第三章 紅の闇 1
クラスタには、よく暗殺者などがやってくる。
大体は、そういった者達は、ロータスの側近達によって始末されるので。むしろ、ロータスも、カイリも、アニマも、それを日常の事として享受していた。
どうも、ヴリトラ達が動いているらしい。
どうせ、ビルディングの構造的に、ロータスやカイリ達の元へは辿り着けない。クラスタ内にいる、能力者の誰かの能力に引っ掛かって、死んでいくだろう。
風に誘われるように。気分の赴くままに。
赤い少女、アンサーはビルディングの中を放浪していた。
そこは、公園だった。
子供達が、遊戯で遊んでいる。
アンサーは、彼らに近寄った。
走っていく。しかし、近くにあった小石を踏んで、転んでしまった。
「う、うう。ううっ」
アンサーは唸る。
そして、近くにあった草花を掴んだ。
そして、その草花を意味もなく弄っていく。
何だか、あらゆるもの、全てが真新しい。実際、そうなのかもしれない。
ある意味で言えば、初めてみる世界。
彼女は、鼻をひくひくっと動かす。
何処かで知っている香りだ。
それは薔薇の香り。
何処かで嗅いだような。
それから、独特の別の香りもした。
覚えている。忘れられない。
彼女はそこへと走っていく。
「私、私、私、この匂い、知っている」
駆け足。
†
「そろそろ、休憩しませんか?」
ヴリトラは言った。
四名は首を傾げる。
「休憩?」
「私、疲れてしまいまして。さっきから、しんどいんですよ」
ケルベロスは仏頂面のまま、唸る。
「まあ、いいんじゃないの?」
キマイラは言った。
「そうだな、そろそろ、面倒臭い」
クラスタの内部に突入してから。
四時間が経過していた。……。
ヴリトラに対しては、わざと道に迷わそうと疑ったのは幾度とあった。
しかし、そんなものじゃない。
四名とも分かっていた。
そう、このクラスタというビルディング自体が、何らかの能力者の能力によって、迷宮と化している。ヴリトラは誠実にも、少しでも、歩く位置がズレただけで、注意を入れてくれる。
そう。
何と言えばいいのだろうか。
眼に見えている距離では、十メートルの場所が。実は、十数キロも開いていたりするのだ。
その事に関しても、ヴリトラは彼が知っている限りで教えてくれた。
「えとですね、アーティさんの『ライト・ブリンガー』っていう能力と。クライ・フェイスさんの『コカドリーユ』っていう能力で、このクラスタの中って、部外者が完全に迷い込むような設計になっているんですよ」
ヴリトラが知っている限りの能力者は、この二人だった。
それから、カイリという灰を使う能力者がいるらしい。
「ああ。クライ・フェイスさんは、最近、違うかな。維持し続けられる能力じゃない、って言ってましたし。俺にはどんな能力か、分からないんですけど……」
ヴリトラの役割は、おそらくは斬り込み隊長。
完全に、人間爆弾扱いされて、ケルベロス達の下へと向かってきたらしい。
キマイラは、納得して、それ以上の尋問をしようとはしなかった。
「やっと、休憩出来る場所に辿り着きましたよ。ほら、あそこ、食堂と休憩室になっています」
ヴリトラは指差す。
それは、小屋のような場所だった。
五人は、その中に入る。
中には、何名もの教団の住民達がいた。
彼らは食事をしている。
中には、休憩室らしき場所があった。
「おい、みんな、一応、住民は警戒しておいた方がいい、此処で食事とかするってのはどんなもんなんだろうか」
ケルベロスは一応、まとめようとして皆に、言った。
フェンリルは、面倒臭そうに、休憩室へと向かった。
そして、置いてあった布団にくるまって寝る。
キマイラもキマイラで、食堂の椅子に座り、適当な軽食を注文していた。
クラスタ独自のチケットか、物々交換が必要と言われて、適当な金品を渡している。
完全なまでに、二人共、ケルベロスに断りもなく、自分勝手な行動に走っていた。
「俺の言う事って、まるで聞いてくれないんだな……」
ケルベロスは項垂れた。
ニアスはそんな彼を気遣うように言う。
「あたしは、従いますから」
「助かる……とても」
彼は少し自己嫌悪に陥っているみたいだった。
「何で、フェンリルはあんなに不遜で。キマイラはあんなに狂っているんだろうなあ」
思わず、精悍な顔の男から、愚痴が漏れた。
ニアスは苦笑する。
「あの、私、どうしたらいいですかね」
ヴリトラは困ったような顔をしていた。
「ああー、逃げたら。俺以上に、あそこで飯食っている女が、また怖いぞ」
「……分かりました」
猫顔の男は、すっかり情け無い顔になる。
†
休憩室にはカーテンが取り付けられていた。
そして、妙に大きい姿鏡が置かれていた。
フェンリルは、自分の顔と身体を隠すように寝入っている。
何だかんだで、彼が一番、疲れているのではなかろうか。
そういえば、もう空が夜に包まれている。
ニアスは、彼の顔に魅入っていた。
セルロイドのような肌だなあ、と思う。
ニアスは、眠る彼の顔を見る。
整った顔立ち。雪原のように白い肌。
仄かに赤い唇。長く伸びた睫毛。
その唇に触れてみたい衝動。
…………ニアスは、思わず自らを制する。
私は同性愛者だったっけ?
すぐに思い出す。
彼は男。
女のような衣装を纏うけれども。それでも男。
……。
男とは思えない。……。
寒気のするような、美貌。
その唇に。
自らの唇を重ねてみたい。
どうしようもなく胸の中から熱いものが込み上げてくる。
自分が女なんだと意識せざるを得ない衝動。
頭の中で、否定しようとするが、感情が溢れてくる。
……。
彼に抱かれたい。
彼を誘いたい。……。
そんな思考をすぐにかき消そうとする。
……何、指先ってあたしより細いじゃない。悔しい。
こうやって眠っている彼は、本当に人形そのもので。
色々な角度から干渉して、色々な表情に見える。
どうやったら、男なのに。こんな美貌を持てるのだろうか。
彼女よりも、よっぽど綺麗だ。可愛い。
ニアスの根源の中には、おそらくは父親憎悪がある。
男らしい男に対する嫌悪。
獣欲のような眼をした男。視線。
それが薄気味悪い。
そのせいか、男らしい男が気味が悪いと思っていた。
それは、どうしようもない事だ。ニアスがニアスであるという事実。
ニアスは、あの少女のようには生きていない。
ニアスはその点は、普通の女なのだ。
そして、鋭利な声が胸に刺さる。
「盛りの付いた雌犬ね」
突然、背後から、そんな声が聞こえてきた。
休憩室の中は、カーテンによって閉ざされている。
そいつは、いつの間にかそこにいた。
……ひょっとして、置かれている鏡の向こうから、やってきたのかもしれない。
嘲笑の笑い声が響いた。底知れない軽蔑の声。
「汚らわしいわ。そんな眼で見ないでくれない?」
悪意と敵意と嘲笑の入り混じった声が響く。
「……何よ」
ニアスは鏡越しに、いきなり姿を現したそいつを睨み付ける。
「あら? 私は彼に代わって代弁して上げているだけだけど?」
ニアスが言い返そうとした言葉の先を読んで、そいつは告げる。
全身を白と黒で纏っている。
その白は清楚というよりも、何処か邪悪だ。
「貴方だって、男の人を好きにくらいなるでしょう?」
「いつか、言った筈よね? 私は男も女も嫌いだって」
彼女は、悪意に満ち満ちた笑い声を上げた。
「男は気持ち悪いわ。女は胸糞悪いのよ」
冷然と断言する。
「私は誰も好きにならない。私は誰も愛さない。私は鏡だけがあればいい」
…………。
何処か、倒錯的というよりは、空虚さを感じた。
まるで、信じられる者は、自分しかいないのだとでも言いたいような。
「そんなに甘名の事が好き?」
今にも、彼女は笑い転げそうだった。
ニアスは彼女が苦手だ。
というか、明確に嫌いだ。
いつだって、憎らしい。
会うたびに、その憎らしさが増大していく。
この女。本当に、気味が悪い。
「何よ」
暗い感情を込めて、ニアスは言った。
「貴方、私の事が嫌いでしょう?」
萌黄色の髪をした少女は悪意のある笑みを浮かべる。
まるで、死刑宣告を告げるかのような口調。
とても楽しそうな笑顔。
「でも、言っておくわよ。きっと、甘名は私なのよ?」
鋭利な物言い。
「私はフェンリルの精神の一部。そしてフェンリルはエタン・ローズの一部。その事実から貴方は眼を背けるわけにはいかないんじゃないかしら?」
ふっふっふっ、と。とても楽しそう。
「嘘よ」
「そうかもしれないわね。でも、仮説としての可能性は高い。私達は合わせ鏡。コインの表と裏。甘名の押し殺している一部が、私の人格と為っている。同時に、彼は私の被造物である可能性だって高い」
ニアスは思う。感じる。
それは、本気で言っているのだろうか?
彼女の傲慢さから、自身を彼の付属物だと考えるとは、とても思えない。
そして、意味深な発言。彼は私の被造物?
まるで、延々と自問自答を繰り返しているかのような。
二つの鏡を合わせて、どちらが本当の世界なのか、と考え続けているかのような。
「ふふっ。私達はナルシストでエゴイスト。自分以外には愛せないし、好きじゃない。
だから、貴方のその感情は無為よ」
冷笑の言葉。
「貴方なんか大嫌い」
ニアスは心底、傷付いた顔をする。
その相貌を見て、レイアはとても嬉しそうだった。
「……ああ、でも」
ふと、思い付いたように言う。
「私を殺せばいいじゃない?」
余りにも当たり前のように言う。
ニアスに、というよりはまるで自分自身に問い質すかのような口調。
自分自身に問い掛けているような。
「私を、何らかの方法で消滅させれば。私は彼の中からいなくなるのかもしれない。やるだけの意味はあるわ。それは私自身が興味がある。私は彼に依存して存在しているのか。それとも私は彼から完全に独立して存在し得ているのか」
彼女は延々と自問自答を、繰り返していた。
ニアスは、そんな彼女を睨み付け続ける。
「へえ? あなた、素直に死んでくれるの?」
「まさか。貴方ごときに殺されてやるのもつまらないものよねえ」
†
結局、いつまで経っても、クラスタの暗部には辿り着けなかった。
ニアスは、現れたレイアの相手にも憔悴していた。
ケルベロスとキマイラは、捕虜となったヴリトラを見張っている。
彼の言葉に嘘は無い。実際、罠に嵌めようというわけではないみたいだった。
彼の話を分析していく限り、どうも、このクラスタというものは、ちゃんとした統制の取れた組織でない事は分かる。
†