもハッキリしない」

 鯨組の方で調査は行わないのか、と訊こうとした俺の様子を察したのか、久慈は先回りして答える。

「うちもある程度人員を割きたいんだが、いかんせん最近騒がしくてね。それに末端はバカばかりだから、調査ができる人間も少ない」

 最近騒がしい、というのは数週間前に勃発した東西暴力団の抗争の事だ。鯨組の上部団体である九頭竜会と、関西に本拠を置く蓮田会の抗争は、連日ワイドショーや新聞を賑わせている。

 蓮田会は日本最大の任侠団体で、その構成員は実に一万二千を数える。穏健派の先代が死去してから勢力の拡大を企図し、ここ冠城町に尖兵を送り込んできているのである。

「ニュースでもやってるだろう。やれ抗争だ、やれ発砲事件だ。シマの監視も強化せにゃならんし、客足は遠のく。それでも、降りかかる火の粉は払わなきゃならん」

 まったく迷惑な話だ、と言わんばかりに久慈はため息をつく。胸ポケットから三度煙草を取り出して、火を付けずにそれで俺の方を指す。

「それで話は戻るんだが。新型ドラッグ。コイツの流通ルートを特定してもらいたい」

 隣で赤間が息を呑んだ気配がした。冠城町の最大勢力である鯨組が持て余している案件。それを調査の専門家とはいえ、一介の探偵社に解決を依頼しようというのだ。明らかに手に余る仕事。しかし相手が相手だ。まさか断るわけにはいかない。

「…………」

 赤間は黙ったままだ。お前は所長なんだからもっと話せ。

「流通ルートを特定して、その後は?」

 赤間が固まっているので俺が質問するしかない。まさか密売組織の壊滅なんて無茶は言われないだろうが、何を持って依頼完遂とするかを確認しておくことは必要である。

「ドラッグがどこから入ってきて、誰が売ってるのか判りゃいい。その後の事はウチでやる。不本意だが、サツに情報を流してもいい」

 久慈が答える。そういう事ならやってやれないことはないだろう。もちろん、危険の伴う仕事ではあるが。

 もとより回答は決まっているのだが、赤間がようやく決心したように口を開く。

「わかりました。そういう事でしたら。お受けします」

 そういう事らしい。上司の決定であれば俺には口を挟む理由は無い。回答を聞くと、久慈はにやりと笑って俺の方に向き直る。

「指名が利くのなら、是非犬塚君に担当してもらいたいね」

 俺は赤間の方を見ずに頷く。どうせ『悪いけど頼む』みたいな顔をしているに決まっている。久慈が隣に座っている若衆に合図すると、若衆はカバンから見たことのない分厚い封筒を二つ取り出してテーブルの上に置いた。置いた勢いで中身が滑り出る。札束だった。

「依頼料は経費込みで千。成功報酬は二千。一週間たって成果が出なけりゃまた考えよう」

 探偵社への依頼料というものは存外高額だが、一千万あれば探偵十人を十日間動かせる。報酬としては破格と言ってよかった。通常は規定にのっとって料金の説明などするのだが、とてもそんな雰囲気ではない。

「ひとまずは承りました。進捗状況については随時報告します」

 赤間の言葉からは会談を早く切り上げたいという想いが伝わってくる。それを聞くと久慈は名刺を取りだし、その裏に電話番号を書き、赤間と俺に渡した。

「連絡するときはその番号にくれ。俺に直接つながるようになっている」

 つまり、若頭が直接預かっている案件という事だ。我々が思っている以上に、組はこのドラッグの蔓延を気に掛けているらしい。

 そして緊迫した会談は終わりをつげ、若頭とその伴は帰って行った。所長室に戻った赤間はソファーに力なく横たわり、あー、とかうー、とか呻いている。少なくとも午前中は使い物になるまい。

「ごめんね猟ちゃん。厄介ごとに巻き込んで」

 革張りのソファーに顔をうずめながら赤間はそう詫びた。

「詫びる必要はない。所長なんだからもっと堂々としていろ、それに」

「それに?」

「面白そうじゃないか」

 口元が緩むのが自分でもわかる。平凡な日常を愛する気持ちはなりを潜め、俺は若き刑事時代の熱情が、臓腑から湧き上がってくるのを感じていた。

 

  ◇


「へぇ、それはまた大変そうなお仕事ですね」

 私と犬塚さんは事務所近くのカフェで昼食を摂っておりました。たった今、犬塚さんから新しい仕事について聞かされたところです。なんでも新型ドラッグの密売ルートを特定する仕事だとか。なんとも映画的でハードボイルドな仕事ではありませんか。

「他人事みたいに言っているが、君もやるんだぞ詠子君」

 犬塚さんは食後の紅茶を飲みながらそう言います。

「他人事だとは思ってませんよ。私は犬塚さんに従うだけです」

 私はカツサンドの最後の一口を口に放り込みながらそう答えました。

「少々危険な仕事だが、君もこの街の探偵だ。そろそろできる仕事の幅を広げていかないとな」

 そういう事らしいです。私達の仕事の大半は浮気調査や素行調査、たまに人探しやストーカー相談といった具合なので、新しい経験を積む良い機会ではあるのでしょう。

 幸い現在私と犬塚さんが担当している案件はありませんでしたので、午後から早速調査にあたることができます。

 この街の名前は冠城町かぶらぎちょう。夜のない街、眠らない街とも呼び慣らされているアジア有数の歓楽街です。ある者は眠らぬ活力を持ってこの街を訪れ、ある者は眠れぬ焦燥を持ってこの街へと足を運びます。

 汚濁と猥雑、欲望と虚飾が渦巻く街。それでも人は光に集う羽虫のように、この街の表面的な華美に誘われて一夜の夢を見るのです。

 この街ではあらゆるものをお金で買うことができます。理性と秩序の空白地帯にして、欲望と享楽の牙城。それが、私達の働く、ここ冠城町です。

 現在時刻は午後一時。この街が比較的閑散とする時間帯です。聞き込みをするにも不便な時間なので、犬塚さんと私は事務所の資料室で、それらしきニュースを探すことにしました。


 資料室、といっても今までの事件の報告書をまとめたものや、新聞や雑誌のバックナンバー程度のものしかありません。しかしインターネットで大抵の事は調べられる時代とはいえ、紙媒体にしか載らないものもやはりあるのです。

 大量の古紙および埃と格闘することしばし、犬塚さんと私は関連するニュースを二件ほど発掘しました。


【雑居ビルで深夜の銃撃 東西暴力団の抗争か?】

 東京・冠城町の風俗店で店舗の玄関のドアに銃弾が撃ち込まれたような痕が見つかり、警視庁は発砲事件とみて捜査している。

 警視庁が調べたところ、この風俗店の玄関ドアの少なくとも4か所に銃弾が撃ち込まれたような痕があり、近くからは金属片が見つかった。

 銃痕から、使用された武器はサブマシンガンであると専門家は見ており、警視庁は抗争の激化を懸念している。ケガ人はいなかった。午前2時頃に大きな音がしたということで、警視庁は、この時間に何者かが銃器を発砲したとみている。

 この風俗店には指定暴力団九頭竜会系の暴力団関係者が出入りしていることから、警視庁は、九頭竜会と蓮田会の抗争の一部とみて捜査している。また、一部警視庁幹部は、「近年冠城町で活動しているドラッグ密売組織の関与があるのでは」とコメントしている。


 このニュースは以前テレビでも見たことがあります。冠城町の風俗街エリアで起こった発砲事件です。最近この街では東西の暴力団の抗争が勃発しており、それに関連する事件かと思われます。しかし武器が拳銃ではなくサブマシンガンであるということ、ドラッグ密売組織の関与も疑われていることなどが少し気にかかります。

私 が記事を読みふけっていると、犬塚さんがもう一つ記事を見つけてきました。


【冠城町に忍び寄る新型薬物】

 冠城町で白昼に数人が昏倒するという事件が起こり、警視庁は中毒事件として捜査をしている。

 その原因として推定されているのが、近年冠城町に広まっている新型ドラッグである。このドラッグは既存のものとは異なり、意識水準の低下と幻覚が主な作用とされている。被害者はこの薬物を大量に摂取したものとみられている。

 またこのドラッグの密売ルートはまだ特定されておらず、分析の結果、国内で生産されている可能性があると専門家は見ている。


 この記事にはドラッグの詳細情報まではありませんが、おそらく今回の依頼内容であるジェリーフィッシュに関連するものでしょう。私の想像以上に、件のドラッグは深くこの街に根を下ろしているのかもしれません。


 さて、新聞記事を検索した後は、夜間の聞き込みに向けて仮眠をとります。食べられる時に食べ、眠れるときに眠る。探偵になってから犬塚さんに最初に教えられた、仕事のやり方です。おかげで私はどこでも眠れる体になりました。

 しばらく眠り、事務所のソファから起きると、時刻は午後五時、この街が起きだしてくる時間帯です。犬塚さんはその辺に段ボールを敷いて寝ています。

 乱れた髪を直して簡単な身づくろいをした後、私達は事務所を出て、ネオン煌めく冠城町の中心部へと繰り出しました。

 眠らぬ街、冠城町。この街は大まかに四つのエリアに分かれています。

 まず南西が飲食街。和洋中、エスニック、おしゃれなカフェにややくたびれた焼き鳥屋、バーに居酒屋。学生や仕事帰りのビジネスマンが多く、最も活気あふれるエリアです。

 そして北西には風俗街。飲食街が食欲ならこちらは性欲です。欲望渦巻く冠城町の中でも特に混沌としたエリアです。また各種暴力団事務所や反社会的勢力の拠点もこのあたりに在り、騒ぎを起こせば怖い顔をしたお兄さんたちが飛んでくること請け合いです。

 大通りを挟んで北東にホテル街。いかがわしいラブホテルから比較的立派なシティホテルまで。また比較的落ち着いたエリアという事もあり、マンションやアパート、少数ながら一軒家も見られます。

 そして南東がビジネス街。図書館や区役所、郵便局などの各種行政サービスもここに集積しています。私達の事務所があるのもこのエリアです。

 いかがわしい案件に関する聞き込みならまず風俗街の方だろうという犬塚さんの判断により、私達はまずこの街のカオスの中心地へと足を運びます。色彩的にも雰囲気的にもピンク色の通りを犬塚さんと歩いていると、探偵になった当初こそなんだかもやもやした気持ちになったものですが、何度も繰り返すうちにすっかり無感動になってしまいました。慣れとは恐ろしいものです。グッバイ、私の恥じらい。


 そういう訳で、私達は風俗街エリアにあるクラブ『エンジョイ&エキサイティング』にやってきたのでした。

 脳に直接響くような大音量のクラブミュージック。比較的早い時間にもかかわらず、狭い店内にひしめき合う男女は、酩酊しているのかトランス状態なのか、ミラーボールの光の中、激しく踊り狂っています。私達はそんな人ごみをかき分けかき分け、この店の店長を探します。

 ここの店長は中々の情報通で、よく事件解決のとっかかりを作るために、私達は話を聞きに来るのです。店長は四十代の男性。芸術家のような口髭が渋いナイスミドルです。あまりに頻繁に店を訪れるので、犬塚さんはすっかりこの店長とは馴染みなのです。私も奈良ちゃんという店員と親しくなりました。

 何とか若い店員を発見した犬塚さんと私は、忙しいところ申し訳ないと前おいて店長に取次を頼みます。ほどなくしてバックヤードから渋い髭の店長がお盆片手にやってきました。二、三短い挨拶を交わしたのち、犬塚さんは早速店長に本題をぶつけます。

「……と、そういう訳で話を聞いて回っている。何か知らないか?」

 店長はしばらく思案したのち、音楽に負けぬようやや大きな声で答えてくれました。

「ジェリーフィッシュって名前は聞いたことがある。だが、風俗街のあたりで扱ってるって話は聞かないね。ドラッグ自体は……ほら、あそこにパーカーを着た男が壁に寄りかかってるだろ」

 私達が目線を遣りますと、踊り狂う男女の輪から外れたところに、一人の男性が佇んでいました。女性を口説くわけでも踊るわけでもなく、ただ注意深く周囲を見回しています。

「ああいう輩がたまに来るんだ。若者相手に、コカインを捌いてるのさ。面倒だから注意なんかはしないがね」

 コカインは覚せい剤と並んでアッパー系、つまり気分が高揚するドラッグの代表です。違法薬物であるのは言うまでもありません。

「あの人ならドラッグ事情を詳しく知っているでしょうか」

 私が店長に尋ねますと、彼はその口髭を撫でながら答えます。

「俺なんかよりは詳しいと思うが、注意した方がいい。ああいうのはだいたいケツ持ちがいるから、トラブルを起こすと厄介だぞ」

 ケツ持ち、つまりは組織の後ろ盾です。しかしその手のトラブルを恐れるようでは、この街で探偵稼業はできません。といっても、実際に接触するのは私ではなく犬塚さんなのですが。

 店長の情報を元に、私達は売人との接触を図ることにしました。普段は眼光鋭い犬塚さんですが、そこは元刑事、相手に警戒されず接触する術は心得ているようです。ごくごく自然に売人に近づいていきました。


  ◇


 俺は不自然にならぬよう、売人らしき男の隣へ移動し、壁にもたれ掛る。意識して弛緩した雰囲気を出し、眼光の出力を下げる。相手に警戒されぬよう刑事時代に教わった技術は、探偵になった今でも役に立っている。

 売人らしき男が横目でちらりと俺を確認した。ひとまず、警戒されてはいない。俺はそれとなく視線を交わし、慎重に接触を開始する。

「スノーある?」

 スノー、とは鼻から吸引するタイプの粉末コカインである。混ぜ物入りの二級品だが摂取が容易で、効果時間が比較的長い。

「あるよ。五百ミリで二万」

 五百ミリグラムで二万円、グラムにして四万円だ。数年前に比べて相場は下がっているような気がする。もっとも、日用品でもないドラッグの価格が多少上下したところで、俺の実生活に影響があるはずもない。ただ、この街の空気を呼吸する人間にとって、ドラッグの価格の上下は日経平均の上下ぐらいには意味がある。裏社会に多少なりとも足を突っ込んでいる人間ならなおさらのことだ。

 財布から二万円を出し、小さなパッケージに入ったコカインを受け取る。領収書など取れるはずもないが、そこは赤間所長直々の案件。経理に無理を言ってもらうことにしよう。

 さて、ドラッグ購入のやりとりは話の枕に過ぎない。本当の目的はJに関する情報を掴むことだ。

「Jは扱ってないか?」

 尋ねながら俺は売人の顔をそれとなく観察する。口髭を生やしているがまだ若い。詠子君よりも年下ではあるまいか。

「ウチは扱ってないね」

 若い売人がぞんざいに答える。あまり長く話をしていたくない、といった雰囲気だ。

「扱ってるところは?」

 売人の顔が微妙にゆがむ。警戒されたかと思ったが、どうやら苦笑しただけらしい。

「もう一袋どう?」

 若い割に、中々強かな売人である。俺はもう二万円を支払う。経費だと思えばそれほど痛みはないが、ジャンキーの金銭感覚は理解しがたい。

「ホテル街の方でピンクネクタイの男探してみな」

 売人はそれだけ言うと、俺に背を向けて離れて行った。情報の入手は成功。購入したコカインはトイレで流してしまうとしよう。


  ◇


 ナンパしてくる男性をあしらったり切り捨てたりしつつ、私は犬塚さんの交渉の行方を見守っておりました。あまりジロジロ観察していると交渉に差支えそうなので、フロア全体にもそれとなく目を遣ります。光と音の洪水の中、狂ったように踊りまわる男女。仕事と思えばさほど苦ではありませんが、昨今の若者の楽しみ方は理解しがたいものがあります。

 そんな混沌の渦から少し目を離すと、一人の女性が目に入りました。背中まである長い黒髪は、周囲の女性の軽薄さと一線を画しており、着慣れぬ様子の派手な服装に身を包んで犬塚さんの方を観察しています。年の頃は二十代後半でしょうか。

 その眼つきの鋭さに、私は嫌な予感を覚えます。万が一司法関係者が密売人逮捕をもくろんでいるのだとしたら、犬塚さんごと逮捕されてしまいます。

 さりげなく視界をふさぐか、話しかけて気をそらすか。妨害を意図して近づきますと、彼女と目が合いました。その瞳は周囲を注意深く警戒している人間のそれです。やはりただの客ではないようです。私の視線と接近に気付くと、彼女はするりと人ごみにまぎれ、姿を消してしまいました。一体なんだったのでしょうか。

 そうこうしているうちに、犬塚さんが交渉を終えて戻ってきました。首尾よく情報を入手したようです。ホテル街のピンクネクタイの男。それがJの売人なのでしょうか。ともあれつながった情報の糸。たぐり寄せぬ手はありません。私達は早々に喧騒のクラブを離れ、ホテル街へと向かう事にしました。


 冠城町ホテル街。飲食街や風俗街とは違ってやや静かでしっとりとしたエリアです。浮気調査を主要業務としている私達にとっては、ホームグラウンドとも言える場所です。

 このエリアであれば、裏路地の一つ一つまで把握しています。私達はそれらしき人物を探してホテル街の闇の中を徘徊します。

 捜索開始から十五分。私達はホテルカブラギ裏の路地に不自然にたたずむスーツの男を見つけました。闇の中で見づらいですが、明るい色のネクタイをしています。あれがピンクネクタイの男に違いありません。

 交渉は犬塚さん。私は周囲の警戒です。

夜のホテル街は静寂に包まれています。ふと見上げると、高いビルに切り取られた夜空。天体観測は望むべくもありません。


 ◇


 狭い路地に入り、売人に接近する。この裏路地は二方向から侵入できるようになっており、いざという時には反対側に逃走できるようになっている。売人に警戒されれば、すぐに姿を消されてしまうだろう。さりげなく歩みを進めていく。

 売人は動く気配がない。ひとまずは客と認識されたようだ。片手を挙げて挨拶し、不自然にならぬよう声をかける。

「Jはあるか?」

 近くで見るとやはりピンクのネクタイ。この男で間違いないようだ。

「あるよ。三錠で一万二千円」

「もらおう」

「ここにモノはないよ。ホテルカブラギの三○二号室に行きな」

 万が一警察に職務質問されてもモノは無ければ問題ない。ドラッグの取引に使われる古典的な手法だ。路地を戻り、詠子君に警戒を任せてすぐ隣にあるホテルに入る。


 ホテルカブラギ。この街ではある程度昔からあるシティホテルだ。内装は古くもなく、新しくもなく。気の抜けた受付と最低限清潔な室内の、一般的なホテルだ。終電を逃したサラリーマン、出張や旅行で訪れた者。ラブホテル代わりに使うカップルに利用されている。ドラッグの取引に使われることは、おそらく想定していないだろうが。

 無人だった受付を通り過ぎてエレベーターで三階まで向かう。その旧式の機械はガタガタ音を立てながら、せわしなく加速度を変化させて目的のフロアへと俺を運んでゆく。探偵と言えど、これほど捜査対象に肉薄することはそうない。興奮と緊張がないまぜになったような感覚を下腹部あたりでじんわりと感じる。

 エレベーターが開く。えんじ色のカーペットが敷かれた廊下。シャツのボタンを一つ外してから、三○二号室へ足を進め、扉の前に立った。

 三度ノックしてしばし待つ。ふた呼吸ほどおいて、ドアが少しだけ開いた。

「はい、なんでしょう」

 とシャツにスラックスの男。前情報がなければチェックインしたばかりのサラリーマンにしか見えない。警戒心を抱かせぬよう俺は慎重に声をかける。

「Jが欲しい」

「入りな」

 男はチェーンを外して俺を中に招き入れる。それほど広くはない室内。テレビがやや大きな音量でつけっぱなしになっている。室内の会話を万が一にも聞かれぬ配慮か。

「とりあえず二袋」

「二万四千円」

 ホスピタリティ皆無の無機質な接客。もとよりそんなものは期待すべくもないが。密売人はバッグから錠剤の入った小さなパッケージを二つ取りだし、俺に手渡す。

 さて、如何にさりげなく情報を聞き出すか、と思案していると、売人が俺をじろじろと観察している。疑っているのか。

「んー。アンタ。売人とか興味ある?」

 売人が声をかけてきた。想定外の提案。だが好都合。実に好都合。

「売人? ドラッグの?」

 あまり食いついては不審に思われる。手元のドラッグを弄びながら、俺は気のない風に聞き返す。

「そう、見たところその辺のチャラ男達と違って信用できそうだし。最近上からのノルマがきつくてね」

 ということらしい。ドラッグの売人にもノルマがあるとは世知辛い世の中だ。違法という点を除けば、普通の企業とあまり変わらないのかもしれない。

「興味がないわけじゃないが……、詳しく話を聞いてから決めたいね」

 売人になれば組織の深部へ潜入することが可能となる。密売ルート特定の手掛かりをつかめる可能性も大いに上がる。

「なら、明日の十時にこのホテルの前に来るといい。上司に引き合わせるから」

 ごくごく最低限のアポイントを取ってから階段を終了し、予想外の成果を携えて俺はホテルを後にする。大事の前に職質で見咎められてはかなわないので、購入したドラッグは忘れずトイレに流しておいた。


  ◇


 調査開始から二日目の朝。私は事務所のデスクで悶々としておりました。昨日犬塚さんは麻薬密売組織との接触を図り、首尾よく潜入への足掛かりを作りました。現在は売人との待ち合わせに向かっているところでしょう。百戦錬磨の頼れる犬塚さんではありますが、いくらなんでも危険すぎやしないかと私は戦々恐々です。できることなら代わってあげたい。まあ、私のようなへっぽこではすぐに正体を見破られて東京湾に浮かぶのが関の山なのでしょうが。

 というわけでへっぽこな私は事務所で電話番をしつつ、犬塚さんのバックアップ要因として待機中です。

案件の掛け持ちは無く、いささか退屈した私は事務所の外から猫のうーたんを呼び寄せ、膝の上で肉球などを触っていました。猫が探偵として働ければさぞかし役に立つだろうなぁ、などと思いながら。

そうやってしばらく弾力のある肉球を堪能しておりますと、事務員のキョウコちゃんが私を呼びに来ました。なんでも私宛のお客さんらしいです。はて、通販を頼んだ記憶はありませんが、一体誰でしょうか。


応接室に入りますと、そこで待っていたのは一人の女性でした。はて誰だろう、と一瞬戸惑いましたが、すぐに思い出しました。年は二十代後半、この街にそぐわぬ長い黒髪。犬塚さんと同種の鋭い眼光を持った女性は、昨夜私がクラブで見かけた謎の女性です。

戸惑ったまま私が会釈をしますと、向こうも会釈を返します。昨日とは違ってスーツに身を包んだ女性。依頼? それとも別の目的があるのでしょうか。

相手の意図と心情を探り探り、私はソファーに座って彼女と相対します。キョウコちゃんがお茶を運んでくるまで、しばし沈黙が続きました。

「ええと、昨日クラブにいた方ですよね」

 我ながら間抜けな切り出しです。

「ええ、確かに」

 というか、昨日クラブで見かけただけの私の職場をなぜ知っているのでしょうか。不審です。

「今日はどのようなご用件ですか?」

 彼女の真意がつかめぬまま、とりあえずは用件を聞きにかかります。ただの依頼人、というわけではなさそうですが。

「あなた『達』、J、いや、ジェリーフィッシュというドラッグについて調べているわね?」

 なぜ昨日受けたばかりの依頼について、そこまで知っているのでしょう。私はうなじの毛が逆立つような戦慄を覚えます。しかも私の単独調査でないことを知っているような口ぶりです。やはり只者ではありません。

とはいえ、ここではぐらかしても始まりません。多分ある程度裏も取っているに違いありません。

「ええ、確かにそうですが」

 単なる肯定のみにとどめます。彼女がどれくらい知っていて、何を目的にしているのか、それを推し量らねばなりません。所長も犬塚さんも外出中なのが悔やまれます。

 そんな私の焦りを気に留めるような様子もなく、女性は話を続けます。

「単刀直入に言うと、私の提案はあなた達との情報交換。ジェリーフィッシュ、その密売組織、そして、その背後にあるもの」

 女性は眼光鋭く私を見つめながらやや姿勢を崩します。一方の私はと言いますと、慣れぬ交渉ごとに身を固くしっぱなしです。

「と、言いましても、私達もまだあまり情報を掴んでいない状態でして。あまり提供できる情報は無いと思いますが」

 これは事実です。最短と言っていい速さで密売組織潜入への足掛かりを付けたとはいえ、昨日依頼を受けたばかりなのですから。しかし女性は失望した様子はありません。おそらく半ば予期していた答だったのでしょう。

「構わない。提供してもらいたい情報には、あなた達がこれから手に入れるであろうものも含まれている。わかりやすく言うならば、協力関係を結びたい、ということ」

 協力関係を結ぶのはやぶさかではありませんが、相手がどこの誰かもわからないのでは困ります。あなたは一体どこの誰ですか、という疑問を私が口にしますと、彼女は懐から一枚の名刺を取り出してテーブルの上に置きました。

『日本ピンカートン探偵社 調査・護衛部門 調査員 竜胆京子』

 置かれた名刺を見ますと、そう書かれていました。

 私のつたない知識に寄りますと、日本ピンカートンは私達の事務所とは比べ物にならない大手の探偵社です。所員は全国で二千人を数え、調査や護衛の他にも様々な仕事をしていると聞きます。ただ、企業スパイや非合法な調査など、後ろ暗い噂もある、底の見えない組織でもあります。

「ピンカートンさんですか。お世話になっております」

 私は頭を下げます、が。全面的に信用したわけではありません。ちゃんとした身分があるならば始めから名乗ればよいし、印象にも何か妙なところがあります。この場で裏を取る手段はありませんが、名刺が偽装である可能性も捨てきれません。

「ええ、では早速ですがお話を始めましょう。時間は有限。『We never sleep(我々は眠らない)』とは言ってもね」

 『We never sleep』とは、ピンカートン探偵社設立以来の標語です。そんな雑談もそこそこに、私はこの謎の私立探偵と、密室での会談を始めたのです。


「さて、何処から話したものかしら」

 自称探偵の竜胆さんはそう言いながら出された茶を一口飲みます。身分を明かされたとはいえ、私の疑念は晴れません。確固たる根拠はないのですが、探偵の勘のようなものでしょうか。

「あなた達が追っているドラッグ。その密売組織について、私は知っている」

 しかし、彼女が持っている情報は、私達が喉から手が出るほど欲しいもののようです。

「『シャチ』と呼ばれる密売組織。鯨組を破門になった男が立ち上げたものらしいわね。規模は三十名以上。武装した実行部隊が居るという情報もある」

 ふと、風俗店が銃撃されたという新聞記事を思い出します。彼女が口にする情報はそれとも符合するようでした。

「その組織が、ドラッグ流通の元凶なのですか?」

 私が訊くと、竜胆さんは一旦目を閉じて息をつきます。

「違う」

「先ほども言っていましたが、別の組織の関与がある、と?」

 密売組織、その背後にあるもの。と竜胆さんは言っていました。外国のマフィアや犯罪シンジケート? どうやら思いのほか大きい案件なのだなあ、と思っていると、竜胆さんの口から意外な言葉が飛び出しました。

「宗教法人『水母会』」

「宗教法人?」

 私は驚いて聞き返します。ドラッグと宗教がどうしてつながるのでしょうか。

「聞き間違いではないわ。すいぼかい。約三十年前に設立された宗教団体。ここ数年で組織を急拡大している」

「その宗教団体が、ドラッグの売買に関わっていると?」

 設立三十年と言えば、新興宗教という事になるのでしょうか。そういえば水母とはクラゲの事です。つまり、ジェリーフィッシュ。

「関わっている? それどころではない。その宗教団体こそが、ドラッグ密売の大元締め。宗教団体という外装を隠れ蓑に、国内でドラッグを生産。密売組織を通じて密かに流通させている」

「ちょ、ちょっと待ってください。今整理しますから」

 私は手元のメモに水母会、と書いて丸でくくり、それをドラッグ密売組織へと矢印でつなぎます。この密売組織に、犬塚さんは現在単独潜入中な訳ですが、この組織、さらに先があるという事です。それが宗教法人水母会。

 この情報、是非とも犬塚さんに届けてあげたいのですが、うかつに連絡を取るわけにはいきません。身体が空けば連絡する、と言っていた犬塚さんを信じて待つしかありません。私のすべきことは現状、竜胆さんから情報を得て、それを整理しておくことです。

「お話、何となく理解が出来ました。竜胆さん。実は、我々の調査員が一名、密売組織に潜入しています。何かしらの成果があれば、お伝えできるかと」

「それは重畳。何せ私には仲間が少ないので。さて、水母会についても、少し話しておきましょう」

 とりあえず私はメモを取るのに必死です。

「宗教法人水母会。信者数約千五百、内出家信者が二百。幹部と呼ばれる構成員が三十。そして五人の最高幹部と呼ばれる人間がいる」

 信者数千五百。全員が全員熱心な信徒ではないにせよ、大企業に匹敵する人員。資金の規模も相当なものでしょう。なんにせよ、都会の片隅でなんとかやっている我が赤間探偵事務所とは比べ物にならない組織力です。

「確定的な情報ではないにせよ、ドラッグの密売、信者への薬物投与、人身に危害を及ぼすような儀式の実行。そして、武器の密輸入」

 カルト、という言葉が私の頭をよぎります。しかし武器の密輸入とは。クーデターでもおっぱじめるつもりなのでありましょうか。

「そういった反社会性の高い団体にもかかわらず、警視庁公安部の動きは非常に鈍い。警視庁上層部や、都議に信者がいるという噂もある」

 ドラッグ密売のみならず、行政、立法にも手を回しているというわけです。手広いというか、周到というか。いよいよ個人の手には負えないような様相を呈してきました。

「その宗教団体が、竜胆さんたちの目的なのでしょうか」

「聡いわね。その通り。私、いえ、我々の目的は、水母会の違法性を白日の下に曝すこと。しかしそのために割ける人員は、あまりに少ない。だから外部にエージェントを確保する必要がある、という訳」

 なるほど。つまりは情報提供の見返りに、こちらが得た情報を定期的に横流ししてほしい、という事のようです。協力体制、と言えば聞こえはいいですが、どこまで信用したものやら。

 その辺りは犬塚さんや赤間所長に相談するとして、ひとまずこの場は回答せねばなりません。

「貴重な情報、ありがとうございました。私の独断で協力体制を構築できるかどうかは分かりませんが、善処させていただきます」

 と、サラリーマン的模範解答で相手の出方を窺います。

「それで結構。色よい返事をお待ちしているわ」

 そういうが早いが、彼女も忙しいのでしょう。荷物をまとめていそいそと退出していきました。私は自分の喉がカラカラなのに気づきます。思いがけず濃厚な会談でした。


◇ 


 さて、時刻は午前十時。俺は先日売人と接触したホテルカブラギの前にいた。売人の話によれば、俺を元締めと引き合わせてくれるらしい。服装はシャツにスラックス。ドラッグの売人になろうという人間があまりフォーマルな格好をするのもよくないが、あからさまな格好をしていくのもそれはそれで問題だ。

 秋も深まり、普通なら屋外は肌寒い時期なのだろうが、この街では人いきれと排ガスによる温室効果が生じており、不快な温さがいつの季節も蔓延している。

 そんな澱んだ空気を呼吸しながらしばし待っていると、向こうから昨日の売人が近づいてきた。本日も変わらぬピンクネクタイ。この男の趣味なのか、組織の規則なのかはわからないが、見分けるのには都合がいい。

「バックレなかったね。よかったよかった」

 男は昨日とは違った軽妙な口調でそう言うと、踵を返して俺に付いてくるよう促した。そのままタクシーにも乗らず歩いていく。拠点はそれほど遠くない場所にあるという事か。

 見慣れた街路を歩くこと数分。想像よりも近い場所にその拠点はあった。冠城町風俗街エリア。普段それほど気にも留めない雑居ビルだ。古いレンガ風の壁面は排気の煤に覆われており、左右の壁は他の建物と密着している。好立地とは言えない。

 ピンクネクタイの売人は無言でその雑居ビルの非常階段を上っていく。建物の観察もそこそこに後を追って二階まで上ると、表札のないスチールの扉の内に招かれた。堂々と密売組織の看板を掲げる阿呆もいるまいが、いかにもアンダーグラウンドな雰囲気に身が引き締まる。

 ドラッグ密売組織内部。思ったよりも広く明るい空間だった。ホテルのロビーか、机の少ないオフィスのような場所だ。しかしさすがというべきか、そこにいる男たちは一種異様な雰囲気を纏っている。

 ざっと見渡した限り、売人と思しき男たちが七、八名。タクティカルベストを着込んだ物々しい男たちが三名。けだるそうにソファーに腰かけている。全身刺青の、明らかにその筋の男が柳葉刀の手入れをしているのが目立つ。他には事務屋らしきスーツの男が二名。

 ピンクネクタイの男は事務所をまっすぐ横切ると、スーツの一人に声をかける。物腰や立ち居振る舞いからして、こいつが元締めに違いあるまい。

「小諸さん。こいつが昨日話した新人です」

 小諸、と呼ばれた男は若手俳優のような甘いマスクの男だった。丁寧に撫でつけられた頭髪。高級そうなスーツに身を包み、俺を値踏みするように観察している。年齢は俺と同じぐらいか。

「ご苦労。君、名前は?」

「犬塚です」

 あいにく偽造の身分証といった小道具は用意していない。やむなく本名を名乗る。

「オーケー。犬塚君。何となく仕事の内容については想像がついていると思うから、具体的な話をしようか。ささ、座って座って」

 と、小諸は俺に席を勧める。俺は言われるままに手近なソファーに腰かけた。我々の事務所よりも上等なソファーなのがやや悔しい。

「知ってるかもしれないけれど、僕らが捌いてるのはジェリーフィッシュと言われる錠剤型のドラッグだ。一錠四千円。三錠で一万二千円。一錠あたり千円が君のもうけになる。OK?」

「ええ」

「よろしい。ノルマは一応あるけれども、最初はそれほど気にしなくていい。好きな時間にここにきて、好きな時間に売ってもらえればいい。もちろん、警察やヤクザに捕まらないようにね」

 無言で首肯する。要は緩いノルマありの完全歩合制というわけだ。その他、持ち出し量の申告方法、緊急時の連絡先など細々したことの説明を受ける。

「説明は以上。何か質問は?」

「そういや、ドラッグは何処から仕入れてるんです?」

 言って、相手の表情を窺う。切り込み過ぎたろうか。しかし、深入りしすぎないうちに聞いておかねばならない。

「うん。その辺のことを説明する前に、ちょっと入団試験といこうか」

 元締めは立ち上がると、俺を部屋の奥へと促し、一つの扉の前に立った。そのまま振り返り、やおら俺に問いかける。

「犬塚君。こういう種類の仕事をするにあたって重要なことはなんだと思う?」

 まるで本物の採用面接のような質問だ。志望動機はいまだ聞かれてはいないが。

「要領の良さ、ですか?」

「それもある。でも一番大事なのは」

 言いながら、小諸は扉を開く。中は、目立った調度がない白い壁紙の部屋。いくつかのパイプ椅子と雑多な物品が無機質な蛍光灯に照らされている。

 しかし何よりも目を引いたのが、部屋の中央で拘束されている男だった。半裸で両手足を拘束され、露出した肌や顔面には暴行を受けた痕跡がある。小諸は部屋の中央まで歩いていき、拘束されている男の顔面を容赦なく蹴り飛ばす。

「度胸と覚悟。今から犬塚君のそれを試したいと思います」


 個室には俺と拘束された男が残された。小諸曰く、この男はドラッグの売り上げをちょろまかし、金をどこかに隠したらしい。この男を尋問して金の在処を吐かせる、というのが俺に課せられた試験だった。

 まず男を観察する。ぐったりしてはいるが意識は正常。打撲は数え切れぬほど。指も数本折られている。

「吐く気はないか?」

 俺はしゃがみこみ、男の頭髪を掴んで顔をあげさせて問う。男はジロリと俺を睨み、血の混じった唾を吐きかけてきた。こんなになるまで人間を痛めつける密売組織の連中も非道だが、こんなになるまで痛めつけられても金の在処を吐かないこの男も大概である。よほどの大金なのだろうか。

 さてどうしたものか、と俺はしばし困惑する。警察学校で取り調べの仕方は教わったものの、それはあくまで穏当なもの。探偵になってからも、尋問や拷問をする機会はなかった。よしんば知っていたとしても、他人を傷害するのは良心が痛む。たとえそれが反社会的組織の人間だったとしても、だ。

 そもそもこの男、痛みに対してはかなりタフなようだ。今更骨の一本や二本折ったぐらいでは音をあげないだろう。とはいえもっと過激な手段を取って、人の道からおさらばしてしまう気も俺にはなかった。

 肉体がダメなら精神を責める。とりあえずの方針を立てて部屋の中を見回す。ペンチ、ハンマー、錐、糸鋸、剃刀。モップにバケツ、ガムテープ、ゴミ袋。

 これが使えそうだ。とゴミ袋を手に取る。容量約六十リットルの一般的なもの。

 まず男の目にガムテープを張る。視界の喪失は恐怖を増幅するし、懇願の目で見られて心が揺らぐこともない。それから男の頭をすっぽり覆うようにビニール袋をかぶせる。徐々に減っていく酸素。暗闇の中で徐々に呼吸が出来なくなっていく恐怖は、男の心を折るのに十分……だといいのだが。

 さて、男にビニール袋をかぶせた俺は、パイプ椅子に腰かけてその様子を観察する。うっかり殺してしまっては洒落にならないので、何分で袋を外すか決めておかねばならない。

 人は五分呼吸できないと死ぬというから、ビニール袋内の空気量を加味して、大体七分ぐらいだろうか。時計を見ながらカウントする。

 一分程度で、男が身をよじって暴れはじめる。まだ元気なようだ。吐く気配はない。

 三分。ビニール越しに見える男の顔が紫色に変色してきたような気がする。低酸素の症状だろう。ビニールを外したい衝動を抑えてさらに待つ。

 時計をチラチラ見ながら五分経過。男の身体がけいれんし始める。さすがに限界だろうと判断し、ゴミ袋を外すことにした。しゃがみこんで男から袋を取り外すと、盛大に嘔吐した。大量の吐しゃ物を避けて男に再び問いかける。

「金の在処は?」

 男は答えない。答えられないのかもしれない。

 俺はバケツで水を汲んできて、吐しゃ物を清掃するついでに男に意識を取り戻させた。男がうめいたのを確認して、再び袋を装着する。

 肉体を傷付けないと言っても、これはやる側にも相当な我慢が必要だ。良心の疼きに耐えながら椅子に戻ると、男がわめき始めた。

「言う! 言うからコレを外してくれ!」

 俺はほっと胸をなでおろしつつ、男のそばへ戻った。とはいえ、場所を聞かないまま袋を外すつもりはない。時間稼ぎをして尋問を長引されるのは御免だ。男の頭を一度蹴ってつとめて冷酷そうに言う。

「金の在処を言わなければ外せない」

「駅だ! 西口のロッカー! 三十一番だ!」

 と、いう事らしい。嘘か本当かは分からないが、真偽を確かめるのは俺の役目ではない。俺は男の頭から袋を外し、小諸を呼びに行く。


「ふーん。ゴミ袋かぁ。なかなかスマートだね」

 小諸はそう言って俺をねぎらったあと、部下に命じて拘束された男を連れて行く。彼がその後どんな運命をたどるかはわからないが、さすがにそこまでは責任を取れない。

「とりあえずご苦労様。『シャチ』へようこそ。あ、これウチの組織の名前ね」

 そう言うと小諸は俺を無言で促し、隣の部屋に連れて行く。そこには大量の段ボール箱が積まれていた。中を覗くと、パック詰めされた大量の錠剤が入っていた。

「ずいぶんな量がある」

 一錠三千円として、それが数万粒はあるだろう。末端価格にして一億円以上。

「そう、これが毎月送られてくるもんだから大変だよ。犬塚君もがんばってね」

 こんなに大量のドラッグが、この街に流通しているというのか。売る方も売る方だが、それだけニーズもあるという事だ。俺はこの街の退廃を改めて認識する。

「さて、午後は幹部の人に挨拶しに行くから、お昼ご飯食べてきて。今十二時だから、午後二時に集合ね」

 長い昼休みは都合がいい。一旦事務所に戻って状況報告と今後の方針を練るとしよう。とりあえず潜入が無事に済んだことに胸をなでおろしながら、俺は密売組織の拠点を後にした。


  ◇


 赤間探偵事務所所長室。犬塚さんと私は、それぞれ得た情報を赤間所長に報告しておりました。組織への潜入に成功したこと、竜胆さんという協力者が現れたこと、そして、密売組織の背後には水母会という宗教団体の影があること。

 その場には赤間所長のほかに、犬塚さんの後輩であり私の先輩である照月晃てるつきあきらさんがおりました。この案件に関して私達の補佐をするべく、所長から特命を受けたとのことです。

 照月さんは長身の男性で、元は警視庁の公安部に所属して、特殊団体、つまりカルトを担当していたという事です。頼もしいではありませんか。

「と、いう訳で現時点での報告は以上です」

 取り急ぎ口頭での報告を終えると、赤間所長は椅子に座ったままうーんと唸り、頭を抱えてしまいました。厄介な案件であることは初めから分かっていたのですが、信者数千五百を数える宗教団体が背後にいるなどと、どうして想像できましょうか。赤間所長が苦悶するのも無理はありません。私も、犬塚さんが危険な目に遭いやしないかと気が気ではありません。

「そういった潜入は私の得手とするところですが……。犬塚先輩、気を付けて下さい」

照月さんも心配しているようです。

「現状心配はなさそうだ、が。一応、俺の携帯をGPSで追跡できるようにしておいてくれ。それからなるべく三時間おきには連絡を入れる」

 犬塚さんはなぜだか漲っているようですが、皆の心配がわかっているのか、どうか。

「犬塚さんに万が一のことがあったら、私は路頭に迷ってしまいます。くれぐれも、無茶はしないでください」

 私がそういうと、犬塚さんはふっと笑って私の肩に手を置きます。

「この街で探偵をするとはこういうことだ。よく見て、学んでおくといい」

 私の心配をよそに事態は前へと進んでいきます。報告を終えた私達は、新たなメンバーの照月さんを加え、再び案件に臨むことにします。


 再び案件に臨むとは言っても、基本的には犬塚さんの帰還待ちです。現状私にできることは、水母会についての情報を集めることぐらいでしょうか。照月さんには謎の女探偵、竜胆さんの素性を洗ってもらう事にしました。

 インターネットが発達したこのご時世、信者数千五百を数える宗教団体であれば、ホームページぐらい持っていてしかるべきです。私は早速『水母会』のキーワードで検索をかけてみることにしました。すると案の定、手作り感あふれる簡素なホームページがヒットしました。各地で瞑想の体験教室などもやっているみたいです。本部は竜胆さんの言うとおり山梨県。念のため住所をメモしておきます。驚いたことに、この冠城町にも支部があるようです。ドラッグ密売にこの支部がかかわっているかどうかは不明ですが、調査の必要はあるでしょう。

 また各所のインターネット掲示板には、水母会の黒い噂などの書き込みがありました。ただ、竜胆さんから提供された情報と合致したものの、あまり有用なものは見つかりませんでした。

 通り一遍の資料を印刷してファイルに綴じていると、照月さんの方もひと段落ついたようです。

「何か分かりましたか?」

 私が訊くと、照月さんは眉間にしわを寄せて答えます。

「その竜胆という女性。探偵社には在籍していない可能性が高い」

 やはり、あの時抱いた違和感は本物だったのでしょうか。

「竜胆さんはピンカートンには所属してない、ということですか?」

「多分。話を聞く限り、こちらを妨害する意図はないだろう。警察でもなさそうだが、当局の関係者である可能性はある。あるいは……水母会の元構成員とか」

「なるほど、情報の信憑性はある程度高そうですが、一応油断はしない方がいいですね」

「それに越したことは無いな」


  ◇


 調査開始二日目、午後。俺は再びドラッグ密売組織『シャチ』の事務所を訪れる。元締めである小諸のさらに上の人間と面会するそうだが、事務所の外部にでも連れ出されるのであろうか。

「ああ、よかったよかった。ビビってバックレちゃったのかと思ったよ」

 相変わらず軽薄な口調の小諸と合流し、冠城町を歩いていく。今回も移動手段は徒歩である。

 しばらく歩くと、冠城町の端にある雑居ビルに到着した。小さな金属の看板には『水母会冠城町支部』と書かれている。前情報のとおり、密売組織と水母会の間には密接な関係があるようだ。

「あ、やっぱり気になる?」

「いえ」

「まあ、宗教団体がバックについてるとは思わないよね。俺も雇われたとき驚いたよ。宗教団体がドラッグ密売の後ろ盾なんて、神も何もあったもんじゃない。さ、こっちだよ」

 促されるまま俺は非常階段を上って事務所に通される。広さは先ほどの事務所と同じ、しかし『シャチ』の事務所とは違い、パソコンの数が多く、より事務室然としているように思える。心なしか雰囲気も明るい。何人か堅気らしい人間が行きかっているところを見ると、宗教団体としての実体はあるらしい。

 小諸が事務員の一人に幹部の居所を訊くと、その事務員は奥の個室を指差した。聞き耳を立てると、幹部の名前は槇原というらしい。

 信者千五百人を誇る宗教団体の幹部。依頼主である鯨組の構成員が約百人だから、その権力は推して知るべしである。緊張、そしてわずかな興奮を胸に、小諸と俺は個室の扉をくぐった。

「失礼します。槇原さん」

 部屋の奥にいた男は、俺の予想と反してかなり若かった。だぶだぶのパーカーを着て、フードを目深にかぶっている。こちらを見るその瞳には強固な意志が宿り、値踏みするように俺を観察している。

 鋭い目の人間には多く会ってきた。歴戦の刑事、殺人犯、鯨組みの若頭なんかもその部類だ。しかしフードの男の眼は、そのどれとも違っていた。前者を猛禽の眼にたとえるならば、この男の眼はさながら獲物を待ち受ける深海魚のそれであった。

 俺が無言で会釈をすると、男は足音を立てずにこちらに歩み寄ってきた。奇妙な圧力を感じる男だ。後ずさりたい気持ちを抑えて踏みとどまる。

「本日から『シャチ』でお世話になります。犬塚です」

 相変わらずフードの男は無言で俺を睨めまわす。二十秒ほど沈黙が続いた後、フードの男はポツリとつぶやいた。

「モグラか?」

 俺の心臓が跳ねる。こういう勘のよい人間が時々いるのだ。『モグラ』とは反社会的組織に潜入する捜査官のことである。俺の微妙な同様や所作を感じ取ったのか。まずい。と脳が高速で回転し始める。やはり潜入は照月に任せておくべきだったか。

「えーっと……」

 が、後悔しても始まらない。現状を凌いだら考えることにしよう。

 努めて冷静を装って間抜けを演じる。しかしフードの男はその表情を緩めることなく、やおら片手を俺のほうに突き出した。


 瞬間。


 全身をわしづかみにされるような感覚に襲われ、俺は膝をついた。体に力が入らない!

 やがて膝で体を支えるのも困難になり、俺は前のめりに床に突っ伏した。催眠術? 違う。魔術だ!

「少し深入りしすぎたようだな?」

 フードの男のあざけるような声が頭上から降ってくる。俺はというと、その足元に転がったまま、呼吸すらままならない。

「本部に運んでおけ。どの組織から送り込まれたか吐かせろ」

 その言葉の意図を考える内、俺の意識は深く暗黒に沈んでいった。


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