第三章 紅の闇 2
赤い少女は匂いを追っていった。
二つの匂いに覚えがある。
よく知っている匂いと。
独特の薔薇の香り。
何処で嗅いだのだろうか。
思い出せない。まるで、前世の記憶のような。
「あー、あーっ」
彼女は喜びの声を上げた。
自然体で、感情を露にする。
何物にも加工されていない、感情の発露。
休憩室の裏口から、二人の女が出てきた。
「あたしに付き纏うのは止めてくれない?」
「あら? 貴方が、フェンリルに付き纏っているのでしょう?」
黒いローブを纏った女は、心底、彼女が憎らしそうだった。
二人共、何だか、本当に仲が悪そうだ。
きっと、相性が悪いのだろう。
赤い少女は構わず、彼女達に駆け寄っていく。
まるで、よく知っている友人のように。
かつて、実際、そうだったのかもしれない。
すると、二人の女は、そんな彼女を見て、呆けたような顔になる。
特に、黒いローブの女は、本当に信じられないものを見ているような顔をしていた。
「死んだ筈じゃ……何で? ……」
黒白の衣装を纏った女は、淡々と、そんな彼女を眺めている。
彼女が会った時よりも、随分と髪が伸びていた。前はロングボブの長さだったが、その萌黄色の髪は、今は腰の近くまで伸びている。
「また、貴方か」
二人とも、微妙な顔をしていた。
一人は困惑し。
もう一人は、呆れたような顔。
…………。
動いていたのは、黒白の服を纏った女の方だった。
眼にも止まらない速度で、赤い少女アンサーの下へとやってくる。
そして。
有無を言わせずに、アンサーの喉に手刀を入れて、地面に叩き込む。
そして彼女を組み敷いて、そのまま斧で薪でも叩き割るように、渾身の拳を顔面へと振り下ろしていた。
拳の殴打は幾度となく続いていく。
身動きが取れないように、脇腹に片足を乗せて、そのまま転がるように、何度も何度も、彼女の顔面に全体重を乗せた拳を下ろし続ける。完全に、マウントポジションを取られているので、赤い少女は一切の抵抗が出来ない。
瞬く間に、アンサーの顔面は原型を止めない程に、粉砕されていた。
そして、踵を返して、黒いローブの女の下へと戻っていく。
「……アンサー、何で、“生きていた”のかしら……」
生きていた、さながら過ぎ去った事に対しての、過去形でものを言う。……。
ニアスは本当に、不思議そうに首を傾げていた。
「何者かが復活させたのかしらね。それとも、何らかの能力で、私達の記憶から引きずり出してきたのか」
レイアは淡々と分析していた。
「……それにしても、あなた、容赦無いわね……」
「あら? 困るんじゃないの? 何にしろ、敵側が送り込んできたのは間違いないじゃない」
そう言いながら、彼女は右手に付着した真っ赤な血を、自身の能力で消滅させていく。黒い光がレイアの右手に集まって、血液を空気へと溶かしていった。
ニアスは思い出したように、外を見回す。
「ああ、用足しに行く途中だったわ、あなたは羨ましい身体よね」
そう言いながら、ニアスは振り返る。
ぷちゃり、ぷちゃり。
赤色の少女は、起き上がっていた。
顔は完全に潰れていた。
しかし、少しずつ再生していく。
「うぅ、ううぅううぁああああああっ、うぅうううう、うああああ」
赤い少女は唸り続けていた。
「そういえば、そういう能力だったかしら」
レイアは面倒臭そうに言う。
むしゃり、むしゃりと、赤い少女は、地面に手を置いて、そこら辺に生えている雑草を引き抜いては、それを口の中へと放り込んでいく。
レイアは本当に面倒臭そうな顔で、そいつを眺めていた。
「はあ……」
ニアスは溜め息を吐き出す。
そして、土や石を咀嚼して飲み込む少女に向かって言った。
「アンサー」
赤い少女は振り返る。
顔はぐちゃぐちゃに崩れていた。
剥き出しの眼球が、ニアスの視線と交差する。
瞬間。
ニアスの能力が発動した。
途端に、赤い少女の挙動が更に、おかしくなる。
がたがた、と全身を痙攣させていく。
そして、うあああああ、と叫び声を上げながら、身体を震わせていた。
ぐるぐる、ぐるぐる、とアンサーの首がフクロウのように、回転しながら、回り続ける。ニアスの能力の効果ではなく、アンサーの肉体の構造がそれを可能にしている。
「うしゅしゅしゅしゅ、うっしゅしゅしゅしゅっ」
奇妙な奇声を発し続けていた。
それは、とても人間のそれとは思えない雄叫びだった。
「はあ……。あれで、しばらくは大丈夫でしょ」
黒いローブの女は、本当に面倒臭そうな顔で、休憩所の外にあるトイレへと向かっていった。汚くないといいな、と頭の中で思う。
萌黄色の髪をした少女の方も、面倒臭くなって、休憩室の中へと戻っていった。
後には、人間の声ではとても計り知れない異常な叫喚だけが、鳴り止まなく続いていた。
†
「なんで、あの二人、仲悪いんだろうな」
フェンリルが馬鹿馬鹿しそうに羊角の女に訊ねた。
「私に聞かれても、ねえ?」
ケルベロスが、仮眠を取っていた。
ヴリトラも寝ている。
みんな疲労している。
クラスタに突入して、約六時間くらいが経過していた。
すっかり、夜になっている。
フェンリルとキマイラの二人は、計画を練っていた。
まず、ヴリトラから聞き出した情報によれば。
ロータスの他に、中核として、アーティという奴が存在する。
そいつは、ロータス派と分かれて、クラスタ内で半分独立した組織を作っているのだそうだ。そして、思想的にはアーティはロータスと違っている為、分裂が起きつつある。
アーティから見れば、ロータス派は惰性で生きているだけにしか見えないらしい。
そして、ヴリトラはどちらにも付いていないという。
ただ、ロータスの側近である十人いるという『蓮』の一人だという。
十人が十人とも、能力者というわけではないらしい。
何故、十人の側近を設けたかというと、それはロータスの気まぐれなんじゃないかとの事だった。
「どう思う? キマイラ」
「さあって。私も分からないわねえ。貴方の相棒に聞いた方がいいんじゃないかしら?」
フェンリルは、カーテンが開けられた、休憩室にいる二人を見る。
二人とも、何だが、陰険そうにたまに口論になっていた。
なんだ、あいつら。それが素直な感想だった。
「あのニアスって子。貴方に好意あるわよ」
キマイラは断言する。
「……はあ?」
フェンリルは呆けたような顔になった。
「何かあったの? 昔」
「いや、あんまり覚えてない。印象に残っていないんだけどな」
そういえば、この前、『聖なる海溝』という場所で会ったか。
「何だったかな。この建物の裏庭で、アンサーっていう赤い少女と会ったらしい。取り敢えず、完全には始末せずに様子を見ているらしいが」
フェンリルは、アンサーという少女の概要を、羊角の女に話す。
「ふうん、能力がやっかいね。おそらくは、復活させる能力者が一人いる」
「……いや、あのアンサーってのは正体不明らしいんだ。アンサー単独で甦ったのを、ロータスの一味が何らかの手段で手に入れた、という事も考えられる」
「なるほど。まあ、どちらにせよ。何か、引っ掛かるのよね」
キマイラは煙草に火を点ける。
「ヴリトラといい、アンサーといい。私達に、さも。返り討ちに合わせる為に送り込んだとしか思えない」
それを聞いて、フェンリルは首を捻る。
「その理由は?」
「もしかしたら、それが奴らの中にいる、誰かの能力に関係しているのか。それとも、ただの様子見でしかないのか」
彼女は煙草の灰を、地面に叩いて落とす。
「アーティとクライ・フェイスって奴の能力が気になるな」
黒白の青年は言った。
「ええ、やっておくべき事は。ケルベロスが、嫌がっていたけれども、試しに誰かを、そいつらの能力の攻撃の生贄になって貰う事ね」
フェンリルは眉を顰める。
「クラスタ内にいる住民は、能力の指定外らしいし。まさか、オレ達の誰かが敢えて受けてみる、っていうリスクも避けたい処だしな」
「本当はやっておくべきだったのよ。クラスタの外にある街にいる、適当な人間を捕まえて、攻撃を受けて貰うって事を」
キマイラ、こいつ。……。
達すべき目的の為なら、何の手段も選んでいない。……。
「お前って、本当に何と言うか非情だな」
非道と言い換えてもいい。
「……昔はそうでもなかったような気もするけどね。子供の頃とか」
キマイラは少し困惑したような顔になる。
「そうか、こういう事って、やっぱり非情、というか非人間的なのかしら?」
今度は、フェンリルが困惑する番だった。
「いや、オレも本音を言えば。他人なんてどうでもいいけど、何だろう。やはり、後味が悪いからな」
「私は……人の痛みが分からない、人の苦しみが……」
キマイラは無感情に、呟いた。
フェンリルは、どう答えればいいか分からなくなった。
「フェンリル」
彼女は言う。
「私は、強くなり過ぎて、その…………心が壊れてしまった。最初に貴方と会った時の事、覚えている?」
彼女は言う。
「ああ、どうだったかな」
「私を、怪物を見るような眼で見てなかった?」
「思い出した。お前、サイコパスだと思った」
「やっぱり、そうか」
何だか、悲しそうに見えた。
「おかしい、とはよく言われる。狂っているとも、でも、その評価はきっと、正しいのでしょうね」
「まあ、基本、人を人と見てないよな」
「これでも、友達に対する思いとかは強いつもりだけれどね。もっとも、今は友達とかいないんだけど」
フェンリルは苦笑した。
†
「それにしても。こういうの、あんまり好きじゃないのよね」
レイアはタロット・カードを広げて、キマイラを占っていた。
「こういうの?」
「何ていうか。所謂、“馴れ合い”。あんまり好きじゃないわ」
そう言いながら、彼女はタロットをめくった。
いつもの、ケルト十字法。それが一番、占いやすい。
「ええと。キマイラ、貴方、最近、大切な人間でも出来たの?」
「…………そうね。出来たわね。女の子かしら」
「守りたい、と」
「ええ」
「それから、そうねえ。貴方も、決して油断慢心しないでしょう?」
「そうなのかしらね」
「しばらくは、ずっと死なないわ」
「……それはよかった」
「それで。貴方、少し前に死にかけていたわね。過去に破滅を意味する『塔』が出ている。深層心理の部分に『死神』。影響されているものが、友愛を意味する『カップの6』」
レイアはカードを読み込んでいく。
その後、キマイラの詳細を言い当てていく。
羊角の女は驚愕の表情を浮かべていた。
「そういえば、レイア。貴方、馴れ合いは嫌いって。貴方、コミュニケーション能力、それなりに高そうに思えるけれど?」
「嫌いよ。友人なんていらないわ」
「あら、そう。私はこれで、お友達、欲しいけど。一緒にお茶出来て、映画でも一緒に見に行って」
「そう。それは残念ね。貴方、他人に対する共感能力の欠如。反社会性人格障害って奴なのよ。マトモに人と接する事なんて、出来ないわ」
「傷付くのよね。そう言われると」
「嘘ね。貴方が傷付く? 笑わせないで。貴方は自分の感情なんて分からないわね」
「その通りよ。……だから、困っている」
「いつか、大切な人間を壊してしまいそうだから?」
「そう、どうやって接すればいいか分からない……」
レイアは、少し黙った後に、真剣な眼で言う。
「壊せばいいんじゃない?」
「そういうわけにもいかなくてね」
キマイラは少し笑う。
「あら、そう」
彼女はすぐに引き下がった。
特に韜晦があって、言ったわけではなかったみたいだった。
レイアにサディズムは無い。
キマイラにはある。
何が違ったのだろうか。
「ねえ、レイア。本当に、貴方は一人が好きなの?」
「ええ。独りがいい」
「私は友達、欲しいわ」
「私はいらないわね。……もう、いらない……」
レイアは言った。
キマイラは黙る。
二人とも、沈黙した。
しばらくの間、二人共。黙り続けていた。
キマイラはごそごそっと、煙草の箱を取り出す。
煙草に火を灯す。
レイアはさり気なく、煙を吸わないように離れる。
……それは唐突だった。
キマイラが頭を抱える。
何かに苦しんでいるみたいだった。何か、過去の記憶か何かでもフラッシュバックしたような。
「私は……破壊した人間に興味なんて、無い……」
彼女は呻くように言う。
何かの不調だろうかと、レイアは思う。
キマイラは両眼を見開いていた。
強大なまでの殺意が、彼女の中から溢れ出してくる。
キマイラは服の中から、針を取り出した。
そして、自分の頭蓋に刺し込む。
ガクガクッ、と彼女の全身が痙攣している。
レイアは至った。
……まさか。これは、ニアスの『モーザ・ドゥーグ』?
ニアスの方を見る。
彼女は眠りに付いていた。
ぺたぺたと。
口から沢山の涎を垂らし続ける、赤い少女、アンサーの姿があった。
ニアスが放置していた少女。
突然。
レイアの胸や腹の辺りに、打撃が飛んでくる。
レイアは咄嗟に、後方へと飛んだ。
しかし、そのまま壁に激突して家具などに勢いよくぶつかる。
アンサーは首をぐるぐる、ぐるぐる、と回転させていた。
少女は、確信する。
あの攻撃は、確かに自分のものだ。
すこん、とアンサーの額に針が刺さる。
ほぼ、錯乱しながらも、キマイラが放った針だった。
それは少々太めで、アンサーの頭を壁に完全に打ち付けていた。
そして、すぐに。
レイアは起き上がる。
そして、辺りを見回した。
キマイラも起き上がる。
自分の頭から、針を抜いた。
二人は顔を見合わす。
「……何? 今の。記憶と、脳の中を掻き毟られたような攻撃。咄嗟に頭に針を入れて、抜け出したけれど」
「キマイラ。貴方は私よりも、あそこで寝ている女と相性がいいようね」
三竦みだな、と思った。
『聖なる海溝』での事を思い出す。
レイアはキマイラには普通に勝てる自信があるが、ニアスの方がやっかいだ。もっとも、彼女の攻撃の瞬間における癖や行動パターンなども、ある程度把握して、もう負けるつもりは無いが。
キマイラはまた、両眼を見開いて、とっさに後ろに仰け反る。
何も無い空間から、勢いよく何かが飛んでいて、キマイラの右手の甲を貫き、地面へと孔を開けた。
キマイラは忌々しげに、自分の孔の開いた手を見る。
そして、左手の指で触れて、開いた孔を塞いでいく。
「今の私の攻撃が、撃ち込まれてきた……?」
二人は、赤い少女を眺める。
ぐしゅぐしゅっ、と顔が変形していっている。
†